1話目
午後9時を回った雑居ビルの一室で、沢居幸二は疲れ切った目でモニターを見つめていた。48歳、派遣社員。画面に映るのは相変わらずのエラーメッセージの羅列だった。
「また明日か...」
彼は小さくため息をついて、パソコンの電源を落とした。周りを見回すと、もう誰もいない。正社員たちはとっくに帰宅している。派遣の自分だけが、誰も見ていないバグ修正に追われていた。
デスクの上には、今日で3日目になるカップラーメンが置かれている。昼食を取る時間もなく、結局手つかずのまま放置されていた。隣の席の若い正社員は、「お疲れ様でした」と言って定時で帰って行った。自分が20代の頃は、あんな風に希望に満ちていただろうか。
エレベーターを待ちながら、沢居は自分の人生を振り返っていた。大学を出た頃は、まだ希望があった。情報工学科を卒業し、これからはIT時代だと意気込んでいた。しかし現実は就職氷河期の真っ只中。面接で何度も落とされ、やっと入った中小のソフトウェア会社も、入社3年目で経営破綻。その後は派遣、契約社員、また派遣と転職を繰り返し、気がつけばもう48歳になっていた。
同期だった大学の友人たちは、今頃は管理職になって部下を持っているだろう。結婚して子供もいて、マイホームのローンを組んで、週末は家族でドライブでもしているのかもしれない。一方で自分は、相変わらず一人で、誰かに指示される立場のままだった。
駅までの暗い道を歩きながら、沢居は呟いた。
「俺の人生って、何だったんだろうな...」
街灯の下で立ち止まり、空を見上げる。星は見えない。都市の明かりに遮られて。
恋人もいたことがない。正確に言えば、大学時代に一度だけ告白したことがあったが、あっさり振られた。それ以来、女性と真剣に向き合う勇気を失ってしまった。友人と呼べる人もいない。職場の人間関係は表面的なものばかりで、プライベートで会うような相手はいなかった。家族とは疎遠になって久しい。両親からの連絡も年に数回程度で、弟は結婚して家庭を築いており、正月に顔を合わせても会話が続かない。
毎日同じことの繰り返し。朝6時半に起きて、満員電車に揺られて会社に向かう。コードを書いて、バグを直して、また明日も同じことをする。給料は生活していくのがやっとの金額で、貯金もほとんどない。
「これが人生なのか?」
電車に揺られながら、沢居は窓に映る自分の顔を見た。薄くなった髪、疲れ切った目、45度下を向いた口角。いつからこんな顔になったのだろう。若い頃の写真を見返すと、まだ希望に満ちた表情をしていたのに。
そういえば最近、同じ派遣会社の50代の男性が、契約を更新されずに去って行った。「この年になると、なかなか次が見つからないんだよ」と苦笑いしていた姿が脳裏に浮かぶ。自分も数年後には同じ立場になるのだろうか。
帰宅した沢居は、6畳のワンルームマンションで袋麺を茹でた。具は卵だけ。冷蔵庫には他に何も入っていない。しばらく前に買ったコンビニ弁当と、賞味期限の切れたマヨネーズがあるだけだった。
布団の上に座り、テレビをつける。バラエティ番組では、若いタレントたちが楽しそうに笑っている。彼らの人生は輝いて見えた。一方で自分は、この薄暗い部屋で一人袋麺をすすっている。
「みんな楽しそうだな...」
チャンネルを変えても、どの番組も自分とは縁遠い世界の話ばかりだった。恋愛、結婚、子育て、マイホーム、海外旅行。どれも自分には関係のない話題だった。
ベッドに横になり、天井を見つめる。天井には小さなシミがあった。引っ越してきた3年前からずっとそこにある。そのまま放置していた。
「明日も同じ一日が始まるんだな...」
朝起きて、電車に乗って、会社でパソコンに向かって、帰宅して袋麺を食べて、テレビを見て、寝る。来週も来月も来年も、きっと同じことの繰り返しだろう。このまま60歳になって、65歳になって、やがて一人でこの部屋で死んでいくのかもしれない。孤独死だ。
そんなことを考えながら、沢居は重いまぶたを閉じた。いつの間にか、静かな寝息が部屋に響いていた。
目が覚めると、沢居は草の上に寝ていた。
「...え?」
最初は寝ぼけているのかと思った。しかし、肌に感じる冷たい朝露と、鳥のさえずりが現実のものだった。慌てて起き上がると、そこは見たことのない森だった。
巨大な木々が空を覆い、その間から差し込む朝の光が木漏れ日となって地面を照らしている。空気は澄んでいて、都市部では嗅いだことのない草木の香りが漂っていた。遠くでは小川のせせらぎが聞こえる。
「ここは...どこだ?」
沢居は立ち上がり、辺りを見回した。コンクリートのビルも、車の音も、電線も、何もない。ただ緑と静寂だけがそこにあった。
自分の身体を確認してみる。昨夜着ていたはずのスーツは着ていない。代わりに、見覚えのない粗末な服を着ていた。茶色い布でできた、まるで中世の農民が着るような服装だった。
「なんだこの服...」
夢かと思って頬をつねってみたが、痛い。確実に現実だった。
携帯電話を探そうとポケットに手を入れたが、何も入っていない。財布も、定期券も、家の鍵も、何もかもなくなっていた。心臓の鼓動がやけに耳に付く。
「なんで俺が森の中に...まさか誘拐?」
しかし、誘拐にしては状況がおかしすぎる。こんな深い森の中に連れてこられる理由が思い浮かばない。それに、自分のような冴えない派遣社員を誘拐して、一体何の得があるというのか。
そのとき、遠くから声が聞こえてきた。人間の声ではない。低く、うなるような、何か別の生き物の鳴き声のようだった。
「グルルルル...」
沢居の背筋に冷たいものが走った。野生動物だろうか。熊?狼?この状況で猛獣に出会ったら、間違いなく命はない。
しかし、逃げ場もない。どちらに向かえば安全なのかも分からない。
鳴き声は徐々に近づいてくるようだった。沢居は近くの大きな木の陰に隠れ、息を殺して様子をうかがった。
48歳の派遣社員だった沢居幸二の、まったく新しい人生が、今、始まろうとしていた