鏡の奥の顔
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雨の日だった。 窓の外を細い滴が滑り、校舎のコンクリートが鈍く濡れていた。
由香が死んだ三十三回目の午後。 晴人は、音もなく教室の窓辺に座っていた。
由香の席は空いたまま。 いや、彼が意図的にそこへ向かわせなかっただけだ。 “あのパターン”では、あの時間に彼女を登校させれば、また死ぬ。
彼女は、死んだ。 そしてまた、時は巻き戻された。
「ねぇ、最近の晴人、なんか怖いよ」
別のクラスメイトが言ったことがある。 その言葉は晴人の胸には届かなかった。 むしろ、どこか遠くの話のように思えた。
変わったのは、自分の方か。 それとも、世界の方か。 もうわからなかった。
ただ、確かなことがひとつあった。
今の自分は、“救おうとする自分”ではない。
それなのに、恐ろしいほどの静けさが心にあった。
***
その日の放課後、誰もいない鏡の前に立った。 保健室の手洗い場。うっすら曇った鏡に、自分の顔が映っていた。
目の下には隈。頬はこけ、唇は色を失っていた。 だが、目だけは不自然なほど冴えていた。
「お前は、誰だ?」
自分の口が、そう言っていた。
鏡の中の男は、答えなかった。 ただ、わずかに口角を吊り上げて――笑っていた。
***
夜、自宅のベッドの中で、晴人は思い返していた。助けられたはずだったあの日。彼女からの電話を無視したあの瞬間。
あの時、なぜ電話に出なかったのか。 なぜ助けなかったのか。
……わからない。
けれど、はっきり覚えていることがある。 電話が鳴り止んだ瞬間――胸の奥に、ほんのわずかに湧いた感情。
安心。
救えてしまうかもしれない、という焦りからの解放。 由香が“生き残るかもしれない”という緊張が解けたときの、あの静けさ。
それは、愛だったのか? 後悔だったのか? それとも――自分という存在の肯定だったのか。
だが、彼はまだその問いに答えを出さなかった。 あるいは、出せないフリをしていた。
ただ、静かに目を閉じた。 眠りの中で、再び繰り返される未来を待ちながら。