恋はマグロと共に海へ沈む……<連載版開始>
本シリーズの連載版始めました!
https://ncode.syosetu.com/n0856ko/
――冷たい潮風の吹く砂浜で、大の大人が地面に額をこすりつけて泣き叫ぶ。
「リリス様、この度の無礼は不本意なものだったのです……どうか、どうかお許しを!」
濡れた砂の上で土下座を続ける領主の姿。
私はビーチチェアに腰掛けながら静かに見下ろす。
彼の服は潮水と汗、そして自分の体液で台無しだ。
全身を震わせるその姿からは、もはや尊厳も何も感じられない。
「はぁ……」
私は盛大にため息をつく。
この手の光景も見飽きたな……
血も涙もないと評される私の組織。
こういう場面が多いのは仕方のないことだが、見ていて楽しくはない。
「領主さん。そんなに怯えなくてもいいのに…… でも確かに、私は巷では『王子でさえ逆らえば生きた人形にされる』なんて言われてるんだったわね」
口調は柔らかくしているつもりだが、領主はさらに青ざめて失禁する。
「私が提案したわけでもないのに、心外だわ」
失禁しながら何度も「お許しを」と繰り返す。
その姿は、見ていてあまりに惨めだった。
私は一口だけ冷やした甘い果実酒を含む。
スッキリとして甘く涼やかな香りが広がっていく。
(バカンスなんだから、せめて果実酒くらいは楽しませてもらわないと)
私は小さく息を吐いて、こんな状況になった経緯を思い返す。
――これは、私がここへやってきた初日から続く、些末な騒動の成れの果て。
そして、この話は少しだけ時間を巻き戻すところから始まる。
◇◇◇◇
――私はリリス・ヴォルテクス。
裏社会を掌握する巨大組織のトップ。
王子から「悪役令嬢」呼ばわりされ、婚約破棄されたのは少し前のことだった。
私が悪役呼ばわりされるのは今に始まったことではない。
それでも失恋?というのは、気が滅入るものだ。
仲裁や外聞の処理にも疲れてしまった。
(やはり私には男運がない。王子であろうと、最終的にはなぜか逃げていく……)
そんなわけで、しばらく仕事を忘れて気ままに過ごそうと決めた。
行き先として選んだのが、遠くの海辺の保養地。
漁業と真珠の養殖でそこそこ潤っている領地だと聞いていた。
一年を通じて温暖な気候、綺麗な砂浜。
王族も含め高貴な身分の者たちがたびたび訪れるリゾート。
……という話だった。
だが、実際に街へ足を踏み入れると、私は予想外の寂れ具合に驚かされた。
まばらな通行人は皆やつれ顔。
観光客らしい華やかな装いをした人の姿は見当たらない。
「……おかしい。以前はそこそこ活気があったはずなのに」
護衛の一人が小声でそうつぶやく。
私も首をかしげた。
翌日からゆっくりとバカンスを楽しむつもりだった。
が、そもそもの環境が整っていないなら話が違う。
そこで、到着初日のうちに領主に挨拶を兼ねて、事情を聞くことにした。
◇◇◇◇
領主の館は、外観こそ立派だった。
だが、中に通された応接室は奇妙なほど陰鬱だった。
ソファに腰掛けると、ふてぶてしげな領主が姿を見せた。
「リリス・ヴォルテクス殿。遠方よりご足労いただき、感謝しますぞ」
口先ばかりの礼を言う領主。
しかし、その表情は私を見下すような不快な笑みを浮かべている。
「私が来ることをご存知だったのですね」
私が視線を返すと、領主は薄く笑った。
「もちろん。公爵家の令嬢が来訪すると聞けば、準備を整えるのが筋というもの……」
領主は周囲の使用人に指示を出し、書類を持ってこさせる。
差し出されたのは、領内での滞在費用やその他諸々を記した領主発行の納税書。
「本領内の保養施設を利用する場合は、滞在税、それから娯楽行為への付加税……もろもろ、合計してこのような金額になっております」
さらりと言ってのけた数字は、私が想定していたより十倍以上の額だ。
もちろん大金ではあるが、正直言って私の財力からすれば支払うことは可能だ。
けれど、そのあからさまな「足元を見た請求」に苦笑したくなる。
「突然これだけの税を設定したの? それも最近になって」
そう尋ねると、領主は肩をすくめた。
「保養地というのは、貴族や富裕層が金に糸目をつけず楽しむ場所。多少の値上げでも問題ないと踏んだだけです。これも我が領の経営手段ですよ」
どうせ払えるのだろうからいいだろう、と言わんばかりの態度。
私は領主の背後にある貴族連合の存在を直感的に察した。
複数の貴族が連合を組み、領主を唆して税を跳ね上げ、嫌がらせをしているのだろう。
(別に痛くも痒くもない金額だけれど……)
……煩わしいことに。
仕事柄、このように舐められたまま通すわけにはいかない。
なにより、この杜撰な経営。
街の様子から、領民が増税に苦しんでいるのが見て取れる。
放置していると、今後の物流にも悪影響が出る可能性がある。
(……為政者の資格なし)
私は領主の差し出した書類に、淡々とサインをする。
「……署名すればいいのですね」
それを見た領主はほくそ笑む。
「お支払い、感謝いたしますぞ。……そうそう、消費税も普段よりも多く徴収しておりますのでご注意ください!」
そして、傲慢な視線を送ってくる。
「ご滞在をぜひとも楽しんでください……」
それだけ言うと、彼はお世辞程度の挨拶で場を締める。
私は軽く頷き、領主を置いて応接室を出た。
護衛たちも言葉少なに続く。
◇◇◇◇
館を出ると、私の部下たちが控えていた。
私は部下の一人に声をかける。
「……あの狸領主から、全てを巻き上げなさい」
部下は静かに頷く。
私が所属する組織――裏社会を牛耳る巨大資本のネットワークは、物流に強みがある。
国外から商船を動かす手配も可能だし、情報操作も得意だ。
「全て準備済みです。リリス様、どうかご安心を」
部下のその一言を合図に、すぐに手が回り始める。
(領主がどれだけ嫌がらせを仕掛けようと、何も関係ない。……勝てるとでも思っているのかしら?)
私が生きる世界は常に裏切りと謀略に満ちている。
そんな中で、『悪役令嬢』と揶揄される私。
「確かに、我ながら『悪役』であることを否定できないわね……」
口の端から、うっすらと笑みがこぼれた。
◇◇◇◇
当日の夕方、私の巨大商船が港に入った。
積み込まれていたのは海外産の高級ワインや、様々な国の果実、穀物、嗜好品。
輸入品は王都の関税が掛かり、この領地の高額な消費税は適用されない。
「ここまでやるとは……」
港に顔を出していた領主は目を丸くしている。
私は上等なワインのボトルを掲げて軽く微笑む。
「安物のワインは口に合わないの。せっかくのバカンスだから、好きな物を飲ませてもらうわ」
しかし、彼は何も言い返せない。
領主がどこか苛立ちを覚えたのは明白だった。
「今夜は良いお酒を飲んで眠れそうだわ」
しかし、地産の食材には高額な消費税がかけられている。
もっとも、その税は国内流通分に対してだ。
輸出されるものは対象外という抜け道がある……
◇◇◇◇
バカンス二日目。
私は海辺のパラソル下に用意したテーブルで、冷やした白ワインを飲む。
ささやかな海風と、グラスの中で揺れる液体の涼しさが心地よい。
「やっぱり休暇って大事よね。仕事のことはしばし忘れられる」
そう独り言をつぶやきながら波打ち際を見つめていると。
少し離れた場所で大声を上げる男の姿が目に留まる。
浅黒く日に焼けた筋肉質の若い漁師だ。
周囲の仲間に向けて荒い口調で何やら怒鳴っている。
「チクショウ! 遠洋まで出て苦労して美味いカニを仕入れてきたってのに、帰ってきたら意味わかんねぇほど税金は上がってるし、客足もゼロかよ! これじゃ宝の持ち腐れだろうが!」
よほど不満が溜まっているのか。
男は地元の仲間たちと口論寸前になっている。
私はグラスを置いて、そっと近づいた。
「あなたが抱えているというカニ、全部買うわ」
そう声をかけると、彼はびっくりしたように振り返った。
「なんだ、お嬢様? 本気か? けど今のこの領地じゃ消費税がとんでもねぇぞ? 普通の客は引いちまう金額だぜ」
彼は信用できないといった様子で眉をひそめる。
私は軽く笑いながら返す。
「問題ないわ。私の商船を使って海外の港へ出荷するから、国内の消費税はかからない。私はその前に『試食』をするだけ」
男――ディノと名乗った漁師は呆気にとられた表情をしていた。
私は横にいる護衛に指示し、彼らのカニをすべて買い取る手続きをする。
「せっかくの新鮮なカニだもの。船に積む前に少し楽しませてもらうわ。夜に皆でバーベキューをやるから、あなたも一緒にどう?」
ディノはしばし考え込み、それから笑い飛ばした。
「面白ぇ! そんなこと言ってくれたのはあんたが初めてだ。じゃあ遠慮なく参加させてもらうさ!」
こうして、二日目の夜はバーベキュー大会だ。
ディノをはじめとする漁師たちも集まり、豪快に海産を焼く。
輸入したワインや果物類も惜しみなく振る舞った。
「うめぇ! こんな上等な酒、めったに口にできねぇ!」
「バカンスに来た貴族はどれもいけ好かない連中だと思ってたんだが……意外と話が通じるじゃねぇか!」
漁師たちは陽気に盛り上がる。
私も悪い気はしない。
普段は裏社会の殺伐とした空気に揉まれている身。
こういう素朴な宴は心が軽くなる。
漁師を巻き込んだどんちゃん騒ぎは、三日三晩続いた。
◇◇◇◇
そんな裏で進められていたのが、部下による真珠市場への工作。
海外から安い真珠を大量に持ち込む。
逆に「この領地で生産される真珠は呪われている」「体に毒素を蓄積させる」などの噂を広める。
あっという間にこの領地の真珠の価値は急落した。
領主が抱えていたはずの真珠資産は、大半がただの白い石ころ同然になる。
さらに系列の物流拠点を一時的に閉じさせる。
高騰する消費税と合わせて生活必需品の流通すらほとんどなくなる。
領民の不満は募る。
◇◇◇◇
バカンス五日目の朝。
海辺に設置したテーブルで朝日を眺めながら果実酒を楽しむ。
すると突然、領主が転がるように現れて私の足元へ土下座しだした。
「リリス様、この度の無礼は不本意だったのです……どうかお許しを……!」
顔を上げた彼の表情は既に絶望に染まっている。
王家から買い上げた領地の債券で即日償還を求める。
真珠の価値は崩落したため、我々の組織の人間が領主の館に差し押さえに入る。
――私の組織にありふれた、一人の哀れな債務者の出来上がりだ。
さらに住民も暴動寸前。
何もかも詰んだ状態だ。
「全て差し出します。私の持つものは何でも差し出します! だからどうかお許しを……!」
惨めに泣き叫ぶ姿に、私は静かに言葉を返す。
「……そんなに怯えなくてもいいのに。『一生を掛けて、ゆっくりと、お金を返してくれれば』いいのよ?」
さらに領主は土下座をしたまま失禁してしまう。
「お、おたすけええええ!」
情けない叫び声が浜辺に響く。
(……酒の肴にはならないわね)
私は護衛に合図して、領主を連行するよう指示した。
悲鳴を上げながら引きずられていく領主。
その後ろ姿を見届けると、ひとりの男の声が聞こえてきた。
「へへ、やることが過激だな、あんた。だが、いい女だ!気に入ったぜ」
振り返ると、そこにはディノがいた。
「権力者を、あっさり跪かせるなんて痛快だ。……あんた、俺の嫁さんになってくれないか?」
突拍子もないことを言うディノに、私は呆気に取られる。
「嫁さん、ねぇ。私は『悪役令嬢』なんて呼ばれているの。それでもいいの?」
「俺は気にしないさ。あんたが『悪役』だろうが、誰も逆らえない大人物だろうが、構いやしねぇ。強い女はカッコいいよ!」
そう言うディノの様子を見て、私は思わず小さく笑ってしまう。
(まったく……こういうストレートさは嫌いじゃないけれど)
――だが、漁師の彼と私の立場を考えると、結婚など現実的ではない。
私は丁重にお断りしようと口を開いた。
しかし、ちょうど護衛たちが戻ってきたため、会話は中断された。
◇◇◇◇
翌朝。
遠くから歓声と悲鳴が入り混じったような騒ぎが近づいてくる。
「リリスー! 見ろよ!」
ディノが身の丈より大きなカジキマグロを肩に担ぎ、満面の笑みで突進してきた。
銀色の魚体が朝日にきらめき、近くの給仕が悲鳴を上げる。
「これが俺の婚約指輪だ! さぁ、受け取ってくれ!」
まさかの宣言に、私は腹を抱えて笑ってしまった。
「婚約指輪は指にはめるものよ。魚の顎に指をはめるのは嫌よ」
笑いながら言い終えるより早く。
ディノが一歩踏み込み、勢いよく私の頬にキスを落とす。
塩気と潮の匂いがふっと鼻をかすめた。
「俺は本気だぜ!」
直球の好意と日焼けした真剣な笑顔。
思わず鼓動が跳ねる。
(け、結婚は無理でも、愛人として囲うくらいなら可能性は……?)
そんな邪な発想が脳裏をかすめた瞬間――
「お嬢様に何やっとんじゃ貴様ぁ!」
「海に沈めてやらぁ!!」
護衛たちが一斉に飛びかかり、ディノをカジキごと押し倒す。
あっという間に縄で縛られ、脚に重りまで括りつけられる。
巨大魚と漁師がまとめて運ばれていく絵面はシュールだ。
「待って! カジキマグロに罪はないから!」
そんな光景と茹った頭によって。
私も半ば錯乱気味に言うのだった。
「お嬢様のご命令だ、手を止めろ!」
護衛長の号令で辛うじて処刑寸前の騒ぎは収まる。
浜辺に転がるディノと、打ち上げられたカジキの影。
私は額を押さえながら深い息を吐いた。
(でもやっぱり、婚約指輪代わりにカジキマグロを持ってくる奴は頭がおかしいわよね……)
潮騒が笑い声をさらって行く。
――私の一時の気の迷いは魚とともに海へ沈んだのだった。
◇◇◇◇
結局、バカンスの最終日には領主の椅子が空席となった。
莫大な負債を抱えたまま正式に更迭となる。
そして、私の組織が管理する「債務者リスト」に静かに名を連ねる。
「領主の後任? 俺でいいのか?」
砂浜でディノが目を丸くする。
「資産も後ろ盾もないけど、海のことだけは誰にも負けねぇぞ」
「だから選んだのよ。私は港を動かせる人間が欲しい。それだけ」
そう答えると、ディノは豪快に笑い、腕を突き上げた。
――こうして、漁師あがりの彼が新領主となった。
まず取り掛かったのは物流の復旧。
私の商船隊を港に横付けし、穀物や日常必需品を底値で放出する。
表向きは「ディノ領主の人脈で海外から調達した物資」という扱いにした。
暴動待ったなしだった領民はあっという間に新領主へ感謝を寄せる。
ディノは忙しく浜辺を走り回る。
「領主様、これほど早く物資が届くとは……!」
「今夜から子どもに粥を食べさせられます」
寄せられる礼の言葉に、ディノは照れ隠しに鼻をこする。
次に手を打ったのは人手不足の遠洋漁業だ。
――危険ゆえ誰も行きたがらない漁場。
私の『債務者』を送り込む仕組みを敷く。
「連中に返済の機会を与えてやりなさい」
借金漬けの貴族や行き場のない商人を次々に登録船へ送り出す。
そして、驚くほど早く結果が出る。
ディノの適切な船団配置により、漁獲高は倍増。
さらに、ディノは実績を上げた相手に惜しみなく報酬を払う主義だった。
「借金の金利? そんなもん海に捨てろ。稼いだら好きに飲め!」
大声で笑う陽気な領主。
債務者たちでさえ肩の力を抜き、やがて忠誠を誓いだす。
1年もしないうちに、港は水揚げされた魚で溢れ、加工場と市場の建設が同時進行。
暴落していた真珠も、新たな流通経路を確保したことで価格が徐々に安定へ向かう。
リゾートと海産物、二本柱の産業で街は息を吹き返した。
◇◇◇◇
「陛下より感謝状。『領地の港湾整備は王国にとっても重要な外交玄関口となった』ということです」
報告書を抱えた部下が、嬉しそうに私へ告げる。
海産物と真珠で潤うかの領地は、今や王国でも有数の港湾となった。
悪くない成果だった。
「かのリゾート地を『最後の一攫千金の地』だと噂する者が増えています」
別の部下が耳打ちする。
債務者たちが進んで航路に志願し、返済と一発逆転を狙う。
――組織にとっても都合がいい。
書斎で、私はバカンス用に選んだ帽子を眺める。
――ディノの真剣な顔を思い出すと。
少し恥ずかしくなる。
そんなバカンスとなってしまった。
「……なんだか、休暇のつもりが少し仕事をしてしまったわね」
誰に聞かせるでもなく、言い訳のようにつぶやき。
私は肩をすくめるのだった。