第十一話 惑星ナザフのザムサ
ラシル・ファシスから約七光年離れたところにあるバラン星系の第三惑星、ナザフはクードゥルの故郷である。
ソルエ号でナザフへ向かう途中、クードゥルは日頃と違って無口だった。振り返ると、リューのアルデバ軍基地でナザフの名前が出て以来、口数が少ない。故郷に帰るのが嬉しくないようだった。ビーナ達を連れ戻すという目的のせいかもしれない。
「なぜ『政府筋』の奴らはビーナ達をナザフへ連れて行ったんだ?ナザフへ連れていったということは、『政府筋』というのは、アルデバ政府ではなく、ラルスバラン連合政府ということになるのか?」
ネネの葬儀後に漸く口にしたボウイの問いに答えたのは、クードゥルではなくマツトウだった。
「ラルスバラン連合政府は、十五年前にナザフに大きな研究施設を作っている。ナザフで新種のウイルスによる伝染病が発生し、多数の死者が出た直後だ。そこには生化学研究に必要なあらゆる設備が整っているらしいから、おそらくそこへ連れて行ったのだと思う。……ということは、アルデバ政府だけでなく、ラルスバラン連合政府も絡んでいると考えざるを得ない」
「その口振りからすると、あんたはその研究施設の名前も場所も知っているんだな?」
「行ったことはないが、住所は知っている」
「簡単には入れないんだろうな?」
「どうかな……軍ほど厳しくはないと思うが……行ってみないと分からない」
ネネがどうして亡くなったのか、ボウイ達はわかっていない。ネネの両親が死因を突き止めるために検視を行うことを断ったからだ。
亡骸を浄めた母親と姉によると、腕や脚に注射針の痕がいくつもあったらしい。
「もうこれ以上傷つけるようなことは止めて!」
母親の涙ながらの叫びに、誰も無理強いはできなかった。
せめて血液検査だけはさせてくれと、マツトウがネネの腕にある注射針の痕の一つに忠実に針を刺し、血液を少量抜き取った。
その精密検査の結果が出るのはボウイ達がナザフへ着いた後だ。
「薬物で殺されたのかな」
クードゥルの呟きに、マツトウは首を横に振った。
「薬物で死んでしまったとしても、殺そうとしたのではないと思う。予想しなかった副反応の結果だろう。あの女性はもともと心臓が丈夫ではなかったらしいし」
マツトウの言葉に弁護の響きを感じたボウイはきつく言い返した。
「もともと心臓が丈夫でないことは少し調べれば分かっただろう。それなのに死なせたのは、明らかな過失だ。いや、殺人だ。言い訳はできない」
ソルエ号のメンバーは、空母タミアから脱出した六人から十二人に増えていた。
ビーナ達を連れ戻すという目的に、ネネの村の若者二人とやはりビーナを連れ去られた別の村の若者二人が加わった。立候補は十人以上いたが、ボウイとクードゥルの眼鏡に叶ったのは四人だけだった。
さらにはナザフにトラブルなく着船し、活動できるよう、運送会社の社員二人も乗船している。そのうち一人は元傭兵で腕っぷしに自信があり、もう一人は社長曰く、交渉の達人という触れ込みだ。
民間の運送会社だけでなく、存在意義の薄いラシル・ファシスの「政府筋」からも全面的な協力を得られたから、ボウイ達がナザフへ向かう旅券を整えるのは簡単だった。
例の運送会社が商用と視察のためにナザフへ社員を派遣するという申請をしたのだ。
ソルエ号には機銃座とサボが備えられているが、サボのことには触れず、二基の機銃座は自己防衛のためとしてある。
「申請に怪しい点がなければ、細かくは調べないでしょう。ナザフは今やラルスバランのビジネスの要で、あちこちから宇宙船がやって来ては出ていく。いちいち詳細を確認していられません。うちも二年に一度くらい出掛けています」
噂はよく聞いていたが、ボウイがナザフへ来るのは初めてだった。
宇宙から見た夜のナザフは人工の光できらびやかだった。昼間の半球には海が半分近くあり、陸地に緑もある。砂漠と思われる茶色い土地の中にも所々にドームに覆われた街があり、少量ながらも緑と水の青い色が認められた。
外からは理想的な生命が謳歌している惑星に見える。
もちろん中に入ってみれば、どこの惑星にも、どんなひとの間にもあるように、様々な問題を孕んでいるに違いない。クードゥルがナザフを出てアルデバ軍の傭兵として生きてきたことがそうした問題のあることを示している。
ナザフの税関をスムーズに抜け、ボウイ達は運送会社御用達のホテルへチェックインした。繁華街近くにある大きなホテルだ。
従業員の人種は多彩で、誰もがきびきびと動いていた。
マツトウが言っていた研究施設は、滞在するホテルから徒歩三十分ほどで行ける場所にあった。
施設へは翌日に出かけることにして、ナザフ滞在初日の夜は、ボウイ、クードゥル、マツトウ、ペネロップの四人が研究施設の噂を夜の街で集めることにした。
イードリはボウイ、クードゥルと、パメラはペネロップ、マツトウと一緒に出掛けた。初めての場所でホテルに置いておくのは疎外感を感じるだろうと、質問責めを覚悟しての連れ立ちだ。
アーギルのごった煮の街とは違った、よく言えばスマートな、悪く言えば非人間的な都市の様子は、やはりイードリとパメラにとって何もかも珍しかった。
「あの人は何してるの?」
「あの機械は何?」
イードリがどんどん尋ねてくる。
クードゥルがその一つ一つに面倒くさそうに答えていく。ボウイもナザフは初めてなのだから、クードゥルが答えるしかない。
そのうちに、とうとうイードリは尋ねた。
「クードゥルはこの星で生まれて暮らしてたんでしょう?その場所はこの近く?」
「……ここから地下鉄を乗り継いで三時間くらいかかる町だ」
「こんな感じの町?」
「そうだな。まぁ似たようなもんかな」
「久しぶりに帰ってみたらどうだ?」
ボウイは思いきって言ってみた。なんとなくクードゥルの雰囲気から言えなかったことだ。
「帰らないよ。ビーナ達を見つけてラシル・ファシスへ連れ帰るために来たんだ」
そう言ったクードゥルに迷いが見えた。仲間が増えたから、おまえ一人抜けてもなんとかなるとボウイが言おうとした時、クードゥルがまた口を開いた。
「今はもう、その町は故郷であって故郷じゃないのさ。帰る家は無い。親戚が暮らしてるが、会いたいとは思わない親戚だ」
色々な事情があるようだ。
ボウイはイードリにそっと囁いた。
「クードゥルに故郷のことを尋ねるのはそこまでにしておこう。いいな」
イードリは戸惑いの目で頷いた。
十五年前に作られた研究施設は通称、ザムサと言った。
ザムサのことは町で暮らす誰もが知っていたが、中で何が行われているかは誰も正確なことを知らなかった。
数少ない確かな驚きの情報は、ホテルのコンシェルジュの口から出た。
「責任者のお一人は、マツトウ博士です。カラモ・マツトウ博士。遺伝子学の権威です。ご存知ですか?」
マツトウの顔が驚き、次に歪んだ。
「カラモ・マツトウって……ひょっとして、ひょっとしなくても、お前の親父か?その顔つきからすると、ザムサにいるって、知らなかったのか?」
クードゥルが呆れた顔でマツトウに食ってかかった。
「おまえの親父が責任者の一人たぁ、堂々とザムサに入れるな」
「息子であることと関係者であることはイコールではない」
マツトウはぶっきらぼうにクードゥルに反論した。
「もちろん親父に連絡は取る。ビーナ達のことを聞き出す」
「ひとのことはいえないが、一年に一度くらい親父殿と連絡を取っていたら、もっと早くビーナ達の居所がわかってたかもな」
「クードゥル、よせ」
思わずボウイはクードゥルを止めた。
ナザフに着いて以来、クードゥルは明らかに機嫌が悪い。普段のクードゥルなら、言わないことを口にする。会話がすぐに刺々しくなる。
ボウイとしては、ビーナ救出という大きな目的を前に、仲間がいがみあうのは避けたい。
ボウイが止めに入ったことで、クードゥルもマツトウも黙り込んだ。
イードリがそっとボウイの背中をつついてきた。振り向くと、
「マム、クードゥルは変だよ。どうして?」
心配する目で尋ねてきた。
「大抵の人は理屈では割りきれない、厄介な問題を抱えているんだ。日頃は気楽に見せているクードゥルも、そんな一人ということだよ。しばらくは見守るしかない」
イードリには難しいかもしれないと思いつつ、ボウイは答えた。
「マムにもあるの?」
素直なイードリの問いにボウイは苦笑いが浮かんだ。
「ああ、あるよ」
マツトウは有言実行で、翌朝、起きるとすぐに父親に連絡を取ったらしい。
「ビーナ達のことは超機密だそうだ。責任者ではないが、親父が関わっていることは間違いない」
そこまで言って、マツトウはボウイに向かって深く頭を下げた。
「すまない!クードゥルの言うとおりだ。俺がもう少し親父とマメに連絡を取っていたら、もっと早くビーナ達を救い出せた……もうこれ以上引き伸ばさない。俺はこれからザムサへ行く」
「まさか一人で乗り込む気じゃないだろうな」
ボウイはマツトウの顔色に真顔で返した。
「そんな馬鹿なことはしない。俺一人では十九人のビーナを助け出せやしない」
「その答えにほっとしたよ。やっぱり冷静沈着がモットーのカイ・マツトウだ」
ザムサの受付でカイ・マツトウと名乗ると、「からも・まつとう博士ノゴ子息デスネ」と受付のロボットが返してきた。
カイ・マツトウと共にザムサにやって来たのは、ボウイ、クードゥル、ペネロップ、イードリ、パメラにニリアムというネネの村の若者の総勢七名だ。マツトウが大丈夫だというので、そんな大所帯になった。
ザムサは三つの高層ビルから成る複合施設だった。マツトウ博士がいるのは入り口から左奥にある第三ビルの三階と案内された。
一行は受付横のセーフティチェックのアーチを潜り抜け、第三ビルへ向かった。
第三ビルの低層用エレベーターの扉が三階で開くと、真正面に大きな扉があった。
カイ・マツトウがインターホンに名前を告げたら、すぐに扉は開いた。
目の前にはまた扉があった。エレベーターを降りた時に見た光景と瓜二つだった。
その扉が開いたら、また真正面に扉があるのではないかとボウイは思ったが、その扉が開いて見えたのは、所々に机や器具の島がある広々とした空間とその奥に並ぶ扉の列だった。
奥の方から、分厚いゴーグルをかけて白衣を着た、白髪が乱れに乱れている人物が近づいてきた。
横にいるマツトウから緊張が伝わってきた。
「カイか。久しぶりだな」
その人物はマツトウやボウイの目の前までやって来たところでゴーグルを外した。
カイ・マツトウとは目と耳が同じだった。
顔立ちは卵形の息子と違い、父親のカラモ・マツトウは顎が細かった。乱れた髪の毛のせいもあるだろうが、逆三角形の印象を受ける顔だ。
「ここでビーナの何を研究してるんだ?」
カイ・マツトウは父親に対して、ボウイが予想していたよりはるかに単刀直入だった。
「アルデバ政府から頼まれてやってるんだ。報酬がいいんでな。自分から進んでやってるわけじゃない。それより……」
――主導はラルスバラン連合政府ではなく、やはりアルデバ政府……
その事実には重要な意味があるとボウイは思った。
カラモ・マツトウの視線はボウイと息子の後ろへ移った。その目が輝いた。
「あの若い男女二人がパムだな?ソルエ博士が作り出した……」
ボウイは反射的にイードリとパメラを庇うように、カラモ・マツトウの前に立ちふさがった。
余計な時間を費やす余裕はない。
「ビーナ達は何処です?まさかここでもリューのアルデバ基地のように地下に閉じ込めてるんじゃないでしょうね?」
カラモ博士はボウイの対応に驚いた顔になった。
「地下に閉じ込めてはいないが、弱っている者がいるから……」
ボウイの緊張が高まった。
「どうして弱っている?あなた達は何をしたんだ?」
「何って……アルデバ政府の要請に従って……」
「だから、アルデバ政府の要請は何だったんだと聞いてるんだ!」
カイ・マツトウが苛立った声を出した。
「私が指示されたのは、ビーナの遺伝子を詳しく調べることだ。ビーナの遺伝子に人工的な手が加えられていないか、調べろという仰せだ」
ボウイは呆気に取られた。カイ・マツトウも同じだったらしい。二人とも暫く絶句した。
「一体どうしてそんなことを調べる必要があるんです?ビーナの遺伝子に人工的な手が加えられたというなら、今のラシル・ファシス人はほとんどがそうだということになる……それでは手を加えた目的がわからない……考えられない……」
やっと口がきけるようになったボウイだが、まだカラモ・マツトウの言ったことが信じられない気持ちでいた。
カラモ・マツトウは首を傾げた。
「特別な能力があるというからだろう。今のところ、遺伝子に特異的なことも、彼らの持つ不思議な能力とやらも確かめることはできていないんだがね」
「ラシル・ファシスじゃないからですよ」
ボウイは黙っていられなかった。
「ビーナの能力はラシル・ファシスでしか役に立たない。彼らの能力を調べるなら、ラシル・ファシスにおいて、です……ひょっとして、あなた達はビーナの能力を確かめられないからと、彼らに無理をさせた?」
「無理?色々検査しただけだ。身体に大きな負担のかかるようなことは何もしていない。ここへ来たときにはもう弱っていた者が多かったから、その者達には治療を施してきた」
「ここへ来たときにはもう弱っていた……」
ボウイの頭にネネの死に顔が浮かんだ。
「何人、弱っていたんですか?」
「二人、ナザフまでの旅に耐えられなかった者がいたらしく、ここへ運ばれてきたのは十七人で、全員がある適度の衰弱を見せていたが、三人が特に酷かった。意外にも若い男の衰弱が特に酷くてね」
若い男と聞いた途端、ボウイの脳裏に最後に見た、十年近く前のクエリクの顔が浮かんだ。
「まさか……」
「リューのアルデバ軍基地でどんな目に遭ったのか、正確なことは知らないが、ここへ運ばれて来たとき、三人はもう食べ物を受けつけなくなっていた。原因の一つは重力の変化だと思うが……死なせてはならないと必死だったよ」
リューの弱い重力がネネの死を招いた要因の一つではないかと、ボウイも考えてはいた。
重力が少ない空間に長くいると人の筋肉は落ちる。リューのアルデバ軍基地でも艦でも、筋力を落とさないために、兵士は皆、毎日、一、二時間はラシル・ファシスの地上並みの重力を感じる部屋でトレーニングをしているのだ。閉じ込められていたという、あの地下牢にそんな設備はなかった。
さらにクエリクを始め、ビーナ達は誰も宇宙へ出たことがなかったろうから、リューの地下に閉じ込められているだけで身体にどんな変化が起こるか知らず、「政府筋」の人間が教えなければ、対処できなかったと考えられる。
それにしても、カラモ博士の口調には、内容にそぐわない気軽さが感じられた。
ボウイと同じ印象を受けたらしいカイ・マツトウが苛立たしげに言った。
「何の検査をするにしろ、彼らの同意を取っていないだろう。それは違法だ。ビーナ達をすぐに解放しろ」
「アルデバ政府が絡んでいるんだぞ?」
「ここはナザフで、あんたはコウリプ人じゃないか。どうして違法なことにまでアルデバ政府に従うんだ?」
その時だった。
――兄さん……
クエリクの声がボウイに聞こえた。
マツトウ親子は言い合いを続けている。
ボウイにだけ聞こえた声だ。
ボウイは声がした方を見た。
フロアの奥、扉が並んでいる中の、端から三つめの扉の向こうからだ。
――兄さん……
確かに聞こえる。
ボウイはその扉に向かって駆け出した。
「おい!勝手にブースに近づくんじゃない!」
カラモ博士の声と追いかけてくる複数の足音が聞こえたが、ボウイは振り向きも足を緩めることもしなかった。
扉は鍵がかかっていた。
ボウイはあとを追ってきたカラモ博士を睨みつけた。
「この扉を開けろ。この中にいるのは俺の弟だ。開けないなら、扉を破壊する」
ボウイは懐から小型の拳銃を取り出した。いざというときのために、セーフティチェックをうまく潜り抜けさせて持ち込んでいたのだ。
カラモ博士はボウイの気迫に気圧された様子で黙って扉横のリーダーに掌をかざした。
ザムサもロック解除は掌認証らしい。
扉は音を立てず横へスライドした。
中は意外に広く、四つのベッドが置かれていた。個々のベッドは乳白色のシャッターが囲んでおり、誰が横たわっているのか、わからなくなっている。
しかし、ボウイは迷わず右奥のベッドへ歩いていった。
シャッターは手動で動かせた。
中には痩せた若い男がベッドに横たわっていた。
ボウイの記憶からは変わり果てた、やつれた姿だったが、そこにいるのが誰かは姿を見る前からわかっていた。
考えるよりも先に身体が動いていた。
気がついたら、クエリクをそっと、だがしっかりと抱き締めていた。
驚くほど骨張った身体だった。年齢的には十年前より大きく逞しく、重くなっていなければならないのに、細く軽くなっている。
――どうしてこんなことに……
「クエリク……すまない……」
謝る言葉が思わず口をついて出た。
「なんで、謝るの。兄さんが謝ることは何もないよ」
弱々しい声でクエリクが言った。
「さすがだ……ここにたどり着くなんて。誰が助けに来てくれるだろうかと考えたら、兄さんしかいないと思ったけど、本当にそうなった……」
ボウイは、クエリクの頭と背中を支えながら再びベッドに横たえさせ、改めてその顔を見た。
もともとは丸顔の方だったのに、頬骨が出て顎は尖り、目が大きく見える。そんな痛々しい姿で笑みを浮かべていた。
「ネネを見つけてくれたんだね?」
ボウイは頷き、答えた。
「ラシル・ファシスに連れ帰り、故郷の村に葬った」
「よかった……」
安堵して目をつむるクエリクの顔が霞んできた。涙を流している場合ではない。
「三人が酷く衰弱していると聞いたが、他の二人もここにいるな」
クエリクは頷いた。
ボウイはわずかに顔をカラモ博士に向けて言った。
「ここにいては回復しない。三人をここから運び出す」
「馬鹿な!ここから連れ出すことこそ、死なせることになるぞ」
カラモ博士が驚き、声をあらげた。
「三人に必要なのは、点滴や栄養剤ではない。昔ながらの方法で栽培された食べ物に、ラシル・ファシスの『気』だ。クエリクは俺が面倒を見る」
「ラシル・ファシスへ連れていくというのか?無茶だ。途中で死んでしまうぞ」
ボウイはかぶりを振った。
「もちろんラシル・ファシスへ戻るのは、ある程度体力を回復させてからだ。ラシル・ファシス人には、ラシル・ファシス人ならではの適した方法がある。それを俺は知っている」
ボウイはクエリクに向き直ると、痩せ細った腕から点滴の針を抜き、衰弱した身体をそっと両腕に抱えあげた。
誰かに託すことはできなかった。
一緒に育ち、幼い頃から見守ってきた弟なのだ。おとなしく控えめで、自身の特別な能力を誇るどころか恥ずかしがるような、なるべく隠そうとする子供だった。
父親や村の重鎮にビーナである弟を守れと言われたボウイだが、言われたから仕方なく、ではなく、心から弟を守りたいと思えた。仲は頗るよかった。クエリクが控えめな性質だからか、喧嘩をした覚えがない。
ラシル・ファシスを出ることも最後まで迷った。悩んだ。クエリクが勧めたから決断したが、いざ出てからも暫くはクエリクのことが、家族のことが、村のことが気になった。
戻ろうかと思ったことが何度かある。そんな時にボウイを前へ進ませたのも、またクエリクだった。迷った頃に、まるでボウイの心の動きを読んだかのように、クエリクから便りが届いたのだ。
『厳しい道を選んだ兄さんを誇りに思う。僕にはできないことが兄さんにはできるんだ。僕や村のことは気にせず、やりたいことをやって、進みたい道を進んでほしい……』
やりたいことではなかったが、世の中の潮流から傭兵という道を選んだ兄を弟がどう思っているか気にしていたから、ボウイはその便りに背中を押された気がした。レム・ヴァフアーとしての活躍も、弟の便りに迷いが吹っ切れたからできたことだと思っている。
そして、そのラシル・ファシスを出てからの年月はボウイの心身を強くした。幅広い知識も得た。知り合いは大幅に増え、友人も得た。
――ラシル・ファシスを出ることが必要だったのだ。
この時、ボウイは心の底からそう思えた。
クエリクはボウイの腕の中でぐったりしている。詳しいことを聞くのは後回しである。体力を戻すことが先決だ。
――死なせはしない。絶対に。
ボウイはクエリクを抱え、確固とした足取りでブースを出た。




