75.空をなくしたその先に(1)
研究室の中に、コーヒーの香りが漂う。ディオはカップに注いだそれを口に運ぶ。研究の合間の、休息の一時。
「博士!シルヴァースト博士!」
ばたばたと研究所に駆け込んできたのは、ディオの研究室にいる学生だった。
「先生のこと、新聞に載ってますよ!」
彼の差し出した新聞を、ディオはゆっくりと開いた。
日に焼けた藁の色の前髪をかきあげる。後ろの方は一つにまとめて束ねてあるのだが、前髪は伸びすぎて目に入りかけている。そろそろ切りに行かねばならないのだが、時期を逃してしまっていた。
新聞を持ってきた学生が示すページに大きく掲載されている彼と、彼の学生たちが開発した新技術。実用化されれば、海水から真水を作り出すそれは、飛行島で暮らす人間たちにとっては非常に重要なものになるはずだ。
動力源には、フォースダイトを使用している。まだ、飛行島から取り出したフォースダイトほどの純度は得られていないものの、ここ数年の間にフォースダイトの精製方法もかなり進歩していて、以前よりははるかに純度の高いフォースダイトを作れるようになっていた。
この技術の開発には多額の費用が必要だったが、カーマイン商会のイレーヌが援助してくれた。ディオの書いた礼状には一度も返事をくれなかったけれども。彼女にも思うところがあるのだろう。
「あ……」
ディオは自分の記事の次のページに掲載されている記事に目をとめた。
どこかで見たことのあるような気がする顔。紙面の荒い写真ではわかりにくかったが、記事を読んでそれが誰なのか理解できた。
「ごめん、今から出かけてくる。戻りは二週間後かな。そのコーヒー、片づけておいて」
「先生?二週間後って!」
まだ一口しか飲んでいないコーヒーと学生を残して、ディオはあわただしく研究室を後にする。
新聞を手に握りしめたまま。
一度自宅に戻り、荷物をまとめて乗りこもうとした船の名を見て苦笑した。
メレディアーナ号。全てが始まったあの船と同じ名前だ。
大学を卒業して三年。駆け出しとはいえ、一応は学者として認められつつあるところだ。叔父からの援助ももう受け取っていない。
裕福とはいえないが相部屋になる三等客室ではなく、一人で一部屋を使う程度の余裕もある。
たしか船内に髪を切る場所もあったはずだ。久しぶりの帰郷の前に髪を切っておこうと、ディオは理髪室の場所を確認した。
「空賊ってあの船ね。射撃準備して。まずは威嚇するからそのつもりで」
ダナは前方をにらみつけた。優美な姿の客船にせまる空賊の船。射程距離に入る前に、空賊の船が客船めがけて牙を向いた。
「前言撤回。射程圏内に入ったら即撃墜!」
肩から前に落ちてきた三つ編みを、背中の方へとはねのける。人目を引く見事な赤の色は、腰の長さまで髪が伸びても以前と変わらない鮮やかさだ。
ダナは、空賊との距離をはかった。慎重に距離を見定めて、右手をあげる。
「撃て!」
命令と同時に、砲が火をふく。
空賊の船とアーティカの船では装備が違う。残念ながら弾は外れ、方向を変えて逃げ出す空賊船を見送って、ダナは肩をすくめた。
マグフィレット領内にいるのなら、相手が降参するまで追いかけ回すところなのだが、ここはセンティア領内だ。
一撃で撃墜できなかったら追い払うだけでいいと命令されている。彼女自身は生ぬるいと思うのだが、他国の方針に口は出せない。
アーティカは一月ほど前からセンティアと契約していた傭兵団が契約を解除した後、次の傭兵団が見つかるまでという条件でマグフィレットから貸し出されていた。
アーティカ自体傭兵団なのだが、マグフィレット専属契約となって数十年以上。友好国にこうして貸し出されることもある。
ビクトールもクーフ島ごとセンティア領内へ移動し、そこから指揮をとっている。
ダナは、窓から客船の損害を確認した。それほどひどくはないようだ。
救助の必要はなさそうだが、センティアへ戻るのならば護衛しようと声をかけることにした。
髪を切り終えたディオが、椅子から立ち上がろうとしたところで、船がゆれた。
「空賊だ!」
船員たちの騒ぐ声。けたたましく警報が鳴り響く。思わずディオは苦笑した。船の名前も同じ。まるであの時みたいではないか。
あの時とは違ってすぐに船員から、空賊は撤退したので安心するようにと放送が入り、船内は落ち着きを取り戻した。
ただし船は故障したため、このままセンティアへ引き返すのだという。
ついてないな、とディオはため息をつく。
国に戻って、ビクトールを呼び出すつもりだったのに。
アーティカの船が護衛につくと聞いて、ディオは甲板に出た。
あの傭兵団がセンティアに貸し出されているとは知らなかった。
ビクトールもこちらに来ているのだろうか?それならばわざわざ国に戻る必要はないのだが。
護衛についた小さな船の甲板に目をやって、思わず息を飲む。
ちょうど出てきた艦長らしき人物は、真っ赤な髪の持ち主だった。
忘れたことのない鮮烈な色。
ディオに気づくことなく、その人は甲板を横切って格納庫へと消えていく。
故障したメレディアーナ号はセンティアへと戻った。
修理が終わるまでは出航できない。乗客は別の船への乗船を希望するか、乗船を取り消すかの判断をその場で行い、ディオは乗船を取りやめた。アーティカがここにいるのならば、国に戻る必要はないのだから。
下船したディオは、アーティカの駐在している場所へと足を向けた。
身分証をしめしただけでビクトールへの面会は、あっさりと許可された。元雇い主という経歴は、十分信頼に値するようだ。
ディオは海面すれすれのところにおろされている飛行島へと、地上から斜めに渡された板をのぼって行く。
再会を期待しながら。
ダナは、三代目のリディアスベイルの名をもらった軍用艦をクーフへとつけた。その名は不吉だと反対したのだが、ビクトールはよほど気に入っているらしい。
初代二代目と違って、三代目は、四年の間たいした損害もなく航行している。
今回も空賊とは交戦にはならなかったから、艦の損傷はなかった。
整備士たちにあとをまかせて艦をおりる。
彼女はちらりと空を見上げた。夕刻にはまだ間がある。
夕食前に子どもたちを乗せて、飛んでくるくらいの時間はありそうだ。
ビクトールに命じられて艦長として軍用艦に乗り込むことも増えたが、戦闘機で飛び回る方が好きだ。以前と変わらず。
「ダナ、待って!」
家へ戻ろうと歩いていると、女性の声に呼び止められた。呼び止めた女性は、両手にたくさんの本を抱えていた。
「今日は私も授業終わりなの。よかったら、家でお茶でも飲んでいかない?」
「どうしようかな。子どもたちと飛んでこようかと思っていたのだけど」
「やめといたら?ビクトール様が探してたわよ。この間のお見合い相手がどうこうって」
ダナは顔をしかめた。
「ミーナさんのところにお邪魔する」
ルイーナで知り合った三人とは、ディオがセンティアへと旅立ってから交流が始まった。
何度か手紙のやり取りが続き、あの事件から一年ほどたった後、とうとう職にあぶれてアーティカへと移ってきたのである。
グレンもニースも、意外なことに機械いじりが得意だった。
来た当初はルッツの下で見習い整備士だったが、今では別々の艦に乗り込んで一人前に働いている。
ミーナはというと、結婚前は小学校の教師だったという経歴を生かして、今ではアーティカの校長先生だ。
もっとも学校に教師は彼女一人しかいないが。
夫と義弟が犯罪者に転落する可能性がなくなったのがありがたいと、ミーナはアーティカに移ってきたことを喜んでいるようだ。