74.贖罪の旅へと(2)
駅のホームにかけこんだダナの視線の先に見えたのは、生真面目な横顔だった。
小さめの鞄を一つ下げただけの身軽な姿。
季節は春になろうとしているとはいえ、冷たくなり始めた夕方の風に、コートの裾があおられる。
「ディオ!」
ダナの声にびっくりしたようにディオはふり向いた。柔らかな笑みが顔にうかぶ。
その表情が、以前とは違っていることにダナは気がついた。以前は感じられた線の細さがなくなっている。何か一つ乗り越えて……、まさしく大人になったといった雰囲気だ。
「来てくれたんだ」
「……やせた?」
最初に言わなければいけないことは、こんなことではなかったはずなのに。彼女の口から出てきたのは、ありふれた言葉でしかなかった。
少しね、それだけ口にしてディオはダナを見つめた。
「ずいぶん思い切ったことをするって、ビクトール様が言ってた」
視線を合わせるのが気恥ずかしくて、ディオのつま先に目を落としながらダナは言う。
「なんでわざわざセンティアへ?あなたに対する風当たりきついでしょうに」
ディオも研究員の一員であったことは、少し世事に通じた人間なら知っている。事前に研究所を離れていたのは、別の事情があったためとはいえ、世間の見る目は厳しいと言えるだろう。
たとえ全財産を遺族へ渡したとしても、それだけでは償いにならない。そう言われても仕方ない。
「石投げられるかもね、僕」
「石投げられるだけならいいけど、あなたの頭の中にはまだあの……研究が残っているのでしょう?殺されてしまうかもしれないじゃない。王宮にいれば安心なのに」
ディオの口元にうかぶ笑みが、苦い物に変わった。
「でも、そうしなければならないと思ったんだ」
最初はひたむきな探求心だったはずだ。
その方向性がずれさえしなければ。ずれた代償はあまりにも大きすぎた。失われた命の数を数えることなんてできやしない。
「センティアが技術の面では一番進んでいるからね。このまま自分の国にいたんじゃだめだと思う……今度は」
ディオはダナの顎に手をかけて、顔をあげさせた。
瞳をのぞきこむ。一番奥までずっと。
ざわざわとする胸をおさえつけて、ダナはディオの次の言葉を待った。
「今度はみんながもっと幸せになれるような研究をするよ。それだけじゃ償いにはならないだろうけれど」
どちらからともなく寄せた唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬だった。
「センティアまで会いに行ったりなんかしないんだからね?これでもあたし、けっこう忙しいんだから。空盗退治に国境警備。やらなきゃいけないこと、たくさんあるんだから」
ディオの肩に顔を埋めて、ダナはつぶやいた。互いの背に回した腕に力が入る。少しでもこの時を長引かせたいと願っているかのように。
ディオの手が、顎まで伸びた髪をそっとなでる。
「わかってるよ、そのくらい」
ディオはダナから離れると、鞄の口を開いて中に手を入れた。しばらく中をかき回した後、何かを取り出してダナの手にのせる。
「これって……?」
手にのせられたのは、フォースダイトの破片。
「エメラルドってわけにはいかないけれど……持っていてほしいんだ、君に」
十二の誕生日に両親から贈られたフォースダイト。
これから全てが始まった、一番大切な物。そのことは彼女には言っていなかった。けれど、ディオの想いをくみ取ったように笑顔を作ってくれる。
「……ありがと。大事にする」
ダナは受け取った石を両手で包みこむようにした。
轟音をたてて汽車がホームに入ってくる。
「さよなら」
ダナにそう言い残してディオは汽車に乗り込んだ。
個人の財産は全て寄付してしまったとはいえ、親族からの援助で当面は生活に困ることはない。ディオは固辞したが、元王子に必要以上に貧しい生活を送らせるわけにもいかないのだ。汽車の旅も個室を一つ確保してもらっている。
座席について、ディオは窓をあけた。
「ディオ!」
めざとくディオの姿を見つけて、ダナが走りよってきた。
手を伸ばして、窓越しにディオの首に手をかけ、自分の方へと引き寄せる。
今度のキスはもう少しだけ長かった。
発車のベルの音が二人を引き離す。
「好きだよ……ダナが」
ようやくディオの口から出た言葉。
「会えなくなる直前に言うのって卑怯よね?それに、そういうのって、普通はキスする前に言うんじゃないの?」
返ってきたのは口元にひらめく勝ち気な笑み。
続くダナの言葉は、汽車の轟音にかき消された。
ディオは窓から身を乗り出した。最後に聞こえたのは、ただ彼の名を呼ぶ声。
大きく手をふるダナに、ディオも手をふり返した。
姿が見えなくなるまでずっと。
「別について行ってもよかったんだぜ?」
汽車が見えなくなるまで見送っていたダナの肩に、ルッツが手をかけた。
「そんなんじゃないもん、あたし達」
大切に胸元に石を抱え込んでダナは、ルッツを見上げる。
「ところでケーキご馳走してくれるって話どうなったのよ?」
「まだ有効」
片目を閉じようとして、ルッツはうっかり両目を閉じてしまう。
ダナが笑い声をあげた。
「やだ、ウィンクできないんだ?」
「あんまり言うとケーキ買ってやらないぞ。それにビクトール様の分も買って帰らないとな」
「あの人、案外甘党だものね」
二人は並んでホームを出ていく。
見送りの人間の中で、ホームを後にするのは彼女らが最後だった。
ホームから出た瞬間、ダナの頭は次の任務へと切り替わる。ディオを思い出させるのは、手の中に抱えた石だけだった。
駅のホームが見えなくなって、ようやくディオは腰を下ろした。
もう会うことなんてないと思っていたけれど、最後に会えてよかった。
最後の最後に、伝えなければいけなかったことも伝えられた。
これからは別々の道を歩むことになる。これから先、この道が交わることはきっとない。
長い冒険が、ようやく終わったような気がした。