73.贖罪の旅へと(1)
最後の荷物を鞄につめて、ディオは部屋の中を見回した。もとから殺風景だった部屋の中に残っているものはほとんどない。
彼が手にしたのは小さな鞄一つだけだった。
あれから三ヶ月、だんだん暖かくなってきているとはいえ、夕方になると冷え込む。コートの上からマフラーをしっかりと巻きつけて部屋を出た。
もうここに帰ってくることはない。次にここに来るときは、国王の甥、ただの客人だ。
最初にディオの決意を聞いたフェイモスは、真っ赤な顔をして反対した。軽々しく王位を捨てるのかと、責めもした。責められてもディオは決意を曲げなかった。彼にできるのはこれだけだと確信していたから。
何日にもわたって話し合い、そしてディオの決意が揺るがないのを知った叔父は、反対していたのが嘘のように協力的になった。
フェイモスが、政務の合間を縫ってはフレディの墓に花を供えに行っているのをディオは知っていた。
ディオ自身も毎日のように訪れていたから。
遺体の存在しないそこには、代わりに最後に身に付けていたコートとマフラーが納められている。
なぜ、フレディには伝わらなかったのだろう。皆、彼のことを思っていたというのに。
誰も、父親のことを口にしなかったのは……彼が養子になった経緯はともかくとして、成長を大切に大切にそばで見守ってきたのに。
知らない方が幸せなことも世の中にはたくさんある。彼が真実を知らなかったら、今もディオを見下ろして笑っていただろうか。
結局追いつけなかったな……と、ディオの口元をゆるめた。いつかは彼の身長を追い越せると思っていたのに。ディオの方は小柄なままで止まってしまった。
フェイモスが戴冠をすませるのを見届けた今、ディオに思い残すことはない。
ただ一つ、あれから彼女と連絡を取れなかったことをのぞけば。
ビクトールは何度も宮中で会ったし、彼に言えばダナを連れてきてもらうことくらいたやすいことだっただろう。
けれど、どうしても勇気を出せないまま彼はセンティアに戻ろうとしている。
今度は一介の学生として。
彼が決意したのは、王位の継承権を放棄することだけではなかった。先代国王より相続した個人の財産を、全てセンティア国立研究所で殺害された研究員たちの遺族へ分け与えることも決めた。
このくらいでは、償いになんてならないだろうけれど、それでも何もしないよりははるかにましだ。
国を離れようとしている今、ディオ自身が望んでいたより気持ちは晴れていた。
「ずいぶん思い切ったことをしたもんだな」
フォルーシャ号の甲板の上、せっせとブラシをかけているルッツとダナの前に、ビクトールが三日遅れの新聞をつきだした。
受け取って紙面に目を走らせたダナは、何も言わずに髪をかきあげた。以前は短く切りそろえられていた赤い髪も、今は顎のあたりまで伸びている。
王位継承権を放棄した王子が、センティアへと出発すると書かれた記事の扱いは小さかった。
「気になるか?」
視線をそらせたダナに、ビクトールはにやりとする。
「明日の夕方の汽車で出発だそうだが……どうする?」
「……」
フレディが銃口を頭に向けたあの夜。
ダナはディオを残してその場を離れた。
伝えたいことは山ほどあったはずなのに。肝心のことは、心の一番底に封じ込めたままで。
「行ってこい。あれから一度も会ってないだろ?」
はじかれるようにダナがブラシを放り出す。
「まだ掃除の途中!」
走り去る後ろ姿に叫ぶ、ルッツの言葉も聞こえていないようだ。
「ビクトール様、余計なこと言わないでくださいよ。せっかく俺といい雰囲気だったのに」
「俺の目にはそう見えなかったぞ。さっさとそれを終わらせて、ティレントまでついていってやれ。あっちに車は用意しておく」
「ビクトール様って鬼だ」
文句を言いながらも、ルッツは手を忙しく動かし始める。
子どもの頃から知っている彼女。ヘクターと一緒にいた頃の輝くような笑顔も覚えている。退院してクーフに戻ってきたばかりの頃の、作ったような表情も。
この半年見てきて、確かに以前とは変わったと思う。
彼女が再び未来を見られるようになったのならいい。
ティレントまでつきそうくらいなんてことない。
「そうだろ、ヘクター?」
勢いよくブラシをかけながら、ルッツは彼の名を呼ぶ。彼もそう思っているであろうことを、ルッツは確信していた。