72.野望の果て(2)
「風邪ひきそう」
また雪が舞い始めたのを見て、ダナは言った。
闇の中でも雪の白さが目に痛い。コートは着せてもらっているのだが、そこを通り抜けて冷たい空気が身体を刺す。
ほんの少しだけ、東の空が明るくなってきていた。
「そうだな、女の子の身体を冷やしちゃいけないよな」
首にマフラーが巻きつけられる。さらに肩にコートがかけられた。昨夜してくれたのと同じように。
ディオがようやくあたりを見渡せるようになった時には、二人の姿はなかった。
結局自分は何をできたというのだろう。
フレディの目の前で設計書を破棄しただけで、みすみす彼女を連れ去られてしまった。
こちらもようやく立ち直ったビクトールが、部下たちを走らせる。
ディオの目が、あるものをとらえた。
並んだ足跡。
確かにこのあたりは踏み荒らされているが、その足跡はまっすぐに管理人の小屋へと続いていた。
ビクトールには声もかけず、ディオは小屋に駆け込んだ。安置所に置いてきた銃を取り戻すことなど思いもしないまま。
後悔だけならいつだってできる。
今は彼女を取り戻す方が先だ。
小屋の中に、地下へと続く通路を発見して迷わず階段をおりた。
通路を走りながら、頭の中で通路の続く先を考える。カイトファーデン家の地所に出るであろうことは、容易に予測できた。
階段を駆け上り、ディオが見たものは。
フレディに連れられた、ダナの姿だった。
「ダナ!」
その声に二人とも、ディオの方をふりかえる。
明るくなったダナの表情と、苦々しげにゆがんだフレディの表情は対照的だった。
「思っていたより早く追いつかれたな」
フレディの顔をかすめる自嘲の色。
「連れていってしまおうと思ったけど、やっぱりやめておくか。俺と一緒じゃ楽しめないだろうしな」
フレディは身をかがめた。
唇を重ねられて、ダナの目が大きくなる。
二人の間に割って入ろうとしていたディオの足が止まった。
「いつぞやの礼ってことで」
「あれはもう返したでしょ!」
ダナは、身体の前で交差させられたままの腕をふり回した。
肩からかけられていただけのフレディのコートが雪の上に滑り落ちる。
それを拾い上げてかけ直してやりながら、フレディはダナを抱きしめた。
これほど誰かを手に入れたいと願ったことがあっただろうか?
「君は幸せになれ。あっちでヘクターに会ったら、君は幸せになりそうだって伝えておくよ。俺とあいつじゃ行き先が違いそうだけどな」
どこか憎めない、人好きのする笑顔を浮かべてフレディは言った。
言葉が終わるのと同時に、ダナを突き飛ばす。
ディオの方へと。
よろめくダナを抱き止めようとディオが飛び出した。
二人の視線がフレディから離れる。
自分を受け止めようとするディオにダナは叫んだ。
「あたしじゃない!あの人を止めて!」
積もった雪をものともせず、フレディは柵を一気に飛び越えていた。
柵の向こう側から、二人に笑いかける。
「フレディ、だめだ!早まっちゃいけない!」
ディオの声に返ってきたのは、ただ笑う声だった。
「反逆者の息子は反逆者ってことさ。ひっそり処刑されるのなんてごめんだ」
「処刑なんてしない、させない!僕が!」
ダナの肩をつかんだまま、ディオは叫ぶ。
「一生罪人として牢獄暮らしか?そんなのもっとごめんだね」
フレディは銃を空に向ける。
響いた銃声は、彼なりの別れの挨拶だったのだろうか。
「ディオ、俺は本当におまえの兄貴だったらよかったのに、と思うよ」
空を向いていた銃口が、フレディの頭に向けられた。
彼は笑った。
この状況で。
彼は笑って見せた。
本当は王位なんて欲しくなかった。
望んだのは息子として認められて、義理の母を支えながら半分だけ血のつながった弟に、いろいろな悪さを教え込む。
ただ、それだけだったのに。
それほどだいそれたことではないと思っていた。
自分が他人の息子、反逆者の息子でさえなかったなら。
「僕だって!だから!」
ディオの言葉も、もう耳には届かなかった。
引き金をひいた。
笑ったままで。
彼の名を呼ぶ声だけが、冷たい風を通り抜けて耳まで届く。
そのままフレディは、後ろへと倒れ込んだ。
そこには地面はない。彼の身体は海の中へと落下していく。
「僕だって……兄みたいに……」
ダナの肩に、ディオの手が食い込んだ。
お洒落で口がうまくていつも女性に囲まれていた彼。
ああなりたいと、ああはなれないとわかっていながら、憧れていたというのに。
「殿下、これ以上あなたにできることはありません。王宮へお戻りください」
三人の様子を遠巻きに見守っていたビクトールが、ディオとダナを引きはがした。
「おまえは病院だ。ちゃんと診てもらえ」
フレディのコートとマフラーに包まったままのダナを軽々と抱えて歩き出す。
その後ろ姿をディオは黙って見送った。
警察がカーマイン商会の船に乗り込んだとき、残っていたのはイレーヌ・カーマインただ一人だった。
雇っていた部下たちに責任はないのだからと、全員逃がした後なのだと、悪びれず告白する。
「終わりましたのね」
最後にそれだけ言うと、手錠をかけやすいように手を前に出した。
ディオが彼女と面会を許されたのは、二日後だった。
重要人物として、警察署の中とは思えないほど贅を尽くした部屋で、彼女はディオを待っていた。
いつも完全に隙のない身なりをしていた彼女のマニキュアがはがれかかっているのを、初めて見た。
「最初は私の方から近づきましたの。名乗るつもりはなかったのですけれど……」
顔立ちには似たところなど一つもないというのに、ふとした時に見せる表情の向こうに姉を見た。
気がつけば、フレディにイレーヌの知っていた事実をすべて話していた。
それが誤りであったと、知ったのはすべてが終わった後だった。
「これで、私はたった一人ですわ。最後の肉親も逝ってしまいましたもの。いずれにしても王族を害しようとしたのですから、死刑かしら?死刑になるというのなら、一人でいるのもそれほど長いことではないのでしょうね」
そう言う彼女に、ディオが下したのは残酷な裁きだったのかもしれない。
イレーヌ・カーマインは、証拠不十分で釈放。
ルイーナの彼女の屋敷までは、アーティカの船が責任を持って送り届けた。逃がしたはずの部下たちは、そこで彼女の帰りを待っていたのだと、ディオは後から教えられた。
懸命な捜索にも関わらず、フレディの遺体は見つからなかった。
さほど荒れている海というわけではないのに。
マグフィレット一の伊達男は、ふきとんだ顔を見られたくないのではとディオは自分に言い聞かせ、誤って海に転落したまま行方不明と公式には発表された。
ディオの手元には、最後にフレディが身につけていたマフラーとコートがビクトールの手によって送り届けられたが、そこに彼女からの言葉は添えられていなかった。