43.襲撃(1)
スピードを落とすことなく走り続ける列車は、人家の少ない地域へと入っていく。
翌日もイレーヌは一日サロンカーで過ごした。汽車で出かける機会がある時には、常に新作の本を積ませるようにしている。出発が決まったのはとっくに本屋は閉まっている時間だったが、そんなことは彼女には関係ない。本の代金に追加して莫大な時間外手当を支払っている。よって、本屋としても彼女の注文に答えるのはいい収入源ということになる。マーシャルにいる時には商売の方が忙しいので、この類の読書に励むのは列車の旅の間がほとんどだ。
ダナはおとなしくイレーヌの隣に座って一緒に本を眺めていたのだが、こちらは数冊で飽きていた。数冊も読めば、似たような展開なのに気づいてしまう。確実なハッピーエンド。時々娯楽室に移動しては、フレディの玉突きにつき合って時間をつぶす。
ディオは、というと。サロンカーで膝を抱えていたり、自分の部屋へこもってみたりと何をしたらいいのかわからないまま列車の中をうろうろとしていた。
「襲われるとすれば、今夜が一番危ないだろうな」
ビリヤードでダナにこてんぱんにされたフレディは、通りがかったメリッサにお茶を運ばせて、サロンカーに現れた。
「そうでしょうね。今なら周囲の人家に及ぶ被害が少なくてすみますもの。人家がなければ、目撃されることもありませんものね」
フレディが運ばせたお茶を当然といった顔で受け取って、イレーヌは口の端だけで笑う。今日も相変わらず黒のロングドレスに、ダイヤモンドを煌めかせている。高く積み上げた髪のあちこちにもダイヤモンドが飾られていた。
「いざ戦闘となったらその格好でどうにかなるのか?」
興味深げにフレディは、彼女の顔を覗き込む。
「なりますとも」
ほんの少しだけ、イレーヌはドレスの裾を持ち上げて見せた。足首を覆っているのは、ドレスには不釣り合いなごついブーツ。その先に黒のパンツが続いている。
「このスカート、取り外しできますの」
「なら、最初から外しておけばいいじゃないか」
「これは美意識の問題ですわ」
「これだから女ってやつは」
嘆息してフレディは、サロンカーの中をぐるりと見回した。窓の外を流れていく景色は、先ほどから何も変わっていないように見える。実際にはかなりのスピードで移動しているのだが。
今この車両にいるのは、イレーヌとフレディの二人きりだ。
「あの子たちはどうしていますの?」
カップに砂糖を放り込みながら、イレーヌは口を開く。
「あっちでダナがディオに玉の突き方教えているよ」
無造作にしめしたのは、前方の娯楽室の方。
「気になるのでしょう?」
全て見通しているような笑みをうかべて、イレーヌはフレディを招く。
「ならないわけないだろ」
イレーヌと向かい合うように腰を下ろして、フレディはポットを手に取った。やや濃い目の紅茶をカップに注いで、たっぷりのミルクを追加する。
「さんざん話に聞かされていた娘だぞ?気にならない方がどうかしてるだろ」
「実物に会ってみてどうでしたの?」
「そうだな……」
手にしたカップに、視線が落ちる。列車の振動に合わせて、表面がゆらゆらとゆれていた。
「いい子だと思ったよ。あいつが好きになった理由がわかるような気がした。だけど」
言葉を選びながら慎重にカップに口をつける。
「ディオを護ろうと必死になっているのが、痛々しい気もしたな。最初なんて俺に警戒心むき出しで。護衛なんて女の子一人に任せるのは荷が重いだろ」
最後の言葉は、ため息と同時に吐き出された。
「『守ってやりたい』と思ったのは初めてかもしれないな」
「珍しい言葉を聞きましたわ」
年下の愛人を眺めるイレーヌの顔に、嫉妬の色はまったくない。
「俺も柄じゃないと思う」
一瞬だけ真摯な表情になったフレディは、すぐにいつもの顔を取り戻した。
「しょせんは片想いってやつだ。ヘクターの存在がでかすぎるしな。俺は気楽な恋の相手を探すとするさ」
「大人も大変ですわね」
同情心などかけらも見えない口調でイレーヌは言うと、お茶のお代わりを頼むべくベルを鳴らした。
なぜビリヤードにつき合うことになったのだろう。
「もっとちゃんと球見てって言ってるでしょ!」
「見てるよ!」
すこん、となさけない音をたてて球が転がる。
「うーわー、ホントにちゃんと見てる?」
「見てる見てる!」
あきれた声をあげたダナは、球を拾い集めるときちんと並べた。かまえて、うつ。ディオの時とは比べものにならない音がして、台の上の球がはじける。
「君にはかなわないよ」
肩をすくめて、ディオは壁にもたれた。体を動かすのは苦手だ。球を並べて、うって、拾ってを繰り返しているダナをぼんやりと眺める。やがてそれにも飽きたダナがやってきて隣に並んだ。
「退屈ね」
「……そうだね」
お互い口を開きかけては閉じる。何か話さなくては、という義務感にも似た何かが二人の間を行ったり来たりしている。
「ティレントまで、あとどのくらい?」
「二日か、三日かな」
「ビクトール様……皆、無事かしら……王都で会おうとは言ったけれど」
ダナの顔を掠める焦りの色。イレーヌの情報網を使っても、アーティカの消息は入ってこなかった。
「無事だよ、きっと。アーティカの強さは君が一番知っているだろ?」
「そうだけど」
ディオの言葉は、気休めにもならない。ダナは黙り込んだ。
確かにアーティカの兵力は強大だ。でも、戦場ではそれだけではないことを知っている。二年前にだって大敗しているのだから。壁を伝ってダナの手を探り当てたディオの手が、力づけるようにぎゅっと握りしめる。
いつからだろう。ぎゅっと握り返しながらダナは思った。最初は頼りないと思っていたのに。気がついたらこんな時には、どちらからともなく手を伸ばしている。
「何だよ、何だよ。娯楽室にいるのに、なぜ壁にくっついているんだ?」
イレーヌとのお茶会を終えて戻ってきたフレディは、二人を見て、首をふった。慌てて二人はつないでいた手をほどく。それに気がつかないふりをして、フレディはディオに声をかけた。
「ディオ、これ持っておけ」
小型の拳銃と弾、ナイフが渡される。
「拳銃の使い方は知っているだろ?」
こくりとディオはうなずく。一応使い方は習ってはいるのだが、的にあたったためしはない。自分が持ったところで、何の役にもたたない気はするが、フレディが持っておけと言うなら持っておいた方がいいのだろう。
「ディオにも必要?」
「ま、念のためってやつだよ。今はまだ明るいからいいが、このあたりは絶好の襲撃場所だからな。自分の身ぐらい自分で守れってことだ」
ダナが腰に手をやる。船にいた間は身につけていなかった、小さな鞄。中身を確認するようにそっとなでる。
フレディがたずねた。
「そこには何が入っているんだ?」
「拳銃と、弾と……ま、あとはちょっとしたものよね」
「接近戦には?」
「ナイフ持ってるから」
身をかがめ、ブーツの中に隠してあるナイフを引っぱり出して見せる。よし、とフレデイはうなずいた。
「俺たち三人は、自動車に乗り換えるぞ。最低限の荷物だけ持って降りられるように準備しておけ」
「最低限ってどのくらい?」
ディオの問いには、身につけておける物だけ、という回答が返ってくる。彼にとっての最低限と言えば、旅券に財布。胸ポケットに納めたままの資料くらいのものだ。全て今身につけているので、改めてまとめる必要もない。
「あたし荷物まとめてくる」
何か持っていきたい物があるのか、ダナは娯楽室を急ぎ足で出ていった。