42.縮められない距離(2)
二つ枕を並べたベッドは、二人並んで寝てもまだ余裕があった。
「イレーヌさんには悪いと思うんだけど」
天井を見上げながらダナが言った。
「贅沢過ぎよね、この環境。フレディの部屋に泊めてもらった時もそうだったけど。このまま贅沢に慣れちゃったら、あたしアーティカに戻ってやっていけるかどうかかなり不安だわ」
「そう?」
「そうよ。フォルーシャ号の船室見たでしょ。この部屋よりだいぶ狭いじゃない。ベッドだってもっと堅いのよ?床の上でごろ寝したり、野宿することだってあるし」
ずいぶん懐かしい名前を聞いたような気がする。あれからせいぜい一週間というところだ。
確かにあの船の部屋は狭かった。快適な居住空間を提供するための船ではないから、当然ではあるのだけれど。
ダナの思考は、過去へと遡っていく。それだけはやめようとしていたはずなのに。
「病院もね、ものすごく贅沢な部屋だった。知らない人が見たら、本当に病室かって疑っちゃうくらい」
ころん、とディオの方に寝返りをうってダナは枕に顔を埋めた。
「ビクトール様が一番いい部屋を用意してくれたって聞いたけど。身体が動かない間は、ずっと一人で天井見上げていて、会う人と言えば、サラ様か看護人くらい。泣いているところを誰にも見られなかったのはよかったけれど。贅沢な部屋は嫌い。病室を思い出すから」
何と返事したらいいのかディオにはわからない。仕方がないから、黙って彼女の話を聞いている。
「それに食事もものすごく贅沢よね。あんなにこってりソースのかかったものばかり食べて、よくあの体型保っていられるわよね、イレーヌさん」
「おいしくなかった?」
「おいしいとは思ったけど、全部あんなに味を濃くしなくったっていいじゃない。お腹すいているのに胸につかえて食べられなかった」
枕に顔を埋めたまま、ダナは足をばたばたさせる。
「じゃあ何食べたかった?」
「パンとチーズと林檎でもあれば十分。今夜、お腹すきすぎたら、あれ食べるしかないかしら」
「あれ?」
「携帯食よ。まだ鞄の中に入ってる」
あれか、とディオは苦笑いした。一度だけ口にしたが、確かにひどい味だった。
あの時は水で流し込んで、ダナに非難の目で見られたっけ。それから慌ててダナの分の水を汲みに行ったのだった。
もう一度寝返りをうって、ダナは天井を見上げる。
「なんだかね、すごく自分が薄情な気がするの。昨夜はヘクターからの預かり物を、フレディが渡してくれて。一晩わんわん泣いたっていうのに、今日はわりとけろっとしているんだもの。食事が喉を通らないなんてこともなかったし」
「薄情なんかじゃないよ」
ディオの口調は揺らぐことがなかった。海の上にいた間、同じ疑問を彼自身も何度も繰り返していたから。
「僕だって、研究所の皆のことがあったって、しっかりご飯は食べているよ。ものすごくショックを受けたはずなんだけどな」
まだ、現実のこととして考えられていないのかもしれないともディオは考えている。
今の状況が、あまりにも日常からかけ離れていて。無事に帰り着いて、何もかもがすんだその時に、改めて衝撃を覚えるのではないかと。だからといって、王都に戻らないというわけにもいかないのは十分承知しているが。
どちらからともなく伸ばした手が、相手の手を探り当ててそっとつながれる。
そのまま二人は黙りこんだ。
つないだ手だけが、互いの体温を伝えている。
「あの子たちったら、何をしてるというのかしら。せっかく一つのベッドにいるというのに」
贅沢な車両の中でも一番贅を尽くした部屋の中、イレーヌが非難がましい声をあげて耳から受信機をはずした。
「『そういうこと』を思いつかないほど、子どもなんだろうさ二人とも」
当然のような顔をしてこの現場にいあわせたフレディは、口元だけで笑みを作りながら酒瓶を取り上げた。
立場を考えてのことか。単に好みではないか。それとも意識していないところで、互いを大切に思いすぎているか。理由なんていくらでも考えつく。
「若いから期待していたのに残念ですこと」
受信機を置いてフレディの側に近づいてきたイレーヌの腕が、フレディの首に絡みつく。
真っ赤に塗られた爪に、何重にも巻かれた真珠のブレスレット。いつだって身だしなみは忘れない。後は寝るだけだというのに、顔に施された化粧を落とす気配もない。
「まったく……人の情事を盗み聞くその癖どうにかならんか?」
カーマイン商会の列車には、すべての部屋に盗聴機がしかけられている。イレーヌの部屋ではそのすべてを聞くことができるようになっていた。
苦笑混じりのフレディに、しれっとしてイレーヌは微笑んでみせる。お互いの息が混ざるほどの距離から。
するりと腕をほどいて、彼女はグラスを取り上げた。
「大切な話は情事の後と相場が決まっていますもの。それに」
目元に掲げたグラスの向こう側から、フレディを流し見てイレーヌは笑う。
「男の人なんて信用できない。情事は物語の世界で楽しむか、人様のを聞いてのぞいて楽しむか。そうでしょう?」
「信用していない男は俺以外、だろ?」
同じようにグラスを目元に掲げて、彼も返した。
「あなたは唯一の例外ですわね。あなただけは信用しているわ。心の底から」
真剣な口調のイレーヌに、鼻で笑っておいてフレディは立ち上がる。
「俺が相手をできないのは残念だよ」
立ったまま、グラスの中身を空にした。一気に空けたグラスをテーブルに戻して、フレディはイレーヌを見る。
「メリッサって言ったか?メイド一人借りるぞ」
「私のメイドを寝室に引っ張りこまないでくださいと、お願いしたはずですけれど?」
正面から視線を合わせた彼女は、唇をゆがめる。
「いくら俺でも、それ以外のことを考えることもあるって」
フレディの耳打ちした言葉に、イレーヌは承諾の意を伝える。
「必要にならなければいいんだ。念のためってやつだよ」
肩をすくめて、フレディは部屋を出ていく。
静かに閉められた扉に、イレーヌはもう一度グラスを掲げてみせた。綺麗に紅を施された唇が、緩やかに両端を持ち上げる。
「旅の無事を祈って」
閉まった扉の向こう側から、返ってくる言葉などなかった。