41.縮められない距離(1)
列車の旅といえど、今までに比べたら気楽なものだ。食堂車まで数車両移動して、座っていれば食事はすべて運ばれてくる。
自分では何もやらないと豪語するだけあって、イレーヌは何人もの使用人を伴っていた。
必要最低限の停車ですむように、運転手は三人。燃料の補給時以外は、常に走り続けることになる。
身の回りの世話をするためのメイドが五人に、車両内の掃除などの作業に当たる人間が二人。
さらにイレーヌの秘書に調理人。この全員が兼護衛なのだという。
ひょっとするとディオの父親が公務で旅に出る時よりもはるかに大人数かもしれない。カーマイン商会の財力を見せつけられたような気がする。
食堂車に並べられているレースのクロスがかけられたテーブルも椅子も、庶民にはとうてい手の届かない高級な品だ。
ディオにとっては居心地の悪いこの状態もフレディはむしろ楽しんでいる様子で、給仕にあたったメイドを自分の客室にひっぱり込もうと熱心に声をかけている。
「うちのメイドに悪さをしないでいただけます?」
やんわりとイレーヌにたしなめられて、フレディはようやく食事に戻る。
ダナはというと、食欲がないのか料理の大半は途中で下げさせていたが、食事の途中で席を立つことはなかった。
食後のデザートにコーヒーまですませて、ようやく贅をつくした、という言葉そのものの夕食が終了になる。
さて、自分に与えられた部屋に戻るか。娯楽室で過ごすか、サロンカーに行くか。
立ち上がったダナがフレディに捕まっているのを見て、自分の部屋に引き取ることにする。
好きにすればいい。昼間フレディに言われたことを思い出して、ちらりと反発心が芽生えたのはいなめない。
この列車は厳重に警備されているという話だから、別に彼女と二十四時間くっついている必要もない。
攻撃されたとしても、ディオの身に危険が及ぶまでには何重もの警備をくぐりぬけなければならない。
必要ならば、それまでに彼女は絶対駆けつけてくるはずだ。
守られていることをようやく当然と受け入れる気持ちになって、ディオは自室のドアを開けた。
窓の側にある椅子に腰を落とす。列車の窓枠に顎を乗せて、外を眺めてみた。日はとっくに沈んでいて、柔らかな色合いの光が、時折車窓を通り抜けていくだけだ。その向こう側では、家族そろっての夕食か夕食後の団らんを楽しんでいる頃だ。
補給以外は停車なしで走り続けるから、当初の予定よりいくらかは短縮できるはずだ。
おそらく三日か四日でティレントに到着するのではないだろうか。
無事に帰り着いた時。その時には。重大な決断をせまられることになる。ディオは窓枠においた腕に顔を埋めた。
探究心を悪いことだなんて、考えたこともなかった。
技術が進歩すれば、それだけ皆の生活が向上すると思っていたのに。
悔やんでみても始まらないと頭ではわかっていても、これから先のことをあれこれと考え込んでしまう。
フレディをふりきって与えられた部屋へ入ったダナは、扉を後ろ手にしめたまま窓の外を流れていく景色に見入っていた。
真っ暗な中、流れていく家々の明かりを見つめながら、首から下げたエメラルドが重さを増したように感じられる。
自分だけ生き残ってしまった罪。爪が食い込むほど手を握り締めてみても、血が滲むほど唇を噛み締めてみても、胸の痛みは消えてくれようとしない。このまま一人でこの部屋で過ごすのは耐えられそうもない。
彼女は一度閉じた扉をもう一度開く。通路を通り抜けて、ディオの部屋の前に立った。
数回、ノックするためにあげた手をおろす。迷って、迷って、それから静かにドアを叩いた。
「開いてるよ」
てっきりメイドだと思って、ディオはふりむきもせずに入室を許した。ドアが開かれて、閉じる音がしたのに、それ以外は何も聞こえてこない。
半分だけ身をよじってみると、ブーツを脱ぎ捨てたダナがベッドの上で膝を抱えていた。
「ダナ?」
慌てて椅子から滑り降りると、
「ここにいてもいい?」
とだけ返ってきた。
「一人でいたくなくて」
と、脆さを抱えた笑顔で言われてしまえばディオに反対する理由はない。
けれど。
「フレディのところに行かなかったんだ?」
隣に腰かけながら、出るのは皮肉めいた台詞。こんなことを言おうとしていたはずではないのに。
「フレディ……ね。ヘクターの知り合いだったって言うし、悪い人ではないと思うのだけど」
昨夜二人で話していたのは、そのことだったのかとディオは初めて知る。二人とも昨夜の会話の内容は、ディオには教えようとしなかったから。
ダナの視線が落ちる。
「……だからつらいのよ。思い出さずにはいられないもの」
胸元にやった手が、何かをぎゅっと握り締めるのをディオは見た。そこにある大切な物の存在を確かめるかのように。
「それにね」
何とも表せない表情になってダナはつけたした。
「そばにいると身の危険を感じるというか、落ち着かないというか」
「身の危険、か」
思わず繰り返して、ディオの表情も微妙な物になる。
まめで口が上手くて女性の扱いには慣れている従兄。今回はそれが裏目に出ているようだ。ダナの警戒心は限界まで高まっているようで、フレディの望む方向には進みそうもない。もう少し時間をかけて、ダナが彼に慣れてくればまた変わってくるのかもしれないが。
確かにディオとなら、安心できるだろう。今までだって何かあったわけではないのだから。
改めて隣のダナを見る。頭に巻かれた包帯。頬を覆うガーゼ。まだ首に残る指の跡。
彼があの場から逃げ出さなかったなら、負わないですんだかもしれない傷。
申し訳なさがディオの胸をしめつける。
「ダナ」
名前を呼んで、思わず抱きしめた。びっくりしたように息を飲んで、腕の中で彼女が背中を硬直させたのが伝わってくる。慌てて離して、両手を自分の背中の後ろに隠した。
「ごめん……本当に、ごめん」
「何に対して謝っているの?」
正面から瞳をのぞきこまれて、ディオは言葉を飲み込んだ。迷った末に、背中に隠した手を伸ばす。
「ここと」
額を横切る包帯に触れる。
「ここと」
頬のガーゼをそっと押さえて。
「ここ」
首に残る跡をなぞる。
「……本当にごめん」
「こんなの平気よ」
そっと身をひいて、かすれた声でダナが言う。
「もっとひどい怪我だってしたことあるんだから……そうでしょ?」
行き場を失った手が宙をさまよう。ダナはその手をつかんで、指を絡めた。
「あたしは、大丈夫だから……でも」
ディオの指を握り締めたまま、ダナはたずねた。
「今夜はここにいてもいい?」
「いいよ。でも」
笑いながらディオはつけたす。
「今夜は、じゃなくて今夜も、だよね?」
今まで救われていたのは彼の方だけれど。できることなら、今まで救ってもらった分を返したいと痛切に彼は願う。王都に戻ったら、切れてしまう絆だから。