39.愛なんて知らない(1)
イレーヌの用意した列車は、カーマイン商会が自前で持っているものだった。
夜の間にカーマイン商会の敷地から、最寄りの駅まで移動させられていたそれは、ディオの目から見ても贅沢なものだった。
まず先頭車両の後ろには乗務員たちの宿泊施設の車両と、道中のサービスに必要な品々を積み込んだ車両が二両ほどつながれている。
続いて食堂車。
その後ろにはビリヤードやカードゲームを楽しむための娯楽車両が連結されている。
その次に一両につき二部屋ずつ、ベッドとシャワー完備の客室がある車両が続く。
最高尾は豪邸の応接室をそのまま移動したような全面ガラス張りのサロンカーだった。
自分にあてがわれた部屋に荷物を置いて、なんとなく全員がサロンカーに集合する。
イレーヌは、本棚の本を選んでいた。彼女が言うには、旅の間は頭を使わなくていいものしか読みたくない、という理由でロマンス小説しか置いていないらしいのだが。
夜の貴婦人、背徳に招かれて、太陽に恋して、恋はひそやかに、黒い瞳の盗賊、とタイトルだけで眺めてみてもお腹いっぱいになりそうだ。
頭を使わなくても読める本は他にいくらでもあるだろうとディオは思うのだが、イレーヌの趣味なので文句もいえない。
「禁断の恋、人目を忍ぶ情事って、素敵ですわ」
とうっとりした顔をされたら、文句をいう気力もそがれてしまう。
ダナは大きな窓に面して置かれた椅子の上に丸くなっていて、ディオの方など見向きもしなかった。話しかけたフレディにも、わずかに首をふってみせるだけだ。
「ディオ、娯楽室行くぞ」
最初に根をあげたのはフレディだった。
部屋の中の空気が重い。
ダナは椅子の上に丸まったままだし、イレーヌは目の前のテーブルに本と甘いものを積み上げてロマンスの世界へと旅立っている。
この静寂を破るのは、悪魔に喧嘩を売ることのように思われた。
ディオとフレディがサロンカーの扉を閉めたとたん、はじかれるようにイレーヌは立ち上がった。
椅子の上で膝を抱えているダナの肩に手をかける。
「ロマンス小説はお嫌いかしら?」
気分じゃない、と言おうとしてダナは言葉を飲み込んだ。
イレーヌの瞳が開いて中を眺めていたケースに落ちている。ヘクターの残してくれたエメラルド。ふっとイレーヌの目が優しくなった。
「大事なものなのでしょう?ケースごと落としたら大変ですわ」
彼女は首の後ろに手をかける。
今日は真珠のネックレスに重ねて、ルビーのペンダントをしていた。その留め金を外し、ルビーはテーブルの上に投げ出して、鎖をダナの手に握らせる。
「この鎖に通して、首にかけておいたらどうかしら」
「でも」
「部屋に戻れば、似たようなものはいくらでもありますもの」
にこりとして言われれば、断ることなどできない。ケースから取り出したそれを鎖に通して、イレーヌが首の後ろで留め金をかけてくれる。
「どなたからなのかしら?きっと大切な人からなのね?」
「……」
返す言葉が出なくて、ダナは口を閉じる。
「そんな顔をできるって幸せね」
意外なことを言われて、ダナの目が大きくなった。亡くした過去に向き合わなければならない今の自分が、幸せな顔をしているようには思えないのに。
隣の椅子に腰をかけたイレーヌは、優美な動作で足を組んで、車窓の流れる景色に目を向ける。
「私、血のつながった家族を別として、人を愛するということを知りませんの」
「……でも、結婚していたのでしょう?」
カーマイン商会の女主の伝説は、ダナだって知っている。
「政略結婚ですもの。ある程度成功をおさめた男性が次に欲しくなるのは、若くて美しい妻でしょう?できればそれなりの家柄の」
自分の美貌を否定することなく、イレーヌはさらりと言ってのける。
「私はマグフィレット王国の下級貴族の出ですの。かろうじて王宮への出入りが許される程度の、ね」
昔を懐かしんでいるのか、イレーヌの目が遠くなった。
「有力者に見初められた姉が、悲惨な結末を迎えたのをそばで見ていましたから。最初から王宮での生活は諦めていましたし。私にとっても夫からの結婚の申し込みは、願っていたとおりのものでしたの。少なくとも富とそれによる権力は、手に入れることができますものね」
「お姉さんは?」
「子どもを一人残して、亡くなりました。最初から姉がつりあう相手でないのはわかっていたのですけれど……それでもやりきれませんわね。相手の男は、子どもを養子に出してそれでおしまい」
吐き出される大きなため息。首から下げられた真珠が、音をたてた。
「でも結婚生活はそれなりに幸せでしたのよ。若い妻を夫はそれはそれは大切にしてくれましたもの。愛してはいなかったけれど、尊敬はしていましたし」
「一つ聞いてもいい?」
ダナの好奇心が、投げかけてはいけないかもしれない問いを口にのぼらせる。
「旦那さんを殺した相手に復讐したって話は本当?」
「本当ですとも」
イレーヌは立ち上がりながら微笑んだ。
「噂の倍以上は苦しめたでしょうね。彼が死ぬまでに一週間かかりましたもの。……実際に、私も手をくだしましたのよ」
どんな手段を使ったのかは口に出すことはなかった。
「私、執念深い性格ですの」
部屋の中を移動しながら、吐き出された言葉にダナはぞっとした。
執念深い性格と言うのなら。彼女の姉を死に追いやったという相手の男性は、どんな復讐をされたというのだろうか。
一度離れたイレーヌは、すぐに戻ってきた。両手にたくさんの本を抱えて。
「昔話はおしまい。さ、お好きな本をどうぞ」
断ることなどできず、ダナは一番上の一冊を手に取った。タイトルを見ることなく最初のページを開く。
開いてすぐに、それが王子と平民の娘の身分違いの恋を扱ったものであることに気づく。
ふとそれを自分ともう一人に重ね合わせて、ダナは苦笑いした。
彼にそんな感情なんて持っていない。考えなければいけないのは、無事に国に帰りつくことだけ。
……本当に?
何かにそう囁かれた気もするが、ダナはその感情を追い払い、本に没頭しようとする。
ロマンス小説なんて面白いはずがない。
そう思っていたはずなのに、気がついたら王子と平民の娘の身分違いの恋にすっかりのめりこんでいた。