37.君の瞳と同じ色の(1)
話が途切れたのを契機としたわけでもないだろうが、手当を終えた医師が入ってきた。
「命に別状はありませんよ、奥様。数日は痛むでしょうが、心配するほどのことではありません」
「ありがとう、先生。助かりましたわ。もう一人お願いしたいのですけれど?」
イレーヌの言葉が終わる前に、医師は診療鞄を開いていた。
フレディの腕を捲りあげ、治療を始める。
「こちらもたいしたことはありませんね」
「相手も本気じゃなかったしな。退路を確保したかっただけだろ」
ほんのかすり傷で、手当もいらないと言い張るフレディの腕に包帯を巻きながら医師はもらした。
「それにしても、あのお嬢さんは何者なのですか?今日一日は安静にしているようにと言い聞かせたのですが、聞かないのですよ。どこぞへ行かなければならないのだと、今汚れた衣服を着替えているようですよ」
あの精神力には感心させられますが、と医師は苦い顔だ。あらあらまあまあと、イレーヌは腰を浮かせかける。
「彼女……アーティカの人間だから」
その言葉を口にしたのは、ディオの正体を知られている今、ダナの正体についても隠さねばならない理由が感じられなかったからだ。
聞いて、フレディは顔色を変えた。包帯を巻き終えたばかりの医師をつき倒しかねない勢いで立ち上がり、ディオにせまる。
「アーティカって言ったよな、今。彼女年はいくつだ?」
「十……八……になったかな?」
今何歳かということは聞いていないが、ヘクターの死は二年前。当時十六だと言っていたから、だいたいそのあたりのはずだ。
ディオの返答に、フレディは顎に手を当てて考えこむ。
「別に珍しい名前じゃないしな……」
と、つぶやくのが聞こえた。
イレーヌが医師を送り出すために、部屋を出ていく。それと入れ違いになるようにダナが顔をのぞかせた。
頭には包帯を巻いて、頬には大きなガーゼが張られているのが痛々しい。
そんな彼女の様子を気遣うことなく、性急にフレディは、ダナにとってはつらいであろう名を口にした。
「ヘクター・ヴァンスを知っているか?」
ダナの顔から一気に血の気がひいた。目を閉じ、黙って首をたてにふる。
「二人で話せないか?」
そうフレディは言うと、ディオを残して部屋を出た。ディオが制止する暇もない。目の前で扉が閉じられる。
ほんの一瞬迷って、フレディは自分に割り当てられた部屋にダナを押し込んだ。
そこはダナの部屋と大差ない作りだった。客室は皆同じような作りになっているのを何度かこの屋敷に泊まったことのある彼は知っている。
「ハーリィとオリガの娘、ダナ・トレーズというのは君のことか」
押し込められるなり、両肩をつかんでたずねられた。ダナは一つ、うなずく。
「全く俺ときたことが、何で気がつかなかったんだよ。ヘクターから何度も写真を見せられていたのにな」
乱暴にベッドに腰を落として、フレディはうめいた。ヘクターの名を聞いて、ダナの視線が床に落ちた。
「あの頃とは……あたしの顔、変わっているし……。何度か……整形しているから」
「そうか」
フレディは顔をあげた。
「つらかったな」
その声音は、知り合ってから一度も聞いたことがないほど優しいもので、別人のようだった。
「……消毒薬の臭いは今でも嫌い。病院にいた頃のことを思い出すから」
床に言葉を投げつけるように、彼女は言う。つらかったなんて、口にするのは甘えだ。
つらい、痛い、苦しい。
ヘクターは全てを感じることができなくなったというのに。
そんなことを口にはできない。
「君にはつらい話になるかもしれない。それでも……聞くというのなら話す。彼から預かっている物があるんだ」
目を見開いたダナは、唇をかんだ。
病院にいる間も、退院してクーフに戻ってからも。
胸の奥底におしこめていた彼の名前。
ヘクターの父であるビクトールでさえも、彼の名前はダナの前では口にしようとしなかった。
唯一口にしたのは、脱出したあの時だったような気がする。
「……教えて」
口にするまで、ずいぶん長い時間がかかったように思えた。
押し込めようとしていた過去と対峙する瞬間。ダナは息を飲んで、フレディの言葉を待つ。
「わかった」
フレディは上着のポケットに手をやった。取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さなケース。
ダナの眉間にしわが寄った。
扉を背に、立ったままのダナの前に、フレディは膝をついた。まるで恋人に結婚を申し込む時のように。
「もっと早く気がつくべきだったんだ。あいつが石を選んで、俺が台の注文を手伝った。あいつ、こういうことには不器用だったから」
うやうやしいほどの手つきでケースの蓋を開く。
「君の瞳と同じ色のエメラルド。次の任務が終わったら渡すつもりだから、受け取っておいてほしいと頼まれていたんだ」
中央に鮮やかなエメラルドがはめられた指輪を見て、ダナが顔をおおった。
あふれる涙をこらえるかのように、肩が二度三度と上下する。
「やっぱりつらかったか?」
顔を隠したまま、ダナは首を横にふった。それからゆっくりと手を伸ばして、ケースを取り上げる。
「もっと早く渡せればよかったんだけどな。ヘクターがあんなことになって、君のことを誰も教えてくれなかったんだ。ずいぶん探したんだけど、見つからなくて」
「あたし、つい最近まで入院していたから」
取り上げたケースの蓋をぱちりと音をたてて閉じると、ダナは掌に包み込むようにした。ぎゅっとケースを握りしめる。




