34.なんて無力な(2)
『殿下。ご自分を大切になさいませ』
そうファイネルが忠告してきたのは、一昨日のことだったか。
ダナ相手に丁重な態度を崩さないでいても、彼からすればどこの馬の骨かもわからない相手だ。ディオが騙されているのではないかと、不安を感じたのかもしれない。主が二人が同じ部屋で寝るのを認めていたとしても。
『大丈夫……彼女はただの護衛だから』
そうディオは返したのだった。あの時のファイネルの不安そうな顔。ディオの身を案じてくれているのはよくわかっていた。ファイネルなりのやり方で。
フレディがダナを呼んだ。一瞬、ダナの気がディオからそれる。
その隙をディオは見逃さなかった。そろりとその場から身を引き、人混みに紛れ込んだ。
「ディオがいない!」
狼狽したダナの声を背に、ディオは走り始めた。
どこへなんてあてはない。
ただ、あの場から離れたい、それだけだった。
港を走り抜けて目についた路地に飛び込んだ。
適当に右左と角を曲がって、港から遠ざかろうとする。
運動慣れしていない身体は、すぐに悲鳴をあげはじめた。わき腹に痛みが走り、息が乱れる。
誰も後ろからついてきていないのを確認して、ディオは走るのをやめた。
息を整えながら、それでも足を止めることはない。
荷物の入ったスーツケースは途中で放り出してしまったから、何も持ってはいない。
このあたりで曲がろうかとディオは路地をのぞきこんだ。
行き止まりだ。
肩をすくめて歩きだそうとした時、何かに突き飛ばされた。無様な格好で地面にたたきつけられ、一瞬気が遠くなった。
シャツの喉元をつかんで、無理矢理立たされた。
「ディオ・ヴィレッタか。あれはどこにある?」
低い男の声が問いかけた。
拒む目を強いて開ければ、左手でつかんでディオを立たせているのは背の高いがっしりとした男だった。
人相からして善人でないことは明らかだ。
言うものかと、ディオは口を結ぶ。
「まあいい。命令されているのは、お前の殺害だけだしな。書類の方はついでだ。お前を殺してからゆっくりと探すさ」
男の右手にナイフがきらめいた。
「行きがけの駄賃ってやつだ」
見せびらかすかのように、ナイフをゆっくりと掲げる。ディオの喉を締め上げながら。
ディオは男の腕から逃れようと懸命にばたばたするが、逃れようもない。
せめてナイフが落ちてくる瞬間は見たくないと、かたく目を閉じて、それでも必死に男の手を引き剥がそうとする。
男がわめいて、ディオを突き飛ばした。
喉を解放されて、咳こみながらディオは目をあける。
目の前にあったのは、見慣れた茶色のブーツだった。
男の手にあったはずのナイフが、少し離れた場所に転がっている。
「あたしが時間を稼ぐから、あんたは逃げなさい」
ディオの方を見ようともせず、ダナは言った。構えたナイフの先は、赤く染まっている。
「逃がしてたまるかよ」
腰からもう一本のナイフを抜きながら、男がうめいた。動作がぎこちないのは、右腕をダナに刺されたからなのだろう。
「二人とも天国行きだ!」
ナイフを構えて男が襲いかかってくる。ダナが動いた。
男のナイフをかわし、懐に飛びこんでナイフを突き上げようとする。
「遅いな!」
男の左腕がうなりをあげた。ダナの頬に拳が綺麗に入る。
勢いで飛ばされて、ダナは頭から壁に叩きつけられた。彼女のナイフが地面に落ちる。
ぐらぐらする頭を叱咤しながら、ダナはわめいた。
「逃げなさいって言ってるでしょ!」
「でもっ」
ダナはよろめきながら、もう一度ナイフを手に取る。
「逃げなさい。そのためにあたし達は雇われているのだから」
妙に冷静な声。死を覚悟したのだと、ディオは悟らされる。
「早く行きなさい!」
言葉と同時にダナは動いた。男が鼻で笑って、ダナをかわす。
「あんたの負けだよ、お嬢さん」
振り回したナイフは、男をかすることさえできなかった。男に右手を捻り上げられ、ダナの口から悲鳴がこぼれる。
男は、ディオに見せつけるようににやりとすると左手でダナの喉をつかんだ。
そのまま半分つり上げるようにして壁に押しつける。
ダナは宙に浮いた足を動かし、男の指をはがそうと喉に手をやるが、男の方はまったく動じなかった。
喉にやった手に、ゆっくりと力を込めていく。
「ディオ……逃げなさ……」
最後までダナは、ディオに逃げろとしか言わなかった。
抵抗を続けていたダナの手が下に落ちる。
がくりと腕を落としたダナを、男はディオの目の前に無造作に放り投げた。
動くことのない身体。奇妙に捻れた手足。
壊れた人形を連想させられて、ディオはただ彼女の名前を呼んだ。
「次はお前だ」
ダナを抱きしめたまま動けないでいるディオに、男が近づいていく。わざと日光をナイフに反射させながら。
彼女の身体を抱く腕に力を込め、ディオが目を閉じた瞬間。銃声が響き渡った。
男が呪詛の叫びをあげて、路地の入り口を振り返る。
「ディオ、そのまま動くな」
現れたのはフレディだった。空に向けて撃った銃の銃口を、男へと向ける。
襲いかかるナイフを身軽な動作で交わし、右足が男の腹にめりこむ。
「今銃を使ったからな。人がやってくるぞ。ついでに俺は警察に追われている身だ」
フレディがにやりとした。
「警察の事情聴取ほったらかしてきたからな」
男が舌打ちした。もう一度、フレディに襲いかかる。
今度の攻撃は、殺そうとしたものではなく退路を確保しようというものだった。
フレディを進路から退けておいて、路地から飛び出していく。
悪態をついて、フレディは銃をしまった。
「ダナ……!ダナ……!」
ディオはダナの名を呼び続けた。
名前を呼んで、抱きしめて、肩をゆするが返事はない。
フレディがゆっくりと近づいてくる。
「どけ。まだ間に合うかもしれないぞ」
フレディは二人の間に割って入って、彼女を地面に横たえた。
顎を持ち上げ、気道を確保すると迷うことなく唇を重ねた。
息を送り込む。
一度、二度。
「だめか?いや、戻ってこい」
フレディはもう一度息を送り込んだ。今度はかすかにうめいて、ダナが首をふる。薄く開いた口から、最初の言葉がこぼれた。
「ディオ……?」
「大丈夫だ。君はよく頑張ったよ」
フレディは優しい手つきでダナの頭をなでると、彼女をディオの腕の中に戻した。
ディオは情けなさでいっぱいだった。
守るどころか逃げ出すことしかできず。あげくのはてに敵に襲われた。
巻き込みたくなかったはずなのに、結果として巻き込んだだけではない。
犠牲になったのはダナの方だった。手当の仕方も知らなかった。
フレディがいなかったら、あのままダナはいなくなっていたはずだ。
力なくディオにもたれかかるダナの頭。
そこには壁に叩きつけられた時の傷がある。
首にくっきりと残る、男の指の跡。
殴られて腫れ上がった頬。
すべて彼の責任だ。
「……ディオが……無事で……よかった……」
腕の中でダナが微笑む。
よかったなんて、なぜ言えるのだろう。
全ての元凶はディオだというのに。
銃声を聞いてかけつけてきた警察に、後のことを託してフレディはディオに言った。
「車を回す。ディオ、お前は後ろの席だ」
やってきた車の後部座席にダナとともに押し込まれる。
運転手の隣の席に滑り込んで、フレディは運転手に行き先を命じた。
くったりとよりかかってくる身体を支えながら、ディオは無力感に押しつぶされそうになっていた。