33.なんて無力な(1)
「それ、全部彼の荷物なの?」
「そうでございますよ」
明日はいよいよマーシャルへの入港という夜。フレディの従者であるファイネルは、彼の荷物を整理していた。彼の主はといえば、「明日でこの船ともお別れだからな」と言い残し、最後の恋を探しに夜会へと出かけている。
「どれだけ着替え持ってくれば気がすむのよ?」
「そうですねぇ、これでも今回は少ない方でございますよ」
「ホントに?」
ダナは、フレディの荷物をまとめているファイネルの側で彼の手伝いをしている。
この部屋に身を寄せてからは、ずっと彼の世話になりっぱなしだった。食事の時間になれば、二人分の食事を食堂から運んでくれたのも彼だったし、必要な品を言えばすぐに調達してきてくれた。
彼がいなかったら、旅の間相当不自由な思いをしなければならなかったのは間違いないところだ。
「下船したら新しいお召し物を用意しなければなりませんね」
「誰の?」
「ダナ様の、でございますよ」
「……いらないわよ」
「いけません。美しく装うのは、女性としてとても大切なことなのですよ」
開け放った扉の向こう側から二人の声が聞こえてくるのに耳を傾けながら、ディオは居間のソファに身体を預けていた。
先ほどまで二人の周囲をうろうろしていたのだが、ディオの身分を知っているファイネルが手を出させるはずもなく。ダナの方はといえば「邪魔」の一言で、ディオを完全に撃沈させたのである。
相変わらず着たままの上着の上から、ディオは内ポケットを押さえる。
ようやくここまで来た。それでもまだ道のりの半分というところではあるが。
ファイネルが目を配ってくれたからなのか、上級の客室は元から警備が厳重なのか。あれから部屋が荒らされることはなく無事にマーシャルに入港しようとしている。
ディオは、今までのことに思いをはせた。
結局、ダナは全ての夜をディオのベッドに潜り込んできた。どきどきして眠れないのではないかと心配していたのはディオだけで、それでも案外眠りにつくのはたやすいことだった。
悪夢を見なかった、とはいえない。自分だけが生きているという後ろめたさは、昼間の間は追い払うことができていても、夜になると無意識の世界からディオのもとへとやってくる。
うなされて目が覚めた時、ダナは黙って身を寄せて髪を撫でてくれた。とても優しい手で。
眠れないまま、暗闇の中で目を開いている時に聞こえる彼女の穏やかな寝息。
人が近くにいるというだけで、こんなにも安心できるのだということを今まで知らないでいた。文句をつけていたフレディも、あきらめたのかあきれたのか。
自分の一夜の恋の方が大切になったようで、残りの夜は今夜同様、二人のいる特別客室に戻ってくることはなかった。
フレディとの同行を、ダナは嫌々ながら受け入れた。何かあった時には、ディオだけを守るという条件付きで。
フレディもそれを了承したのではあるが、何かとダナにちょっかいを出しては、反撃を食らっていた。その反撃自体も楽しんでいたのではないかと、ディオは疑っている。
最後の夜も無事に乗り越えた翌朝。入港と同時に、三人はファイネルをともなって上陸した。入港審査がいたって簡単だったのは、フレディの肩書きが物を言ったのだろう。フレドリク・カイトファーデン様とその友人という扱いだ。
いまだにディオたちは偽名の旅券を使用している。旅券そのものは正規のものであるが、それで審査が手抜きになるのならば、同行したのは正解だったのかもしれない。
フレディはおびただしい量の荷物をファイネルに持たせ、自分は必要最低限を詰め込んだ小さな鞄一つだった。ディオとダナはそれぞれ自分の荷物は自分で持っている。あらかじめ命じておいた自動車が、三人を迎えに港までやってきた。
自動車に乗れるのは、運転手をのぞいて三人まで。ファイネルは、歩いて宿まで移動するのだという。
大半が衣装のフレディの荷物を、ファイネルが車のトランクに積み込んでいる。
「王族専用車とかないの?」
荷物の積み込みを手伝いながら、ダナがつぶやいた。
「俺、王族じゃないし」
と、こちらは手伝う気などさらさらなく見守るだけのフレディ。
「カイトファーデン家は、有力貴族ではあるけど王族としての扱いは受けないんだ。男子だけが王族としての地位を受け継ぐことができるんだよ」
とディオが説明を追加する。こちらもただ突っ立っているだけだ。役に立たないことこの上ない。
「そんなのって不公平よね。今荷物積み込んでいるのが、あたしとファイネルさんだけっていうのも不公平だと思うけど」
「誰も頼んでいないぞ?」
と、フレディが大仰な身振りで腕を広げた時だった。
ぱん、という乾いた音とともに、ディオの目の前で、殴られたようにファイネルの頭が不自然にかたむく。
くるりと回って、地面に倒れていくファイネル。その光景は、異様にゆっくりとディオの目にはうつった。
「ディオふせて!」
ダナの体当たりと同時に、地面に押し倒される。
続く音。
ついいましがたまでディオの頭があったであろう場所の後ろの壁が削られた。
さらにもう一発。
今度はフレディをねらったものらしいが、こちらは既に地面に身を投げていた。
続々と下船してきていた乗客たちの間から悲鳴があがる。
「あそこだ!あそこから撃ってきたんだ!」
誰かが少し離れたところにある背の高い建物をさした。窓辺にいた人影が、身を翻して消える。「誰か警察と救急を!」
その声に、フレディは静かに返した。
「救急はいらん。もう死んでいる」
ダナが手を貸して、ディオを立たせた。
脚が震えて、自分一人ではまっすぐに立つことさえできない。
ディオはダナの肩に寄りかかるようにして、ようやく立ち上がることに成功した。
銃弾は、ファイネルの頭を貫通したらしい。倒れたファイネルの頭の下に、血が池を作っていた。驚いたように目は見開かれたままで、手にしていたフレディのトランクは、数メートル離れた場所に投げ出されていた。
目の前で人が死ぬのを見るのは初めてだった。
今まで葬儀に出席したことは何度もあるが、不慮の死を遂げた者はいなかった。
皆、棺の中で花に囲まれて穏やかな顔を見せていた。ファイネルの死は、ディオの知っている死とは違う。
自分の意志とは関係のないところで、無造作に強制終了させられた人生。
背中をさするようにしているダナの手の温かさも、今のディオには届かなかった。
やがてやってきた警察がファイネルの死体を車に積み込み、その場の状況を確認しようと、フレディに質問をはじめた。
マグフィレットの有力貴族である自分を暗殺しようとしたのではないかと、フレディはでまかせの説明を警察相手にしている。
ディオは、ダナの手をふりはらった。
「僕のせいだ……僕の」
自分がこんな研究に参加しなかったら。失われないですんだ命がいくつあったのだろう。
銃を撃ってきたということは、敵はディオを殺すつもりになったということだ。
研究成果を奪うのは諦めた、ということか。
ディオの持っている書類だけでは、研究の全容を明らかにすることは困難だ。機密の一番大切な部分はディオの脳内におさめられている。他にも機密を知っていた人間はいたが、皆センティアの研究所とともに灰になった。
つまりディオさえ消してしまえば、マグフィレット王国が書類を手にしたとしても、フォースダイトを兵器として使用するためには数年以上の時間を費やすことになる。
その間にどこの国かはわからないが、敵国は対応策を講じることができる。
ディオさえいなければ。
ファイネルは、ディオの殺害に巻き込まれただけ。
自分はここにいてはいけない。
握りしめた拳は、驚くほど冷たかった。




