32.知らない世界(2)
ディオは本棚の中から小説を選んで、ダナの寝そべっているのとは別のソファに座った。彼女は踵をぶらぶらさせたまま、雑誌を眺めている。二人とも口をきかない。出会ってから初めての平和な時間だった。
この静寂を破りたくないと願う程度には。左側に重みを感じて、ディオは目をあげた。思っていたより夢中になっていたらしく、物語は中ほどまで進んでいる。音も立てずに移動してきたダナが、ソファに横向きに座って、ディオに体重を預けていた。
足もソファの上にあげてしまっていて、ブーツは床に仲良く並べられていた。
「……何?」
「落ち着かないの。広すぎる」
「落ち着かないって……」
ディオからしてみれば、広すぎるなどということはない。確かに寮では狭い部屋で生活していたが、国にいる時はこの数倍もの広さの部屋を一人で使用している。
「そのままでもいいけど、あまりこっちに体重かけないで」
最終的にディオの方が譲渡したのだが、その後は読書に集中するどころではなかった。どうしてもダナの一つ一つの動作を意識せずにはいられない。
ダナの方はというと、気になる記事を見つけるたびに、
「これってどうなの?」
とディオに質問を投げかけ、雑誌を堪能しているようだった。
結局部屋から一歩も出ることなく、その日は暮れた。
別の客室に泊まっているフレディの従者が時々出入りする以外は、人の出入りもなく平和な一日だった。
食事を部屋まで運ばせれば食堂へ行く必要もない。外の空気を吸いたいと思わないわけでもなかったが、部屋を空けるのもためらわれた。
夕方になって、腹減ったと言いながら出てきたフレディは、今日もしっかり正装に身をつつんでいた。
昨日と変わらない二人の服装を見て、心底残念な口調で嘆く。
「着替えがないのが残念だなあ。そうしたら連れていってやれるのに」
「あたしは別に行きたくもないけど」
「ディオは行きたいだろ?」
「遠慮しとく」
つれないなあ、と大仰な身振りで嘆きながらフレディは扉へと向かう。
フレディは入り口のところで振り返った。
「……ダナ」
「何よ?」
ダナはつまらなそうに、雑誌から視線をあげようともしない。
「そのワンピースは流行遅れだ。今年の流行は鎖骨を見せるんだぞ?下船したら新しい服を買ってやる」
「いらないわよっ」
扉が閉まるのと、雑誌がそこに叩きつけられるのは同時だった。
本を置き、雑誌を拾い上げて元の場所に戻しながら、ディオは口を開いた。
「流行遅れだって……気になる?」
「別に」
ディオが戻したのとは別の雑誌を引っぱり出して、彼女はページをめくる。
「そこに命かけているわけじゃないもの。こんな格好しているのも戻るまでの間だけだし、ね」
確かに島にいる間も、スカートは身につけていなかったのをディオは思い出す。
ディオも元の位置に戻って、読みかけの本をもう一度開いた。しおりを挟んだ場所を指でたどりながら別の質問をしてみる。
「本当に行きたくなかった?」
「行っても何もできないし。ダンスも踊れないし、うまく振る舞う自信もないし」
「そうか」
ディオは本を閉じた。
「のぞいてみる?」
そう言ったのは、ダナの口調のどこかに好奇心に似たものを感じ取ったからだった。
「のぞける?」
「たぶん」
部屋をあけることにためらいを感じながらも、ダナを連れて外に出る。
フレディの向かったホールは、一つ上の階にあった。
誰にもとがめられず上質の絨毯がひかれた廊下を進んで、二人は扉の前に到達した。
細く扉を開いてディオはダナを手招きする。軽やかな音楽がこぼれ出てきた。
そっとのぞき込んで、ダナはうわあ、と声をあげたきりそれ以上何もいえないようだった。
ホールの中にはたくさんの人がいた。着飾った紳士淑女たちが部屋の中を埋めつくしている。
音楽に合わせてスカートの裾が翻る。身につけた宝石が、明かりをうけてきらきらと輝く。
彼女が想像していたのよりも、ずっと華やかだった。こんな世界が実在するなんて、思ってもいなかった。
空と船しか知らなかった。それで満足だったし、それ以外の世界を見てみたいとも思わなかった。
ディオと逃げ出してから、その枠が外されてしまったようだ。
知らなかった人たち。知らなかった世界。
空を去る気などないけれど、違う世界を見るのはわくわくする。
ディオが腕をひいた。
「人が来る」
音がしないようにドアを閉めて、二人は駆け出した。
特別客室に戻ると何故か笑いがこみあげてきて、二人そろって床の上に座り込む。たいして悪いことをしたわけでもないのに。笑いの発作は数分にわたって続き、先に立ち上がったのはダナだった。
「ちょっといいわね。ああいうの」
ダナはディオに手を差し伸べる。その手を取って、ディオも立ち上がった。取った彼女の手は、彼の手より一回り小さくて固かった。
ディオの知っている女性の手とは違う。この手で戦闘機を駆り、銃の引き金を引く。戦う手だ。
そっと手を離してディオは、レコード棚に目をやった。
近づいて一枚を手に取り、プレイヤーにセットする。静かな音楽が流れ始めた。
手を伸ばして、ダナを呼ぶ。
「おいで」
「おいでって言われても、あたし踊れないってば」
「誰も見ていないから大丈夫」
今度は、ダナがディオの手を取った。
ぎこちない手つきでディオはダナを引き寄せる。
右手はこう、左手はここと教えて、ダナはディオの腕の中に収まった。
二人の頭の位置がほぼ同じなのに気がついて、ディオは苦笑した。
「君がヒールのついた靴をはいていなくてよかった」
音楽に合わせて、二人はゆるやかに動き始める。
最初はぎくしゃくしていた動きが、数度のターンの後滑らかになる。
「次回があるなら、ぺったんこの靴履いておくわ」
そう言って、ダナはディオの肩に頭をもたせかけた。
肩にかかるわずかな重み。
その重みにディオの良心が痛む。
仲間たちの訃報を聞いたのはつい一昨日のことだというのに。
「……ディオ?」
重くなったディオの心を見透かすように、ダナが名を呼んだ。
「何?」
「……ありがと」
「……どういたしまして」
その言葉に、少しだけ心が軽くなる。
後ろめたさは完全になくなったわけではないけれど。