31.知らない世界(1)
「お前たちなあ、人の部屋で何やっているんだよ」
翌朝ディオたちを起こしたのは、フレディ本人だった。
昨夜着ていた服のままのところを見ると、昨夜はここには戻らなかったということか。
「何……って、うわあ!」
腕に感じた重みをディオは払い落とした。
フレディが何やっているのかと言いたくなる気持ちもわかる。
昨日は背を向けて離れていたはずなのに、朝起きてみれば何故かダナに腕枕をしていたのだから。着衣にいっさいの乱れはないが、誤解を招きかねない状態であるのは寝ぼけた頭でも理解できる。
「……起こさないようにしてたのに、なんでずかずか入ってくるのよ?」
払い落とされたダナは、身体を伸ばしながらベッドの上に座り込む。
フレディは勢いよくベッドに近づいてくると、ディオの腕を掴んだ。反抗する隙を与えず、そのまま居間の方へと引きずっていく。
「お前なぁ、そういうことは人の部屋では遠慮しとけって」
「何もしてないって!」
居間のソファにディオをおしつけて、フレディは目の前に腕を組んで立った。ディオの主張を信じていないのだと、その眼差しは語っている。
「本当に何もしていないわよ?抱き枕代わりに使われただけで」
寝室のドアから顔だけ出してダナが口をはさんだ。それだけ言うと、すぐに顔を引っ込めてしまう。
「何もない方が問題だ!お前、あんな可愛い子に添い寝してもらって何もしないって失礼だぞ?」
「失礼ってそっちの話?」
ディオの話をぷちりとうちきって、フレディはため息をついた。
「俺はそんな情けない男にお前を育てた覚えはない!」
「育てられた覚えもないけど?」
「マリアンヌの店に連れていってやっただろうが?」
「その話はなしだってば!」
慌ててディオは手をばたばたとさせる。
確かに楽しい体験だったが、その手の店は一度行けば十分だ。
ダナの前でその話をされるのは非常に困る。
「じゃあさー、俺にゆずれって。俺赤毛って好みなんだよな。気が強い子が多くてさ……あれ?」
フレディは首をかしげた。
「あの子昨日赤毛だったか?」
「あれかつら。目立つからね」
そんな会話を交わしている間に、寝室のドアが開き、着替えたダナが出てきた。
「あのさ、やっぱり今夜は俺と一緒に……」
すかさずフレディが近づく。ディオの目には、ダナはほとんど動いたようには見えなかった。
鈍い音がする。フレディは体を二つに折ってうめき声をあげた。
「今度触ったら、ひっぱたくって言ったでしょ」
拳を打ち込んだ体勢のまま、平然としてダナはフレディを見下ろす。
「ひっぱたくって言ったら平手かと思ってたよ」
この場に不釣り合いなほどしみじみとした口調で、ディオは言った。
「顔は堪忍してあげたんだから、感謝してほしいくらい」
ひっぱたかれるような真似をしなくて、よかったと心の底からディオは思う。
確かにすぐ近くに他の人の体温を感じるのは、悪夢を追い払うのには役にたったけれど。
「まだ触ってない!」
フレディの抗議は、二人の間で黙殺されたのだった。
完全に。
「あの人朝まで飲んでいたでしょ」
昨夜は一睡もしていないのだと言い残して、自分の寝室に消えていくフレディを見送って、ダナはしかめっ面になった。
「王族とか貴族とかお金持ちってみんなあんななの?」
「いや、彼は特殊だと思うよ?」
返しながらディオは思う。
フレディは彼の知る限り放蕩人という言葉が一番ぴたりとはまる人間だ。
暇さえあればあちこちの夜会に出かけ、招待されていない時には、街へと繰り出す。一人寂しくベッドで寝ることはほとんどないという話で、そっち方面の武勇伝には事欠かない。彼自身、武勇伝を吹聴しているふしもある。
金の使い方も豪快で、一晩で家一軒が買えるほどの金額を浪費したこともあるという。
自分とは別種の人間だと半ば珍獣を見るような気持ちで眺めていたし、それで十分だった。
一人でこの広い部屋を使っているのを知って、それだけではないと初めて思う。欠けた何かを浪費で埋めようとしているのかもしれない、と。
彼の抱える深淵をのぞき込んでしまったような気がした。
「無駄に贅沢な作りよね」
昨日は素通りした部屋の設備を確認しながら、ダナは何ともいいがたい表情を浮かべていた。
昨日まで使っていた部屋は、クローゼットの中にラジオが置かれているだけだったが、この部屋は違う。
ラジオもあれば、レコードのプレイヤーもある。もちろん鎖で厳重に固定されているなどということもない。レコードも少なく見積もって数百枚が棚に納められていて、どんな嗜好の人間でも一枚くらいは聴きたい音楽が見つかりそうだった。
本棚には読まれた形跡のない本がぎっしりと並べられていて、テーブルの側にはトランプをふくめ、様々なゲームが用意されている。時間をつぶす娯楽は十分用意されている。
「ディオも国にいる時はあんななの?」
「うーん、どうかな。僕夜会とかって苦手なんだよね。もちろん必要最低限は出席するけれど」
たとえば国賓を歓待するためとか、高齢の父親に変わっての代理出席とか。学生としてだけでなく、ディオにはやらなければいけないことがある。
「どうして?夜会って楽しいって聞くけど?ビクトール様は招待されれば、喜んで出かけているわよ」
「ビクトールは女性にもてるからね。何人にも囲まれてきゃーきゃー言われてるの、見たことあるよ」
「ディオは?」
こういう風に話ができるのは、昨日までの沈黙に比べたら喜ぶべきことなのだろう。国での生活にあまり触れて欲しくはないけれど。
「僕の周りの女の人は、やたらに背が高いんだよね。ヒールのついた靴をはかれると、たいてい僕より目線が上になるんだ。その状況でダンスをするっていうのもなかなか大変だよ。だから出席するのは必要最低限」
「まだ伸びるわよ、とは言ってあげられないわね。もういい大人なんだから」
「ほっといて」
背が低いのも童顔なのもコンプレックスなのだから、そこをつつかないで欲しい。
寝ていた格好のまま居間に連行されたディオが、一度寝室に引っ込んで戻ってくると、ダナはソファの上に寝そべっていた。
「ねえ、本当に皆こんなのを着ているの?」
ソファの上で腹ばいになって眺めているのは、最新のファッション雑誌。膝を折り曲げているので、踵が宙でぷらぷらと揺れている。頭の方に回って眺めてみれば、夜会に出かける時着る服の特集だった。
女性服のわずかな流行の違いなどディオにはわかりようもないが、あちこちの夜会で見かけた服装とたいして変わりがないように思える。複雑な形に結い上げた髪、上半身はかなり深く胸元を切り込んで、対照的に下半身はスカートをふくらませる。これでもかと肌を露出して、首や腕だけでなく、髪にも耳にもきらきらとした宝石を飾ってポーズを取るモデルたちの写真。
ディオが肯定すると、ダナは羨ましそうにため息をはいた。
「こういうのってお姫様だけが着るのかと思ってた」
「着てみたい?」
「ちょっとね」
照れくさそうに舌をのぞかせると、ダナはページをめくった。着せてあげるよ、と言いかけた口をディオは閉じた。国に帰ればダナをディオ主催の夜会に招待して、服の一着や二着用意するのは不可能なことではない。ディオにだってそのくらいの力はある。
けれど。身分のことを口にするのははばかられた。
あえてダナが触れようとしないのだから、ディオから蒸し返すことはない。