贖罪
酒を飲んだ父親が、母親を殺した。
いつもだったら、酒を飲んで、自分達を殴る蹴るで終わりであるはずだった。
ただあの時は……父親は、オーケストラをクビになってしまった。
帰ってくるなり、怒号が飛ぶ。
こっちを見てくる。憎悪に満ちた目で。
ものすごい勢いでやってくる。自分の利き手である左腕が掴まれる。
そして床に叩きつけられ、靴のまま思い切り左腕を踏みつけられた。
子供の体に大人の全体重が勢い良く乗って、一瞬でバキリという音が自分の腕から鳴った。
あまりの痛みに、叫びにもならないような絶え絶えの声が自分から出た。頭がぐらぐらして、気絶するんじゃないかと思った。いや、気絶した方がましだった。
利き手が折れただけじゃ父親は満足せず、そのまま、何度も何度も自分の腕を踏みつけた。
「お前がいなければ、お前がいなければ……っ!」
腕はぐちゃぐちゃになって、今、義手になっているくらいには再起不能にされた。
別の部屋にいた母親が、その音を聞きつけて走ってやってきた。扉を開けて、その惨状に悲鳴を上げる。
もう、こんな日々を終わらせようと思っていたのだろう。母親はすごい早さで押し入れを開けたと思ったら、そこからあるものを取り出した。
スタンガンだ。
そしてあの大人しい母親が、見たことの無い形相で、何かを叫びながら父親にと飛び掛かっていった。
あの時は聞き取れなかったけれども、恐らくあの時、母親はこう言っていたんだと思う。
「よくも、私の葵を」
と。
後はよく分からなかった。痛みで出た涙のせいで、前が見えないでいる間に。
母親は床で血塗れになっていた。
痛みも忘れて、母親の元に這いずっていった。左腕はもう動きもしなかった。
「お、かあ、さん……?」
恐る恐る母親を呼ぶ。返事は無い。
残った右手で母の脈を取った。
その首筋は温かいのに、ピクリとも動かなかった。
そこで、母親が死んだと理解した。
後ろを見ると、父親は泣いていた。この男にもそんな感情がまだあったのか。そう思ったのは一瞬のことで。
「くそう、俺は巨匠なんだぞ……クビにしやがって、絶対許さねえ……」
あろうことか、その男は自分の処遇に泣いていたのだ。
母親は気こそ弱いが、とても優しい人だった。殺されて良い理由なんて無かった。
落ちているスタンガンと、台所にある包丁が目に入った。
そこからはあまり覚えていない。自分がどうやって大の大人を打ち負かし、殺したのか。
『お前の手は、汚れた……』
頭の中でうるさく、あの男の最期の言葉が鳴っていた。
『その手からは二度と、人の心を震わせる音なんて……』
何て言ってたかなんて、その時はもうどうでも良かった。
血塗れになったダイニングテーブル。あそこでいつも食卓を迎えていた。自分が誕生日の時は、皆笑っていた。
倒れた椅子。あそこで昔、父親が音符を口ずさみながら、楽譜の読み方を教えてくれた。あれは確か交響曲第三番の……。
「ラー、ララー……ラー……」
血まみれの部屋の中。包丁を右手に持ったまま、音も絶え絶えに歌っていた。
いつか教えてもらった思い出の曲を。
「ラー、ラ、ララー……」
もう涙は出なかった。
警察が来るまでの間。どのくらいかは分からないけれど、とにかく、途方もなく長い時間そうしていた気がする。
満月が葵を照らす。俯き話す葵の目に、相変わらず光は無い。
元から家族のいない俺に、その損失の大きさが真の意味で分かる日は来ないのだろう。
葵は淡々と続ける。
「あとは警察に保護されて、病院に入って、義手を付けられて……。まあ、ヴァイオリニストの将来完全に断たれたことやらはどうでもよかってんけど、ずっと思うとったんや」
やっと、葵が顔を上げる。
「『自分は音楽界に大きな損失をさせてもうたんじゃあらへんか』って。自分なんかより、父親の方がよっぽど音楽界に名を馳せる人物のはずやった。それを自分が奪うたんや」
そう語る奴の顔に表情は無い。その口調にも、感情は無い。
それなのにどうしてここまで、その言葉が悲痛な叫びに聞こえるのだろう。
「そないな中、ボスに出会うた。『今回の事件で、貴方に殺し屋の才能を感じた。もし殺し屋になってくれるのなら、新しい戸籍を用意してあげることもできる』ってな。人殺しのヴァイオリニストなんて、きっとどこのオケも採ってくれへんやろ? そやさかい一も二ものう飛びついたんや。そこから自分は霧島葵から、今の静森蛍になったんや」
初めて聞く、葵の本名。コードネームの“葵”は、昔の本名だったんだ。
「ヴァイオリニストになるため。ほんで音楽界の父親の損失を埋めるために……」
葵はそう、最後に付け足した。表社会で生きている葵が殺し屋をしている理由は、あまりにも痛ましいものだった。
だって葵は、そんな目に遭わされた父親のことをきっと、まだ……。
「……話してくれてありがとな」
それ以上考えるのは野暮だと思い、やめた。葵に感謝を告げるが、リーダーとしてそれで終わらせるわけにはいかない。ぐっと真っ直ぐ葵の顔を見る。上にある満月の光のせいか、動いた弾みにその髪がなびいたせいか。奴がこっちをふいに見た時、その瞳は微かに揺れている気がした。
「だがやっぱり、今回の件は許せん。お前の心の傷と今回のターゲットの件は無関係だ。お前の考えに人を巻き込むな」
これには流石の葵も効いたらしく、目を伏せる。無言だが、反省しているらしい。
自分の過ちを分かっているなら、これ以上咎めたって意味は無い。もう先輩としての叱責はしないでおいてやる。
「……それと」
だからこれから言う言葉は、仲間としてのものだ。
「自分を罰することで救われたって、何にもならんぞ」
その言葉に、今度こそ葵の瞳が揺れた。言葉も無く男二人、じっと見つめ合う。俺は星を探すように空を見た。
「音楽界の損失、なんてお前が自分を罰するための言い訳だろ」
葵は何かを言おうと吐息を漏らした。だが、何も言わなかった。
きっと未成年であることなどから罪に問われなかったのだろう。ここからは本当に、今の話を聞いた俺の予想でしかないが。
社会は自分を罰してくれなかった。自分は愛する父親を殺したのに。
お前はそう思ったんじゃないのか?
罪悪感のやり場が無くて。どんなに、何をこじつけても。自分を罰したくて仕方が無くて。
音楽を続けるのも、そうやって音楽に縛られ、自分のために生きないでいる間だけは。
贖罪でもしている気になれて。
なあ葵。
「本当に嫉妬される人間が悪いんだと思ってるのか?」
お前は悪くないじゃないか。
「……。」
葵は今度こそ完全に俯いて、何も答えなかった。
「遅い! もう偽装工作も掃除も終わるわよ!」
そう言いながら、スイセンは廊下に倒れているボディーガード達を部屋に運んでいた。
「悪い悪い、この馬鹿を説教してた」
そう言って葵の頭をぽんぽんと叩く。ただ、葵は無反応だ。珍しい。せっかく子ども扱いしたのにキレないとは。
「……ふーん。まあいいから手伝ってよ。あちこちに死体があって大変なんだから」
「スイセンさん、今日は死んでませんよ」
そう言って、アンジュがターゲットと共にやってきた。
「あ、鬼手さん。偽装工作終わりましたので、今からターゲットの方を連れていきますね」
「おぉ悪い。頼んだぞ」
そう俺が返すと、ターゲットはぺこりと頭を下げた。
「話は伺いました。父が……申し訳ありませんでした」
「いやいや! こっちも馬鹿が暴走してすまんかった!」
そう言って葵の背中をバンバンと叩く。流石に限界が近付いてきたのか、葵がマスク越しに恐らくギロッと睨んでくる。
「は、はは……」
ターゲットはよほどの恐怖だったのか、葵の方に目は向けなかった。
血を流し気絶をしている、大量の人間を背景に談笑。シュールだ。
「ちょっと早く手伝ってよ!」
スイセンが本当に苛々した声を上げ始めたから、俺も掃除に加わることにする。まずあっちにある死体……じゃなくて人間から運んでくか。
と、ターゲットから離れたその時。
タン、と後ろで床を蹴る音がした。
明らかに殺意を持ったその足音。ターゲットがいる方向だ。
まさか……と振り向く。
立ち上がっていたのは、気絶していると思い込んでいたボディーガードだった。正直、一瞬葵を疑った。
安心したのも束の間、そのボディーガードの視線の向きが明らかにおかしかった。
明らかにターゲットを狙っている。
野郎、裏切り者か!
恐らく依頼人が他にも殺し屋を頼んでいたのだろう。そいつをボディーガードの中に仕込んだんだ。
ターゲットの側にいるのはアンジュ。だがアンジュは非戦闘員だ。俺はぎりぎり届くかどうかの位置にいる。
「待……!」
ばちっ。
聞き覚えのある痛々しい音。膝をつく裏切り者のボディーガード。
そしてその前に立ちはだかるのは葵だった。
「はは……」
正直、葵が守ることは勘定に入れてなかった。だってさっきまであんなに殺意たっぷりだったから。
「なあ」
「はいっ!?」
葵が久しぶりに口を開いた。そもそもさっきまでの葵がお喋りすぎたんだが。ターゲットはどちらかというと葵におびえて返事をしている。
「……あんさんにちょい聞きたいことあってな」
葵はシャキンシャキンと電気棒を義手内に収納する。そうやって間を持たせるかのような動きは、さっきまで殺そうとしていたということから考えて、もしかしたら奴なりの照れ隠しかもしれない。
「あんさん、父親に嫉妬されて、殺されそうになったこと。どう思てるんや?」
その質問に、辺りはしんと静まった。ばたばた人間を片付けてたスイセンまでも、動きを止めた。
重い沈黙の末、ターゲットは震える声で答える。
「息子としては、ショックでした。父親が自分に厳しかったのは、育てるためじゃない、憎かったからなのかって……。ただ、僕はもう家庭を持って、今は父親です。父親として、一人の男として言うなら……」
彼の話す最後の方の声は、もう震えてなかった。
「それはお前自身の問題だ、人のせいにして逃げるな。……そう、思いますね」
そう言い、葵の方をしかと見つめるターゲットは、紛れもなく強く、真っ直ぐな男だった。
葵は表情の見えないマスクで少しだけ彼を見つめ返した後、ふっと顔を伏せ、義手の留め具をパチンと留めた。
「そうかぁ。引き留めて悪かったな。もう行き」
そう言って葵は身を翻す。掃除に着手するようだ。
そんな葵の背中に、ターゲットが声をかける。
「あ、あの! 助けてくれて、ありがとうございました!」
……まったくこの人は、本当に……。
「……あんさん、お人好しすぎやで」
同じことを考えていたようで、思わず俺は苦笑した。
「貴方ほんっっっっっと! バッッッッカじゃないの!」
アジトに帰ってから待っていたのは、ボスからの叱責だった。
当然だ。ボスの意向を無視して守るべき相手を殺そうとするなんて、前代未聞の行いだ。
ボスの大きな机の周りに乗っていた書類達は、ボスの手によって床にぶちまけられていた。こめかみに指も押さえまくりだ。
部屋に呼び出されたのは葵とリーダーである俺だ。メンバーの粗相はリーダーの粗相でもある……。
ボスに死ぬほど怒られていると言うのに、葵は相変わらず無表情で、平然としている。
「お前のせいで俺まで怒られる羽目に……」
「……」
そうぼやけども、葵は知らん顔だ。ボスはこめかみを抑えたまま、黙りこくってしまった。
その間に、ふと気になってたことを小声で聞いてみる。
「お前、結局バイオリンどうすんだ」
「別に今まで通りやよ」
「……これからも父親の代わりを?」
「それ以外の生き方なんて知らへん」
「……そうか」
まあ、十年以上そうやって生きてきたんなら、そうだよな。そうかも、しれないけどさ……。
「無駄口たたいてるんじゃない!!」
「はいっ!」
「……」
ボスを余計怒らせてしまい、思わず背筋が伸びる。ボスに怒られるなんて俺としては本当に最悪だと言うのに、葵はボスの怒号にもしれっとしたままだ。
くそ、本当にお前のせいなんだからな……。
そう思いながらも俺の心はどんどん沈み、体は小さくなっていくのだった。
「はぁ~……今日はほんっとひどい日だった……」
ようやく説教から解放されたが、ボスに怒られたという事実は俺の中でしばらく尾を引きそうだ。廊下をトボトボ歩いていたら、どこからか泣き声のようなあの音色が聞こえた。
「あいつのせいでこっぴどく怒られたっつーに……マイペースか!」
一言文句でも言ってやろうと、その音の出どころへズンズンと歩く。
無数にある間接照明の間を抜ける。見慣れた死刑囚の模型には目もくれずに歩いていく。
水槽処刑場の薄青い光にぼんやり照らされる中、葵は居た。いつもと変わらず、ヴァイオリンを弾く顔は小難しい。一つも楽しそうには見えない顔。
俺の言葉なんかじゃ何も変わらない、か。
「はーあ、まあそうだよな」
俺には、そんな風に苦しんでまでバイオリンを続ける意味が分からない。
ただきっとあいつは、そうしないと生きていけないのだろう。
「あら、リーダー」
「スイセン」
後ろから声をかけられた。葵に用でもあったのか、スイセンもやってきたようだ。
俺の隣に並んで、スイセンは片足に体重をかけながら腕を組んだ。
「あの朴念仁、相変わらずヴァイオリンがだーい好きね」
「え?」
「え?」
思わず聞き返す。そんな俺に、スイセンも同様に。
あの日葵がした過去の話は、俺が敢えて通信機を切らずにいたから、スイセンもアンジュも内容を知っているはずだ。
それなのに、バイオリンが大好き?
俺は訳が分からないと表情で語る。するとスイセンが目をぱちくりさせた。
「いや、あんなにずーっとやってるんだから、好きに決まってるじゃない」
「そう、なのか……?」
当然でしょと言わんばかりにスイセンはそう言った。
俺は、あいつの心の内を多少なりとも理解したつもりだった。だが、スイセンは俺とは全く違う理解の仕方をしていた。
葵を見ると、聞こえているのかいないのか。ただひたすらバイオリンを演奏していた。
本当に、ただひたすらに。
……分からないものだな。
俺の戸惑いを見透かしたように、スイセンが言う。
「愛と憎しみは紙一重ってやつでしょ。まああんた達二人とも、その辺鈍そうね。どうせ恋も分からず生きてきたタイプでしょうし」
「……流石ハニートラップの達人」
「ふふん! 当然でしょう」
そう言って、スイセンは誇らしげに胸を反らす。
そんなに苦しいなら、バイオリンなんてやめればいいと思っていた。
バイオリンが葵を縛っているんだと思っていた。
「……望んで、縛られてるってこともあるのかもしれないな」
俺がそう呟くと、スイセンがこっちを見上げてにっと笑った。
「あら。少し大人になったじゃない」
自分より五、六歳は下の人間にそう言われてしまう。
俺は少しだけ苦笑して、相変わらず演奏を続ける葵のほうをもう一度見やる。
その顔は、それまで見ていた表情よりもほんの少しだけ……柔らかいものに見えた、気がした。
俺はパン! と手を打った。
「よし! いつまでも湿気てらんねーな! 景気付けに『氷の貴公子』で検索かけて、部屋中に画像貼るか!」
「あらいいじゃない! 協力するわよ」
そう言って俺達は、足取り軽くいつものミーティングルームに向かうのだった。