雨が雪に変わる頃。
…しとしと降り続く雨。
「せっかくのお休みなのになぁ…残念。」
窓に張り付いて澪は言う。
カーテンの隙間から覗く空は、どんよりとした雲に覆われていた。…見ているだけで気が滅入りそうだ。
「ま、せっかくなんて言ったけど何処かに行く予定があるわけじゃないし。そもそも出かけられる相手なんて誰もいないし…。うぅっ。言ってて泣きそう。」
眉をへの字に曲げて澪は泣きそうな顔をして言った。
1DKで一人暮らしをする私の部屋にはベッドと小さなテーブル。そしてテーブルを挟んだ反対側には小さな棚があってその上にこれまた小さなテレビが乗っていた。
澪はテーブルとベッドの間に膝を抱えて座り、最近買った新しいクッションを抱きしめた。
「…寂しい。」
ポツリと呟いた時。
「みゃお〜ん。」
レンの声とともにふんわりしたシッポが顔に当たる。
テーブルの上に座ったレンは、綺麗な金色の瞳でこちらをジッと見ていた。
「あ、ごめんって。一人きりじゃないね。私にはレンがいるもんね。」
顔の前で両手を合わせてレンに謝った。
先程まで心無しか不服そうだったレンが、スリスリっと顔に触れて私の鼻を舐めてくれる。
「え〜んっ!レンが優しいよぅ。」
その後、レンはテーブルの上でゴロリと寝っ転がり"さぁ、撫でろ!"と言わんばかりだ。
「しょうがないなぁ〜。」なんて言いながら、そのお腹に顔を埋めて私はもふもふを味わう。
「あぁ、癒しだぁ〜!ありがとうレン〜!」
しかし、その状態で喋られるのは嫌なのか、いつも頭をペシペシされる。
でも絶対に爪を立てないレンはやっぱり優しいよ…。
「うぅ…ごめんなさい。」
これじゃどっちが飼い主なのかわかったもんじゃないな。
でもこのやり取りが好きだった。
我が家で飼っている黒猫のレンとはある日の仕事帰り
に出会った。
突然雨に降られ雨宿りをした店先で見つけた猫で、それは何だか不思議な出会いだった。
あまりに綺麗な黒猫なので、初めはてっきり飼い猫が逃げ出したのだとばかり思っていた。
少し撫でさせて貰っただけで「バイバイ!」とお別れしたのだが、どうしてかその後、私について来てしまった。そのままにはしておけなくてひとまず我が家で預かる事にしたのだ。
ウチに来てからは『迷い猫を預かっています』とチラシを出したり、あちこちに問い合わせて探している人がいないか確認したりしたのだが、結局半年経っても飼い主らしい人は現れなかった。
まぁ、それだけ長い事一緒にいるとやはり情が湧くもので、私はそのまま自分の家族として迎え入れる事にしたのだった。
幸いにも住んでいたマンションがペット可だったので、引っ越しをする事にはならなかった。
まぁ、そもそもペット可じゃなきゃ連れて帰ってないんだけど。
その日からもう2年が経とうとしていた。
「ねぇねぇ、レンさん。何気にこの家、気に入ってるでしょ?」
ニヤリとしながらレンを見るとこちらをジッと見つめて「にゃぁ」と一言だけ返事をした。
「ふふっ!やっぱりね〜!ウチの子になってくれて嬉しいよ!」
両手を差し出して「おいで。」と声をかけるとすぐに来てくれる。これもいつもだ。
レンは満足するまで撫でてやると、スルッと私の膝から下りて今度は自分のベッドで丸くなった。
「満足そうな顔しちゃって…可愛い。」
レンが気持ち良さそうに眠ったのを確認した後、私は読みかけの小説を取り出して読み始めた。
今、話題になっているミステリー小説だ。
「昨日の夜、気になる所でやめちゃったんだよねぇ。どっからだったっけ…?」
パラパラとページをめくり、続きを探す。
途中でやめたもんだから、少し前から読まないと話の流れがわからない。
「え〜っと…あ、あった。」
どれどれ…と読み始めたが、面白くてなかなか止まらない。気づけば二時間ほど経っていた。
ひとまずキリのいい所まで読めたので、お気に入りの栞を挟んで本を閉じた。
う〜んっ!とベッドに寄りかかりながら背中を伸ばす。
するとレンが私の元へと歩いてきた。
「あら?レンさん。お昼寝はもういいの?抱っこする?」
体を伸ばしたまま、顔だけを横へ向けてレンの方を見る。
「にゃぁ。」と可愛く返事をして、レンは私の膝の上で丸くなった。
「今度は膝の上ですか〜?今日は何だか甘えん坊さんだね。」
声をかけながら優しく撫でてやる。
ゴロゴロと喉を鳴らしてレンは気持ち良さそうに目を瞑った。
「ふふっ…レンが人間だったらなぁ。」
ボソリと呟いた。
「なんてね。そんな事あるわけないのにね。」
クスッと笑いながら言うと、微かに声が聞こえた。
「…そうでもないかもよ?」
「ん?誰の声?」
「ここだよ、ここ。下を見て。」
私と同じ歳ぐらいの男の人の声が聞こえた。
「えっ!?下…を見るの?」
言われるままに下を向く。
膝の上で丸くなっていたレンと目が合った。
「…え?嘘でしょ?いやいやいやっ!そんな訳ないって。」
「嘘じゃないよ。俺の声、聞こえてるでしょ?」
また男の人の声。
「…えっ!?いや、いくらなんでもそれはないって……え?レンなの?」
「うん。なぁに?」
レンが私の顔を見上げながら口を動かして喋っている。
「え?」
「え?」
首を傾げてお互いに顔を見合わせながら聞き返した。
「えぇーーーーーーっ!?」
「澪、うるさい。」
レンが嫌そうな声で言った。
「いやっ!だ、だって!!レンが喋ってる!?そんな馬鹿なっ!!」
「少し落ち着いてよ。急な事だから慌てる気持ちはわかるけどさぁ。」
大人びた言い方でレンが澪をなだめる。
「レンはどうしてそんなに落ち着いてるのっ!?こんなのおかしいじゃない!」
「そんな事、俺に言われてもなぁ。だって、澪が俺と話したいと思ったからこうなったんだよ?」
さも当たり前のように普通に喋るレンを見つめて、澪は開いた口が塞がらなかった。
「えぇ〜っ?こんな事ある〜?」
未だに信じられない私を見て、レンがポツリと言う。
「…澪は、俺と話せて嬉しくないの?」
しっぽがペタンッとヘタっている。
(あ、元気ない。落ち込んじゃった…?)
ブンブンと顔を横に振る。
「ううんっ!嫌なわけないじゃない!ずっとレンと話せたらいいな〜って思ってたんだから!!」
「良かった。俺もずっと話したいと思ってたよ?でも俺、今は猫じゃん?」
「うんうんっ!て、え?今は猫って…どういう事!?」
「あ。…あぁ〜、それはね。言えない。」
気まずそうにレンが下を向いて誤魔化した。
「なんでっ!?めちゃくちゃ気になるじゃんっ!」
「でも、これは言っちゃダメなやつなんだよ。だからこれ以上は聞かないで?」
レンは、今度はまん丸でキラキラした目を向けて首を傾げて言った。
「あ、あざとい!可愛すぎでしょ!レン〜っ!!」
「ん?あざといって何?俺、よくわかんない。」
本当に何の事かわかっていないようで、レンはキョトンとしていた。
「い、いや。これは知らなくて大丈夫。…それにしてもなんで急に喋れるようになったんだろうね?」
あまりの可愛さに私は頭を抱えながら言った。
「う〜ん。詳しくは俺にもわかんないけど、澪が本気で願ったからだと思うよ?…愛を込めて、ね。」
クスクスとレンは笑う。
「いや、最後の一言っ!ヤバいでしょ!何それぇっ!」
もう心臓が持たないんですけど…。
それに今まで普通の猫だと思っていたから、このギャップに頭がついて行かない。
これからどうしたらいいの…?
「澪、大丈夫?」
レンが私の顔を覗き込み、ほっぺたを肉球でチョンチョンしてくる。
うぅ…いちいち可愛くてヤバい。
キュンでやられてしまう。
「だ、大丈夫。あのさ、この話せるようになったのは明日になったらなくなるとかは有り得るの?」
頭を抱えたままで私はレンに聞いた。
せっかく話せるようになったのに、明日起きたら戻ってました〜なんて悲しいもん。
「それは大丈夫だと思う。これからも話せるよ!」
落ち着いた声でレンが言う。
いや、レンさん良い声じゃないですか。
私、声フェチなんですけどめちゃくちゃタイプです。
これから平常心で過ごせるかな…?参った。
「…ねぇ?俺と話せて嬉しい?」
またまた首を傾げてレンが聞く。
「…うん。すっごく。」
もうその一言しか出なかった。全力で可愛いよぅ。
「良かったっ!澪、これからもよろしくね!」
レンはそう言いながら私の顔にスリスリしてくる。
「あ〜可愛いっ!私もよろしくねっ!」
レンをギュッと抱きしめた。
やっぱりレンは暖かくて今までと変わらないはずなのに、いつもよりドキドキしてしまうのは何故なんだろう?
……
「ひとまずこの状況を受け入れられるような精神状態にはなったかな…?」
あれから数時間。
しばらく過ごしてレンが喋る事にも少しずつ慣れてきた。
レンと他愛もない話をしているとあっという間に時間が経ってしまう。
レンが家に一人でいる間に何をしてるか?とか、私の仕事がどんな内容なのか?とか。
今まで知りようもなかった事を話していると楽しくて仕方なかった。
そして、思っていたよりも私はレンを好きで、レンも私を好きなのだと気づいた。
夢中になって話していて、気づくともうとっくに日も暮れ夜になっていた。
「…クシュンッ!」
レンが突然くしゃみをする。
「大丈夫?寒い?…なんか冷えてきた気がするね。」
そう話しながら私は暖房をつけた。
「ちょっと寒いかも…。ありがと。」
レンはいつものベッドで丸くなりながら言った。
「暖房つけたから暖まるまで待ってね。」
声をかけながら外の様子を伺う。
「あ!レンっ!雪!雪が降ってきたよ!?」
私は子どものようにはしゃいで言う。
「えぇ〜っ!雪が降ってきたから寒いのかぁ。俺、寒いの苦手だからヤダ。」
物凄く嫌そうにベッドから顔も上げずにレンは言う。
「雪嫌いなの〜?たまにしか降らないからテンション上がらない?」
ウキウキした声で私が言うとレンが小さく呟いた。
「ほんっと。可愛いやつ。」
「ん?何か言った〜?」
「何も〜。」
レンは何でもないような口ぶりで慌てて誤魔化す。
(危ねっ。喋ったら全部伝わっちゃうんだった。今までは何言っても「にゃ〜」だったのにな。…気をつけないと。)
「レン、寝るの〜?」
「うん。疲れたから寝る〜。」
「そっか。寒かったらベッドにおいでよ?じゃ、おやすみ。」
澪はレンを撫でながら声をかけた。
「ありがと。おやすみ。」
そう言うとレンは目を閉じた…。
………
その日の夜中。
しんと静まり返った部屋の中。
外は雨から雪に変わり、いつもの雑音も雪が隠しているのかほとんど聞こえない。
スヤスヤと寝息を立てて眠る澪の傍にレンが座っている。
その姿は、いつもの猫の姿ではなく人の形をしていた。
「…早く愛してるって言ってくれよ。本物の愛を見つけたら俺は人間に戻れるんだからさ。な?澪。」
悲しげに…けれども愛おしそうに澪を見つめ、レンは澪の髪を撫でた。
そして、眠る澪の瞼にキスをした…。
「…おやすみ。また明日な。」