初めての会話
お昼休みを知らせるチャイムの音が鳴る。
それと同時に授業が終わる。
先生が教室を出て行くと、生徒達が一斉に動き出した。
瀬那もお弁当箱が入った小さなバックと水筒を持ち、教室の後ろのロッカーから一冊の本とハーフケットを取り出すと、いつもの場所へ向けて教室を出た。
人気のない非常階段。
そこがいつも瀬那が昼休みを過ごしている所だ。
この人の来ない寂しい非常階段で昼食を取り、余った時間で本を読むのが瀬那の日課。
時々美玲や翔や棗と生徒会室で会話を楽しみながら食べたりするのだが、この誰にも邪魔されない静かな非常階段でゆっくりと食べるのが好きだった。
階段の段差に腰を下ろす。
踊り場からは裏庭が見え、そこから入ってくる外の風はもう春だというのにまだ肌寒い。
用意していたハーフケットを膝に掛け、寒さを凌ぐ。
「いただきます」
お弁当箱を開け、静かな食事を始める。
本を読みながらお弁当を口に運ぶ。
少し行儀が悪いが、他に誰もいないので文句を言われることもない。
そう思っていたのたが、瀬那がいるより階下からギィっと扉の開く音が聞こえてきた。
この非常階段には昼休みに近付かないように親衛隊が周知している。
きっとまだ掟のことを知らない新入生が入ってきたのだろう。
親衛隊が立ち入り禁止と言っているが、瀬那自身は別にこの非常階段を私物化してる気はない。
周りが気をきかせてるだけで、通るなら通ればいいと思っていた。
読書の邪魔さえされなければそれで文句はないのだ。
なので特に気にすることなく視線を本に戻すと、コツコツと誰かが上がってくる音がする。
荷物を置き、階段を占領するように座っている瀬那。
こちらに上がってきて横を通るのなら場所を空けないといけない。
そう思って顔を上げた瀬那は、下から上がってきたその人物が姿を見せた瞬間、思わず手に持っていた箸を落としかけた。
作られたような美しい容姿と、人を魅了してやまないオーラを発し、何にも無関心のような漆黒の瞳。
一条院枢がそこにいた。
予想外の人物の登場に、息を呑む。
何故彼がこんな所に……。
呆然と枢を見ていると、瀬那の方を向いた彼の瞳と重なった。
これまでのような気のせいかもなどではなく、間違いなく瀬那を見ていた。
今までにないほど近い、彼との距離。
目を反らせない。
先に目を反らしたのは枢だった。
はっと我に返った瀬那は、枢が通れるように階段の端に寄る。
しかし、枢は足を止めてそれ以上上がっては来ず、踊り場の壁に寄りかかってしまった。
(えっ、ここにいる気!?)
しばらく様子を見ても動く気がないようなのでそうなのだろう。
互いに何かを話すわけではない。
枢は壁に寄り掛かりながら外を見たりスマホを確認したりするだけで、ここに何をしに来たのか分からない。
瀬那は本に視線を落としながらお弁当を食べ始めたが、正直お弁当の味も本の内容も入ってこない。
気まずい……。
いや、そう感じているのは瀬那だけなのなもしれない。
ちらちらと観察した枢の表情はそんな気まずさは微塵も感じられなかった。
それからしばらく居続けた枢は、授業の始まる数分前になり、ようやく瀬那の隣を通り過ぎ非常階段から去って行った。
本当に何しに来たのか。
首を捻りながら瀬那も荷物を持って教室へと戻った。
きっとその日はたまたまだろう。
非常階段に来たい気分だったんだ。
そう思っていた翌日。
昨日と同じ非常階段の同じ場所でお弁当を広げていると、また階下の扉が開く音がし、コツコツと誰かが上がってきた。
そうして現れたのは、鉄の掟を知らない一年生などではなく枢で。
昨日と同じ踊り場の壁により掛かり、何をするでもなくその場に留まった。
そうして今日も授業が始まる前になると去っていった。
本当に何がしたいのかさっぱり分からない。
せめて表情から何か掴めれば良いが、無表情の彼からは何も掴めず。
話し掛けてくるでもないので、何か用があるわけでもなさそうだ。
大体、枢が瀬那に用があるはずもない。
益々謎は深まる。
そして枢が非常階段に来るようになって五日目。
最初は気まずさを感じていたものの、特に会話もなく静かな時間が流れるその空間に慣れ始めていた。
そうすると、今度は物事を考える余裕が出て来るというもので、瀬那はこの日初めて枢に話し掛けてみることにした。
そう決意したものの、どきどきと心臓が激しく鼓動する。
枢を見ては口を開こうとして、口を閉じる。
それを何度か繰り返していると、瀬那の耳に低く落ち着いた声が聞こえてきた。
「なんだ」
はっと顔を上げると、枢がじっとこちらを見ていた。
「えっ?」
「何か言いたいことがあるんじゃないのか」
まさか先に声を掛けてくるとは思わなかった瀬那は激しく動揺した。
「あ……えっと……」
話し出すのを待つ枢に、瀬那は小さく問い掛ける。
「あの、お昼ご飯……食べないの?」
ここに来るようになってからというもの、昼休みの間ずっとこの非常階段にいる枢。
その間、お昼ご飯を食べる様子はない。
お腹は空かないのだろうか?
そう思っての問い掛け。
問い掛けてみたものの、答えは返ってこない。
余計なことを聞いてしまったと後悔していると、枢がこちらへと近付いてきて、瀬那の隣の一段上の階段に腰を下ろした。
手を伸ばせば触れてしまうほど近く。
急激に近くなったその距離感に戸惑う。
どういうつもりかと見ていると、枢が手を伸ばしてくる。
その先にはお弁当箱。
半分ほど減ったお弁当箱から卵焼きを掴むと、それをそのまま口へと運んだ。
食べる姿すら絵になる彼の姿を呆然と見つめる。
食べ終わったらしい枢は、再び手を伸ばしてくる。
そこで瀬那は我に返る。
「あ、あの、これ私が作ったの。だから一条院さんの口には合わないと思うから……」
一条院財閥の御曹司。
普段から高級な物に慣れているだろう彼の舌に、瀬那が作った庶民の食べ物が合うとは思えない。
しかし。
「問題ない」
そう言って再びお弁当箱に手を伸ばす。
それ程大きくもない一人分のお弁当は、二人で食べればあっという間になくなった。
時間になり立ち上がった枢は……。
「明日はもっと作ってこい」
そう言って、去って行った。
一拍の後、去り際の言葉を思い出し困惑する。
「えっ、明日も食べるの?」
当然瀬那しかいないこの場で、答えが返ってくることはなかった。