両思い
しかし、無情にも時は過ぎるもので……。
大きなあくびをしていると……。
「瀬那ちゃん、今日はおねむ?」
持っていた本で隠していたつもりだったが、ばっちり美玲に見られていたようだ。
「うん、ちょっとね」
「また、本読んで夜更かししてたんでしょう」
「まあ、そんな感じ」
笑って誤魔化したが、寝不足気味なのは勿論昨日の出来事のせいだ。
けれど、しっかり早起きして枢の分のお弁当も作っているのだから始末に負えない。
無性に壁に頭を叩き付けたくなった。
自分はいったいどうしたいのか。
枢はいったいどういうつもりなのか。
考えても考えても答えは出ない。
枢が座る席を見れば、いつもと変わらず、瑠衣と総司と共に集まっていて、何を考えているのか分からない無表情で二人の話を聞いていた。
すると、ふと枢が瀬那の方を向き視線が重なる。
慌てて瀬那は視線を逸らして美玲と話を続けた。
こんな状態で昼ごはんをどうするのかと頭を抱えたくなった瀬那に、刻一刻とその時が近付いてくる。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、重い足取りで非常階段へとやって来た。
お弁当を広げている所へ枢がやって来て隣に座る。
昨日のことを思い出して目を合わせることができない瀬那は、俯きがちに枢に箸を渡した。
元々あまり話したりしない二人の時間。
それも大体は瀬那が話し出してそれに枢が答えるということがほとんどだ。
瀬那から話し掛けない限り、沈黙が破られることはない。
そのはずなのだが……。
本を開いた瀬那の髪をそっと拾い上げられる。
過剰なほどにびくりとしてしまった瀬那がぱっと横を見ると、枢が真剣な表情で瀬那を見ていた。
「なんだか今日は緊張してるな」
いつも自分からは話し掛けてこない枢からの言葉に瀬那は動揺が隠せなかった。
「そ、そんなことないけど……」
「昨日のことでも思い出したか?」
「っっ……!」
分かりやすいほど目を泳がせた瀬那に、枢はクスリと笑う。
「もっと俺のことを考えろ。俺でいっぱいにしろ」
そう言って、一房手にした瀬那の髪にキスを落とした。
瀬那を見つめたまま。
あまりのことに、瀬那は言葉をなくしたようにパクパクと口を閉じたり開いたりと忙しない。
そんな瀬那の顔は耳まで赤くなるほどの熱を持っていた。
その熱でのぼせてしまいそう。
「な、なん、なん……」
言葉にならない言葉を発して頭がパニック状態になる瀬那を放置して、枢は瀬那の髪から手を離しお弁当を食べ始めた。
まるで、先程のことなどなかったかのように。
それからの瀬那は昼ごはんどころではなかった。
だというのに、枢は何事もなかったかのようにいつも通りに戻り、お弁当をパクパクと食べて昼休みが終わる前にさっさと去っていった。
一人になった非常階段で、瀬那は両手で顔を覆った。
この間から枢はいったいなんなんだ。
「翻弄されてる……」
いや、遊ばれているのか?
何故なら枢は好きな人がいると言っていたではないか。
なのに、瀬那に意味深な言葉を残していく。
瀬那でなければきっと勘違いしていただろう。
自分がその好きな人なのだと。
そんなはずがない……。
瀬那は自分にそう言い聞かせた。
いや、言い聞かせている時点で勘違いが始まっていると、頭を振った。
ペチペチと頬を叩いて心を落ち着けると、教室に戻るべく立ち上がった。
放課後、授業は終わったがすぐには帰らずに教室で美玲や他の友人と談笑していると……。
「ねぇねぇ、枢君!」
教室内に響き渡るような大きな声に目を向ければ、愛菜が枢の腕に抱き付いているところだった。
そのことに自然と胸の痛みを感じていることを瀬那は気付きたくなかった。
けれど、目が離せない。
枢に女の子が触れているという光景から。
「離せ」
「やだ!」
枢は愛菜のことを鬱陶しげに見ていた。
それがせめてもの救いだったろう。
もし、枢が瀬那にも向けていたあの優しげな笑みでその手を受け入れていたら、瀬那はどうするのか自分でも分からない。
「瑠衣」
枢が瑠衣を呼ぶと、やれやれという様子で溜息を吐き愛菜の肩に触れた。
「愛菜、離すんだ」
「嫌だったら!」
肩の手を振り払う愛菜に、次第に瑠衣が面倒くさそうな顔をしていくのが分かる。
それは枢もだ。
「ねぇ、枢君。いいでしょう? これから私とデートして」
そう愛菜が言った途端に、クラス中の女子が鋭い視線を愛菜に向けた。
枢相手にデートと言えば枢ファンの逆鱗に触れるのは分かりきっている。
けれどそんな視線には気付かず、甘えるように擦り寄る愛菜の行動がさらに女子の怒りに拍車をかけているのを愛菜は分かっていない。
「離せ」
「オッケーしてくれるまで離さない!」
枢は深い溜息を吐くと、少し乱暴に愛菜の手を振り払った。
「枢君!」
愛菜は抗議の声を上げたが、枢の鋭い眼差しに怯み、悔しげに唇を噛み締めた。
どこからか「ざまぁ」という女子の声がひっそりと聞こえた気がした。
「ねぇ、お願い」
それでもなお諦めず懇願する愛菜に、枢は静かな眼差しを向ける。
「そういうことは好きな奴と行け」
「だから枢君と行きたいの!」
それはもう告白しているのとなんら変わりない言葉だった。
総司は呆れた顔をしており、瑠衣は頭痛を感じているのかこめかみを押さえている。
そして枢は、冷めた眼差しで愛菜を見ていた。
「そういう理由で俺と出掛けたいならなおさら諦めろ。俺はお前の気持ちに応えることはない」
残酷なほどにスッパリと切り捨てる。
けれど、きっとこれほどはっきり言わなければ愛菜は分からないだろう。
いや、それでも愛菜は諦めなかった。
「それって……好きな人がいるから?」
「そうだ」
枢の返事に迷いはなかった。
枢にこんなに想われる人とはどんな女の子なのだろうか。
そう興味を引かれるのは瀬那だけではない、学校中の者がそうだろう。
「誰なの?」
「お前には関係ない」
「関係なくないよ! だって……だって、枢君の近くに女の子なんていなかったもの。枢君の側にいる女の子は私だけで……。枢君は私だけに名前を呼ばせてくれてたじゃない」
あたかも枢の好きな人は自分ではないのかと問うているように聞こえる。
「それはお前が総司の幼馴染みだから自然とそうなっただけだ。名前で呼ぶのだって、最初は止めろと言っていたはずだ。けれど、お前は俺の話を聞かずに勝手に呼び始めた。俺が許したからじゃない」
うんうんと、総司が頷いていたので、枢の言っていることは本当なのだろう。
「で、でも、枢君に一番近いのは私でしょう? だってたくさん話して、私がいっぱい話し掛けても静かに聞いてくれたし」
「いや、それただ無視されてただけだと思うぞ」
総司が横からツッコむが、愛菜には聞こえていない。
「枢君のこと一番よく分かってるのは私だし、一緒にいたのも私が一番だし」
「だから、好きなのは自分だとでも言いたいのか?」
冷たい。凍えそうなほどに枢は愛菜に冷たかった。
だから、枢の好きな人が愛菜ではないとここにいる誰もが嫌でも理解しただろう。
「だって、そんなのおかしい! 枢君に好きな人がいるなんて」
「お前に俺の何が分かるというんだ。総司の幼馴染みというだけで側にいることに文句は言わなかったが、俺が望んだわけじゃない。勝手に俺と仲良くなったと思われるのは迷惑だ。勘違いするな」
「つっ!」
愛菜は枢の言葉にショックを受け、ポロポロと涙を溢しながら教室を飛び出していった。
ざわざわとした教室は、何事もなかったかのような顔をした枢達が帰って行ったことで、いつも通りの空気に変わった。
けれど、クラスの話題になっているのは愛菜のことだ。
勘違い女だとか、調子に乗ってたからいい気味だとか、そんな悪意の言葉が興味津々に語られている。
愛菜に迷惑を掛けられていた瀬那だが、こっぴどくフラれた愛菜のことをざまあみろとは思えなかった。
「勘違いするな、か」
「ん? 瀬那ちゃん、何か言った?」
美玲にはよく聞こえなかったようで聞き返してくるが、瀬那は首を横に振った。
「ううん、なんでもない。私もそろそろ帰るね」
「うん。また明日ねー」
友人達と別れを告げ、帰宅する瀬那の頭の中に浮かぶのは枢の言葉。
勘違いするな。
それはまるで瀬那に言われたように感じた。
何故こんなにも胸が痛いのだろう……。
今日も枢の家の前にやって来てしまった瀬那は、扉の前で溜息を吐く。
本当に誰かに知られたら厄介なことになるだろうに。
特に愛菜とか、枢のファンとか。
けれど、瀬那はここに立っている。
嫌なんかではない。そう、嫌なんかでは……。
むしろ、枢との時間を望んでいる自分がいることに、瀬那は戸惑いを隠せないのだ。
お昼休みの一時。
そのわずかな時間だけで満足していた。
今では明日はどんな料理を作ろうかなんて、心を弾ませながらメニューを考えていた瀬那がいた。
上手く隠しているつもりだった。自分自身にさえ。
けれど、もっとと貪欲な心が溢れてくる。
瀬那の前でだけ見せる、教室にいる時とは違った表情。
それを一つ一つ見る度に心がぎゅっとする。
駄目なのに。
枢には好きな人がいるというのに。
けれど、枢との時間は瀬那にとって今や特別な時間となっていた。
お互い何を話すでもない。
何も話さぬまま沈黙で終わる日だって多々ある。
それなのに、枢と過ごす昼休みは普段とは違う安らぎと胸の高鳴りの二つの相反する心を瀬那に与えた。
けれど、いつまでその時間を共有できるのか。
始まりは突然だった。なら、終わりだって突然ではないのか?
瀬那はそれを今一番恐れていた。
この特別な時間を二人で過ごす。そんな日々が終わることを。
ぼんやりと立ちすくんでいると、目の前の扉が突然開いた。
そこには、呆れた顔の枢が立っていて……。
「いつになったら入ってくるんだ?」
どうやら今日もカメラで見られていたらしい。
「ほら、早く入れ」
「……うん。お邪魔します」
そう言ってから入ると、昨日と変わらないイングリッシュガーデンが外に見えた。
「すぐ作るね」
「ああ」
ここでも特に何か話すわけではなく、お互い言葉数は少ない。
けれど、そのことに不思議と気まずさはなく、むしろ居心地が良く感じる。
昨日とは違って洋食にしようと、オムライスを作った。
半熟トロトロにするのが難しいのである。
慎重に作ったオムライスとスープをダイニングテーブルに乗せ、食べ始める。
ここでも会話はなく、静かすぎる食事が始まった。
思うのは、この時間が少しでも長く続けば良いのにという想い。
けれど、すぐに瀬那は己を律する。
枢にとっては家政婦に過ぎない。
勘違いしてはいけないと。
それなのに……。
最後の一口を食べた枢は一言。
「うまかった」
「本当?」
「ああ。瀬那の料理はいつもうまい」
「お口に合って良かったです」
「なんで敬語なんだ」
「なんとなく?」
「なんだそれは」
互いに小さく笑みを浮かべる。
「明日は何を作ろうかな?」
「なんだっていい」
「それが一番困るのに」
「お前が作るものならなんでも好きだ」
そう言って頬杖をつきながら教室では絶対に見せない優しい笑みを浮かべる枢に、瀬那の心臓がドキリと跳ねる。
けれどその直後、あの言葉が蘇る。
『勘違いするな』
冷たい眼差し。冷たい言葉。
それを思い出した瞬間、瀬那の胸が激しく痛み、胸元の服をギュッと握り締める。
ああ、駄目だ……。
もう、耐えられない。
そう瀬那の心が叫んだ。
「つっ……」
瀬那の顔が苦しげに歪む。
「どうした?」
怪訝な顔で見てくる枢に瀬那は吐き出した。
「ごめん。やっぱりもう作れない!」
そう言って立ち上がった瀬那を枢はびっくりしたように見上げる。
そして、食べ終わった食器を急いでシンクに置き、泣きそうな顔で枢を見る。
「ごめん。ご飯作るの今日で終わりにするね。昼ごはんももう非常階段には来ないで……」
「おい」
「ごめんっ」
そのまま言い捨てるように出て行こうとした瀬那を、枢は許さず腕を掴み引き寄せる。
「なんだ、どうしたんだ急に。何か嫌なことでもあったか?」
枢は何が何だか分かっていない顔をしている。
どこか焦っているように見えるのは、瀬那という食事係がいなくなると思ってのことか。
「作るのが嫌になったか?」
「違う……。嫌なわけじゃない……」
「なら、どうしたんだ?」
今の瀬那には残酷なほどに優しい声で問う枢は、俯く瀬那の頬に手を伸ばし顔を上げさせる。
頬に添えられるその手すら優しく労るような温かさがあり、それが余計に瀬那を辛くさせる。
「止めて、優しくしないで……」
瀬那は手をどかそうとするが、今度は両手でしっかりと頬を包まれて顔を上げさせられる。
逃げられない瀬那と枢の視線が絡み合う。
「何があったんだ? どうした?」
頬に添えられた枢の手。その親指が瀬那の目元を拭ったことで、瀬那は自分が泣いていることに気が付く。
「言わなければ分からないだろう」
なんと残酷なことか。
枢は瀬那の口から言わせようとしている。
この醜い心の内を。
「瀬那」
優しい声色で心配そうに名を呼ぶ。
枢が女の子のことを下の名で呼んでいるところを聞いたことはない。
あの愛菜でさえ。
それが、余計に勘違いさせることを枢は分かっていないと、瀬那は怒りすら湧いた。
「っ。止めて私勘違いしちゃうから」
「何を勘違いするんだ」
「枢が優しいから……。そんなはずないのに。枢には好きな人がいるって知ってるはずなのに。なのに、枢の目が優しくて、だから私は勘違いしそうになっちゃうの。枢の好きな人が私だったらいいのにって」
そう言うと枢はわずかに目を見開いた。
ああ、言ってしまったと、瀬那は胸が苦しくなる。
視線をそらす瀬那には、枢がどんな顔をしているか分からない。
「だからもう止めたい。勘違いした馬鹿な女になりたくないの……。今ならまだ引き返せると思うから」
愛菜のようにあんなに冷たい目で枢に見られてしまったら、立ち上がれそうにない。
だから、その前に終わらせよう。
今度こそ枢の手を離させようとすると、逆に手に力がこもった。
「それを聞いて止めさせるか。勘違いするなら勘違いしろ。むしろさせるためにそうしてるんだ」
視線をそらしていた瀬那は、はっと枢に目を向ける。
「気付け。俺はなんとも思ってない女の料理を食べたり、ましてや家に入れたりしない」
静かで、けれど強い力を持った枢の眼差しが瀬那を捕らえる。
驚いたように目を見開く瀬那は、信じられないという表情を浮かべる。
「それって……どういう意味……?」
「好きなのはお前だ」
「嘘……」
「嘘じゃない。俺が言っていたのはずっとお前だった」
「私、夢見てる……?」
ここにきて信じようとしない瀬那に、枢は焦れた顔をし、瀬那をその腕に抱き締めた。
息をのんだ瀬那に、枢の声が降ってくる。
「ここまで近付くのにどれだけ時間を掛けたと思ってるんだ。夢ですますな」
「だって……だってぇ……」
もう瀬那は半泣きだ。
あの枢が。あの一条院枢が、自分を好きだと言う。
夢としか思えなかった。
「お前はどうなんだ。まさか俺にここまで言わせて知らん振りはさせないからな」
「っ……」
瀬那は抱き締める枢の背に恐る恐る腕を回した。
「私も好き……」
そう口にした瞬間、抱き締める枢の腕の力が強くなった。