その視線に気付いていた
その日瀬那は、学校から帰って夕食の用意をしていたのだが、買い忘れをしたのでスーパーに行って帰ってきた所だ。
ご機嫌でマンションの玄関ホールに入る。
これほど機嫌が良いのは、昨日歩が取引先から上質なお肉をもらってきたことから始まった。
それで歩の大好きなビーフシチューを作ってくれと要望されたのだ。
ビーフシチューは瀬那も大好物。
良い肉ならなおさら妥協はできないと、昨日から肉の下ごしらえをしていた。
後は仕上げて、歩の帰りを待つだけ。
そう思っていたのだが、突然瀬那のスマホが鳴った。
表示された名前は歩。
まだ仕事中だろうに、どうしたのかと電話を取ると。
「悪い、瀬那」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「それがさ、部下が問題起こして今日家に帰れそうにないんだ。しっかり戸締まりしてから寝ろよ」
「良いけど、今日はお兄ちゃんが楽しみにしてたビーフシチューだよ?」
「のぉぉぉ! そうだったぁ! 明日食べるから置いといてくれ」
「明日は取引先の人と会食があるから食べて帰るとか言ってなかった? しかもその次の日から泊まりで出張行くとかって」
「のぉぉぉぉ!」
あまりのうるささにスマホを耳から少し離す。
「諦めてお仕事頑張って」
「くそっ、あいつシメる。こんな時に問題起こしやがって」
「まあ、パワハラで訴えられない程度にね」
電話を切った瀬那は悩んだ。
歩が帰って来られないのは良くあることだ。
若手実業家はなにかと忙しいらしい。
今に始まったことではないのでたいして気にならない。
問題はビーフシチュー。
歩が食べると思ってたくさん作ってしまっている。
とても一人では食べきれない量。
しばらくビーフシチューで過ごさなければならないかと諦めた時、後ろから声を掛けられた。
「そんなところに突っ立って何してる」
後ろを振り向くと、今帰ってきたのか制服姿の枢がいた。
「ちょっと電話してて」
「そうか」
それだけを言って、瀬那の横を通り過ぎエレベーターに向かう枢の背を見ていた瀬那は閃いた。
慌てて枢を追いかけて服を掴む。
急に服を掴まれて一瞬驚いたように目をわずかに見開いた枢は少しよろめいた。
「なんだ?」
「一条院さん……じゃなくて、枢って一人暮らしだよね?」
ここから少し離れた高級住宅街に一条院本家の豪邸があるのは、知る人なら知っている話だ。
枢の家族がそこで暮らしているなら、枢は一人暮らしである可能性が高いと瀬那は思った。
案の定。
「ああ。それがどうした?」
「夕食ってどうしてる?」
「夕食?」
何故そんなことを聞いてくるのか分からないといった顔だ。
「あのね、ビーフシチュー作りすぎて困ってるの。嫌いじゃないなら食べに来ない?」
そうして、枢を家に連れ込む……というのは少し語弊があるが、連れてくることに成功した。
「適当に座ってて」
そう言って、瀬那は買ってきた食材で、料理の続きをする。
コトコトと煮込んだビーフシチューは良い感じにとろみが付いて空腹を刺激する匂いがする。
小皿に少し入れて味見をすれば、時間を掛けたかいのある満足な味になっていた。
ふと、顔を上げると、対面キッチンの向こうからじっとこちらを見ている枢と目が合う。
いつから見られていたのだろうか。
急に緊張してきた。
思い返せば、いくら切羽詰まっていたからといって、枢を家に招くなど大胆な真似をしたものだ。
学校の枢のファンが知ったら血祭りに上げられそうである。
いや、昼休みを一緒に過ごしている時点でかなり問題かもしれない。
瀬那も通う学校は私立で学費が他の学校と比べて馬鹿高い。それ故他の学校よりお金持ちの子がたくさん通っている。
だいたいそういう子は幼稚園の頃から通っており、瀬那や翔のように高校から通ってくる一般家庭出身の子達とは一線を画する。
本物の金持ちというのは、おっとりしていて人の悪口など汚い言葉は口にしない子が多いというのも、あの学校に通い始めて知った。
まあ、中には性格がきつい子もいるが、そういう子は成金だったり、高校からの外部からの入学の子だったりと分かりやすい。
以前虐めを行っていた花巻がそうだ。
けれど、そういう子はほんの一部で、だいたいは品の良い子達に触発され、礼儀正しく過ごしている。
けれど、そこに当てはまらない一部。
それが厄介だ。
行儀良くしている枢のファンクラブの子達だが、過激な者も中にいるはず。
瀬那が枢とこんなに仲良くしていると知ったらどんな手を使ってくるか。
まあ、やられただけで終わる瀬那ではないのだが。
ただ、厄介なことになるのは間違いない。
昼ごはんを一緒にしない方が良いのだろうか。
けれど、今さらな気がする。
それに、枢と過ごすあの静かな時間が、好きだった。
いつからかその時間を楽しみにするほどに。
そんなことを考えていると、鍋が噴きこぼれそうになっていて、慌てて火を止める。
出来上がったビーフシチューを皿に盛り、パンとサラダを添えてテーブルに並べる。
「どうぞ」
「ああ」
枢がスプーンですくって口に入れるのをじっと見る。
しかし、表情が変わらないので美味しいのか不味いのか分からない。
「どう?」
「ああ、美味しい」
「良かった」
それを聞いて瀬那もほっと顔を綻ばせた。
まあ、いつも瀬那の作るお弁当を食べているのだから、味覚が違うということはないだろう。
瀬那もいただきますと食事を始めると、枢が言葉をこぼした。
「こういう料理も作れるんだな」
「え?」
「いつもの弁当。あれも毎日自分で作ってるんだろう?」
「うん。お兄ちゃんと二人暮らしだから、他に作ってくれる人いないもの」
「みたいだな」
「みたいだなって、私が作ってるって知ってたの?」
そもそもだ。急に弁当を作ってこいだとか、もし母親が作っているものだったら、言い訳だとか大変だと思う。
けれど、枢は弁当を毎日瀬那が作っていることを知っていたということか。
「話しているのを聞いた」
「え、何を?」
「お前が弁当は自分で作ってきてるって話だ」
「いつのこと?」
「教室でたまに料理の本読んでる時あるだろう。その時に、いつもいる奴と弁当の献立を何しようかとか、次はこれを作ろうとか話してるのを聞いてた」
確かに、美玲とお弁当の話をしていたことはある。
けれど、そんなことを覚えていたのだろうか。
「そんなこと聞いてたの?」
「ああ、ずっと見てたからな、お前のこと」
「え……」
じっと瀬那を見つめる枢の瞳。
その真剣な瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「ずっと前から見てた。だから自然とお前の話してる声を拾ってた」
「っ……」
今まで視線が合っていると思っていたのは自分の勘違いではなかった。
あの目は確かに瀬那を見ていたのだ。
「勘違いかと……」
ぽつりと溢れた言葉は大きくはなくて、枢には聞き取りづらかったよう。
「ん?」
聞き返すその声は優しくて、瀬那の心をギュッと締めつける。
「勘違いかと思ってた」
今度ははっきりと言葉にしながら、伏せていた視線を窺うように上げると、枢の瞳と重なった。
「目が合ってる気がしてただけで、他の誰かを見てたんだと思って……。そんな勘違いしてる自分が恥ずかしくて……」
「勘違いじゃない」
「……だって、私達話したこともなかったのに」
「そうだな。けど、見てた。ずっと……」
「っ……」
ふわりと枢が微笑んだ。
優しくて、そしてどこか甘さを含んだ初めての表情。
瀬那はドキドキと心臓が跳ね、頬が熱を持つのが分かり、枢の眼差しから逃れるように顔を俯かせた。
恥ずかしい。
勘違いでなかったことが嬉しくて、けれど恥ずかしくて顔を上げられない。
なにを返して良いかも分からなくて口をつぐんでいると、沈黙を破ったのは枢の方だった。
「いつも夕食は一人なのか?」
まったく違う話題に、瀬那は一瞬頭が働かなかったが、すぐに我に返って言葉を返す。
顔を上げた枢はいつもと変わらぬ表情だった。
そのことにほっとすると同時にどこか残念に思った。
「うん。今日は珍しく早く帰ってくるかと思ったら仕事で帰れなくなったみたいだし。いつも仕事が忙しくて帰ってくるの遅いから、ほとんど夕食は一人で取るの。一人分の食事作って一人で食べるのって味気ないけど、お兄ちゃんが忙しいのは仕方がないしね」
「だったら、これからは俺の家に来い」
「へ?」
「一人分作るのも、二人分作るのもたいして変わらないだろう?」
「えっ、そりゃあまあ、そうだけど……」
「なら、明日から俺の家に来たらいい。作ってもらう代わりに食材はこっちで用意しておくから」
「へっ? えっ?」
「いつも弁当を作ってもらってるからな。食材も道具も何も用意してこなくていい。全てこちらで用意しておく」
瀬那を置き去りにしてドンドン話を進めていく枢に、瀬那は動揺して付いていけない。
「いや、あの」
「嫌か?」
そう聞かれて、思わず首を横に振ると、枢が小さく笑った。
「なら、決まりだ」
「えっ、でも、いいの?」
「何がだ?」
「いや、色々と……」
一緒にとは、枢の家にお邪魔することだ。
そこで、料理して、一緒に食べるなんて、まるで恋人のようではないか。
「えーと、ほら、枢言ってたじゃない。好きな人がいるって。それなのに私なんか家に入れたら好きな人に勘違いされたりするだろうし……」
言っていて何故か胸が痛んだ。
そう、枢には好きな人がいると言っていたではないかと。
それなのに出しゃばるべきではないと止めるもう一人の瀬那がいる。
だが、そんな瀬那の葛藤は知らず、枢は言い切った。
「問題ない。そんなことを気にするな。いいな、瀬那」
初めて呼ばれたその名前に、瀬那の鼓動が収まらない。
瀬那は気付いた時にはこくりと頷いていた。