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鳥になりたかった少女5  作者: 葉里ノイ
8/8

第八章『戻』/終章

  【第八章 『戻』】


 親が出張中だと言う斎の家に宰緒を運び、ぐっしょりと雨を吸った上着を無理矢理脱がす。風邪をひくといけないと順に風呂に入ることになり、まずは千佳が風呂へ、斎は宰緒の手当てを、ルナと雪哉で食事を作ることになった。

 その間に宰緒はぽつりぽつりとルナと雪哉にこれまでのことを独り言を呟くように話した。あんなに話すことを嫌がっていたのに、話してしまえばどうと言うことはなかった。ただ少し、後ろめたい気持ちはあった。

 料理の音を聞きながら、それぞれに思う所を反芻する。気を張ることのない緩やかな時間が安心感を与えてくれた。

 そうして沁み沁みと耽っていると、やがて廊下にぺたぺたと裸足の音が迫る。

「いっちゃん、服貸してほしーんすけど!」

「えっ」

 ドアを開け、バスタオル一枚だけを巻いた千佳が現れた。体のラインが露になり髪から滴が滴る。声にルナと雪哉も何気なく振り向くが、大胆すぎる格好に「いっ!?」慌てて目を逸らし料理に集中した。

「小無さん、そんな格好で来たら皆びっくりするだろ」

 然も慣れている感じを出しているが、目を逸らしている。

「えー。だって服全部びしょびしょで着る物ないっすもん。いっちゃんの服貸してよー」

「僕のって……サイズ合わないだろ」

「裸でいろって言うんすか!?」

「…………」

 渋々部屋を出る斎の横顔をそっと振り返って見てみると、少し赤い。強がっているようだが、全然慣れていない。とルナと雪哉は悟った。

 暫しの沈黙が流れ、宰緒は退屈そうにぐったりと横になり天井を見上げている。斎が戻ってきてすぐに、ぶかぶかと大きなシャツに裾を捲り上げたパンツ姿の千佳が元気良く現れた。

「やー、助かったっす! もうあと男子ばっかだし、ちょっと狭いけど次皆でお風呂済ませたらいいんじゃないっすか?」

 戻ってくるなり突拍子もない提案を投げつけてくる千佳に「地獄絵図」と誰かが呟いた。

 提案は無視して一人ずつ順に風呂に入った後、ルナはぐったりとする宰緒の前にミルク粥を置いた。

「暫く何も食べてないみたいだから、サクはこれな」

「……おう」

 支えられながら身を起こし、粥を見下ろす。

「他の皆の分は、冷蔵庫の残り物チャンプルーな」

 雪哉が運んできた皿に千佳は「玉城君料理もできるってもう完璧じゃないっすか?」とときめきの表情。斎は「野菜炒めただけじゃ」とぼやき、雪哉に顎を掴まれた。

「確かに混ぜて炒めた料理だけどな、それを言うと大体の料理は火に掛けただけだ」

「は……はい……」

「味付けとかちゃんとやってるから、混ぜただけでもないよ」

 ルナも念のためフォローを入れる。

「そんなことを言う奴には沖縄土産は渡せねぇなぁ」

 ごそごそと持ってきた鞄から土産物の箱を取り出す。いつの間にそんな物を用意していたんだとルナは考え、家に戻っている間に買ってきたのかと行動の速さに驚愕した。

「ちんすこうっす!」

「小無が土産にって叫んでたからな」

「俺が家に戻ってる時に買ってきたんですか……緊張感ない……」

「ルナの家は俺の家より遠いだろ? 視野が広いって言ってもらえる方がいいな」

「神経が太い……」

「おい」

 騒ぎながら皆で囲む食卓は宰緒にはとても眩しくて、温かい時間だった。ミルク粥が胃に染みた。



 ベッドは千佳に明け渡し男は床に雑魚寝、宰緒だけは手厚く布団で介抱しぐったりと眠った。それぞれが張り詰めた緊張からの解放と疲労で死んだように眠る。

 淡い光がカーテンの隙間から射し込み始めると、雪哉は薄らと目を開けた。

 春休み八日目。

 ゆっくりと身を起こし周囲に目を向ける。まだ全員夢の中だ。携帯端末で時刻を確認し、電車の時刻表に目を通す。

 起こさないように腰を上げ、踏まないように部屋を出る。こんな早朝に起こすわけにはいかない。昨晩のことで皆疲れているのだ。ドアノブをゆっくりと回す。


「あれ……雪哉、さん……?」


 背に呟かれた声にびくりと振り返る。

「……悪い、起こしたか?」

 まだ眠そうな目を擦り、欠伸をしている。

「いえ……大丈夫です。トイレですか? 俺も……」

「あー……いや、トイレじゃなくて、ちょっと外にな」

「外?」

 背を丸めながら起き上がり、ルナも携帯端末で時刻を確認する。

「散歩ですか? 俺も行っていいですか?」

「散歩ってわけでもなくて……あー……わかった、じゃあ着替えろ」

「はい」

 他の者は起こさないように雪哉と共に部屋を出、干していた服に着替える。まだ少し湿っている気はしたが、着られないほどではない。

 外に出ると、肌寒く感じた。雨はもう上がっているようだが、青灰色の世界が物悲しい。

「……兄貴の家に行くんだけど、いいか?」

「お兄さんの?」

「あいつ行方不明ってことになってるから、部屋解約してねぇんだよ。少しだけ……見ときたくてな。前は俺、記憶ないまま帰ったし」

「いいですよ。散歩のついでに付き合います」

「お前、散歩メイン?」

 まだ薄暗い空には静かに白い月が浮かぶ。それを見上げ、ルナは目を細めた。月に囁くように口を開く。

「母さんが日記を残してて、母さんが違界からこの世界に来てからのことが書かれてて、女みたいな俺の名前の理由も書いてあったんです」

「……ん」

 ぽつりと言葉を紡ぎ始めたルナを一瞥し、雪哉も前を向きながら耳を傾ける。

「違界では月はよく見えなくて、だから、この世界ではっきり見える月は平和の象徴みたいで、平和に照らせるようにって、守ってくれるようにって、何か大層なくらい理由がつけられてて、やっぱりあんまり好きではないけど、嫌いにはなれないなって思ったんです」

「……ま、名前がどうとかはともかく、月自体に性別はないからな」

「女性名詞ですけどね」

「日本はそういうのねーから」

 もう一度一瞥すると、ルナは嫌な顔ということはなく、吹っ切れたような顔をしていた。自分の中で一応は嚥下できたらしい。

「……だから雪哉さんも、お兄さんと玉城……花菜さんのこともっと知ったら、ちゃんと呑み込めると思うんです。俺とはちょっと違うけど……雪哉さんは何か、真っ直ぐなんだけど雑念が多そう」

「おいこら」

 黙って聞いていたら突然罵倒をぶち込まれた。軽くルナを小突き、不満げに歩く速度を上げる。

 それから駅に着くまではどちらも何も話さなかった。

 早朝の電車は人も疎らで、青衣を纏った世界を静かに裂いて走る。水面を走るように線路を滑り、薄ら青い駅で待つ人々を吸い込んでいく。線路の上を、繰り返す同じ日常が規則正しく巡ってゆく。

 雑踏に混じり駅のアナウンスが溶け込む。以前来た時は別段意識しなかったが、これがあいつが生きていた日常なのだと、何処か遠い世界のように感じた。

 玉城稔の住んでいたマンションの前に着き、誰とも擦れ違わずに部屋へ向かう。持ってきた合鍵を差し静かにドアを開けると、射し込んだ光でぼんやりと浮かび上がる。中には当然誰もいるはずはなく、しんと静まり、時が止まった世界の中で微かに時計の針の音が聞こえた。

 ドアを閉め、玄関に立ち尽くす。窓から漏れる光で部屋のシルエットが浮かぶ。

「そこにいないのはわかってるのに、何処かにいる気がするんだよな」

 ぼんやりと呟き、何かに呼ばれるように部屋に上がる。

 変わらない部屋の姿がそこにあるだけで、その主はもういない。

「俺にも何か、ないのかな」

 先程のルナの話にあったリリアの日記のように。

 机の上を見渡し、引出しを開けていく。ルナも一緒に何かを探そうと一歩踏み出しかけるが、これは雪哉一人で探した方が良いのかもしれないと思い止まり、邪魔にならないよう部屋の隅で待機した。

 家具もそんなに多くはないので、すぐにそれは見つかった。腕で抱えられるほどの大きさの段ボール箱だった。宛名が書いてあり『玉城花菜』の文字が目に入る。

 箱を引っ張り出し、もどかしくテープを引っ剥がす。ルナも様子を窺いながら覗き込む。

 箱を開けると、中から綺麗にラッピングされた小包とメッセージカードが出てきた。カードには『誕生日おめでとう』と書かれていた。

「誕生日……?」

「……花菜の誕生日が、二月だ。俺らがここに来たのが一月だから……あの時渡すのはまだ早い。つか、プレゼント買うの早過ぎだろ」

 ――ああ、最期まで花菜なのか。

 苦笑し、寂しそうな顔をする。あいつが最期に残したのは花菜のための物で、あいつが最期に選んだのは花菜なのかと、複雑に心が絡まる。

 何か励まそうと、日記の話を先にしてしまったルナは声を掛けるが、あまり良い言葉は浮かばない。

「雪哉さんの誕生日も……」

 きっと何か考えて。と言おうとして、すぐに遮られた。

「俺の誕生日夏だし。まだ遠い」

 小包とカードを持ち、立ち上がる。

「これは持って帰る。少し過ぎちまったが、これは花菜に届けないとな。……俺も記憶喪失で誕生日完全に忘れてたし」

「雪哉さん……」

「別にいいからな、気を遣わなくても。普通にしててくれる方が、ありがたい」

「はい……」

 思いを汲み、それ以上は贈り物の話には触れなかった。

 ぐるりと部屋を一周し、出る時はあっさりとドアを閉める。小包とカードは鞄に仕舞い、顔を上げた雪哉はいつもの顔に戻っていた。


     * * *


一人で廃屋の外で遊んでいたモモは、ふと地面に伸びた人影に顔を上げる。見知らぬミントグリーンの髪に大きなザックを背負い、腕には腕輪をじゃらじゃらとつけている。

「誰……」

「ああ、大丈夫だよ。警戒しなくても。私は違界人の味方、行商の千名艸弥だよ! よろしくね!」

 警戒心を解くために両腕を広げ、にっこりと笑顔を作る。モモの頭には違界の装置が装着されている。違界人であることは一目瞭然だった。

「ラディ――! 変な人来たよ!」

「変!?」

 血相を変え、モモは急いで背後の廃屋に飛び込んだ。

「何だ違界人か!? 敵か!?」

「殺す!」

 バタバタと廃屋の中で物騒な声が聞こえる。

「え――――!?」

 艸弥も慌てつつも、敵ではない意思表示に両手を頭上に高く上げる。ドアを僅かに開けた隙間から四人がこっちを見ている。銃口も見ている。

「ちょ、ちょっと待って! 私は敵ではありません! あ――っと、そう! この中に椎さんと灰音さんはいらっしゃいませんか!? お客様の中に椎さんと灰音さんはいらっしゃったりなんかしませんか!?」

 様子が何やら変だということは廃屋の中からでもわかった。どう対処するかぼそぼそと話し合っていると、呼ばれた椎が反応してしまった。

「はい! 私が椎です! 灰音もいます!」

「お前まで手を上げるな! 顔を出すな!」

 慌てて椎の頭を掴み、灰音はずるずると彼女を小屋に戻す。

 艸弥は反応があったことにほっと胸を撫で下ろした。呼んでいなかったら蜂の巣にされていたかもしれない。

「私は違界の行商をやっております、千名艸弥です! 青羽ルナさんに二人のことを聞いて、ふらーっと捜していた所、違界少女がおりまして! 声を掛けた次第です! 敵じゃないです! 銃下ろしてくださーい!」

 また知っている名前が出て、今度は勢いよく椎は飛び出した。

「あっ、こら! 待て椎!」

「今! 青羽ルナって!」

 久しく会っていない者の名前に、椎は懐かしさと寂しさが混ざった表情をする。

「言いました! 青羽ルナ君が、椎と灰音に会うことがあったらヨロシクと言うので! 偶々見つけたら、まさかこんな人達とは思わないじゃないですか! ルナ君はあんなに優しい良い子なのに! て言うか全員頭の装置フル装備じゃん! 怖っ! もう手下ろしていい!?」

 一気に捲し立てる艸弥に気圧されつつ椎は頷く。ヘッドセットを装着しているとそんなに怖いのか。

「いいですか!? こっちの世界初心者な皆さんに教えてあげます! こっちの世界で頭に目立つ装置をつけてると、臨戦態勢と見做されます! こっちの世界でそんな物必要ないですから! 首輪もです! この世界で暮らすのなら最低限、それは外すのが礼儀です! よもやの事態の時だけつけるくらいに留めてください! 今はよもやじゃないです! むしろ私がよもやだよ!」

「は……はい」

「それから私は! この世界で暮らす違界人のサポートをしてる行商なので! 何か入り用の物があれば販売してるので!」

「は…………はい」

 一気に叫び、ぜいぜいと息を切らせる。

「何か……欲しい物、ありますか」

 漸く話ができそうだと膝に手をつき発言を許す。

 椎が考えている間に、後ろから要求が飛んできた。

「金!」

「食糧!」

「チョコレート!」

「全部こっちの世界のもんじゃねーか!」

 清々しく艸弥のツッコミが決まった。

「あ、いや、オレが言った食糧は、違界ので」

 勢いに辟易ろぎながら言いにくそうにラディは言い直す。艸弥は眉を顰めた。

「こっちの世界で生活するにはこっちの世界の食べ物に慣れないと駄目だよ。少しずつでも。一応違界の食糧も売るけどさぁ」

 腕輪から違界の食糧ボトルを取り出し差し出す。椎と灰音は暫く見ていなかった物だが、随分懐かしく思った。それだけ遠くまで来たということか。

「……あ、でも金銭要求するってことはお金がないのか。うーん……まあルナ君の優しさに免じてツケにしとこうかな」

「助かる!」

 がばりと頭を下げ感謝を表する。ラディはともかく、体の小さなモモにこれ以上何も食べさせないわけにはいかなかった。

 話が落ち着いた所で、椎はやっと艸弥に訊くことができた。先程から何度も聞く、懐かしい名前。

「あの、どうしてルナなの……?」

「ん?」

 食糧ボトルの数を確認しながら顔を上げる。切実な椎の表情に、何かあるのだろうと察する。

「ルナ君が心配してたんだよね。困ってたら助けてあげてほしいってさ。それで私も、気にしてちょっと捜してたんだよね」

「ルナが……心配……」

「そそ」

「私のこと、覚えてたの?」

「え? いやもうばっちり名前言ってたよ? え、何かあったの?」

「あ……えと、その……」

 俯き言いにくそうにもごもごするので、言えないことならと艸弥も無理に詮索はしない。

「……あ、あのっ……!」

 数秒もごもごした後、思い切って椎は艸弥に胸中を打ち明けた。

「艸弥は、害毒の治し方、わかる!?」

「え!?」

 艸弥の中で点と点が繋がる。ルナが治したいと言っていたヴァイアラスとは彼女のことなのではないかと。見た所双眸は青い色をしているが、ヴァイアラスの中にも普段は目が紅くない者はいる。それがこの椎なのだとしたら。ヴァイアラスに近付くのは危険だ。しかもルナが言うには、危険な汚染型。――が。その周囲に三人も人間がいる。共に行動をしている。どういうことだ? と艸弥は首を捻る。

「……それ、誰がヴァイアラスって話?」

 椎は自らを指差す。本当にヴァイアラスなのか怪しくなってきた。

「ちょい待ちな。本当にヴァイアラスか検査してあげる」

「できるの?」

「まあヴァイアラスに近付こうなんて物好きはいないから、使う場面はそうないと思うんだけど、一応あるんだよね。簡易だけど、ヴァイアラス判定紙」

 そう言って細長い紙の束を取り出し、一枚だけ捲る。

「ほい、これ咥えて」

「?」

 言われた通り細長い紙を咥える。半分ほど口から出てしまっているが、良いのだろうか。

 数秒待った後、ぴ、と紙を引き抜く。特に変わった所はない。

「安心してよ椎! 陰性だ」

「陰性?」

「椎はヴァイアラスじゃないってこと。陽性だと色が変わるんだよ。それがないってことは、陰性」

「そうなの!?」

「誰かに言われたのかな? でも大丈夫だから。安心して。椎は普通の人だよ」

「!」

 結理に害毒ではないかと疑われ、ずっと気にしていた。もうルナには会えないのではないかと、胸が苦しかった。その閊えが一気に解消された。泣きそうなほど安堵した。

「よかっ……よかったぁ……」

 と言うより、泣いた。安心したら急に出てきた。

「あらら、不安だったんだね。ルナ君も心配してたみたいだし、良かったじゃん」

「良かったよ艸弥ぃ……」

「あははは、安心した所で、椎は何か欲しい物ある? あるなら……」

「ルナに会いたい」

 腕輪に手を掛けようとして、涙と共に吐き出された言葉に艸弥は目を瞬く。ヴァイアラスだと思い込んでいた故に会うことを我慢していたのだと察した。

「そっかそっか。会いに行くといいよ。――もしかして椎ちゃんはルナ君のことが好きなのかなぁ?」

「好き!」

「えっ」

 そんな面と向かってはっきり肯定されるとは思っていなかった艸弥は面食らう。恥ずかしがる所を弄ろうと思ったのだが。

「灰音も好きだし、皆好き!」

「……割と定番な返しをしてきたね。恋愛感情の話だったんだけど」

 恋愛感情の話をしていたのだが、伝わらなかったようだ。椎が不思議そうな顔をするので、その話はそこで打ち切ることにした。

 恋愛感情と言っても、違界の人間には根付いてしまった恐怖感情が先行してしまい恋愛に至る場面は少ない。感情の意味すら知らない者も多い。椎は見た所まだこちらの世界に来てそれほど経っていない。まだそういう感情が理解できないかもしれない。

 背後から金はないのかと畳み掛けて尋ねる灰音に「お金売るって何なの?」とぼやきながら艸弥の関心もそちらへ向く。

 椎は最後の艸弥の言葉は理解できなかったが、自分が害毒ではなかったと言うことだけで充分だった。理解できなくても問題はないと思った。


     * * *


 この世界に初めて来たのは小学校に上がる少し前、五歳の頃だった。その時はまだ、治安維持コミュニティの研修生のようなものだった。この世界に来て生活の基盤を作る、というのが最初の任務だった。

 彼に出会ったのは小学校に上がってからだった。初めて会った彼の目はこの世界の子供らしいキラキラしたものではなく、虚ろで何かを諦めているような光のない目だった。平和で幸福なはずのこの世界で何かに苦しむ彼を見て、幸せなはずの世界で何故俯いているのか、何が彼を苦しめているのか、興味を持った。

 生活の基盤を守りながら、彼の身辺を調べ上げ真実を知った。

 この時はまだ正義感が割とまともに機能していて、コミュニティの一員として、まずは手の届く所からと考え、彼を守るために強くなろうと思った。

 生活の基盤を守るためにはその家の家族とコミュニケーションを取ることは必須で、違界のことは知らず養女にしてくれた父――年齢では祖父のようなものだが――に彼のことも話した。日々彼を観察していたので話すことと言えば同級生の彼のことばかりとなってしまったのは必然で、必然的に父に仲が良いのだろうと誤解をされ、婚約まで決められてしまった。そんな感情は一切なく、守ろうと思っただけで好きではないと、こっちから断ってやった。違界人とこの世界の人間が深く結びつくことは良くないことだと考えていた節もあるにはある。

 研修生を卒業してからもずっと彼を観察し、彼に魔の手が伸びないよう守ってきた。違界人との遭遇を許してしまったことは後悔が絶えないが、折角自らの意志で逃げる覚悟を決めた彼の家出行為を止めたくはなかったし、東京に戻ってきた時も、想定外のことはあったが彼の意志を尊重すべきだと思った。

 一体何を守りにこの世界に来たのか、仕事は(こな)すが、もう一番が何なのかわからなくなっていた。

 勝手な行動をして謹慎を食らって、誰に言われたのか知らないが転送装置を完全一人用にリミッターをつけるとか何とかヘッドセットごと取り上げられ、いつまで時間が掛かるのかとやきもきして、危害を加えることができないこちらの世界の人間……あの父親が雇ったのだろう男達に不意打ちを受けて腕を折られ、もう踏んだり蹴ったりだ。碌なことがない。それでも――彼が無事と言うのなら、それならもう言うことはない。違界人の影が心配で後ろからこっそりとついて行った甲斐があると言うものだ。

 などと考え事をしながら歩いていると、件の彼にばったりと出会してしまった。

「……あらご機嫌よう。随分と朝が早いのね。……その体、大丈夫なの?」

「飯食って一晩休んだら大分良くなった」

「私はあなたではなく青羽君の目を見ようと思って来ただけなのだけれど」

「ああ……あいつも今散歩中っぽい」

「あら……それは残念ね」

 沈黙。お互い出方を探る。

 左腕に包帯を巻き首から吊っている梛原結理の姿にどのタイミングで話を振るか考えていた久慈道宰緒だったが、すぐに面倒になって率直に訊いてみることにした。

「お前それ……俺の所為か?」

 すぐに結理は不快そうに眉を寄せた。

「自惚れないでもらえるかしら。あなたのためではなく、私のためよ」

「……お前もそんな怪我するんだな」

「そうね。こちらの人間には何があっても危害を加えてはいけないというコミュニティのルールがあるから。だからこれは私の所為で負ったものなの。あなたに心配されるなんて迷惑千万よ」

「…………」

 相変わらず口の減らない結理に、宰緒もやっぱり面倒臭くなってくる。

「……謹慎中にこれでは、私の不甲斐なさが滲み出るだけだけれど」

「……大丈夫なのか」

「骨が折れただけだもの、安静にしていれば治るわよ。戦闘ということなら、何かあったとしても片手だけで充分戦えるわ」

 心配されるのは心底心外とばかり、ふんと睨みを利かせる。

「……強いな、お前は」

 珍しい言葉に、きょとんとしてしまう。

「あら珍しい。会話も面倒臭がるあなたが随分と口が回るわね」

「…………」

「――傷ができたなら治せばいい。欠けたなら補えばいい。いつまでも痛むなら薬で塗り潰してしまえばいい。逃げることは敗北ではないわ。生き残るためには必要なことよ」

「お前はいつでも口が回るな」

「言った方がすっきりするじゃない? あなたはもう少し言った方が良いわよ。自分の中に仕舞い込まずに、ね。大事なものは大切に仕舞うものだけれど、必要のない腐った生ゴミはさっさと捨てるものだわ」

 腕を折りつつも口はいつもと変わらない。言ってやったと満足しているのか、心做しか表情が清々しい。

「でも、あなたが両親を手に掛けることを躊躇ったことは、安心したわ」

「……あれは……別に、生きててほしいってわけじゃねぇからな。刑務所に入ったらゲーム作れねーし。あわよくば家爆発しねーかって思ってるし」

「家が爆発する前にあなたの気持ちが先に爆発してしまったのね」

「……」

「あなた絵が描けないのに文字ばかりのゲームでも作っているの?」

「フリー素材あるし」

「……その辺りのことは私にはわからないけれど」

 結理も宰緒がよくパソコンに向かっていることは知っていたが、何をしているのかまでは把握していない。こちらの世界に来てもう随分経つが、娯楽関係の情報には疎い。

「あー。話してたら傷に響くな」

「帰りなさいよ。こんな所でフラフラ歩いていないで」

 青羽君がいないのなら興味はないと言わんばかりに突き放す。

 起きたらルナと雪哉の姿がなかったので外に様子を見に出ていたのだが、宰緒も帰ることにした。斎の家に。千佳と斎も全く料理ができないわけではないが、しっかり料理ができるのはルナと雪哉だ。要は、腹が減った。料理当番がいないと腹が満たせない。

「結理もまあ……気をつけて帰れよ」

「あなたに心配されるなんて侮辱に等しいわね」

「何でだよ」

「ああ、そうだわ。ついでだから、これをあなたに」

「?」

 紙袋を差し出し、結理は踵を返す。

 不審に思いながらも宰緒も背を向けた。

 空はもう大分白み、一日が始まってゆく。


     * * *


 宰緒の体調がある程度回復すると、三人は飛行機で帰路についた。飛行機の時間まで、千佳と斎はルナに借りた大鎌を振り回してはしゃいでいた。

 どっと疲れ、飛行機の中ではあまり話さなかった。

 まだ傷が癒えていない宰緒は、彼のアパートではなくまた暫くルナの家に厄介になることになった。

 二人と別れ一人で帰路についた雪哉は、食堂の賑わいを避け、家に入る。少し足が重いが、渡す物は渡さなければならない。花菜の部屋のドアを叩くと、少しの間がありドアが開いた。呼ばれて自分でドアを開けられるまでには回復はしているが、まだ表情は浮かない。

「兄ちゃん……? 帰ってたの?」

「ああ。花菜にプレゼントだ」

「プレゼント?」

「俺のはまた今度……ってことで、誕生日の。稔から」

「え……?」

 ぱちりと目を見開き、綺麗にラッピングされた小包とメッセージカードの意味を理解する前に恐る恐る受け取る。

「稔兄ちゃんから……?」

「用意してたらしい。……じゃあ、俺はこれで」

「あ」

 何か言おうとした花菜を遮り、ドアを閉める。あまり長く顔を合わせられなかった。最期に選ばれた花菜に嫉妬しているのだろう。

 渡せた安堵と最期の焼餅を溜息に乗せ大きく吐き出す。こんな調子で今後ちゃんと花菜の兄をやっていけるのか心配だ。

 自分の部屋に戻り、疲れ果てベッドに突っ伏す。

「あー……何でお前なんだよー……」

 枕に顔を埋め、曇った声が低く澱む。

 その直後、ドアを叩く音が部屋に響いた。

(やべ、聞こえたか!?)

 がばりと跳ね起き、ドアの方を見る。

 少し考え、ベッドから下りてそっとドアを開けた。花菜が立っていた。

「……雪兄ちゃん、これ」

 そう言って差し出したのは、細長い箱と、一枚の便箋だった。細長い箱には青いリボンが掛かっていた。

「これは?」

「さっきの包みに入ってたの。だから」

 小包の中身は雪哉は確認しなかった。確かに大きな包みだとは思っていたが、入っていたのは花菜の誕生日プレゼントではなかったのか? まさかこれはプレゼントの自慢か? などと勘繰るが、花菜はすぐに部屋に戻ってしまった。残された雪哉は小箱と便箋を見下ろし首を傾げる。段ボール箱の宛名は確かに花菜だったのだから、花菜宛の物だと思うのだが。

 テーブルの上に小箱を置き、先に便箋を開く。花菜宛の手紙を読まされるなら気が重いと思っていたが、予想に反して便箋に書かれていたのは雪哉の名前だった。

「何で……」

 普段はもう少し働いているのだが、この時は頭が上手く回っていなかった。宛名の意味に気づかず、ゆっくりと目を通す。


『雪哉へ

 雪哉もきっと合格するだろうから、少し早めの合格祝い。

 こっちに住むことになったら、雪哉のことだから僕の家に来るかと思って、大きめの部屋を借りてるから、いつでもおいで。』


 便箋を持つ指先が震える。

「何で……」

 細長い小箱を掴み、もどかしくリボンを解く。包装紙の端が上手く捲れない。

 テープが引き攣り少し破けるが包装紙を剥がし、震える手でそっと箱を開けた。

 中身は万年筆だった。落ち着いた大人っぽい万年筆。金色の金具が眩しい。指で触れようとして、先に滴が零れた。艶やかな藍色の軸にぱたぱたと滴が弾ける。嬉しい気持ちと苦しい気持ちが混ぜ合わさってぐちゃぐちゃで、今どんな顔をしているのか、笑っているのか泣いているのか、わからない。

「何で試験受ける前にもう合格祝い用意してんだよ」

 湿った声を絞り出し、両手の甲で涙を拭う。最期は、花菜だけじゃなかった。兄さんは俺のことも見てくれていて、考えてくれていて、少し先読みしすぎで、ちゃんと俺の『兄さん』だった。

 目の前が滲んで、折角のプレゼントがよく見えなかったが、藍に金色がキラキラとぼやけて、とても綺麗だった。

 啜り泣く声が部屋の外に漏れないよう押し殺すが、それでも涙が止まらなかった。嬉しかった。

「うぅ……」

 もういないのに存在を感じるような気がして、雪哉は困ったように笑いながら泣いた。


 結局の所、兄を妹に取られて嫌だったとか妹を兄に取られるのが嫌だったとかそういう切り離した感情ではなくて、兄も妹も好きだったから二人に嫉妬していたのだと、やっと気づいた。


     * * *


「やっと帰ってきた……」

 やっとの思いで戻ってきた家に、力が抜けて椅子に座り込む。

「お疲れ」

「何でそんなに軽いんだよ」

 同じく椅子に座り込み机に突っ伏す宰緒に不満をぶつける。電気も点けずに、ルナも机に突っ伏した。

「今日は寿司。寿司にしようぜ、青羽」

「寿司は握れないんだけど」

「何で作ろうとすんだよ。出前だろ」

「何か寿司って気分じゃない」

「俺も」

「何で言ったんだよ」

 ぼそぼそと言い合っていると、日常に戻ってきたという実感がぼんやりと湧いてくる。思い立ったその場で近所のコンビニにでも行く感覚で東京まで行って、帰りの飛行機は結局雪哉に頼ってしまった。行きは紫蕗に、帰りは雪哉に幾ら感謝してもしきれない。

 宰緒は今まで通り沖縄のアパートで暮らすことになる。気持ちの面だけは以前と違い、少し気が楽になったと言うか、肩の荷が少し軽くなったと言うか。宰緒の両親のことは、これからも結理が止めてくれるようなので、そこは信頼できると思う。結理の家は有名な財閥らしく久慈道家とも関係があるようで、それを最大限盾にしている。得意気な結理の顔が目に浮かぶ。

「……怪我の方はどう?」

「まだ痛い。けど折れてるわけじゃねぇから、すぐ治るだろ」

「梛原さんは折られたんだよな……」

「あいつが気にしなくていいって言ってんなら気にしねぇ方がいいぞ。――あ、そうだ。結理からスマホ貰った」

「え? サクが電話持つのか!?」

 驚きのあまりルナは机から飛び起きた。宰緒は突っ伏したままポケットから端末を取り出し机に置く。

「んな驚くなよ。俺だって元々は持ってたし……結理が、連絡取れないと青羽君が心配するから、っつって、くれた。お前マジ結理に気に入られてんな。目、気をつけろよ」

「え、俺……?」

 相変わらず目に執着しているようだ。背筋が冷たくなる。

「連絡先入れといてくれ」

「ああ、うん……」

 たぱたぱと画面を叩き、連絡先を登録する。先に結理が登録したのか、彼女の名前も目に入る。ルナも結理から連絡先は聞いているので後で登録しておこう。また何かあった時、結理が連絡してくるかもしれない。非通知かもしれないが。

 連絡先を入力していると、がちゃりと玄関で物音が聞こえた。父はまだ帰ってこないはずだ。だとすると雪哉か? それとも紫蕗?

 端末を置き、玄関を覗く。ドアを開ける音がしたので、知り合いだろうかとルナも廊下に出ると、そこに立っていたのはそれほどは経っていないはずだが妙に懐かしいような、椎の姿だった。

「……椎? 一人?」

 やはりまだ近くにいたらしい。見た所灰音はいない。どうやら一人で来たようだ。何の用かと言葉を待っていると、椎は突然バネのように地面を蹴った。


「――――ルナ!」


「えっ」

 勢いをつけた体は思い切りルナを突き飛ばし――じゃない、抱きつき、ルナは思い切り床に腰を打ちつけた。腰を丸めて悶えるルナを椎は抱き締めて離さない。痛みと柔らかい感触とで感覚が混乱する。

「会いたかったの! 私まだルナに何もできてない! だから、会えないのは嫌だったの!」

「え……? あ……えっと……とりあえず、落ち着こ」

 何の音かと顔を覗かせた宰緒と目が合う。

「どうぞ」

「何がだよ!」

 ルナの声に、椎も宰緒の存在に気づく。

「サクもいる!」

 勢いよく飛び起き、ルナを跨いで駆けていく。一瞬スカートの中が見え、慌てて目を覆った。

「ちょっ、待っ……俺は無理っ!」

 床を蹴り、宰緒にも飛びついた。

「あああああああ」

 怪我がまだ痛むと言っていた宰緒は無惨に床に転がった。

「椎! サクは怪我してるから!」

「えっ? ごっ、ごめんなさい!」

 慌てて飛び退くが、奇襲を食らった宰緒は水から上げられた死にかけの魚のように動かなくなった。

「あれ? サク? サク!?」

 動かなくなってしまった宰緒に焦り、椎はゆさゆさと彼の体を揺する。

「動くと痛むからじっとしてるんだよ。放っといていいよ」

「いや放っとくなよ」

「生き返った!」

 わあわあと騒ぎ、宰緒を客室のベッドまで引き摺っていく。完全ないつも通りの日常と言うわけではないが、こういう日常も良い。少しくらいなら、日常に違界人がいてもいいかと思えるようにはなった。

「あ、つか椎、土足! 日本は土足厳禁だからな!?」

「どうして?」

「どっ……そういうルール!」

「そっかぁ」

 理解はしていなさそうだ。

 確かにこちらの世界に来た違界人は暮らしにくそうだが、最初に椎を拾ったのはルナだ。できる範囲で教えてやろうとは思う。

 椎は嬉しそうにルナに笑いかける。釣られて苦笑した後、声を上げて笑い合った。






  【終章】


 緑の中の小屋で、紫蕗は小さな画面を広げていた。色羽が紅茶を飲んで寛ぐ台所にも画面が次々と流れてくる。

「ししょー。これゴハンの時間までに片付きますか?」

 開け放した奥の部屋から声だけが聞こえる。

「邪魔なら透過させる」

 そういう問題じゃないなー、と色羽は思ったが、黙って紅茶を啜る。大きな耳に画面が掠る。

「師匠も紅茶飲みますか?」

「いや、いい」

 味気ない返事ばかりが返ってくる。装置作りの集中している時でも紫蕗は話を聞いて返事をするが、端的なものが多い。邪魔をするわけにはいかないのであまり話し掛けるのも気が引けるが、部屋をこんなにも画面だらけにするのは初めてだ。気になる気持ちは大きい。

 飲み干したカップを置き、画面を避けて奥の部屋を覗き込む。画面の群れの中、机に向かって座る背中が見える。

「ししょー。ドーナツですよー」

 小声で呼び掛けてみる。今度は反応がない。やはり適当な嘘では動かないかと、色羽は顔を引っ込めた。

 椅子に座り直し、膝を寄せる。お茶菓子のクッキーを食みながら、画面を眺める。

(あっちは何かの資料っぽいけど、こっちは師匠の思念画面だ。師匠の覚書思念、私じゃ解読できないんだよなぁ)

 つまらなさそうに画面を突く。読めないからこそこんなに部屋中に散蒔かれているのか。

 画面を弾き飛ばしていると、ふと漂う見たことのない形の画面を視界の隅に捉えた。それは他の画面を避けてすいすいと泳ぐように揺れながら色羽の前をくるりと回る。

「わぁ! 何ですかこれ?」

 触ろうとすると、ついっと逃げていく。

「青界で見た魚と言う生き物だ。水の中を自由に泳ぐらしい」

「こんなのがいるんですか? あ、近寄ってきた!」

 指を向けると尾を振って近付いてくる。色羽のふさふさの尻尾も合わせて揺れる。

「こんな形の画面もあるんだなぁ」

「画面の形を変えるくらい造作もない。すぐに作れる。動きも青界で見たからな」

「最近よく青界に行ってますもんね!」

「魚を見るだけではないが」

 声が近くなる。振り向くと紫蕗は奥の部屋から出てくる所だった。犇めく画面を見るために眼帯は外してある。

「退屈ならそれで遊んでいろ」

 自分のために作ってくれたと、その言葉で色羽は察した。少し乱暴でぶっきら棒だが、よく気を遣ってくれる優しい師匠だ。

「また青界に行くの?」

「いや。結界の建物を見に行くだけだ。すぐ戻る」

「いってらっしゃい、師匠」

 玄関のドアを開ける紫蕗を笑顔で見送る。魚型画面がぴしゃんと跳ねた。

 小屋を出て畑を抜けたその向こう、森の中に教会のような建物がひっそりと立っている。屋根に所々穴はあるが、結界が張られているため中は見えない。空を浮かぶ小さなカメラを飛ばしてみたが、中は何も見えなかった。城の結界も大きな建物は見えるがその中で生活している人々や街の家々は見えないようになっている。あれと類似する結界であるらしい。

 それともう一つ、城と類似する点がある。色だ。白い建物。成分を調べてみた結果、同じ物だろうと結果が出た。同じ世界の中にあるのだ、同じ成分の壁が存在することは不思議ではない。だが類似する結界が張られている似た建物というのは引っ掛かる。

 紫蕗は手を伸ばしても届かない位置に立ち、預かっている翡翠の指輪を抓み、横に差し出す。

 先日のように得体の知れない手は伸びてこない。

 暫くそのままじっと待っていると、手の代わりに風に溶けそうなほど薄らとした声が直接脳に響くように聞こえてきた。


「――こわがらないで。わたしのセカイのひと」


 目だけで周囲を見渡す。誰もいない。変わった所もない。

「この指輪はお前の物か?」

 少しの間が過ぎる。辛抱強く待つ。

「――わたしの」

 返事が返ってきた。どうやら会話が可能らしい。あの得体の知れない手の主だろうか。

「お前はこの中にいるのか?」

 再び沈黙が流れる。先程より長い間。

「…………」

 だが今度は幾ら待っても声が返ってくることはなかった。

 ここまでか、と踵を返す。

 先日顕われた手の大きさと生えている高さ、そして今し方聞こえてきた声は、どれも幼い子供のものだった。その子供が翡翠の指輪を自分の物だと言った。宝石である翡翠、しかも大人の指のサイズであるこの指輪の持ち主が子供と言うのは妙だ。この建物の中に子供以外にも誰かいると言うのか。小屋に犇めかせていた画面のようにこの建物の中にもうじゃうじゃと誰かがいると言うのは勘弁してほしいが、ないとも言い切れない。何せ中は全くの未知だ。

 指輪を仕舞い、考えながら小屋に戻る。また画面の群れと睨めっこだ。

 畑まで戻ると、風もないのに育てている葉が妙な揺れ方をしたことに気づく。

「…………?」

 思考を中断し、立ち止まる。

 この島で動物は見たことがない。色羽が畑の世話に出てきたのだろうか。それにしては気配が稀薄だ。何より足音が、しない――

「!?」

 視界に捉えた時にはもう眼前に迫っていた。

 反射的に身を引くが、間に合わない。


「大きくなったな。紫蕗」


 足元の草の緑に赤が混じる。

 胸に深々と刃が突き立っていた。

「っ……」

 心臓を一突きにした剣が引き抜かれる。ごぼりと鮮血が吐き出され、膝をついて地面に崩れた。疑問が駆け巡る。

「お前は邪魔だ」

 倒れた視界に映り込む両足は、地についていない。

「城のためにお前が大事にしている物を頂いていく」

 音も無く人影は倒れる紫蕗の傍らを過ぎてゆく。

 虚ろに残る意識の中、必死に頭を回す。『城のため』? 一体何故? 何故ここが?

 考えを巡らせる。きっと偶然ではない。蓋然性を探る。

 城。その中で得た物。指輪か? 城の中のただ一人の町人が? いや、指輪は隈無く調べた。それはない。それより有力なのは、城で治療を受けた玉城雪哉か。内臓に発信機でも仕込んだか。本人にも気づかないように。頭だけでなく体も調べておけば良かった。

 舌打ちをするつもりだったが、上手く動かない。

 原因は後だ。

 この島には今、紫蕗ともう一人、色羽がいる。あいつは小屋の方へ向かった。

(色羽を……逃がさなければ……)

 脳が焼き切れてもいい。朦朧とする意識の中、装置を起動させる。

 もう殆ど視界には何も見えていない。痛覚は遮断してあるが、全身の意識がない。

 ………………。

 地面に広がる赤が、土に染み込んでゆく。

 虚ろな双眸は、もう何も映していなかった。



 小屋の中で泳ぎ回る魚型画面を眺めていた色羽は、溢れる画面に異変が現れたことにすぐに気がついた。

 画面が次々に揺らぎ、消えていく。最後に残った魚型も、ぱしゃんと消えた。

「師匠……?」

 ヘッドセットは装着できないが、形骸化した耳を通して通信が行える装置に、掠れた通信が潜り込んできた。途切れ途切れの声は、心臓の音にでも掻き消されてしまいそうなほどか細い。聞き漏らさないよう、全身全霊で意識を集中させる。

「っ……」

 色羽は音を立てないようゆっくりと立ち上がり、奥の部屋へ後退する。両手で口元を押さえ、呼吸も漏らすまいと目に涙を溜めながら。


(師匠……どうか……!)


 ――――どうか、ご無事で。


 その時、小屋の扉が無造作に開かれた。

 世界が、途切れる。

 しんとする小屋の中で、血の滴る音だけが静かに響いていた。




  fin


鳥なりシリーズも何やかんや五つ目となりました。ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます!まだ続きます!

えらい所で終わらせてしまったので、はよ次書こうと思います!


twitterの方で稀にキャラの絵を描いたりしてるので、よければ稀にどうぞ(*´∀`*)モーメントにも纏めてます。

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