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鳥になりたかった少女5  作者: 葉里ノイ
6/8

第六章『痛』

  【第六章 『痛』】


 案の定と言うか昨日は一日殆ど寝ていて、夜はあまり眠れなかった。それでも少しでも眠れる所は凄いなと思ったが、散らかした部屋を片付けていたら多少は疲れてしまったようだ。

 春休み四日目。今日は手伝いをしようと、雪哉は開店準備のため食堂の前の掃除をする。久しぶりに記憶のある朝を迎えた。まだ混乱している部分はあるが、紫蕗に話を聞いてもらって大分すっきりとしている。両親にも記憶が戻ったことは伝えたが、気は遣わず今まで通りでと頼んでいる。混乱などは気にしないで接してほしかった。その方が花菜も元に戻れる気がして。花菜はまだ寝ていて話せていないが、起きたら話そうと思う。

 あと、散々シスコンだとか何とか宣ってきたルナは、一度締めてやらなければならない。

 箒を動かしていると、ふと視界に足が入ってくる。

「すみません。開店時間はまだで――」

 客かと思い顔を上げ、反射的に飛び退いた。箒を逆さに振り上げ構える。

「何しに来た!?  花菜か!?」

 そこに立っていたのは、暖かい春だと言うのにコートを纏ったままの未夜だった。今ならはっきりとわかる、違界人の存在。花菜に度々接触していた男。

「違う」

 すぐに未夜は否定を口にする。

「――いや違わないか」

 どっちだ。

「随分と元気そうだな」

「……記憶のことか? ハッ、ちゃんと思い出したからな、お前のこともわかる!」

 ビシ、と箒を突き付ける。未夜は迷惑そうな顔をした。

「お前達の様子を見るように言われている」

「は? 誰に」

「久慈道宰緒だ」

「はぁ? あの面倒臭がりに? まあ……色々あったからな。心配させてたなら、悪かったな……」

 箒は下げず、肩は下げる。

「玉城花菜も随分お前を心配していた。一人になってしまったと鬱ぎ込んでいたぞ。昨日、海に飛び込もうと」

 未夜の言葉を遮り、間髪を容れず雪哉は箒を捨てて走り出した。花菜が海に飛び込もうとした? 鬱ぎ込んで? 雪哉が記憶を失っていた所為で花菜が海に身投げしようとしたと言うのか?

 海に飛び込もうとしていたと勘違いして迷惑を掛けてしまった、と謝りたかった未夜は、その場で固まった。雪哉に大変な勘違いをさせてしまった。話を最後まで聞かず飛び出すとは思わなかった。いや、あいつは最初から妹のためなら無茶苦茶な奴だった。

 大急ぎで家の中に駆け込んだ雪哉は、迷わず花菜の部屋に向かった。運動神経が遺憾無く発揮される。


「――花菜!」


 勢いよくドアを開けると、ベッドで眠っていた花菜は何事かと飛び起きた。

「雪兄……ちゃん……?」

 眠そうな目を瞬きながら、ぽかんと呆気に取られている。寝起きの頭では余計に状況が把握できず、布団を握り締める。

「花菜……!」

 花菜の姿を捉え、そのまま駆け寄り抱き締めた。

「!」

 あいつが命を懸けて守ったものを俺の所為で失わせるわけにはいかない。花菜は俺が守ってやらなきゃいけない。だから。

「もう自殺なんて、しないでくれ……!」

 一層強く抱き締める。苦しそうに絞り出された声が、花菜の頭を鮮明にさせた。

 花菜は何故突然兄が部屋に飛び込んできて痛いくらい抱き締めているのか理解した。

「兄ちゃん……私、海に飛び込んでないよ……。海を見てただけで……」

「…………え?」

 話を最後まで聞かず飛び出してしまったのだと思い至る。雪哉の頭の中ですぐに直結した。――早とちりか。

「あ――――」

 花菜を解放し、ベッドに座り込む。頭を抱えて項垂れた。花菜に不審に思われたことだろう。呆れたことだろう。花菜の状態とか雪哉の記憶とか、順序を滅茶苦茶にしてしまった。

 花菜は項垂れる雪哉の背に目を遣り、ふと気づく。

「兄ちゃん……思い出したの……?」

「!」

 ぴくりと顔を上げる。

「わかるのか……?」

 記憶がなくとも家族のように、兄妹のように、違和感のないよう接していたつもりだった。今ほんの少し接しただけで記憶が戻ったと思えるほど確かに変化があったと言うのか。

「わかる……と思う。ずっと一緒にいたから……」

「花菜……」

 握り締めていた布団を離し、花菜は雪哉を抱き締めた。ぎこちなく、少し躊躇うように。

「……良かった」

 花菜の声が震える。本当に記憶が戻って良かった。目から涙が溢れる。もう思い出さないかもしれないと思っていた。こんな――兄を奪った自分なんて。

 雪哉は抱き締める花菜の頭を優しく撫でた。稔の件はまだ自分の中で消化しきれていないが、花菜を責めることだけは違うと、今ならわかる。紫蕗に言われたからと言うより、今抱き締めてくれている温もりは確かに自分に向けられて、それは紛れもない事実で、これは否定できるものではなかった。否定できるはずがなかった。

 花菜が泣き疲れてもう一度眠るまで、雪哉はじっと抱き締められていた。



 花菜をベッドに寝かせた後はそっと部屋を後にし、来た時と同じ勢いで食堂の前まで走り、箒を壁に立て掛けて待っていた未夜に向けて思い切り跳び蹴りを噛ました。

「――貴様、よくも!」

「お前が話を最後まで聞かないからだろう!?」

 未夜は理不尽に襲撃を受け壁に手をついて不満をぶつけた。


     * * *


 窓を叩く雨は止まず、だが音の消えた部屋の中は不気味なほど静かだった。

 床の上で目を覚ました宰緒は、横になったまま目だけで周囲を確認する。

 確認して急に体が冷たくなった。全身の熱が一気に逃げていったような寒さを感じる。忌々しいほど懐かしい場所だった。決して広くはない狭い部屋だが、何もなくてがらんと広く感じる。床が冷酷に冷たい。

 もう二度と戻るつもりはなかった。逃げたままそこで一生を終えるつもりの気持ちでそこを出た。すぐに捕まるかもしれないと思ったが、予想に反して何もなかった。足が付かないよう携帯電話は叩き壊して置いて出たが、それだけが理由とも思えない。何を考えているのか読めない。

 逃げる前までここにはよく放り込まれていた。古傷が悲鳴を上げるように疼く。

 ここから出なければならない。

 頭が少し重い。油断していた所を殴られ、車にでも乗せられ連れてこられたのだろう。人気のない場所に一人でいたのだ、恰好の餌だったことだろう。

(ダッセェ……)

 心の中で呟いた時、重いドアが開いた。宰緒は警戒し身を起こしてドアから距離を取る。

 入ってきた人物は一人だった。ドアを閉め、宰緒と対峙する。冷たく厳しい顔をし、忘れたくとも忘れられない記憶に張りつく男。


 ――――父親だ。


 手が震える。指先でコートを手繰り縋るように握り締める。体に刻まれた恐怖が鮮明に蝕み始める。

 四年ぶりか。父親に会うのは。――この家に入るのは。

 両親を手に掛けようとした報いなのだろうか。だったら神様、相手が違う。俺には迅速な対応で、こいつはいつまで野放しなんだ。吐き気がする。

「お前が家を出て行った時」

 父が口を開くと、反射的に体が強張った。震えを止めるため必死に拳を握り締める。

「お前をすぐに捜し出して連れ戻すこともできたが、事を大きく荒立てたくなかった。最近に琴実の墓参りに帰ってきていたようだが。梛原の娘か……嫌な所で随分とお前に近付けないよう動いているな」

 目線を逸らし足元に落としたまま、目を見開く。

(結理が……?)

 沖縄まで会いに来た結理を思い出す。月日は経っていたが、あまりに簡単に、あまりに適確に学校を特定して来ていた。最初から、逃げた日から、捕まえようと思えばいつでも捕まえられたと、そういうことか。それは踊らされていたわけではなく、結理が一人で久慈道家から宰緒を守っていたのだ。何も言わずそんな素振りもなく、あの変態は宰緒に嫌なものが近付かないように裏で動いていたのだ。

「梛原の機嫌を損ねたくはないが、あまり目障りだと相応の処理も止むを得ん」

「!」

 何も言わず黙って守ってくれていた結理を、この男の手には捕まらせたくない。少し開いた唇が震え、言葉は喉元に貼り付き声は出ない。喉の奥から誰かが声を引っ張っているように、苦しくて声が出せない。心臓の鼓動と呼吸が荒くなる。拳に汗が滲む。

 声が出ないのなら。出せないのなら。錘がぶら下がっているのなら。

 気づいた時には、父親の顔を思い切り殴っていた。

「結理は関係ねぇだろ!」

 同時に、閊えていた言葉が出た。逃げてきた力を思い切り拳に籠めた。呼吸が乱れ肩が上下する。初めて遣り返せた。涙が滲みそうになる。思った以上に拳が痛かった。

「親に向かって何をするんだ!」

 やっとの思いで打ち込んだ一撃は全く効いていないのか、表情を変えない。体ばかり大きくて力がない、運動神経もない自分を呪った。仕返しなどしないよう、歯向いなどしないよう念を込めて産んだのかもしれない。逆らわないよう、従順な人形のように。だったら、そんな人間の所に生まれてしまった時点でもう、勝てないよう設定されていたのではないか。何だそのクソゲーは。涙も出ない。

「うるせぇ! 俺はその何十倍も何百倍も痛ぇ思いしてきてんだよ! お前を親だと思ったことは一度もねぇ!」

「お前は……親に向かって何だその口の利き方は!」

「――――っ!」

 たぶん、普通なら避けられたんだと思う。

 足が床に打ちつけられているように動かなかった。父親に思い切り蹴り飛ばされ、宰緒は床に叩きつけられた。何度も何度も踏みつけられ、ボールのほうに蹴られた。何度も味わったあの痛みだ。空気が押し出されるように、呻く息しか出ない。

 いつも顔色を窺って、親の思う通りに動けないと、話さないと、殴られる毎日だった。学校の成績が幾ら良くてもそれは親にとって当然のことで、褒められたことはなかった。少しでも望むレールを逸れてしまうと、レールの意味がわからなくても殴られた。

 面倒なことはあったけど、何だかんだ逃げてる間は楽しかったな。とふと思った。

 泣くと腹が減る。好きな食べ物は海老で、特にエビフライが好きだと以前言っていた。ドアの横に置いてきたが、今思えば不審な置き方をしてしまった。食べたんだろうか。食べたとしたら、何怪しいもん食ってんだよ、って誰か言ってやってほしい。俺は面倒だから、他の、誰か……。


 ――――帰りたい。


 そう、思った。自分の帰る場所はここではなく、あの場所だ。痛いことは起こらない、心地良い場所。

 蹌踉めきながらも立ち上がる。その様子に父は少し驚いたようだが、四年も経てば成長するものだ。拳を振り上げ立ち向かう。遣り返す拳が握れるのは間違いなく、帰りたい場所があるからだ。世間体だとか自分の病院の跡継ぎだとか、そんなもののために縛られ続けるのは、もう嫌だ。姉を喪うより早く、立ち向かえる力があれば良かったのに。

 だが宰緒の拳は父には届かず、虚しく攻撃を受けることしかできなかった。重い体躯が床に再び叩きつけられ、頭を強く打つ。一瞬息が止まり、意識がぐらりと揺らぐ。

 逃げたお仕置きが痛い。朦朧とする意識の中で、幼い頃と何も変わらない同じ視点の床の景色に、急に笑えてきて口の端がぎこちなく歪んだ。


     * * *


 昼時のたまき食堂は近隣の常連客で賑わう。観光客も来るが、常連客の割合が多い。稀に海外旅行客も来るが、雪哉が見事に英語で接客を行い、雪哉目当ての女性客がひそひそ黄色い声を上げながら見蕩れる。

「雪哉さん英語喋るし注文全部丸暗記だし、凄いよなぁ」

 メニューを見ながら、一人の食事が寂しくなってきてやってきた青羽ルナは食堂の片隅で呟く。

「でもあれ、厨房に注文通す時、口頭じゃ覚えきれないから書けって前に怒られてたよ」

 同じくメニューを見ながら、記憶が戻ったと聞き雪哉の様子を見に来た喜久川拓真(きくかわたくま)がくすくす笑いながら言う。

 一拍置きルナを一瞥し、声を落とす。

「青羽君も大変だったみたいだね」

「大変って言うか……疲れました」

「違界、どうだった? オレは、知ってるけど行ったことはないからさ」

「もう行きたくないです……でも、良い人もたくさんいるんだなと思いました」

「そうか……世界は違っても、生きてる人間の根っこの部分は同じなのかもね」

 内容が内容だけにぼそぼそと喋っていたが、すぐにエプロン姿の雪哉が気づいて寄ってきた。

「あれ? お前らそんなに仲良かったっけ?」

「青羽君とは食堂の前でばったり会ってさ、何となく相席」

「ふぅん……おいルナ、嫌なら嫌って言っていいぞ」

「え、別に嫌では……あんまり喋ったことはないけど……」

「ユキ、困らせないであげてよ」

 メニューから顔を上げ窘める。雪哉と拓真は友人だが、ルナにとって拓真は友人の兄という存在で、同じく立ち位置としては友人の兄である雪哉とも違いあまり話したことはない。雪哉の場合は花菜の近くにいると接近してくるので否応無しに会話の機会がある。拓真とはあまり話したことがないだけで、苦手というわけではない。

「注文決まってたら聞くけど」

「書かなくて大丈夫?」

「後で纏めて書くしレジも俺だから大丈夫」

「この記憶力で記憶喪失って、何の冗談かと思ったよね」

「うるせ」

「オレ、ソバ。もずく天の」

「んー。ルナは?」

「えっ、そんなのあったっけ……じゃあ同じの」

「最近作ったメニューだからな。ルナはルナ割適用な」

「え。何それユキ」

「花菜がルナの頭にソバの器直撃させて、そのお詫びの永久半額サービス。通称ルナ割」

「その言い方は初耳なんですけど」

「直撃痛そう……」

 別の客に呼ばれ、雪哉はまた後でと軽く手を上げ席の間を縫う。

 花菜はまだ調子が戻らないのか、食堂には出ていない。家族経営なので、両親は厨房、雪哉のいない時は母親が接客もしている。今日は接客は雪哉一人で行っていた。小さな食堂なので何とかなっているが、休暇時は客も多くなる。今は春休みだ、雪哉がいてやっと円滑に回転している。

 その様子を暫く眺め、拓真はルナに向き直る。

「そういえば青羽君は違界の行商に興味ある?」

「行商?」

 初めて聞く言葉にルナは目を瞬く。

「こっちの世界に住む違界人のために、違界の物を売り歩く違界人の行商人がいるんだよ」

「初めて聞きました……それ、武器とか売り歩いてるんですか? 危なくないですか?」

「武器は売ってないと思うけど。でも違界からこっちに転送された人はこっちの世界になかなか順応できないから、そのサポートで全国を回ってるんだって。色々と面白い物もあると思うよ」

 武器を売り歩いているのではないのなら危険というわけではないのだろうか。面白い物と言うのはちょっと気になる。

「今丁度この辺に来てるらしいんだけど、会ってみる?」

「いいんですか?」

 危険はなく面白いと言うのなら、会ってみたい気持ちはある。違界の面白い物。きっと青界ではお目に掛かれないような物だ。

「いいよ。オレも買っておきたい物あるし。青羽君も違界関係者みたいだし」

 リリアが違界人であると発覚したおかげで、ルナは違界人のハーフということになった。違界人の両親を持つ拓真よりは違界の血は薄いが、違界関係者と呼べるほどの濃さではあるのだろうなと少し複雑な気持ちになる。

「行商、俺も気になる」

 てきぱきと注文を運んできた雪哉は目敏く聞きつけ、テーブルにもずく天の載った沖縄ソバを置きさりげなく会話に加わる。

「ユキは違界関係者じゃないし」

「違界に行ったのに?」

「身内に違界人がいる人、って意味だよ。ユキの家族、全員こっちの人間だろ?」

「俺の中には違界人がいるぜ?」

「それ内臓のこと? 臓器だけじゃちょっとなぁ」

 渋る拓真に、雪哉は食い下がる。ルナはソバに手を合わせ、箸を割った。

「何で違界関係者じゃねーと駄目なんだよ」

「こっちの人に無闇に違界の物を流すわけにはいかないよ。違界人だって慎重に静かに暮らしたいんだから。例外はいるけど」

「ほら、俺こんな体だし」

 二人の前に熱い茶を置き、自分を親指で差す。拓真はじっとりと雪哉の全身を見回し、溜息を吐く。

「確かに最近怪我は多いけど……別に武器を売ってるわけじゃないからね?」

「前にお前が花菜に使ってた奴が欲しい。いざって時に」

「出たな本音。……まあユキならいいかな。変なことに使わないだろうし。問題が起きたらオレが怒られるから、呉々も使い方は間違うなよ」

「やった。後で休憩貰う」

 拓真とはあまり話したことはないが、この二人は仲が良いんだなとルナはもたもたとソバを啜りながら思う。友人と言えばサクはどうしているだろうかと思ったが、連絡手段は相変わらずないのでどうしようもない。宰緒の家は相変わらず留守だ。タイミングが悪いだけなのか。

「もず天美味しい」

 会話の中で思わず呟き、ルナは二人の視線を浴びた。透かさず雪哉が「だろ?」と笑顔で返す。

「オレも食べよ」

「あ。呼ばれてるから俺行くわ。食ったら呼んでくれ」

 忙しなく去っていく雪哉の背を見送っていると、拓真は箸を割りながらルナに言葉を掛ける。

「青羽君、それオレの奢り」

「えっ、いいんですか? 家族以外は俺が払わないと割引適用外なんですけど」

「え。そうなの? いや別にいいけどね……あとでユキに抗議しよう」

 あまり話したことはなかったが、ちょっと面白い人だなとルナは思った。



 食事を済ませ、客の数も落ち着いた頃、雪哉は客を避けながらルナ達に合流した。

「悪い、待たせた」

「家に連絡してこっちに寄ってもらえるよう言ったから大丈夫だよ」

「どの辺で待つんだ?」

「住宅街は目立つから、海辺に出てきてくれってさ」

 三人で海辺まで歩くと、岩の上に一人の女性が背を向け仁王立ちで構えていた。鮮やかなミントグリーンの髪を纏め上げ、大きなザックを背負っている。

千名(せんな)さん」

 拓真が呼び掛けると、海を眺めていた女性はくるりと振り返り、大きく手を振って岩から飛び降りた。

「拓真君じゃーん! 久しぶり!」

 人懐こい勝ち気な笑顔を向ける。短パンから健康的な両脚がすらりと伸びる綺麗な女性だった。鮮やかな髪色は隠そうとしていないが、おそらく地毛の色だろう。

「久しぶりです」

「後ろの二人は? お友達?」

 ぱちりと目を瞬いてルナと雪哉に目を向ける。ルナは軽く頭を下げた。

「こっちは青羽ルナ君。違界人とのハーフです。その隣が玉城雪哉。違界のことは知ってます」

「へぇ、ハーフ! 初めまして、私は違界の行商をやってる千名艸弥(くさび)です! よろしくね」

 両手を差し出すので、ルナと雪哉はそれぞれの手で握手をする。

「早速だけど、何か欲しいのある?」

「オレは前に買った睡眠スプレーを。あと商品リスト見せてもらっていいですか?」

「あ。使ったんだ。どうだった? 効いた?」

「はい。助かりました」

「そっかそっか。その言葉を聞くために行商やってると言っても過言ではないからね。半分趣味だけど。そっちの二人は?」

 空中に小さな画面を表示し、拓真に渡す。商品リストのようだ。そのまま画面をスライドし、ルナと雪哉の前にリストを流す。

「あの、千名さん」

「何かな、ルナ君」

 じゃらじゃらとつけた腕輪から睡眠スプレーを取り出し返事をする。

 青界に転送された違界人のサポート、という拓真の文言が気になっていたルナは、リストから顔を上げ尋ねた。

「こっちに来た違界人って、そんなに順応するのが大変なんですか?」

 艸弥は考えるように空を仰ぐ。変なことを訊いてしまっただろうか。

「ハーフってことはルナ君はこっちの世界生まれだと思うんだけど、それじゃピンと来ないよね。違界とこっちじゃ食べ物も食べ方も暮らし方も全く違うし、苦労する人は多いよ。こっちの食生活に馴染めない人とか、あと暮らす上でのルールがわからないとかね。お金の問題もあるし、目立つ違界の装置を外して生活するにはこの世界の言語も覚えないといけないし。運良くこっちの世界の人に助けてもらえた人はその後もちゃんと生活してるみたいだけど、野垂れ死んじゃう人もいるよ」

「そう……なんですか……」

「夢を見てこっちの世界に来るけど、こっちの世界のことあんまり知らないからね」

 違界人にとって、住む世界が変わることはそんなに厳しいことなのかと、考えたことなどなかった。ルナの母リリアは祖父母に拾われたと日記の文面から読み取れた。黒葉もアンジェに拾われている。それはとても運が良いことで、イタリアで椎を見つけ介抱したルナは、稀有なパターンだったのだと知った。

 そういえば最近椎と灰音の姿を見ていない。元々日常の中にいなかった二人が今視界に入る距離にいなくても違和感はなかった。突然現れたことが始まりなので、またふらりと突然いなくなっても不思議ではないが、どうしているだろうとふと思った。もしかしたらまだ近くにいるのかもしれない。自分のことで一杯一杯で、あまり周囲のことを考えられていなかった。

「千名さんはこっちの世界にいる違界人は全員わかるんですか?」

「全員はわからないなぁ。電波はチェックしてるけどチェックしきれてないし。私が行商で回ってるのは、違界人同士の言伝頼りなんだよね。あそこに違界人がいたよーって言ってくれれば、私の違界人分布図にチェック入れとくから、何かあったら言ってね」

「じゃあ……椎と灰音って人が近くにいるかもしれないので、もしいたら、困ってたら、助けてあげてほしいです」

「おやおや。誰かいるんだね。わかったよ、安心してルナ君。見つけたら私が助けてあげるよ」

「ありがとうございます」

 安心させるように艸弥は笑顔を作り、大きく頷いた。

「ルナ君良い子じゃーん! 飴あげよっか」

 わしわしとルナの頭を掻き回しボサボサにする。苺ミルク味の飴も差し出すので、それは素直に受け取った。

「そっちのイケメン君は? ここに来たってことは、何か欲しいのあるの?」

 視線を向けられ、リストに目を通していた雪哉は、先程拓真が買ったのと同じ睡眠スプレーを注文した。

「あと、記憶を一部消せる物とか、ありますか?」

 記憶。雪哉の言葉に、ルナと拓真は同時に彼の方を見る。真っ直ぐと何かを決意した目をしていた。

「記憶って、誰の? 雪哉君の? それとも他の?」

「妹です。死んだ兄のことを忘れさせたい」

 ルナと拓真は黙って雪哉の言葉を聞く。彼がそんな風に思っていたとは、気づかなかった。

「それは何故?」

「苦しんでるからです。立ち直れず毎日辛そうで、忘れられるものなら忘れさせてあげたい」

「その子はそれで何か言ってる?」

 雪哉は首を振る。これは雪哉の独断だ。忘れさせてくれなんて言われていない。

「じゃあ駄目だ。記憶は無闇に消すものじゃない。一部だけ消そうと思っても芋蔓式にあれやこれや記憶が引っ掛かってきて忘れたくないものまで消えてしまうかもしれないからね。――それに」

 艸弥は一息吐き、雪哉から商品リストを奪う。

「苦しくて辛いということは、その兄がいた時間は妹にとってとても大切で幸せな時間だったんだろう。死の記憶を消すということは、それが不自然にならないよう生まれて存在していたことも忘れさせる必要がある。その幸せな思い出まで、雪哉君に奪う権利が果たしてあるのか。私は、ないと思うね」

「…………」

「辛くても頑張って支えてやる方がいいと思うよ。君も辛いと思うけどね」

 唇を結び目を伏せる雪哉の肩に手を載せる拓真。艸弥の言う通りだと、雪哉を宥める。

「まあ記憶はやたらと消すものじゃないけど、呑めば忽ちハッピーな気分にさせてくれるご機嫌な薬はあるよ。試してみる?」

「いやそれはいい」

「そう? 辛い気持ちも夢心地ハッピータイムになるよ」

「それ絶対ヤバイ奴だろ」

 断固として首を振る。呑んだら警察に捕まるような奴に違いない。そんな物を花菜に呑ませるわけにはいかない。

「千名さん。それじゃ誤解されるよ」

 え? 違うの? という目で雪哉は拓真を見る。まさかここで艸弥の肩を持つとは思わなかった。

「ヤバイ薬じゃなくて、平たく言えば睡眠薬だよ。普通の睡眠薬と違うのは、必ず幸せな夢が見られるらしい。起きた時の反動はあるかもしれないけど、夢の中だけでも幸せな時間を、っていうコンセプトの薬らしいよ」

「拓真君解説ありがとう」

「いやどのみち変な薬を花菜に呑ませるわけにはいかない」

「俺はちょっと興味あるかも……」

「正気かルナ!? 絶対ヤバイだろ! 夢心地ハッピータイムだぞ!?」

「喜久川先輩がヤバくないって言ってるし……」

「ルナ君お買上げかな!? どうぞ幸せな夢を!」

 香水瓶のような小さなボトルを取り出し、ルナに差し出す」

「一瓶で一週間分です」

「一週間……」

「心配? じゃあお試し一日分小瓶でどう?」

「じゃあ、それ……」

 半ば気圧されつつ小瓶を受け取る。一日分なら何かあったとしても平気……だろう。たぶん。

「ルナって絶対セールスとか断れないタイプだよな」

「わかる」

 そんなことはわかられたくなかった。確かにルナは押しに弱いが、ちゃんと断る時は断れる……はず、だ。

 艸弥も他人事のようにからからと笑っている。

「他に欲しい物あったら聞くけど、なかったらもう行こうかな」

「あ」

 呼び止めるつもりはなかったが、つい呼び止めてしまった。踵を返しかけた艸弥は立ち止まり、向き直る。

「ん?」

「あ……えっと、変なことかもしれないけど……」

「何? 言ってみ? 思春期的な悩みでも」

「そういうのじゃないんですけど、その、害毒を治せる薬ってあったりするんですか?」

「!」

 びくりと反応する。少し考えるように唸り、腕を組む。

「害毒ってヴァイアラスのことだよね。えらいもん知ってるなー。結論から言うとそういう薬はないけど……一部のヴァイアラスの症状を一時的に緩和させる程度の薬なら、あるとか聞いたことがあるようなないような」

 はっきりとしない。

「ヴァイアラスって、何通りか大きく分類できると言えばできるんだけど、症状がバラバラなんだよ。一人一人合った薬を作るってことになるね。だから凄く難しいし、そもそも数があんまりいないもんで、そういうことには皆手を出さないって感じだね」

「……そうなんですか」

「ヴァイアラスに知り合いでも?」

「あ、いえ、そういうんじゃ……」

 紫蕗のことは伏せておく。本人が隠して生きているのだ、他人がほいほいと喋り歩くわけにはいかない。

 紫蕗は自身の害毒を便利に使っているようだが、椎の義足のように他人の物に使って、同調だとか危険性のある行為をしている。害毒の病が取り除ければそういう危険な行為からも手が引けるだろうと考えたのだが、思った以上に厄介なもののようだ。

「ルナ君は何型のヴァイアラスに興味あるの?」

「えっ、型?」

 以前紫蕗もそんなことを言っていた。確か……

「汚染……型?」

 紫蕗は自身の害毒を、血液に異常のある汚染型と言っていた。

 艸弥は驚いたように眉を寄せる。

「えー、やばい奴じゃん! 感染型と汚染型には近付かない方がいいよ! この二つは毒の宿主以外に影響を及ぼすタイプだから!」

「感染型?」

「あ、説明いる? ヴァイアラスのタイプは大きく分けて四つ。一番害がないと言えばない、症状の現れない潜伏型。周囲にはあんまり害のない、宿主を蝕む侵蝕型。宿主の意志である程度操作ができたりもするけど、宿主以外に影響を及ぼす汚染型。それとたぶんこれが一番危ない、空気や媒介により危険な毒が移る感染型。これを二種以上持つ人は混合型って言うらしいけど、汚染型と感染型の混合がいたら世界の終わりだよ」

 紫蕗からは詳しく聞いていなかったが、人々が害毒を恐れる理由がわかった。艸弥の言うように、汚染型と感染型の混合なんて存在したらと思うと恐ろしい。紫蕗は汚染型だが、自身でコントロールできているようだった。悪いようには使用していないようだが、これが悪意ある人間だったとしたら、考えるだけで戦慄する。外見での最大の特徴である目の色は、隠されれば判別のしようがない。

「皆もヴァイアラスには気をつけてね。真っ赤な目を見たらすぐ逃げて」

 非常口のように逃げるポーズを取る艸弥を、紫蕗の害毒のことを知っているルナは知らない振りをして頷き、紫蕗の紅い目を見せられた雪哉も、成程と心の中で思いながら頷いた。ルナの質問の意図にも合点が行く。

「それじゃあ他に何もないなら、皆またね! グッドラック!」

 跳ねるように挨拶をし去っていく。一つ所に留まらない行商は自由なようで忙しそうだと三人は艸弥の背を見送った。

 暫く背を見送り立ち尽くし誰が口火を切るかと言えば、やはり拓真だった。

「――ところで、何でヴァイアラス? 知り合いにいるの?」

 当然その話題になるだろう。この中では拓真だけが紫蕗のことを知らない。

「あ……いえ、何でもないです。ちょっと気になっただけで」

「ふーん、隠すのか……実は前に千名さんから買った、嘘がつけない薬っていうのがあるんだけど」

 何でこう怪しい薬ばかり売っているのか。そして何でこの人は買っているのか。そういう物は違界人がこの世界で生活をする上で必要な物なのか? 絶対に怪しい薬の方が売っている割合が多い。商品リストに目を通したが、笑いたくなる薬など、怪しい物が多かった。

 ルナが必死に目を逸らしていると、拓真はすんなりと身を引いた。

「なんてね。言いたくなければ言わなくてもいいよ。青羽君は焦ってる様子がなくて直接的な害はなさそうだし、何かあるなら言ってくれるだろうしね」

 さすが雪哉の友人と言うだけはある。物分かりが良い。押す所と引く所がわかっている。だからこそ、食えない。

「青羽君達が違界に転送されたって話をユキに聞いて、オレも両親にもっと詳しく違界のことを聞いたんだよ。また色々知れて、そのことに関しては感謝してるんだよ。知らないのが一番怖いからね」

 今たぶんお前が一番怖いぞと雪哉に窘められ、拓真もハッとして慌てて謝る。弟の佑一(ゆういち)はいつもにこにこへらへらとしているが、拓真はそれとは違うようだ。

 全て話すべきだろうかとルナも考えはするが、今はまだいいかな……と少し距離を取った。まだ拓真のことはよくわからない。


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