第五章『家』
【第五章 『家』】
今日も天気が良いので、人気のない海辺まで自転車を走らせる。
昨日の岩場の辺りだと昼間は人がいるかもしれない。静かな場所を探して自転車を止める。
不本意ながら昨夜は仇である少女に武器の使い方を教えてもらった。雪哉がいなければ理解不能な部分もあったが、途中から欠伸を噛み殺しながらも翻訳してくれていた。
大鎌を試しに素振りしようにも家の中では振り回せない。壁に刺さってしまう。
人がおらず開けた海辺が都合の良い場所だった。
頭にヘッドセットを装着し、大鎌を形成する。この動作も少し慣れてきたかもしれない。――あまり慣れたくはないものだが。
教わった通りに鎌を振ってみる。まだ体が引き摺られそうになるが、多少は様になっているのではないだろうか。昨夜振りすぎたか手が少し痛い。
「精が出るな、青羽ルナ」
「っう――わぁ!?」
唐突に声を掛けられ、鎌を振ることに集中していたルナは心臓と刃先を跳ねさせる。
「び……びっくりした……何だ紫蕗か……結構こっちの世界に来てるんだな。何してるんだ?」
何も知らない一般人ではなくて安堵する。
「観測」
一言だけ言い、キャスケットにフードを被ったいつもの姿で、空中に小さな画面を呼び出し何やら指で叩く。
「こんな昼間に、誰かに見られたらどう説明するつもりだ。人除けくらいしろ」
画面を消し溜息を吐きながら歩み寄る。
「人除け……なんてやり方知らないんだけど」
今の画面は人除けをしてくれたということだろうか。
「面倒は御免だからな。その程度なら教えてやるが」
「ありがと……」
鎌の柄を握り直し、気を取り直して一振りする。ヘッドセットの補助があるとは言え、ずしりと重い。
もう一振り、と鎌を振り上げると、振り下ろせないほど重くなった。
「えっ……!?」
補助している装置が壊れたのかと焦りながら振り返ると、紫蕗が振り上げた柄を握っていた。
「遠い。柄の先ではなくもう少し刃に寄せて持て。手の間隔を広く、柄を身に寄せろ」
「! 教えてくれるのか……?」
「いや」
即答で断られた。
ディアの説明は体躯の使い方と言うか、体をどう動かすかということが主だったが、紫蕗は持ち方から教えてくれた。考えてみると納得だが、生まれてから常に自身の両腕を鎌と扱ってきた畸形が、持ち方など知るはずがない。
「鎌も使ったことあるのか?」
「武器も作る。作る物は使える」
然も当然というように平然と答える。どれほどの種類の武器を作ってどれほどの種類の武器を扱えるのか、底が知れなかった。鎌を扱えるということは、鎌も作ったことがあるのだろう。
「あ……」
鎌のことを考えていて、ふと思いつくことがあった。
「な、紫蕗。腕輪で物を仕舞ったり出したりできるけど、部分的に仕舞ったり出したりもできるのか? できるなら家の中でも振れると思うんだけど」
「成程」
すぐに意図を察し、ルナから大鎌を取り上げる。一時的に大鎌を収納フリーの状態に設定し、紫蕗の持つ収納装置での出し入れを可能にした。
「――こういうことか」
ルナに動かないよう指示を出し、質問も聞く耳を持たず紫蕗は構え、体に当たる直前で刃を収納、体を通過してから形成し、振り抜いた。
自身に向かって躊躇なく刃が迫り、ルナは冷汗どころか全身の血の気が引いた。
「いきなりやるな! 心臓が止まるかと思っただろ!」
「つまりこういうことだろう?」
「そういうことだけど! ちょっと走馬灯見えたし!」
「結論から言うと、できたな」
「え!? できるかわからずやったのか!?」
全身から力が抜け、砂浜にへたり込んだ。走馬灯どころか三途の川が見えたかもしれないのか。
「お前ができるかと言うと、それは難しい」
「俺が紫蕗に向かって同じことをしたら?」
「避ける」
「…………」
悪怯れることなく言った。こいつ……。
「これは鎌を振りながら思考を収納と形成の二つに同時に向けなければならない難易度の高い方法だ」
教えないと言っていたが、教えてくれるようだ。へたり込んだ姿勢から正座に切り換える。あの畸形に教えてもらうよりずっと良い。
「違界の装置はそもそも思考を読み取って作動させる物が多い。それは違界が今の壊れた状態になった原因でもある思考共有システムの機能の一部を使ってるからだ」
静聴しているが、話が大きくなってきた。聞き覚えのないシステムは一体何なのか、質問しても良いのだろうか。
「収納も形成も最初の一瞬思考すれば自動的に全体が収納もしくは形成される。お前がやりたいことは、それを途中で止めること。停止の思考を挟むことだ。収納もしくは形成の思考の後に、停止、そして再び収納もしくは形成。この思考を同時に繰返しながら、鎌のコントロールを行うことになる。理解できるか?」
「……し……思考共有システムって……?」
恐る恐る訊いてみる。
「…………誰かから聞いてないのか」
違界人に会う機会は多いが、生憎聞き覚えはなかった。恐る恐る頷く。
「今は……知らなくても問題はない。話が長くなる」
説明を放棄した。後でもう一度訊こう。そう誓う。
紫蕗は木の枝を二本拾い、ルナに渡す。
「文字でも図形でも構わない。左右で違う物を書いてみろ。同時に別のことを思考するとは、そういうことだ」
「はい、師匠」
「お前まで師匠と呼ぶな」
正座の足を思い切り踏まれ、痺れかけていた所為もありルナは砂に手をついて悶えた。一時のノリだったのに。
足を崩して幾つか砂に平仮名を書いてみるが、思ったより難しい。画数が多いともたついてしまう。
「その程度すぐに書けないと話にならないが、そうだな……このくらい書けるようになればいいか」
言いながら左右で二人の名前をすらすらと滑らかに書いて見せる。平仮名でもたついているルナにはまだ漢字は早そうだ。素直に感嘆する。
「鎌振る時でも難易度高いって言いながら簡単そうにやるよなぁ」
「簡単に見えるなら、やれそうか?」
「……難しい。けど、練習してみる」
ゆっくりとだが漢字も書いてみる。それを見て、話しながら書いてみろと更に難易度を上げてくる。だが言っていることは理にかなっている。左右で収納と形成の思考、会話が鎌のコントロールかと考える。
「いきなり俺に向かって振ったけど、失敗したらとか、そういうことは思わないのかよ」
「失敗したらなんてことを思いながら振れば手元に怯えが出るだろ。慎重は良いが、臆病は思考を制限させる。そんな状態で振れば、しなくていいミスもする」
「そういうものか……?」
「勿論、技術は必要だ。それが前提だ。それも無く無謀な挑戦をして失敗して喚く奴はただの馬鹿だろ。お前もいきなり人に振らず、動かない物相手にやることだな」
「人に向けるのは一朝一夕じゃ無理ってことはわかる」
左手の漢字を間違い、ざかざかと消して遣り直す。
「収納と形成は自身から遠くなるほどコントロールが難しくなる。ブレが生じやすくなるからな。それも気をつけろ」
「……色々教えてくれてありがとな。乱暴だけど」
「教えているわけじゃない。出さなくていい被害を出さないようにしているだけだ」
砂浜に文字が量産され、紫蕗は一歩下がる。
(どう考えても教えてるけどなぁ……手は器用だけど口は不器用なのか……)
無言で下がった分戻り、ルナを蹴る紫蕗。
「いって!? そういう所だからな!? 乱暴な所!」
「不愉快なことを考えている気がした」
勘も良い所が腹が立つ。
「心中侵犯やめろよな」
「? 何だそれは」
知っていること遣れることは多いが、わからないことは素直に知らないって言うんだよなぁ。などと思いつつ、枝を動かす。勝手に作った四字熟語だ、知らなくて当然だ。
暫く黙々と手を動かし、紫蕗もうろうろと周辺を観察していたが、ふと近くまで戻ってくる。
「……青羽ルナ」
「……え? 何?」
これも何かの練習かとルナは手を止めない。
「聞きたいことがある」
「え? 紫蕗が? 俺にわかればいいけど……」
紫蕗から質問とは、何だかむず痒い。思わず一瞬手が止まる。青界のことは知らないことも多そうだ。答えられることもあるかもしれない。
「親とはどういうものだ?」
似た質問を昨夜も聞いた覚えがある。
「親? ……紫蕗の親は?」
「存在を知らない」
「ああ……そっか……」
違界の惨状が脳裏を過ぎる。きっと孤児も多いことだろう。
畸形は人間以外の特徴も混ざっているので一概には言えないが、人間ならば赤ん坊は一人で生きていけない。親の存在も知らないということは、一人では生きられない年齢の頃に亡くしたと言える。ならば他に誰か、紫蕗の近くにいたはずだ。
「育ててくれた人は? 誰かいるんじゃないか?」
「…………いる」
「その人は紫蕗にとっての育ての親だよ。血は繋がってなくても」
「失って泣くものか?」
「え!? ……いつ?」
「葬儀の日。堪えていたようだが、少し」
「そこか……」
もしや家で日記を見ている時か昨晩のあれかとも思ったが、流石にあそこで覗き見られていたら怖い。ふとエビフライを思い出し、日記の時は宰緒に見られている可能性があるのかと思い至り恥ずかしくなった。いや昨晩のあれも雪哉に思い切り見られているが。
「俺は……その、見た通りだけど、サクは親のこと良く思ってないみたいだから、一概に泣くとは言えないけど……」
「はっきりしないな」
「紫蕗を育ててくれた人ってどんな人?」
「何故そんなことをお前に言わないといけない」
「お前が親のこと訊いてきたからなんだけど」
あ。もしかしてまた蹴られるか? と身構えたが、蹴りは飛んでこなかった。
「…………人間性はともかく、技師としては認めている」
「へぇ、技師なのか。紫蕗に認められるんなら、凄い技師なんだろうな。もしかして紫蕗の師匠って人か?」
その質問には答えず、代わりに質問を返す。
「会いたいと思うものか?」
「それ俺に言うか?」
純粋な質問に苦笑する。
「父さんには会えるけど……母さんにはもう。会えるなら会いたいって言うか、ちゃんと違界の話は聞きたかった。もう会えないけどな」
空気が重くならないように笑おうとするが、ぎこちなくなってしまった。空気を察してか、紫蕗も目を伏せる。
「俺も……会うために捜してる」
ぼそりと呟くように漏らす。
「――え? 何か言ったか?」
「気の所為だ」
無意識に紫蕗が零した言葉はルナの耳には届かなかったが、無意識に零してしまったことに紫蕗は口を噤む。そいつを見つけるために積極的に技師をやっているなんて、言いたくなかった。名が通ればそいつの耳にも届くだろう。そう思って行動していることは。
「いつまで文字を書く練習をしてるんだ。ここは学校じゃないぞ」
その話は終わりだと言わんばかりに無理矢理会話を打ち切る。
「学校は知ってるんだな」
「昔は違界にも学校はあった。今も城にはあるそうだが」
ふぅんと相槌を打ち、砂を払って立ち上がる。辺りに書き散らした文字を足で消してゆく。
「……なぁ、紫蕗は蘇生師って知ってるか?」
「……? 何だそれは?」
「いや……まあ、いいか……」
「?」
「……うん。ありがとな、色々教えてくれて。買物して帰るわ」
鎌とヘッドセットを仕舞い、手を振り砂を駆けて去る。
釣られて紫蕗も軽く手を上げるが、すぐに下ろした。
(蘇生師?)
青界の言葉だろうか。気にはなるが、答えを聞きたいのはルナも同じようだ。追って締め上げたとしても答えは出てこない。
らしくない質問を最後にしてしまったが、青界の人間の命は違界などよりもずっと重いのだなと理解した。重いからこそ、平和なのかもしれない。
誰もいなくなった砂浜で人除けを解除し、薄暗くなった空の下、紫蕗は一人で浜を歩いた。
* * *
布団を被って蹲っていつの間にか眠り、起きた頃には夜になっていた。ぼさぼさになった髪を撫でつけ、ベッドから下りる。散らかしていた服を踏んだ。後で片付けないといけない。
床に落ちた手編みのマフラーを一瞥する。頭がぼんやりとした。まだ体が重い。
散らかした部屋の中から携帯電話を発掘し、少し考えた後メッセージを送った。直接通話をと思ったが、声が上手く出ないかもしれないと思い、メッセージを送信した。
ドアまでの経路を確保しながら歩き、部屋を出る。普段の顔をしている自信がなかった。まだ食堂にいるだろう両親とは顔を合わせず家を出る。
返信されたメッセージを確認し、自転車に跨る。暗ければ多少顔を見られても大丈夫だろう。
海辺まで自転車を走らせ、砂浜を見渡しながら進む。昨晩畸形と遭遇した辺りで、目的の人物を見つけた。
「――――紫蕗!」
自転車から降り、砂浜に飛び降りる。夕方まで海辺にいたからまだ近くにいるかもしれない、とルナのメッセージにはあった。本当に近くにいてくれて良かった。
呼ばれた紫蕗は振り返り立ち止まる。
「話が聞きたい」
少し声が掠れていた。月明かりで雪哉がいつもと様子が違うことは紫蕗にもわかったが、わざわざ言うことでもないと、何も言わなかった。
「記憶、思い出した」
「…………」
「何で……何で、花菜のために兄さんが死ななきゃいけなかったんだ!」
喉が痛み、咳込む。
状態を把握した紫蕗は徐ろにフードを取りキャスケットを脱ぎ、更に眼帯も外した。白い髪が夜風に揺れ、片眼は耿々と紅く輝く。異質な目に釘付けになる。
「玉城花菜が違界に転送されたのは俺が近くにいたからであり、俺の転送装置が共鳴してしまったからだ。花菜が勝手な行動を取ったのも、違界の毒の空気に蝕まれていることに気づくのが遅れてしまったからだ。すまない」
「は……? いや……何でお前が謝るんだよ……」
理解に苦しむ。話を聞きに来たのに、何故紫蕗の謝罪を聞かなければならないのか。
「俺と花菜は同時に違界に転送された。その後、お前の兄でもある玉城稔と合流した。城は危険な場所で、地雷原のことも話した。にも拘らず、行くと言った。稔はお前のことを『大事な弟』と言っていた」
「…………っ」
止まっていた涙が再び滲みそうになる。もう全て流れたと思っていたのに。
「花菜の所為だけじゃない。あいつはお前を助けるために、妹を守るために行動したんだ。結果はどうあれ、あいつの行動は否定してやるな。お前と花菜は今生きている。それがあいつにとって後悔にならないようにしてやれ」
「っ……!」
「お前が向ける矛先は、花菜でもお前でもない」
「んなことっ……」
乾いた涙が溢れる。
「わかってる……!」
「記憶が戻ったばかりでまだ混乱している部分もあるだろう。今日はもう休め」
「今日はもう休みすぎてんだよ!」
「……そうか」
紫蕗は少し目を伏せ、暫し沈黙する。違界で技師として動き回っていると、色々な人間に出会う。青界の人間とは違う部分も多いが、様々な感情に出会う。恐怖や殺意を向ける者もいれば、安堵や憧憬を向ける者もいた。繋がりは薄いが、身近にいる人間の話を漏らす者もいた。色々な感情に触れている内に、慰めではないが、欠けた部分に手を添えるような言葉を吐くようになっていた。突き放す言葉も吐くが、欠けた部分の痛みが波紋のように広がってきて自身の傷に染みる気がして、それを拒絶するために添えているのだろうか。
これは慰藉ではなく、贖罪だ。
白い髪が月明かりで滲む。背後の暗い海に不気味なほど映える。
「青羽ルナもお前も、きっと情があり、砂の城のように脆いのだろうな」
伏せていた紅い目を上げる。生のない紫の瞳は光を映さず、紅玉は生々しく雪哉の姿を捉える。気が狂いそうな色に、むしろ冷静になっていく。
雪哉は紫蕗から一度目を逸らし、黒い波打ち際に足を運ぶ。
「……悪い。感情的になる相手はお前じゃないこともわかってる。でも何か責める対象が欲しかったのかもしれない。頭が良くて運動もできて慕われて凄いなって言われても、実際俺はこんな不安定だし、そんな思うほど出来た人間じゃねーし、結構幼稚なとこもあると思うし、たぶん、それがわかって認めてくれてたのは、兄さんだけじゃねぇかって思うんだよ。兄さんを奪われて妹に嫉妬して、ざまあねぇな」
寄せた波が靴を濡らす。じわじわと爪先から冷たくなっていくが、気にならなかった。
「お前がなりたいのは、何でもできて慕われるお前か? それとも人間らしく不安定に生きるお前か?」
「わからねぇ……けど、人間らしくって言うのは、気に入った」
海から振り返り、笑って見せる。
波を踏みぐしょぐしょと砂を濡らす。
「話聞いてもらって何かちょっと楽になったわ。ありがとな。お前、カウンセラーとかやれんじゃね?」
「冗談が言えるならもう大丈夫そうだが、もし本気で言ってるなら、やるわけないだろ、そんなこと」
紅い目に眼帯を当て、フードを被る。
「話は終わりだ。さっさと帰って寝ろ」
「いやマジで今日殆ど寝てたんだって」
「知るか」
早足で雪哉から距離を取るので、喉は痛むがその背に声を張る。
「うちの食堂いつでも寄ってくれていいからな! お礼にサービスしてやる!」
聞こえたとは思うが一度も振り返らずにそのまま姿を消す。あまりに呆気なく去ってしまう。誰もいない空間にぼそりと「おやすみ」と呟くが、返事は勿論ない。
雪哉も靴に砂を貼り付けながら自転車に跨り、全く眠れねぇ、と思いながら帰路についた。
少しは普段の顔に戻れた気がする。
* * *
神様がいるかいないかで言うとそんな奴はきっといなくて、その代わり悪魔がその辺を好き勝手闊歩しているのだろう。
降り出した雨に適当なビルの陰に避難しながら、久慈道宰緒は落ちてくる雨粒を見上げる。電飾の光を映した粒が色取り取りに弾ける。
「上手く殺せたのかな……」
雨音に掻き消える程度の声には、雑踏は振り向かない。
「ちょっと良いかしら」
雨を擦り抜け宰緒の耳に届く声。あの悪魔の声ではない。
「あなた、祖父を殺したの?」
「!」
背後に立つ影を恐る恐る振り返る。
「結理……」
表情なく立つ梛原結理は、宰緒の腕を引く。雑踏の前で話す内容ではない。路地の暗がりに誘う。
緊張で唾を呑みつつも誘いに乗るが、背後を確認し逃げることも考える。
「元々死に損ないだったけれど、あなたの祖父は病院で亡くなったそうよ」
「……………」
宰緒は何も言わない。否定もしない。
「……私は良い子のようなことは言わないわ。でもあなたは、わざわざ私達のように血を被る必要はない。殺してしまったら、殺す前には戻れないのよ。祖父の次は両親かしら? あなたの憎い相手のためにあなたが罪を被る必要はない。あなたが思っている以上に、殺すことはあなたを蝕み一生消えることはないのよ」
まさか結理から殺しはいけないと諭す言葉が出てくるとは思わなかった。違界人が殺しを止めろとは、滑稽を通り越して反吐が出る。
「――じゃあどうすりゃいいんだよ! 何処に逃げてもあいつらの影がちらつく! 夜も碌に眠れねぇ!」
そんな感情に任せた言葉、吐くつもりじゃなかった。……八つ当たりだ。結理に言うことじゃない。
吐き出した言葉は取り消せることはなく、結理は両手をよく見えるようゆっくりと上げて見せ、ばちん、と宰緒の顔を力強く挟み込んだ。
「っ……!」
そのままぐいと顔を寄せ、手に引っ張られ宰緒も身を屈める姿勢にさせられる。
「馬鹿ね」
子供に言い聞かせるように真っ直ぐ目を見て言う。
「あなたは馬鹿だわ。あなたは疾っくに彼らを潰す力があるじゃない」
「は……?」
言葉の意味を理解できず、宰緒は眉を顰める。
「あなたの出来の良い頭は飾りなの? 飾りではないのなら、彼らを没落させることもできるのではないかしら?」
言いたいことを理解し、無理矢理目を逸らす。
「簡単に言ってくれる……」
「簡単ではないことはわかっているわ。でも殺しなんて簡単なことに逃げるしかできない違界人のようにはならないで」
「お前……」
もう一度目を合わせると、結理は優しく微笑んだ。……変態の癖に。
「良いことを教えてあげる。あなたはまだ、誰も殺していない」
「?」
「気になる所があったの。あなたが素直に口を割るかわからなかったから、少し煽ってみたわ」
手を離し、長い黒髪を翻し踵を返す。水溜まりに波紋が踊る。
「さあ、久慈道宰緒を誑かした輩を始末しなければ、ね」
「……おい矛盾してんぞ」
「あら嫌だわ。違界にはそんな故事はないのよ」
戯けるように言い、結理は水溜まりを蹴る。弾けた波紋は乱れ、やがて消えた。
元の雨の音が戻り、残された宰緒は雑踏に目を向ける。
結理が言っていた。宰緒は誰も殺していないと。それを信じるならば、あの悪魔は祖父を殺し損ねた? 殺す前に病気で死んだのか。文化祭の時に、祖父が倒れたと言っていた。きっと容体があまり良くなかったのだろう。
(殺して……ない……)
そう認めると、急に力が抜けた。壁に背を預けへたりと座り込み、膝に頭を埋めた。
(…………良かった……)
ぽかりと浮かんできた安堵の言葉は、殺していなかったことに対してなのか、それとも祖父が死んだことに対してなのか。――きっと両方だ。両肩に重く伸し掛かっていた錘が落ちたのだ。
本当は最初から誰かを手に掛ける度胸も空回りの勇気もなかった。でもどうしようもなくて、悪魔の言葉に乗ってしまった。一人で抱え込んで蹲って、もう爆発してしまいそうだった。あの悪魔がいなくても、きっと他の手でも何でも掴んでいた。それだけもうぎりぎりまで追い詰められていて崖から落ちそうになっていた。後ろを振り向けなくて、もう一歩先が崖なんて、気づいていなかった。
言いはしないが、結理に感謝をする。あいつが動くのは青羽ルナ関係だけだが、宰緒がその友人である以上、放っておけなかったのかもしれない。
親のことは目障りだが、一旦沖縄に帰ろう。明日の飛行機にでも――――
――がつん、と脳が揺れた。
「…………!?」
暗い路地の中で僅かな光も届かなくなる。
ぐらりと体が傾き、意思が伝わらない。
どさりと濡れた地面に倒れ込んだ。思い切り頭を殴られたことに、いや近付かれていたことに全く気づかなかった。
大きな体躯は軽々と担ぎ上げられ、意識を失った体は人形のように抵抗なく肢体をふらふらと彷徨わせる。
降り頻る雨音で雑踏に音は届かなかっただろう。誰も歩みを止めることはなく、見えない壁でもあるように、何も知らず通り過ぎてゆく。
結理が消えた暗がりにまた、一つの影が消える。
* * *
「ところでお前はいつまでここに居座る気なんだ」
小さな明かりの前で胡座をかいて、じっとりと突き放すように灰音は言った。
小さな廃屋の中で犇めきながらラディは目を逸らす。
「……良い場所が見つかるまで……」
「ふざけるなよ。狭いんだよ!」
勢いよく立ち上がり銃を形成する灰音を椎は慌てて宥める。ラディも腰を浮かせ、モモも一歩飛び退く。
「じゃあオレはいいから、モモだけでも! あと食料!」
「図々しいな! 外の草でも食ってろ!」
「食えるのか!?」
「知らねーよ!」
叫び合い肩で息をする。
「わ……わかった。草を見てくる」
「おう……」
ついて行こうとするモモは制し、少しその辺歩くだけだからとラディは一人で廃屋を出る。灰音も座り直し、ペットボトルから水分補給した。
潜む拠点問題と、食料問題。この世界で生きていくためにはそれらが必要だ。様々な場面で必要になる金もないし、金を得るための働き方も知らない。こちらの世界の人間には迷惑を掛けないようにしたい。そうして避け続けていると、もう限界が近くなってしまっていた。目立たないよう夜に行動していると余計に誰にも会わず、更に距離ができてしまった。助けの乞い方もわからず何処にも行けず、小さな廃屋で膝を抱える毎日だ。
椎については少し事情は異なり、害毒に冒されているのではないかと結理に言われたことを引き摺っていた。違界で行動を共にした時などは仕方のないことだったが、ルナに近付くなと言われ、ルナのためにも近付かない方が良いのかと、会いたい気持ちと葛藤していた。答えは出ないまま、もしかしたらルナはもう私のことを忘れてたりしないかなと思うこともあった。
ペットボトルを転がし、中で揺れる液体を見詰める。
「うわあああああ!!」
外で絶叫が上がった。
「何だ……!?」
徒ならぬ声に、銃を手に警戒する。
「ラディの声!」
「何だろ、警察かな……?」
「警察を見てあの反応なら、油断し過ぎだと思うが」
とにかく外の様子がわからなければどうとも判断できない。恐る恐るドアを開け、細い隙間から三人は外を窺った。
「……誰かいるな」
「暗くてよく見えないけど……」
「ラディ、もう少し横! 横に避けて!」
誰かと距離を取って構えているラディの後ろ姿から、相手は警戒すべき人間なのだと察する。じりじりと後退し、廃屋のドアに背をつける。
「……おい、あれはお前達の知り合いか?」
目線は相手に固定したままで背後に問う。
「お前が隙間を塞いだ所為で何も見えないが。退け」
「横! 横に避けて!」
隙間から灰音は銃口で、モモは指でラディを突く。
「あいつ……畸形だよな?」
ざわりと全身に寒気が走った。緊張感の種類が一気に変わる。灰音はライフル銃を構え直し、椎も両手に銃を形成、モモもナイフを握り、臨戦態勢を取りドアの脇に移動する。
「ラディ、ドアから離れて畸形の注意を引き付けろ」
「引き付けろったって……オレ、畸形見んの初めてなんだけど。普通の人間の動きをするのか……?」
「どんな畸形?」
「襲ってくるなら、もう襲ってきてもいいと思うんだが……動かない。様子を見られてるのか……」
灰音と椎は顔を見合わせる。畸形はこちらが先に攻撃を仕掛けてくるのを待っているのだろうか。
「襲ってこないなら話し掛けてみようよ」
「椎に危険が及ばないなら賛成」
「無茶言うなよ……話が通じるのか?」
ラディに対話を押しつけ様子を見ることにした。「まずは挨拶」と椎が指示を出すと、戦々兢々ラディも従う。
「こ……こんばんは」
緊張感は走るが、何だこの茶番はと灰音は呆れる。
「オマエ、誰だ」
挨拶ではないが、言葉が返ってきた。少女の声だ。
「後ろ、誰かいる」
廃屋の中に三人がいることに気づいている。
ラディはじりじりゆっくりとドアの脇に身を避け、三人はごくりと息を呑んだ。
灰音が思い切りドアを蹴り開けるのと少女が身を低く下げるのは同時だった。
乾いた発砲音が空気を裂き、少女は自身の鎌で弾き一気に距離を詰める。ドアの脇に避けたラディに鎌の一つを、もう一つを灰音達の首筋に向け、ぴたりと停止する。
「…………」
接近されたことで、相手が何なのかやっとわかった。
散々苦労させられたカマキリの畸形の少女。後ろについでにもう一人、同じような畸形の少年まで立っている。
「……またお前か。首を落とされ死んだと聞いてたんだがな」
冷汗が流れる。以前は雪哉やルナを狙っていたはずだが、今度はこっちか。
少女は暫しじっと様子を窺った後、鎌はそのままに口を開く。
「殺しに来たわけじゃない。ついで、謝りに来た。ごめんなさい」
「は……?」
凡そ想像し得ない言葉が少女から飛び出した。
「ポンコツとゴミは謝った」
「ポンコツとゴミって何だ?」
話が見えない。後ろに控えた少年が「ディア」と少女を窘める。
「……違った。ルナと、花菜のお兄ちゃん」
「!」
「二人に何かしたの!?」
鎌の所為で動けずもどかしい。悔しいが、この畸形の少女は強い。何もできないことに唇を噛む。
「鎌、使い方教えてやった。少しマシになった」
「え……?」
「どういう状況だそれ」
さっぱり意味がわからなかった。この少女にルナは母親を殺され、雪哉は重傷を負わされた。それは聞いている。その少女が何故、鎌――これはおそらくルナの持つ大鎌のことだろうが、使い方を教えるとはどういう成行きだ。二人は少女を恨むことはあれど教えを乞うことはないと思うのだが。
理解ができないでいると、控えていた同じ畸形の少年が代わりに口を開いた。
「僕は彼女の双子の兄のマトと言います。ディアのことはお二人にも説明しました。あなた達にも迷惑を掛けたようで、謝りに来たんです」
「謝る……?」
マトはルナと雪哉に話したことを灰音と椎にも話す。転送事故のこと、不安だったこと……。そして成行きで鎌の扱い方を教えることになったことも。
そして、危害は加えていないこと。
「知らなかった……」
危険な畸形が知らない間にルナ達に接触していたこと。結果的に何もなかったから良かったものの、大事になりかねなかった。違界人であっても最大警戒対象である畸形が突然目の前に現れて、どれほど怖かったことだろう。恐ろしかっただろう。謝ると言ってもルナが母親を殺されたことは紛れもなく事実で、許せるはずもないだろう。どんな気持ちで謝罪を受け入れたのか、受け入れなかったらどうなるかと恐怖もあっただろう。それを考えると、椎は堪らず涙を零した。
「椎……?」
突然涙を流した椎を灰音は銃を構えたまま訝しげに見遣る。
マトに耳打たれ、ディアは鎌を下げた。
「守ってあげたい……」
椎は銃を持つ手を下げ、座り込んだ。
「私、ちゃんとルナを守ってあげたい……! 最初から私ばっかり助けてもらってる……最初に転送してきた時も、義足が壊れた時も! 私、何もお返しできてない……」
想いが零れる。今まで心配させないように、不安にさせないように、笑ってきた。せめて傍にいて守りたいと思った。だがそれも止められた。傍にいることさえ困難になった。
「オマエ……何故泣く?」
今度はディアが感情を理解できずに怪訝な顔をする。
「私、謝った。謝ったら泣く?」
「違うの……ルナのこと考えたら、わからないけど、止められなくて……」
銃を置き、目元を拭う。何故こんなに涙が出るのか椎にもわからなかった。
「ルナのこと? あいつは……ルナと花菜のお兄ちゃんは、たぶん、怒ってた。でも私のこと、考えてくれた。マト以外のニンゲンも話せると知った。それはたぶん、わからないことで、少し嬉しかった」
辿々しく言葉を探しながら、感情を見つけながら、ディアは少しずつ言葉を紡いだ。
「マトといると嬉しい。それと少し似てた。他の皆は誰もすぐ怯えて、怖がって、話すニンゲンいなかった。だから、謝った時オハナシして、花菜もオハナシしたけど、言葉難しい……」
しゅんと睫毛を伏せる。
「花菜のお兄ちゃんはゴミだけど、私の言葉、凄くわかる。凄い、ゴミ」
褒めているのだろうが、完全に罵倒になってしまっている。何故その呼び方に至ったのだろうか。
「とりあえず……危害を加えないと言うなら、それに関しては良い……のか?」
危害を加えないと言うことも俄には信じられないが、嘘や茶番という雰囲気ではない。少なくともこの兄であるマトが傍にいる時は危険はないという認識で良いのだろうか。灰音は椎の肩を叩き下がらせる。ともあれ完全に警戒を解くわけにはいかない。
モモも下がらせ、収束したのだろうかとラディも廃屋に戻ろうとするが、灰音に蹴られた。
「オマエは外で見張りでもしてろ。そこの畸形が何かしないようにな」
「えっ」
ばたんとドアを閉められる。締め出された。
残されたラディは恐る恐る振り返る。警戒されるのは百も承知と、マトは柔和に対応する。
「僕達は警戒されるのは慣れているので。無闇に危害を加えることはないようディアにも言ってあります」
「お、おう……」
そう言われてすぐに安心できるものでもない。両腕が大鎌に変化している畸形が二人も目の前にいて安心しろと言うのは無茶な話だ。
「そういえば、オマエは何だ?」
軽く鎌を振る。指を差しているのかもしれないが、攻撃されるのではと身構える。
「オレは……ルナのお兄ちゃんだ。ちゃんと血も繋がってるぞ」
正確には叔父だが。
「! ルナにもお兄ちゃん、いる?」
仲間意識でも芽生えたのか心做しか嬉しそうに見える。ディアには兄しかいない。同じように兄という存在を持つ人間に単純に興味を示しているのだろう。
「ルナはポンコツだけど、オマエもっと弱そう」
「おい」
少ない言葉だが、適確にラディに刺さった。
会話ができることに興味があるのか、夜の間暫くディアとマトはここから離れてくれなかった。