第四章『鎌』
【第四章 『鎌』】
その日の夜はあまり眠る気になれず、ルナは収納装置の腕輪を持って家を飛び出した。
宰緒は家に戻ってこないままで、昼間雪哉と別れた後に彼の家にも行ってみたが、留守のようだった。中で寝ているだけという可能性もあるが、何も言わず姿を消したこと、そしてあのエビフライは何だったのか、そのことはずっと頭の中で靄が掛かっていた。エビフライは美味しく頂いたが。
明かりも疎らになった家々を見下ろす空には星が瞬き、細い月が浮かぶ。穏やかな夜風に当たりながら海辺まで自転車を走らせ辺りを見渡す。――誰もいない。
道の脇に自転車を置き、砂浜に下りる。木の陰で腕輪から大鎌とヘッドセットを形成し、岩に腰掛けた。鎌を月に翳すと、鋭利に輝く。
それをぼんやりと見上げる。ヘッドセット無く鎌を持つと蹌踉めきそうなほど重いが、ヘッドセットを装着すると、嘘のように軽くなる。脳のリミッターに働きかけて身体能力を上げているのだとか……。それだけだと体が悲鳴を上げるので強化の力も付与しているとか何とか。話を聞くだけでは魔法としか思えない。
母リリアが違界でずっと握っていた武器。刃毀れもなく綺麗に磨き上げられている。青界に来た後も欠かさず手入れしていたことを窺わせる。
「……Falce di luna」(三日月)
空を見上げながらぼんやりと呟き、瞬きの間の後、岩から飛び跳ね砂浜を駆け、思い切り大鎌を振り抜いた。風を切る音が重い。
「お守りにするには大きいよな……」
溜息を吐き、岩に戻ろうと振り返ると、心臓が思い切り飛び跳ねた。
「っ!? ゆ……雪哉さん」
紫蕗に連れられて行った違界で幽霊のようなものを見た直後だったので、失礼だが幽霊かと思ってしまった。
「走ってたら姿が見えたからな」
「目、良いんですね……」
乗っていた自転車をこちらも脇に置き、砂浜に下りてくる。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「こっちの台詞だ。俺は、きっかけがあれば記憶が戻るって話だからな、その辺走り回ってきっかけ探ししてるんだが……今の所ないな」
残念そうに目を伏せ、ルナの持つ鎌に目を遣る。
「俺は、家の中じゃこの鎌は出せないので……ここなら誰もいないかと思って」
「悪い、邪魔したか」
「いえ、大丈夫です。雪哉さんは違界のこと知ってるし」
「そうか……じゃあついでなんだが、俺の記憶を思い出すきっかけ、何か心当たりあったりしないか? 学校が有力かと思って行ったんだが、何もないっぽいんだよ」
岩場に凭れ掛かり溜息を吐く。
ルナも力になりたいとは思うが、そんなに昔のことは知らない。力になれないかもしれないが、思ったことだけは言ってみることにした。
「紫蕗が、精神的な傷に蓋をしたって言ってたのが少し気になるけど……昔、何かあったとか……トラウマとか」
「それがわかれば記憶は戻ってるな」
「ですよね」
「学校じゃないなら、やっぱり家か?」
「アルバム見てみるとか」
「あー。それはいいかも。アルバム……アルバム何処に仕舞ってあるんだ俺」
頭を抱える雪哉にルナも苦笑する。記憶を取り戻すのは想像以上に大変そうだ。
「なあ」
そしてふと、雪哉はぽつりと漏らす。
「記憶がある時の俺と記憶がない今の俺、どっちがいい?」
「……え?」
「花菜にとってどっちがいいかって考えてたんだが」
夜の空気がそうさせるのか、感傷的にでもなっているのだろうか、らしくない。
「玉城……花菜さんのことがわからない雪哉さんは雪哉さんじゃないって言うか……シスコンじゃない雪哉さんは、その、逆に気持ち悪いって言うか……」
「おい、何言ってんだお前」
「花菜さんも、自分のことを忘れ続けてるお兄さんを見るのは辛いと思う」
「……。そうか……いや、お前がシスコンなんて言うから、実は花菜に迷惑掛けてたんじゃないかと心配してな……」
「大丈夫です。気にしてる方が変です。シスコンは雪哉さんのアイデンティティーです」
「俺を混乱させんな」
雪哉も色々悩んでいるのだなと、ルナは深く噛み締めた。頭が良くて運動もできて生徒会長も務めて、それでもこんなに悩んで考えて、悩んで溺れそうになっているのは自分だけではないのだなと少しだけ心が軽くなるのを感じた。仲間意識とでも言うのだろうか。
「結構色々言ってくれてるが、俺が失った記憶を取り戻しても、記憶を失ってる間の記憶は消えないと思うんだが、それは大丈夫か?」
「……すみません」
急に冷汗が出てきた。纏っている雰囲気が多少異なるためシスコンや気持ち悪いなどあまり気にせず言ってしまっていることに気づき、記憶が戻った時のことを考え身震いした。妹の花菜のことは何も悪く言ってはいないので大丈夫だとは思うが……。
「その、悪気は何もなくて……!」
雪哉から距離を取るように踵を返し、だが砂に足を取られて縺れ、鎌の柄が思い切りすっぽ抜けた。
「あっ……」
鎌は、いつの間にそこにいたのか真っ直ぐ立っていた人影に弾き返され勢いよく宙を走り、雪哉の凭れる岩――彼の傍らに深々と突き立った。
「――へ?」
はらりと数本、髪が落ちる。
「俺……首、ついてる?」
「つ、ついてます……」
飛ばされた鎌と雪哉に目を向け無事を確認し、恐る恐る振り返る。
今一瞬確かに捉えた。そんなはずはない、と思いながら振り返る。心臓の音が煩い。そんなはずはない。あれが、生きているはずはないのだ。
「なん、で……」
そこに立っていたのは忘れもしない、忘れられるはずもない、腕に大鎌を携え銀の双眸を光らせるカマキリの畸形の少女。
確かに、リリアが命を賭して首を落とした。
それが、ここにいる。立っている。動いている。――生きている。
呼吸が乱れていくのがわかる。一体どういうことだ。これは。
雪哉はカマキリの少女のことも記憶から抜け落ちていたが、これが普通の人間ではないこと、違界の畸形であることは一目瞭然だった。ルナの様子からも、危険な存在であることはすぐに理解できた。岩に足を掛け刺さった鎌を引き抜く。
カマキリの少女は、鎌を弾いた自身の腕を下ろし、じっと様子を窺う。一人でも厄介なのに、更にもう一人、少女の背後に少年が立っていた。羽織った外套から少女と同じように大鎌が覗いている。こちらは少女よりもやや小柄だが、大きさの問題ではない。少女の首を持って去った少年だ。その少女の首は今は体の上にしっかりと繋がっている。
「死んだはずじゃ……」
握った拳に汗が滲む。逃げなくては。すぐにここから離れなくては。
じり、と一歩後退すると、すぐさま少女は声を発した。
「待って」
立って動いて生きて喋っている。幽霊だったらまだ良かった。鎌を弾いたことで、その可能性もない。
「謝る。ために来た」
「え……?」
発言が理解できなかった。脳に酸素が足りない。
「マトに怒られた。花菜にも言われた。殺して、ごめんなさい」
「は……?」
この畸形がまともに言葉を発していることにも驚いたが、最後の一言は一体何なのだ?
「花菜のお兄ちゃんも、ごめんなさい」
雪哉は記憶を失っているため更に理解が及ばない。この化物から花菜の名前が出てくることに違和感もあり、状況が呑み込めない。
「マト」
反応がないことに痺れを切らせたのか、畸形の少女は背後に控える少年を呼んだ。少年は小さく頷き、警戒させないよう距離は縮めずに口を開く。
「初めまして。……というわけでもないですが、僕はこの子の双子の兄のマトと言います」
兄を名乗った少年は、少女よりも流暢に言葉を紡ぐ。
「この子――ディアは、他者の転送に巻き込まれた事故でこの世界に来ました。その不安と、日頃から扱いが難しいこの両腕の鎌で体が傷付けられる痛みを振り払うため、攻撃的になっていました。その所為でたくさんの方に迷惑を掛け、傷付け殺してしまい、どうしても謝らせたかったんです」
言っていることの言葉自体は理解できた。だがそれで、殺したことを許せるはずはなかった。彼女の裸の脚は小さな傷だらけで、自身の大鎌で傷付いていることはわかった。だがそれは、外に感情を向けて良い理由にはならない。
「その、ディア……って子は、首を落とされて、あれで、生きてるんですか……」
声が震える。生きていることがどうしても信じられなかった。まともに会話ができるなら、確認しておきたかった。
「ディアはあの時、死にました」
今度は言葉の意味すら理解できなかった。
「どう、いう……」
思考が乱れていく。
「死んだ直後というのはまだ魂の欠片が残っていて、短い時間ですが、一定の時間内ならば蘇生させることができるそうです。勿論、それが可能な人間は多くいるはずもなく、僕が知っているのは一人だけ。きっと唯一です。技師や医師と言うよりは、蘇生師とでも言うべきでしょうか。その人にディアを診てもらい、蘇生してもらいました」
「死んだ人間を、生き返らせた……?」
聞く限りこれは稀有な例だ。違界の中でも深く浸透した技術ではないのだろう。だがその例を、選りに選って、リリアが自身の命と引き替えに葬った相手がこうして命を繋ぎ止められて戻ってくるというのは、笑えない冗談だ。
様子を窺いながらじりじりと距離を詰めていた雪哉の手から奪うように、ルナは鎌を掴む。
「母さんが、どんな思いでっ……!」
力の限り地面を蹴る。砂に足が呑まれるが、構わず鎌を振った。
「!」
ディアは両腕の鎌でルナの鎌を受け止める。
「下手な使い方」
姿勢を低くしディアは鎌を弾き返す。
「マト。母とは、何?」
攻撃を意に介さず、動じることなく臨戦態勢を取る。マトは応戦する気はないらしく、その場から動かない。
「僕達が産まれる時にこの鎌で腹を裂いて死なせた女性、それが母親だよ」
「そうだった」
狂った会話をしている。こいつらは人間じゃない。
柄を握り締め、再び鎌を構える。使い方が下手だとか、そんなことはどうでもいい。
「ルナ、落ち着け」
状況が呑み込めないながらも良い雰囲気ではないことは察せられる。雪哉はルナの肩を掴み一度下がるよう促す。感情に身を任せてどうにかなる相手ではない。
「落ち着けるわけ……ない」
声が震える。肩に置いた手に震えが伝わる。怒りではない、泣いていることはすぐにわかった。
「じゃあ! 母さんは! ……母さんも、生き返らせることができたのかよ!」
「それは、時間が」
「さっき聞いた! 今からじゃ生き返らせられないことはわかってる……火葬したんだ、その状態で生き返らせられるとか、思ってない……。そういうことじゃなくて、首持って逃げる時に、何でっ……謝るくらいなら、何で、助けてくれなかったんだ!」
握り締めた柄に力が籠もり、刃が震える。ぼろぼろと大粒の涙が零れた。砂がぼたぼたと濡れてゆく。
「お前がいなければ、母さんはっ……!」
「生き返って、ごめんなさい」
「っ……!」
「私の嫌いな所、その鎌で切り落とせばいい」
「…………は……?」
「私は、マトに会いたかった。会えた。だから満足」
「何を……」
「首でも腕でも脚でも、好きにしろ」
構えを解き、ディアは目を閉じる。マトに何か言われているのか、以前の好戦的な色はない。
「待って、ディア」
その代わりにマトが声を上げた。折角蘇生したのだ、不味い流れだと思ったのか制止の声を投げる。涙を零しながら睨むルナに向き直り、頭を下げた。
「僕は一部始終を見ていたわけじゃない。僕が辿り着いた時にはディアの首は落とされ、敵と相打ったのだと判断しました。僕の判断はその時、あなたの母親は僕達の敵だった。敵を助けるお人好しなんて、違界にはいない」
「…………」
「あの時僕があなたに声を掛けたのは、あなたの手を誤って切り落としてしまった罪悪感からです」
その言葉で、公園で誰かにぶつかった時に手首を切り落とされたことを思い出し、力が抜ける。刃が砂にぼとりと刺さる。
「あの時僕は、死んだ女性とあなたの関係性なども知らなかった。ディアから話を聞いて、どうしても謝らないといけないと思った。許せとは言ってない。自己満足でただ謝りに来ただけだ。でも、ディアをもう一度苦しめると言うなら……僕が相手をする」
外套から鎌を持ち上げ威嚇する。ディアは予定と違うと目を開き兄を振り返る。
「マトは駄目。戦い、下手」
「確かに僕は戦闘は苦手だ。人を殺めることには躊躇いがある。けど、あなたと同じ、守りたいものはある」
「私もマト守る。殺す? あいつ殺す?」
「ディアは手を出すな。ディアが手を出すと謝りに来た意味がない」
「……わかった」
ディアは振り上げようとした鎌を下げ、渋々引き下がる。が、ルナに視線に向け、マトを傷付けたら許さない、というように睨みつける。
緊迫した空気のまま膠着状態が続く。緊張感がぴりぴりと張りつき、肩が上下する。上手く呼吸ができない。
「ルナ、下がれ」
雪哉はもう一度、今度は先程よりも強く肩を掴んだ。少し強引に後ろに引く。
強く肩を掴む手の感触と確かに伝わる熱に、ルナを支配していた孤独感が徐々に薄れていく。傍に誰かがいてくれることに安心感を覚えた。
「お前、俺にも謝ったってことは、俺にも何かしたんだな?」
「?」
ディアは不思議そうな顔をする。言葉も不思議ではあるがそれよりも、最初から不思議に思っていた。
「オマエも、生き返った?」
ディアは確かに雪哉を殺したと思っていた。あの時まだ完全に息の根が止まっていなかったとしても、あの状態で生きているはずはないと思っていた。あの場にすぐに助けなど来ないと思っていた。
「生憎俺は今、記憶喪失中でな、何があったのか覚えてるわけじゃない。でも、そうか、あの大怪我はお前の所為か。俺は生き返ったんじゃなく、生きていて、治療された」
「……シブトイ」
「花菜に何か言われたらしいな。何を言われた?」
雪哉に一瞥され、話している間に少し落ち着けと言われているのだとルナは意図を汲む。すぐに落ち着けるはずなどなかったが、雪哉が冷静でいてくれるおかげで少しは冷静になれる気がした。記憶があれば彼の方も激昂していただろうが、今は記憶がなくて良かったのかもしれない。
「花菜? 花菜とはオハナシした。兄が殺されると悲しい。そう言った。でも、オマエ生きてる。花菜、悲しくない」
「言われたのに、一度……一度か? 殺そうとしたわけだな。大怪我と言ったが、結構瀕死だったんだぞ」
「シブトイ。私、花菜は殺してない。オハナシ初めてだった。マト以外とオハナシ、だから、違うニンゲン、違う考え、私と違う、ワカラナイ……」
必死に言葉を紡ぎ、混乱でもしたのか砂浜に自身の鎌をざくざくと何度も突き立てた。
「それは、相手の気持ちが理解できないってことか」
「! それ……たぶん、それ」
ディアの言いたいことを読み取り要点を纏める。ディアはマトに比べ話すことが随分と苦手なようだ。
「確かに人と話したことがないと、どんな人間がいるとか、わからないよな」
「ワカラナイ」
雪哉を見据えたまま頷く。
「まあ最初はわからなくていい。でも言葉は理解できるよな?」
「馬鹿にするな」
「じゃあその言葉を信じてみればいい。最初は鵜呑みで構わねぇ。嘘を吐く奴もいると思うが、そういうのは後回しだ。話せばその言葉が相手の気持ちだ。そういうものだと思えばいい」
ゆっくりと諭すように言う。記憶がなくとも兄という存在が染みついているのか、扱いが慣れている。
雪哉はディアに更生を選ばせたいのかとルナは察して複雑な気持ちになる。
「……オマエ、今の気持ち言ってみろ。鵜呑みしてやる」
試してやるとばかり、じりじりと睨みつける。
「気持ち……そうだな。素直に言うと――」
芝居掛かったように空を仰いだ後、色の無い冷えた目をディアに向けた。
「誰かを殺しておいてワカラナイで済むと思うなよ。甘えてんじゃねぇよ」
「……!」
「不安? 痛み? こっちは知ったこっちゃねぇ。ルナがこんなんになってんだぞ。ただで済むと思うなよ」
ひりつく殺気は本物だとディアは無意識に鎌を持ち上げる。圧倒的に優位な畸形にあるまじき、それは恐怖だった。
「マト!」
この場合はどうすれば良いのか兄に確認を投げ掛ける。この場合、違界では間違いなく『始末』だが、ここは違界ではない。そうマトに怒られていた。
「ディア、自分で考えてごらん」
「!」
これは良い機会かもしれないとマトもディアを試す。いよいよディアは混乱し、砂浜は穴だらけだ。
「あ……ああ……ころ……さない。違う、そうじゃ……逆、殺すの反対……生かす、生きてる……生きる、ため……生き方……たたかう、それで…………わかった!」
一際強く、砂浜を突き刺した。
「この鎌使いがポンコツに、使い方教えてやる」
「え……?」
妙な所に着地した。視線を向けられたルナは緊張の中きょとんとし、複雑な顔になってしまった。
それは全員が予想外だったようで、嗾けた雪哉も言葉が出ず固まってしまう。
「おい、ポンコツ。何か言え」
指を差しているつもりなのか鎌の先をルナに向け翳す。攻撃かと身構えたルナだったが、その意思はないことに気づく。
「……使い方って……別に俺は戦わないし……遠慮したい」
「! ……マト。もう話すの嫌だ」
「待ってディア……」
怒濤の展開にマトも辟易ろぐ。この問題を何処に着地させるべきなのか。
考えた末、マトはルナにもう一度頭を下げた。
「ディアはこの通り話すことが苦手なので……至らない所もあると思います。でもこうして自主的に殺める意外のことを言い出したのは初めてで、少し付き合ってもらえないですか。戦わなくても、自衛対策でも」
「雪哉さん……」
今度はルナが雪哉に助けを求める。母が命を擲って相打った相手が生き返ってきて鎌の扱いの手解きをしてやるなんて言い出されれば返答にも困る。リリアを殺めたその鎌で教えてやろうとは、残酷な提案をする。ディアも産まれる時に母の腹を裂いたそうだが、畸形故の苦労があり、抗いようがないこともあるということには同情もする。だがその犠牲に、何故母が選ばれなければならなかったのか。それを許せるほどルナの心には余裕がなかった。
「その、状況って言うか……ルナの母親の最期は俺も少し聞いてる。もう少し戦えていれば、と思う所もある。今後こういう悲劇が二度と起こらないとも限らない……」
「教えてもらえってことですか……」
「ルナ。お前、違界に転送された時、どう思った?」
「え……? ……不安……でした。恐かったです。独りで……」
「そういうことだな」
「…………」
それでもやはりディアを受け入れることはできなかったが、何も守れない恐怖も痛いほど焼き付いていた。
「あ、でも記憶が戻ったら俺がキレないとも限らねぇから、その時は任せる」
「え……それは無理です」
雪哉がキレると止められる気がしない。だが記憶が戻れば本当にキレかねない。手が付けられないことにならなければ良いのだが。
話が纏まったかとディアは様子を窺い、鎌を素振りしている。例え危害を加えてこないにしても、目の前であんな恐ろしいものを振り回されれば戦かないはずはなく、ルナは一歩引き下がる。邪魔にならないようマトも鎌の届く範囲から下がる。
「いいか。鎌はとても重い。無闇に振れば、振られる。重心、持た……持つ……持って、いかれないよう、脚、頑張る」
手本に自身の鎌を一振りする。説明が頭に入ってこない。
「ルナ。鎌は重いから、無闇に振れば釣られて振り回される。重心が持っていかれないよう下半身で踏ん張ることも意識しろ」
「!」
直ぐ様雪哉が要点を纏めルナに伝える。ディアはマトを振り返り何か言いたそうだが、我慢したようだ。
「体、頑張る」
「体幹を鍛えて」
「こいつ……!」
「言葉、教えてやろうか?」
力では勝てなくとも頭では勝てるようだ。優位に立てる部分を見つけわざわざ煽る。
「マト! こいつ嫌! 嫌なニンゲン! 脳髄が腐ってる」
「難しい言葉知ってるな」
「くっ……この、ただの肉塊! 脳髄が腐った肉塊! 喋るしか能のない……ない……ゴミ!」
「まあ、ここまで口喧嘩ができるならいいか」
「何……?」
思考が読み取れずディアは眉を寄せた。あんまり煽ると襲われないだろうかとハラハラしていたルナも不思議そうに雪哉を見る。
「その鎌で喧嘩買ってくるなら問題だと思っただけだ。随分我慢できるじゃねぇか。その調子でちゃんと我慢しろよ」
意地悪な言動から一変、微笑む雪哉にディアはマトを振り返る。マトは苦笑するが、小さく頷いた。
「偉そうに……」
ディアは不満そうに呟く。
大変なことになってしまったとルナは思ったが、ディアも頑張ろうとしていることは伝わってきた。違界と青界を混同していた頃とは違い、今は違いを認めている。犠牲については到底許されることではないが、そうしてまで生かされた命は守るべきだと思った。仇討ちだと言って彼女に刃を向けたとしても、敵わない。本気で襲い掛かれば返り討ちに遭って無駄に命を捨てることになるだろう。それこそ母は浮かばれない。突然煽り始めて肝を冷やすこともあるが、冷静な雪哉がいてくれて本当に良かった。雪哉がキレれば手に負えないと思うが、力になりたいとは思う。
啀み合わないことがきっと誰にとっても一番良いことなのだと、自分に言い聞かせて鎌を握り締めた。
その日は睡魔が襲ってくるまで、拙い言葉と要点を纏めた翻訳を聞き鎌の扱い方の手解きを受けた。
それぞれ家に帰りベッドに沈む頃には二人はへとへとになっていた。
* * *
陽が暮れて随分と経ったが、街に眠る気配はなく店の電飾が輝き人の流れは止め処ない。
都会の夜は明るく、ビルの隙間から見える空は狭い。
「はあ……」
決心がついたと思ったのだが、あまり考えなしに出てきてしまった。
人通りから隠れるように暗い路地に身を潜め、ばしんと自分の頬を叩く。
――あいつらさえいなければ。
そう何度も思ってきた。あいつらさえいなければこんな思いも、痛みも苦しみも、逃げる必要もなかった。
(虫なら叩けばすぐに死ぬのに)
ルナが泣いている姿を部屋で見て、何で良い人は死んで悪い奴は生きているのだろうと思った。心が掻き回された感覚だった。堪らず家を飛び出した。
(やっぱり怖いのか……)
地面に視線を落とし、闇に呑まれそうな爪先を引く。
路地の向こうで明滅していた街灯が最期の灯を燃やし静かに消えた。
「何かお困りですか?」
「!?」
誰もいないと思っていた暗闇から声が聞こえてきた。男の声だ。姿は見えない。
「死の臭いを嗅ぎつけてやってきました。暗殺ならお任せください」
「誰だ……?」
路地の奥に目を凝らすが、何も見えない。闇しか見えない。雑踏が遠い。
「暗殺なので姿は隠させていただきますが、ご安心ください。あなたには何の危害も加えませんし、被りません」
「暗殺って……からかうなら他を当たってくれ」
「からかってませんよ。あなたは違界という世界をご存知ですか? ――あ、ご存知ですね。表情が変わりました。私は違界から来て暗殺業で生計を立てている者です。職業柄名乗ることもできませんが、安心安全迅速をモットーにやらせていただいております。ご依頼初回は割り引かせていただいて、お安くしておきますよ。人の命なんて、お安いものですから」
ご丁寧によく喋る暗殺者だ。違界の人間と言うなら殺し慣れているだろうし、天職なのではないだろうか。
「信用できない」
「信用? ならば初回はお試し出血大サービスなんていかがですか? なんと依頼はタダ! 成功報酬として少しばかりいただきますが、それでいかがでしょう? 特別な契約も必要ありません。一度体験してみると、きっと癖になりますよ」
「それ、断ったらどうなる?」
「ご想像にお任せします」
おそらく、存在を知られ依頼を出さない時点で始末される。
そしてこいつは絶対に依頼を出さないような人間には声を掛けない。追い詰められて潰れそうになっている者を選んで声を掛けている。
でなければ、こんな都合よく現れた胡散臭い悪魔に暗殺依頼など出しはしない。
「……金なら幾らでもある。まずはそのお試しとやらで、親父の病院の――――」
依頼を聞き入れ、悪魔の気配はすぐに消えた。明日の朝ニュースになるだろうか。大変なことをしてしまった、とは思わなかった。自分でやるには後込みしてしまう。他の誰かが代わりにやってくれるなら、縋りたくもなる。
光の届かない曇った目で細い空を見上げる。星一つ見えない。背の高い建物に阻まれ月すら見えない。
* * *
春休み三日目。
「――――雪哉! おい、雪哉!」
「…………ん……」
呼ばれている。それに気づくまでたっぷりと時間を要した。
「珍しいね、雪哉が寝坊なんて。記憶の所為? それとも、お兄ちゃん……?」
「あ……いや、ただの寝坊……」
「花菜も心配なのに、あんたまでどうにかなっちゃったらどうしたらいいか……。今日、お手伝い来る?」
「今日は……記憶探し……」
「お母さんのこと、まだ思い出さない?」
「……ごめん」
「あんまり思い詰めないでね。ゆっくりで良いんだから。賄い置いていくから食べて。お母さんは食堂に戻るから」
「わかった……」
ぼんやりとする頭で返事をする。時計を見ると、もう昼だった。完全に寝坊だ。夜遅くまで鎌の講習会に付き合っていたからだろう。
ベッドの上で転がり、部屋を見渡す。机に引出しに本棚に箪笥に……探す所はたくさんありそうだ。
今まで必死に思い入れのありそうな場所、思い出を探していたが、昨夜のルナの言葉にハッとさせられた。探さなければならないものは思い出ではなく、おそらく傷口だ。それは生々しい傷なのか、癒えた瘡蓋なのか。どちらにせよ傷口を抉ることになるかもしれない。
「――よし」
身を起こし着替える。まずは腹拵えだ。花菜もちゃんと食べているだろうかと心配はあるが、今は自分の記憶を取り戻すことを第一に考えよう。いつまでも全てを忘れているわけにはいかない。
雪哉の部屋は別段物が多いということはない。記憶が失われた今見ても、面白味のない部屋だと思う。花菜の部屋はぬいぐるみだの何だの物が多いが、自分の部屋はと言うと、参考書などが多い。受験生だったのだから当然かとも思うが、何か面白い物の一つでも出てきやしないものかと自分に問う。――きっとこれで充分だったのだろう。
あちこちに付箋が貼られた参考書も一冊一冊捲ってみるが、何か見つかるとは思えなかった。
ルナがアルバムと言っていたが、高校の卒業アルバムは既に確認済みだ。学校に行っても何も思い出さなかったのだから、家族のアルバムを見る方が良いかと思う。と言っても家族のアルバムがこの部屋にあるのだろうか。後で両親に尋ねてみよう。
(記憶探しってより大掃除になってきたな)
引出しも引っ繰り返してみる。ぴんと来る物は何も出てこない。そんなに広くもない部屋なのに、何も出てこない。
やっぱり外を探す方が収穫があるだろうかと思い始めた頃、中身を引っ繰り返していた箪笥の中から見覚えのない紙袋が出てきた。
「何だこれ」
尤も全てに見覚えはないのだが。
箪笥に収っていた他の衣類は袋に入っていない。その中で一つだけ紙袋に入れられ奥に仕舞われていた。
引出しから引っ張り出し徐ろに中身を取り出す。――マフラーだった。
「これ……」
所々目が荒い手編みのマフラーだった。
「あれ……?」
知らず一筋、無意識に頬を伝った。マフラーに一滴落ちる。花菜が昔入院した時に雪哉に編んで渡したマフラーに。
がつんと一発頭を殴られたようだった。一瞬前までほぼ空っぽだった頭の中に、然も当然のように張りついている。
「兄さん……」
マフラーが力無く床に落ちる。
全て思い出した。同時に吐き気を催した。床に蹲り口元を押さえ、肩で息をする。
違界での兄の最期の姿が鋭利な刃物となって抉ってくる。
「あいつは……また兄さんを奪ったのか……永久に」
涙の止め方がわからない。出てきた時も無意識だったのに、流れる今に意識などない。頭の中が気持ち悪い。忘れていた方が幸せだったのではないかと思うほど、苦しい。
記憶を失っている時は何もかもわからず、兄が地雷で吹き飛んで死にましたと目前に突き付けられてもあまりに漠然としていて、血の繋がりなど実感もなく、ただの他人のような感覚だった。それが鮮明に痛みとなって突き刺さる。ただの他人ではない、血の繋がりは当然、ずっと慕っていた兄が妹を庇って死んだのだ。花菜の失った腕などどうでもよくなるくらい、花菜を恨んだ。同時に、そんな自分を堪らなく嫌悪した。
紫蕗ならあの時の状況を詳しく知っている。花菜を庇って死んだ稔の最期を。
違界の島に行った時、後で話してくれと頼んだ。あの時は結局そのまま帰ってきてしまった。紫蕗の言葉で、記憶が戻ってからの方が良いかと思っていた。
もう少し早く城から出ていれば。記憶があれば。そもそも怪我など負っていなければ。後悔を上げ始めると切りがない。誰か、この止め処ない痛みの止め方を教えてほしい。どうにかなりそうだった。
記憶と現実に押し潰されそうになる。喉が痛い。頭が苦しい。体が重い。
「――げほっ……はあ、はあっ……」
昼の賄いと共に置かれ残っていた茶を一気に飲み干す。何も嚥下できない。
部屋を滅茶苦茶に散らかしたまま、その日は布団を頭まで被り寝込んだ。もう春だと言うのに、どうしようもなく寒かった。
* * *
――音が、嫌だった。
何をすれば良いのか空っぽの空洞になってしまい、そこに外からの音が響くのが怖かった。
隣の部屋からガタガタと音が聞こえ、堪らず家を飛び出した。音が聞こえる度、びくびくと心臓が跳ねた。
とぼとぼと海辺まで歩く。久しぶりに外に出た気がした。太陽が眩しい。
いつもの岩場まで行き着き、海を見下ろす。
この向こうに大事なものは流れていってしまったのだろうか。
寄せる波が足下で跳ねる。
「――――玉城、花菜っ」
後ろから勢いよく腕を引かれ、踏鞴を踏んで尻餅をついた。何事かと驚いてぽかんと見上げれば、逆光の中に知った顔が浮かぶ。
「未夜さん……?」
腕を掴んだ手は一層強く、焦りのような色を含んだ目で花菜を見下ろす。
「死ぬのは、良くない……」
「え……?」
「身を投げるのは……」
走ってきたのだろうか、少し息が荒い。
鈍い花菜でも彼の言葉が理解できた。
「海に飛び込んだりはしないです……私、泳げないので……」
理解しているのだろうか?
「…………」
張り詰めた空気を吐き出すように肩から力が抜け、未夜もしゃがみ込む。
「すまない。早とちりだった」
「いえ……転ぶのは慣れてるので、大丈夫です」
ぶんぶんと手を振るが、その表情には生気はない。入水を図るのではないかと勘違いもする。
「違界で何があったのかは聞いている。久慈道宰緒にも、見ておけと言われた」
「久慈道君に?」
「思い詰めて死にやしないかと心配しているのだろうと解釈した」
「えっ……そんな……死ぬのは、怖いです」
「そうか……」
杞憂だったようだ。杞憂で安堵する。
花菜の腕を離し、ふと目についた大きな巻貝を岩場から拾い上げた。初めて会った時、花菜は貝殻を拾おうとして海に落ちそうになった。きっと好きなのだろう。慰めるように彼女の傍らに貝を置き、見下ろす。
暫しの間があり、貝は歩き出した。
「……何故」
不思議な物を見るように、不可解な現象を問う。
「ヤドカリ……」
違界でこのような生物は見たことがない。花菜の呟きにも、未夜には思い当たるものがなかった。
貝は海へ歩き去ってしまったので、その軌跡を見詰めながら未夜は言葉を探す。
「……辛い思いをしたな」
花菜は海の向こうを見詰め、ぼんやりと口を開く。
「…………あの時、私が飛び出さなかったら、稔兄ちゃんは死ななかったのに。……でも勝手に走り出してて、止められなくて。だから、雪兄ちゃんは私のこと忘れちゃったのかなって」
「あれは……玉城雪哉は転送の所為で記憶を失ったと聞いている。お前の所為ではない」
「雪兄ちゃん、きっと怒ってるの。私が駄目だから。私は稔兄ちゃんも雪兄ちゃんもいなくなったら嫌だから、早く会いたくて。でももう稔兄ちゃんには会えなくて、雪兄ちゃんもいなくて、私一人になっちゃったみたいで、不安で、怖くて、どうしたらいいかわかんなくて……」
ゆっくりと言葉を紡ぎながら、じわりと視界が滲む。海の色が歪んで、空との境界がわからなくなる。
「……それは違界の所為で……お前も片腕を失ったんだろう? お前も被害者で、お前は悪くない」
泣いている人間の慰め方など未夜にはわからなかった。違界でそんな場面に遭遇することなどなかった。泣く姿は見ることもあるが、そこに慰めるという選択肢はない。この世界の人間は何かを失ってただ泣くのだなと、理解が及ばないまでも理解に努めた。
「腕……も、わかんない……普通に動いて、自分の手みたいで……」
腕の良い技師に義手を作ってもらったのだなと察する。違和感なく生活が送れているのなら、まだ救いがある。
「……私、右と左どっちが自分の手じゃないんだろう」
少し記憶が混乱しているようだ。
先程とは別の巻貝を見つけ、未夜はもう一度海の中から拾い上げる。海から引き上げると今度はすぐに脚を出してきた。何なんだこの中にいる生物は。
「ヤドカリ好きなんですか?」
「……違う」
誤解をされてしまった。
「この中の生物を引き摺り出せば良いのか」
「家は取っちゃ駄目です」
「…………」
岩場に置くと、またすぐに海へ去ってしまった。
この生物のように、この世界の人間も理解するのが難しい。違界人より圧倒的に関係性の濃い人間達に、薄情な違界人は何ができると言うのか。
ただ少し話しただけで少し花菜の心が軽くなったことに、未夜が気づくことはなかった。