第三章『手』
【第三章 『手』】
違界の治安維持コミュニティ転送新人である未夜は、先輩である梛原結理に畸形の一件の後こってりと絞られ、自分の不甲斐なさを悔い、慎重に動くことを心掛けていた。慎重すぎて巡視に支障も出ていたが、自覚はなかった。
梛原結理は、他の事に当たっていたとしても周囲の警戒を怠らないことと、畸形と害毒は最優先に対処しろということを念押しにしつこく鼓膜に穴が空くかと思うほど擦り込んでいった。それとは別に、青羽ルナの扱いについて彼には絶対に手を出さず、何か困ったことがあれば力になり、襲われていれば守れと言った。畸形と害毒と青羽ルナではどれを優先すべきか質問すると、当然のように『青羽ルナ』だと答えた。彼と親しい人間に関しても、彼が良しと思う行動を取れと言われた。ここの匙加減が一番難しいと未夜は思う。
今日も青い空を見上げると、白い雲間に白い鳥が真っ直ぐ飛んでいた。――いやあれは鳥じゃない。飛行機だ。この世界に来て暫くは空を飛ぶあの飛行機に警戒していたが、今ではあれは問題のないものだと意識の外に置くことにも慣れてきた。あの飛行機はただ人間を乗せて運んでいるだけで、下に攻撃を落とす物ではない。理解するのに多少の時間は要したが、慣れてしまえばどうということはない。
あの飛行機に彼も乗っているのだろうか。空から下を見下ろしたことはないが、どんなものなのだろうか。空から人間は見えるのだろうか。
先刻家々の間を縫っていると、青羽ルナの友人だと聞かされていた久慈道宰緒に出会した。人のことは言えないが、もう春だというのにコートを着てフードを被って歩いていた。
宰緒は未夜の姿を見つけると眉を寄せて嫌そうな顔をしたが、触れないでおこうと未夜は黙って道を譲ろうとした。擦れ違う時に思い切り胸座を掴まれなければ、会話などするつもりはなかった。
「おい」
胸座を掴んだまま低く吠えるように彼は声を投げつけてきた。
結理に念入りに説教された手前、喧嘩を買うわけにはいかなかった。そもそもこれは喧嘩を売っているのか? 確か久慈道宰緒は運動能力が低く喧嘩も弱いなどと結理が言っていた。そんな彼がこんな道端でこんな雑な喧嘩の売り方をするだろうか。冷静さを忘れてはいけないと、未夜は頭の中で反芻する。
「お前、偶に学校に様子見に来てただろ。文化祭の後も」
「……それが?」
「学校だけじゃない。ちゃんと見とけよ」
「?」
責められるのかと思ったが、そうではないらしい。見るなではなく見ろとは、どういう意味だ。
「玉城のことだ」
玉城とは、二人思い当たる。玉城花菜か兄の雪哉か。もう一人兄がいたそうだが違界で死んだと結理から聞いている。そいつは除外だ。
「姉さ――いや何でもない」
何か言い掛け、宰緒は手を離した。そのままそれ以上は何も言わず、さっさと歩いて行ってしまう。
「何処に行くんだ」
歩く背に声を掛けると、振り向かずに腕を上げ、空を指差した。その方向を見上げると、白い飛行機が飛んでいた。
再び視線を戻すと、角を曲がったのか宰緒の姿はなかった。
結局彼の言う『玉城』とはどちらのことだったのか、それともどちらもなのか。確か家は食堂だったと思い出し、一度様子を見に行くことにした。結理の言いつけ通りに動いているが、これでいいのだろうかと自問しながら。
あの飛行機に乗っているのだとしたら、一体彼は何処へ行くのだろう。
* * *
小屋の脇には小さな畑が広がり、それを通り過ぎて裏手に回る。好き勝手に伸びている草を踏んで紫蕗について行くと、小さな木の囲いが現れた。囲いの中には疎らに見たことのない草が生えており、白い花が散見された。畑には何も囲いがなかった所を見ると、この草は何か特別なものだろうか。
「綺麗な花だな」
「マイグレイト。転移草とも呼ばれる。転送装置を作るために必要なものだ」
「え……植物が?」
装置は全て、ルナが理解できないような何か凄い技術で作られていて、全てが人工的な物だと思っていた。まさか植物が関係しているとは思いもしなかった。
「過酷な環境下でも自身で転移を行い生き延びる稀少な植物だ。そのため生息地が把握できず見つけるのは非常に困難。俺は栽培に成功しているが、転移を行えないよう転移防止のシールドを張っている。この植物の種が転送装置に使われている。簡単に装置が作れない理由がわかったか?」
「え、ああ……うん……」
「質問があるなら言え。許す」
まだ完全に理解してはいないことを感じ取ったのか、突き放しはせず歩み寄ってくれた。乱暴な時との差が激しい。
「転送装置って大きさが色々あるみたいだけど……あと使い捨てとか。紫蕗も大きい装置とか作ったりするのか?」
「大きさは技術力の差、使い捨ては種の質だ。装置の小型化は技術を要する。青界でもそうだろう? 技術の発展と共に小型化する」
「あ、それはわかる」
「それが俺と、不特定多数の他の技師の差だ。俺のように技術のある技師も存在するが、大抵の技師は小型を作ればそれは用が足りず種に負荷が掛かりすぎ、使い捨ての用しか出せない」
はっきりと格の違いを言い切った。大した自信だとルナは思った。
「俺の作る使い捨ては少し違う。他の技師は何でも種を一つ使うが、俺の使い捨てには種を砕いてその一欠片を使用している。そのため力が弱く使い捨てになる。種を一粒使用し、上手く負荷が軽減できれば半永久的に使える」
「もしかして紫蕗って……凄く、凄い?」
「突然頭の悪そうな言い方をするな」
以前の花菜のように話を理解していないのではと身構えた紫蕗だったが、ルナはその紫蕗の『凄さ』を形容する言葉が見つけられなかっただけだ。
「天才って一言で言うのは簡単だけど、紫蕗にも師匠がいて、たくさん作って、何て言うか……密度なのかな」
「…………」
「頑張ってるんだなって言うのは、この植物見たらわかるよ」
不思議なものを見るように紫蕗はルナを見る。ルナは笑っているが、紫蕗は怪訝な顔しかできなかった。
柵に囲われた転移草は疎らで、栽培方法がまだ手探りかあまり数が育てられないもしくは育たないのだろうとすぐに察することができた。装置を作る技術があってもその核となる種がなければ意味がない。機械を作る技術に加え紫蕗はこうして植物を育てることにも尽力している。そこには天才というだけでなく努力もあるということは言わずとも理解できた。
「さっきあった畑ももしかして、この転移草を育てるための参考とか?」
「……ああ。今ではただの食料だがな」
大変な労力を要して転送装置は作られているのだと理由が汲めた所で、今回もだが違界から帰還した際とその後にもう一度、かなりの人数を転送していたことを思い出す。あの時の代金請求などは聞いていないが、紫蕗には相当の痛手だったのではないだろうか。使い捨ては種を砕いているとは言っていたが、それも湯水のように湧いて出てくるわけではない。時間を掛けて丁寧に育てられた種は有限だ。
「お前って凄いんだな……」
「何度も頭の悪さを押し出してくるな」
「いや……何か凄く商売っ気出してくると思ってたけど、結構免除してくれてるって言うか、懐が広いって言うか」
「?」
「今度ドーナツ買ってやるよ」
「は?」
あの時の礼もちゃんとした覚えがない。母のこともあり心に余裕がなかった。紫蕗はドーナツが好きだと色羽も言っていたし、今度買ってあげようと思う。輪になってるやつ。
紫蕗は眉を顰めて訝しげに見るが、すぐに興味をなくして歩を進め始めた。ルナも慌てて後を追うが、小屋の方向ではない。まだ何か見せる物があるのだろうか。
鬱蒼と茂る森の中へ足を踏み入れる。光が届きにくく薄暗い。元より違界の空はいつでも薄暗いが、畑や転移草の生えている辺りは明るく感じた。それも紫蕗が何かしているのだろうか。気に留めていなかったが、空を見上げて、ここは違界だということを思い出した。
暫く道などない森を行くと、突然に白い建造物が現れた。あまり高さはないが、教会のような雰囲気を覚えた。古い建物のようだが、石造りで蔦など絡まりつつもしっかりと立っている。
「――おい、ついて来てるだろ」
歩みを止め、振り返った紫蕗の視線を追い、ルナも振り向く。
「あ。ばれてたか」
木の陰から雪哉が現れる。色羽は来ていないようだ。
「お茶飲んで休んでたら、行けそうな気がしてな」
「……お前の体力はどうなってるんだ」
半ば呆れたように言うが、ついて来たことについては言及しなかった。
「紫蕗、この建物は?」
これを見せたかったのかとルナの興味は目の前の建物に移る。先程の小屋は木造だったので、この石造りの建物は別の人が作ったものかもしれない。
紫蕗はルナと雪哉を一瞥し、
「何だと思う?」
質問に質問を返した。
「何……って言うと、教会っぽい?」
十字などは立っていないが、思ったままを言ってみた。雪哉も建物に近付き首を捻る。
「住居っぽくはないよな。中はどうなってるんだ?」
扉に手をつき、ノックなどしてみるが返事はない。
「俺も中には入ったことがない。――と言うより、入れない。特殊な結界が張られている。俺がこの島に来た時からこの状態でここにあるが、何の建物なのかわからない」
「それで俺達に心当たりがないかって? 青界のものかもってことか?」
「違界はお前も見た通りあのザマだ。どれがどういう建物かなどということはわからないものも多い」
「ああ……」
違界の有様を思い出しルナは納得する。あちこち損壊も激しい廃墟群だ。今ではどれも機能していない。何の建造物か知らずに生きていても不思議はない。
「本当だ。びくともしない」
扉を押しても引いても微動だにしないことを確認し、雪哉も不思議そうに建物を見上げる。
「先程教会と言ったな。俺も青界で見たことがある。だが違界に教会というものはない。信仰する神などいないからな」
「昔の人にも神様はいなかったのかな」
沁み沁みと建物を見上げる。屋根には所々穴が空いていた。上から見下ろせば中が見えるのではないかと思ったが、誰も飛ぶことはできず、中が見えるとも限らない。それにそれができるなら紫蕗が疾っくにやっていることだろう。紫蕗でもどうにもできない結界とは――。
さらさらと森の葉が立てる音だけが静寂に響く。この建物が何なのか見当がつかない。
「うわああ!?」
突如静寂を裂く声が上がる。
「煩い。黙れ雪哉」
突然上がった絶叫に、紫蕗は冷静に冷たく遇う。虫でも出たかと。
「こ、これ……お前の仕業か?」
「? 何をそんなに騒いで……」
虫ではないのかと紫蕗も怪訝に様子を窺う。ルナも一歩下がって雪哉の指差す先――手元に目を落とす。
「…………」
三人は言葉を失ってそれを見る。
雪哉の手首に何かが絡まっていた。
「……面白いものに掴まれているな」
「全く面白くねぇよ! 心臓が止まるかと思ったよ!」
それは建物の扉から、にゅうと生えていた。扉は開いた形跡がなく、今も固く閉ざされたままだ。なのにそれは扉を貫通でもしているのかしっかりと生えるように雪哉の手首をがっしりと掴んでいた。まだ幼い子供の手のように見える。
「これは初めて見るな。何なのか……雪哉、何かしたか?」
紫蕗の仕業ではないと悟り、雪哉は背に冷たいものが走るのを感じた。扉を物理的に突き破っているようには見えない。まさしく腕が一本、扉から生えている。
「扉に触れただけなんだが……不味かったか?」
「いや。触れたことなら俺もある」
「その他には特に何もしてないと思うが……」
「青界人に反応したということか……?」
首を傾げながらも紫蕗はゆっくりと扉の腕に手を伸ばす。こんな得体の知れないものによく触れようと思えるな……と既に触れられている雪哉は紫蕗に感心すら覚えるが、その手は腕には触れられず、擦り抜けて空を掻いた。
「――っ!?」
「えっ、何? 幽霊!?」
よもやの事態に雪哉は急いで手を振り解こうとぶんぶんと振るが離れる気配はなく、ルナも紫蕗の背後から顔を青くして窺う。霊というものを普段信じているわけではないのだが、ここは違界だ。何があるかわからない。
「青界人に反応すると言うなら、ハーフではあるが青羽ルナにも反応するか……」
ルナは嫌な予感がした。
背後で紫蕗を盾にするルナの手を掴み、否応なく扉に押しつけた。振り解けない力で。
「待っ――無理! 無理無理!」
ぶんぶんと首を振るが、聞き入れてもらえなかった。だが幸いなことに扉には何の反応もなかった。
「ならこの腕に触れられるか直接」
「無理!!」
「雪哉は?」
「え? ……あっ」
自分の手には触れられているのだ。雪哉ならその腕に触れられるかもしれない。平然と触れようとした紫蕗の手前、泣き言を言ってはいられない。この中では一番年上という意地もある。意を決し、一思いに掴まれていない手でその腕をしっかと掴んだ。掴めてしまった。――が。
「……無理だ!」
掴む手が強すぎてびくともしなかった。
「無理ばかり煩い。もう少し冷静になれ」
「冷静……って、違界では幽霊とか普通にいるものなのか?」
へたり込むルナの横で、地面に膝をつきながら恐る恐る確認を取る。普通にいるものなら紫蕗が動じないことも頷けるが。
「聞いたことはない。俺は初めて見た」
紫蕗の度胸が据わりすぎているだけだった。
「叫んだら何か頭がくらくらしてきた……」
「それはそうだろう。回復してないんだからな」
頭を押さえる雪哉にも気遣いはしない。休んでいればいいものを、ついて来たのは彼自身の意志だ。だが雪哉が来なければこの不可解な現象にも遭遇しなかっただろう。そのことに関しては感謝しているつもりだ。
幽霊という存在は紫蕗にも理解できていないが、これが霊だという確証もない。だがこの未知をこのままにしておけば雪哉がここに繋がれたままだ。この事象が何なのか知るためにも、何故雪哉にだけ反応したのか謎を解く必要がある。青界人に反応したと言うならルナに反応しないことは可笑しいが、ルナには違界人の血も混ざっている。ならば純血の青界人にしか反応しないとも考えるが、雪哉の内臓は違界で一部移植されている。違界の物に取り替えられている状態で、それは果たして純粋な青界人と言えるのか。
「……肉体に関することが反応の理由ではないとすれば……物、か? 何か特別な物、もしくは何かの言葉に反応したか……」
「物? ……あ」
物に関しては一つ心当たりがあった。と言うかそれしか思いつかない。
「これ……とか?」
雪哉はポケットに入れていた物を取り出す。違界に来た時に城の街で貰った緑の指輪だ。
「それは?」
「城の中で小無がブローチを買った時におまけでくれたものなんだが……」
「城の中で? 貸してみろ」
指輪を手渡すと、先程までの締め付ける感覚が嘘のように消えた。手に目を遣ると扉の腕はすんなりと離れ、今度は真っ直ぐに紫蕗の腕を掴んだ。
「雪哉、試しにもう一度腕に触れてみろ」
「え、お……おう」
言われた通り恐る恐る扉の腕に指を伸ばすが、今度は触れることができなかった。
「これを受け取った時に何か言っていたか?」
「いや……ただ『これもつけておく』ってくれただけだが。そういう装飾品は全部色硝子だっていうのは街の子供に聞いたが、それ以外は別に何も」
得体の知れないものにかっちりと腕を掴まれながらも平然としている紫蕗にシュールさを感じつつも、城の街でのことを思い出し答える。この不思議な現象は指輪が原因だということは一目瞭然だったが、この腕が何なのか依然として定かではない。
紫蕗は緑の指輪を見回し、小首を傾ぐ。
「色硝子? ……これは翡翠だ」
「翡翠……? 宝石はもうないって言ってたけど」
「そうだな。新たに採掘できないのだから、ないということはわかる。だが城の外には廃墟の宝飾店がある。何処も大分荒れてはいるが、あるとすればそういう廃墟の残り物だな」
「外の物が城の中に、ってことか」
「外と中に繋がりはないはずだが……何処かで繋がっている者がいるのか……。城に換金を申し出ることができるのは植物だけのはずだ。宝石の換金は聞いたことがない」
「繋がりがあると何か不味いことでもあるのか?」
「何が不味いと言うわけじゃないが、外を断絶して生活してるのに、妙だと思っただけだ」
「そうか……」
冷静に淡々と話しているが、その間も紫蕗は得体の知れない手に掴まれている。雪哉もルナもそこから目が離せない。
「小無と言うのは、雪哉と城にいた女だな」
「ああ。小無は写真も撮ってたし、城の中の様子が知りたいって言うなら、その写真を見るのが早いかもな」
「何処にいるかわかるか?」
「東京だと思うが……家は知らないな」
「ルナは?」
へたり込みつつ静聴していたルナは突然話を振られ反応が遅れた。
「えっ? ……あー……サクの友達だし、サクなら住所知ってるかもしれないけど……」
「久慈道宰緒だな? そいつは何処にいる」
「それが……いなくなったって言うか……」
「? 連絡は?」
「携帯電話持ってなくて……」
「使えない奴だな」
ばさりと切り捨てる。
「あ。小無が着てた制服から学校はわかるかも」
記憶を辿りながら雪哉が助け船を出した。記憶喪失中ではあるが、違界での記憶は消えていない。
「ではそれを頼む。――と、少し離れろ」
地面に近い二人に指示を出し、建物から距離を取らせる。ルナも慌てて立ち上がり充分に距離を取った。
「悠長に話していても何もしてくる様子がないということは、指輪を持った人間を掴むことしかできないのか」
扉の腕を一瞥した後、腕の届かない範囲まで離れた二人に向かって指輪を放り投げた。意図を察した雪哉は弧を描いて飛んできた指輪を受け止める。紫蕗の手から指輪が離れると同時に扉の腕はすぅと紫蕗の手を擦り抜けて扉の中に消えていった。
「雪哉、指輪を貸しておいてくれ」
「おう……いいけど」
「脳の検査代金はいらない。充分な収穫だ」
「話を持ち掛けたのは俺の方だけど……いいのか?」
「払いたいなら払わせてもいいが」
「いや、ありがとう」
雪哉から指輪を受取り、紫蕗は満足そうに仕舞った。あの建物の結界は中に入れないためだとばかり思っていたが、考えを改めなければならないかもしれない。謎の腕が生えてきたことで、中の物を外に出さないようにしたものかもしれないと思い直す。だがどちらにせよ、わざわざ大層な結界を張っているにも拘らず、管理者がいない。少なくとも紫蕗がこの島に来た六年前以降、ここでは誰とも出会っていない。建物の様子を見るに随分と昔に建てられたもののようだが、結界を張った者が死んだにしろ誰にも引き継がれていないということも気になる。あまり他言できない秘密裏のものだったのか、それとも――。
建物とあの腕、翡翠の指輪の関係性を調べなければならない。調べれば何かわかるはずだ。手が生えていた位置――それを肩の高さとするならば、十歳にも満たない子供だろう。
三人が小屋へ戻ると、色羽が笑顔で迎えてくれた。今度は包丁を構えて襲いかかってくることはなかった。
「お疲れ様です師匠! 雪哉さん、大丈夫だった?」
「ああ。ハーブティーのお陰様で」
「わあ、良かったです!」
心配させまいと雪哉は微笑むが、騒ぎすぎて頭が多少ふらついていた。病み上がりのような状態で騒ぐものではない。
「色羽、二人を青界に帰してくる。留守を頼む」
「はい! ――あ、雪哉さん!」
「ん?」
すぐにでも転送して行ってしまいそうな紫蕗を制し、色羽は腕輪を翳し、片方しかない靴を形成した。
「これ、以前花菜さんが来た時に置いていった靴なんですが、返してあげてもらってもいいですか?」
「片方だけ?」
「最初から片方だけでしたよ?」
記憶のない雪哉には片足の理由はわからなかったが、首を傾げつつも受け取る。
「必ず返しておく」
「はい。花菜さんもまたいつでも来てね、って伝えてください」
「ん――まあ、ここなら安全っぽいし……わかった、伝えとく」
……もう少し花菜の状態が落ち着いたら。靴が片方だけということも気に掛かる。余計に鬱ぐことがないようにしなければならない。
紫蕗は来た時と同じように、使い捨ての転送装置をルナに渡す。転送装置の元を見た今、装置一つの貴重さ、重みを噛み締める。種一粒を丸ごと使えば半永久的に使用できるのならそればかりを作れば良いのではとも思ったが、違界から逃げたいと言う違界人は通常また違界に戻ることはないだろう。ならば種を砕いて欠片を用いて一度だけ転送できれば充分だ。使い捨てで充分事は足りるということだ。贅沢に一粒使った装置を作り置きはしないだろう。急に罪悪感が出て来た。
「何か……ごめん、紫蕗」
「? 何かしたのか?」
突然の謝罪に紫蕗も訝しげだ。
「何かあったら、言ってくれればいいから……」
「……? 意図が読めないが、何かを悪いと思っているなら反省していろ。だが俺に心当たりがないなら、気にしなくていい。――転送、するぞ」
「お前、乱暴だけど良い奴だよな」
「は?」
意味がわからず眉を顰める紫蕗に色羽は手を振り、そのまま三人は転送された。
* * *
「いやー、春休みなのに学校に行かないといけないなんて、意味わかんないっすよねー」
商店の立ち並ぶ道を人通りを縫ってのらのらと歩き、溜息を吐く。
「提出物忘れてたからだろ? 自業自得」
こちらも速度を合わせゆっくりと歩きながら呆れ顔。
「いっちゃんはゲーセン行くとこだったんすか? あ、通知表勝負するっすか? 鞄に入れっぱだったんすよー」
「いや……まあ、行こうと思ってたけどいいや。勝てないのにそういう勝負持ち掛けてくるよな、小無さん。こっちは春休みだから家なんだけど、通知表」
「いっちゃんとさっちゃんの通知表ってチートっすよね」
「いや実力」
むぅと頬を膨らませる小無千佳に、綾目斎は慣れた調子で遇う。二人は別の高校に通っているが、こうして道端でばったり出会すこともある。
「学年で一番だったんすか? テスト。脳味噌分けてほしいくらいっす」
「……宰緒がいなくなってつまらなくなった。楽に一番を取ることには興味ない」
「それを人は嫌味って言うんすよ、いっちゃん。覚えておいて損はないっす。――あ、でもいっちゃんがさっちゃんに勝ったことないっすよね?」
「小無さん、人はそれも嫌味って言うんだよ。覚えておくといいよ」
千佳は慣れたようにけらけらと楽しそうに笑う。
違界から戻ってきて早二ヶ月、平和な日常を噛み締めている。斎は違界へは行っていないが、千佳に一部始終を語られていた。違界で撮った写真を見せられ、長々と語られた。恐ろしい世界だと聞いたが、街の様子に恐ろしさはなく首を捻る部分もあった。話の中に度々出てきた獣人は見てみたかった。
話を聞く限り千佳は運が良いパターンだったと思う。最も危険な場所へは転送されなかったのだから。死者も出たということも聞いている。あまり蒸し返して良いものではない。あとはイケメンがいたということも何度も聞いた。違界から戻ってきた時に少し視界に入ったので顔はわかる。そういうことは女子と話せば……とは思ったが、違界のことを話せる相手が他にいない。結理はあの時気絶していたので、そのままそっとしておき話すことはなかった。
「嫌味ついでにクレープ食べよ」
「どんなついでだよ」
目についたクレープ店を指差す千佳にツッコミを入れつつも、彼女に従い列に並んでみる。斎はあまりこういうものは食べないが、千佳に連れられその流れで偶に食べる。何処の店も長いか短いかよく並んでいるので、こういうものは並ぶものなのだとすっかり擦り込まれてしまった。今日の列は短めでまだ良い。隣に千佳がいるとは言え女性ばかりの列に並ぶというのはあまり居心地の良いものではない。
「私、苺スペシャル!」
苺がたっぷりトッピングされ小さなハートのチョコレートが鏤められた見た目も可愛らしいクレープの写真を指し笑顔で注文する。こういうのを見ると思うことだが、女子が食べるには量が多いのではないかと。スイーツは別腹と言うが、胃が宇宙なのか。
「じゃあ僕は普通の苺」
クレープを受取り、道の脇に避ける。
「いっちゃーん! こっち向いてー!」
「え」
「あ、こっちじゃない。カメラ!」
「あ」
「あー! 顔半分切れたっす! もう一回!」
クレープを構えながら写真を撮る千佳に視線を振り回される。
「写真好きだなぁ……」
「今という一瞬は今しかないのです。今を忘れないために記録するのです」
「はいはい」
などと撮り直していると、その千佳の腕が突然何者かに掴まれた。
「えっ……?」
ぐいと引っ張られ人気のない路地に引き摺り込まれる。
「小無さん!?」
斎も手を伸ばすが、ぎりぎりの所で空を掻く。
「少し借りていく」
「!?」
そいつはその一言だけ残し、千佳諸共その場から消え失せた。忽然と。
「消えた……? まさか違界に……」
また以前のような悲劇が繰り返されるのか? 焦燥が頭を巡るが、それとは別に冷静さも残っていた。今の声の主の姿に見覚えがあったのだ。
「綾目くん」
「!」
背後から声を掛けられ、勢いよく振り向く。消えた瞬間を見られたのかと警戒したが、どうやらそうではないらしい。勢いよく振り向いた所為で少し驚きつつも女子が二人、にこにこと立っていた。斎と同じ学校のクラスメイトだ。
「綾目くん、一人? もう一人誰かいた気がしたけど」
「うん。気の所為かな? 人たくさん並んでるし」
「ああ……そう、一人……」
二人で間違いなかったが、たった今一人消えました、とは言えない。適当に話を合わせておく。
「綾目くんもそういうの食べるんだね。甘いの好きなの?」
「一人ならさ、良かったら……これから遊ばない?」
少し照れたように話す。
その時、斎の携帯端末に着信が入った。
「あ、ちょっとごめん」
千佳からかもしれないと急いで端末を取り出す。違界に転送されたら電波が届かないはずではと思ったが、そんなことはすぐに頭から抜け落ちた。
画面を確認するとメッセージが一文と写真が添付されていた。それを見て緊張感が解け、安堵する。同時にどっと疲れた。折り返しすぐにメッセージを送信する。
安心と共に端末を仕舞い、そわそわと待つ女子達に向き直る。
「ごめん。これから予定があって」
嘘だ。予定なんてない。
「そっかぁ……残念」
「今度遊ぼうよ! ね? 春休みだし!」
「あ、じゃあ連絡先! 連絡先交換しよ! ――って、あ!」
二人がもたもたと携帯端末を鞄から取り出そうとしている間に斎はそっとそそくさと足早にその場を去った。連絡先交換の申し出はこれまでも何度かあったが、全て何とか躱している。友達ならば歓迎なのだが、これらは友達とは少し違う。と思う。そういうのは苦手だ。そんなに遊んでばかりいられない。
「また逃げられたぁ……」
「違う学校の子と仲良さそうに歩いてるとこ見たって子いるらしいし、彼女いるのかも。ギャルっぽい子だって」
「えー。やだぁ。私もギャルになるぅ」
因みにだが綾目斎にモテているという自覚はない。よく、勉強を教えて、という手口で声を掛けられるので、成績の所為であれやこれや迫られているのだと思っている。
特に予定のなかった斎は充分に女子達から距離を取った後、ゲーセンに行くかと当初の予定の遂行に移った。千佳は放っておいても大丈夫だろう。電波が届く場所にいるのなら。
* * *
「連れてきたぞ」
人のいない海辺の岩場で待たされていたルナと雪哉は、迅速な紫蕗の行動に感嘆と畏怖を表した。
「学校はわかったけど、春休みなのによく――あ、制服か」
何処の学校ももう春休みだと思っていたのだが、紫蕗が連れてきた少女は学生服姿だった。手には何故かクレープを握り締めている。
「――え? え、え!? どっ、どどどういう……何で……ここ何処っすか!?」
つい先程まで街の人混みの中にいたはずだが、今は人混みはなく、目の前に蒼い海が広がっている。
突然転送で連行されたのだ。当然の反応だろう。きょろきょろと辺りを見渡し、岩場に脚を投げて座っている雪哉に気づき「あ! あの時のかっこいいイケメン!」と照れたりしているが、状況は全く理解できていない。
「あ、ルナちゃんも! ここ何処なんすか!? しゅばっと景色変わったんすけど、VRとかじゃないっすよね!?」
「ここ沖縄。転送で紫蕗が……」
「! 沖縄!? 言われてみれば海とかそれっぽい! 私、沖縄初めてっす!」
状況は全く理解していないだろうがクレープ片手に砂浜を駆け、様々な蒼に輝く海を携帯端末で撮りだした。その様子を半ば呆然と三人は眺めていたが、やがて満足したのか引き返してきた彼女を迎える。
「いっちゃんに『沖縄イェー☆』って送信したら『お土産よろしく』って返ってきたっす。後でお土産屋さん連れてってもらってもいいっすか?」
「ああ……うん」
見知った顔が並んでいるからだろうか。全く動じている様子がない。肝が据わっていると言うか。
「それで、何で私はここに召喚されたんすか?」
ルナと雪哉に視線を向けられ、紫蕗は口を開く。
「城の中の話が聞きたい。画像もあると聞いた」
「ああー、違界の? いいっすよ。ちょっと待ってくださいっす。あ、クレープ食べる? 苺スペシャル」
片手で端末を弄り、片手でクレープを差し出す。豪華なクレープに興味はあるが、食べることには躊躇いがある。
「どの写真っすか?」
「全てだ」
「えーと、名前……何だっけ? 前の時、あんまり話してなかったすよね?」
違界から戻ってきた時のことを思い浮かべ、何かを作っていたということは覚えている。
「紫蕗」
「シロちゃん。可愛い名前っすね! ――あ、あった。写真」
「…………」
早速渾名をつけられ不快な顔をする紫蕗を二人は宥める。ルナも『ちゃん』付けはできれば止めてほしいとは思っているが、千佳に悪気はないのでなかなか言えない。紫蕗も情報を入手できるかもしれない手前、強くは出られないだろう。
「城の……コア? の中は撮れなかったんすけど、街は結構撮ってるっすよ」
画面を差し出し、紫蕗とルナは興味深く覗き込む。雪哉は現地で見た景色なので、一歩離れて様子を窺う。
城の中の街の写真、食べ物の写真、少しだが城の中に住む人間の写真もあった。城の外とはまるで違う世界だった。明るく活気に溢れ、建物も壊れている所はない。そして植物も生えている。城の中にも畸形がいることには驚いたが、千佳と雪哉が話すには畸形への差別は酷いようだ。
「……城の中の畸形の数……少し多いな」
不審を抱きぼそりと呟く。
「城の外に見張りがいるから外の毒の空気を吸う者がいるのは理解できる。だが違界を普通に歩いている時より遭遇する数が多い」
その疑問には雪哉が答える。明確な答えではないが、城の中で司から聞いたことだ。
「その魚型の奴はコアで飼われてるらしい。何の魚が混じってるのか調べてるって言ってた。他にも何人かいるって」
「……そうか」
やはり疑問は払拭できないようだが、指で画面を繰り、隅々まで目を通していく。言葉だけで話を聞くより、こうして写真に残してくれていることはありがたかった。言葉だけより情報の精度が高い。
「この人間は?」
少しぶれているが、画面の隅に、その画像にだけ小さく写っている人物がいた。長い青い髪の人間。
「ああ。その人が俺を治療してくれたんだ。――あ、そうだ伝言」
「?」
「城ぶっ潰してくれって。ぶっ潰すために人を集めてほしいらしい」
「……? 治療ということは医師のようだが、どういうことだ?」
温々と城の中で暮らしている人間がその平和を潰してほしいとは、穏やかな話ではない。
「名前は司。コアのシンクタンクに所属していて父親はコアの要人。両性の畸形でコアの中でも煙たがられてるらしい」
すらすらと記憶を口にする。千佳もうんうんと頷く。
「親切な人だったっすよ。色々教えてくれて」
「ああ。街のこともな。それでコアで飼われてる畸形を逃がしてほしいって」
「そうそう。ミナちゃんとロゼちゃん」
交互に口を開く二人に紫蕗は眩暈を覚えた。城の中のことを少し聞ければ上等だと思っていたのに、情報が大きすぎる。
「……それは、随分と厄介な人間に接触したな」
「どういうことだ?」
「そいつの叔父は、城の最高権力者だ」
「!?」
「それって、王様ってことっすか!?」
「その認識で間違いない」
事の重大さに千佳も端末を取り落としそうになる。街の中での人々の反応を思い出し、それであの扱いかと納得はした。差別対象の畸形であっても、王族に差別の目を向けるわけにはいかないだろう。
「外の人間が城の中を知らないと言っても、王族の名前くらいは小耳に挟むからな。畸形だというのは初耳だが……」
「それ謀叛を企ててるってことか?」
ルナも恐る恐る会話に入る。一気に大事になってきた。
「詳しい意図はわからないが……もう少し詳しく聞いてないのか?」
「父親がコアの要人って所までしか聞いてない。まさかそんな権力者だとは……」
「花菜はともかく雪哉はもう少し使えるのかと思っていたが」
「買ってくれてるのはありがたいけど、その時は術後すぐで体調が完全じゃなかったし、記憶のこともあったからな。自分のことで一杯一杯だったんだよ」
千佳には一瞥だけくれ、紫蕗は黙り込む。私は買ってもらえなかったすか……? と切実な目で訴えかけているが聞く耳は持たない。
全員が黙り込んだ所で、ルナがふと思い出して声を上げた。
「あ、そうだ。俺の叔父……らしい人が、城を壊すレジスタンスをやりたいって言ってるんだけど」
「話をややこしくするな」
一蹴された。
ついでと言うわけではないが、そういう人もいるということは伝えておく。目的は一致しているのではないだろうか。最近は何処で何をしているのかわからないが、また現れてルナに勧誘を持ち掛ける可能性はある。ルナにその気はないが、城の中に協力者がいれば多少は遣りやすくなるのではないだろうか。
「今は結論を出すのはやめよう。レジスタンスを企てているならそいつを泳がせておく。叔父……と言っていたが、何だそいつは」
「違界から戻ってくる時に小さい女の子を連れてる人がいたと思うんだけど、その人が俺の母さんの弟らしい」
「ああ……」
そういえばそういう奴もいたな、くらいの調子で頷く。
「ついでに聞いておくが、そのレジスタンスの人数は?」
「叔父って言うラディと、連れてた女の子のモモって子の二人」
「話にならない」
想像の遙か下をゆく回答に紫蕗は頭を押さえる。全然人が集まっていないじゃないか。
「雪哉、城の情報はそれで全てか?」
あまりの内容の薄さにレジスタンスの話題は放棄された。
「大方話したと思うが……記憶がどうにもなってなければ」
会話から放り出されてしまった千佳は、忘れていたクレープを一口食む。目深にキャスケットとフードを被り眼帯もつけていてよく顔は見えないがそれでも、美少年だなぁと千佳は微笑みながら紫蕗を見る。
「後は……おいこっちを見て笑うな気持ち悪い。お前が買ったブローチを見せてほしい」
「え? いいっすけど……って、気持ち悪いって何すか!」
美少年だが口は悪い。だがまあ、そこも魅力だろうかと微笑ましくなる。
「そんな言い方じゃ見せてあげないっすよー……何つって」
「…………」
にこりとも笑わず紫蕗は千佳を見詰める。どうすれば見せてもらえるだろうかと考えていただけだったが、先に千佳が視線を逸らした。ごそごそと鞄の中を漁り、城の中で買った赤い硝子のブローチを差し出す。
「美少年の威圧感耐えられないっす! 目が焼けるっす!」
意味がわからなかったが、差し出してもらえたのだから良いかと何も言わずブローチを受け取る。おまけで貰ったという指輪は硝子ではなく翡翠だったが、こちらは普通の硝子のようだ。
「……変わった所は見受けられない。店に並んでいる物は普通の色硝子ということか」
折り返しすぐにブローチを返す。千佳も受け取ってすぐに大事そうに鞄に仕舞った。折角雪哉が自分のために買ってくれた物なのだ、傷を付けるわけにはいかない。
一通り話を聞き、気になっていたブローチも確認することができた。思わぬ収穫もあった。有無を言わせず無理矢理東京から転送してきたが、連れの者も心配していることだろう。用も済んだことだ、千佳を早く帰してやろうと紫蕗は彼女の腕を掴む。
「急に連れてきて悪かったな。東京に帰してやる」
「えっ、今!? もう少し旅行気分……あ、お土産! 沖縄って何? ――あ、ちんすこう!?」
そう叫んだ瞬間、二人の姿は忽然と消えた。
迅速だなぁ、と残された二人は思った。振り回される形となってしまった千佳に同情する。