序章/第一章『月』
泣いて笑って今回もばたばた走り回ります。
【序章】
その夜は、とても穏やかだった。黒い空には少し欠けた三日月が昇り、風も無くしんとしていた。
その静寂を裂くように産声が上がる。元気な男の子だ。
彼女は疲れ切った顔をしているのに、へらへらと嬉しそうに笑った。
病室へ戻るとベッドから窓の外を見詰め、彼女は月に手を伸ばした。掴めない月を愛おしそうに指でなぞり、新しい命を抱き締めて言った。
「あの昏い世界のように朧じゃない、この綺麗な月のように、平和に照らされるように」
ずっと守ってくれていた大きな三日月の鎌のように、この子を守ってくれるように。
「消えない光となって、この子の行く道に光があるように――」
祈りを籠めるように、彼女は言った。平和な世界で、幸せになれるように。
彼は、芝居掛かった彼女の言葉を黙って聞いていた。異なる国に生まれた身だ、何かそういう祈りを籠める儀式のような言葉を述べる慣習でもあるのかもしれないと思った。
「この子の名前は『ルナ』にしましょう」
この子も、誰かを照らせるように。
彼は「少し女性っぽくないか?」と言った。だが彼女にはその言葉の理由がわからなかった。良いと思う名前に性別などあるのだろうか。この世界は難しい。
少し寂しそうな顔をする彼女に、こんな日にこんな顔をさせてはいけないと、彼は彼女の想いに賛同した。素直に良い名だと思ったことは事実だ。
とても幸せな時間だった。これが永遠に続くのだろうと思った。
小さな命は目の色は彼女譲りの緑、髪の色は彼譲りの黒だった。
その名前のおかげで幼少期はよく女の子に間違えられた。
くりくりと大きな緑色の目は日本では目立つので、彼女の出身であるイタリアに住むことにした。それでも南ではその色は珍しい。珍しげに顔を覗き込まれることもあり、母親と同じだねと言われては彼女や彼の後ろに身を隠していた。
虐められるということはなかったが、居心地が悪そうにする姿を見て、一度だけ彼女が言ったことがあった。
「ルナはその目の色は嫌い?」
男の子はじっと彼女の目を見詰め、ぶんぶんと首を横に振った。
「きらいじゃない。マンマもすきだから」
真っ直ぐに目を向ける男の子に、彼女は嬉しそうに微笑む。
「そっか。私もルナのこと大好きだよ」
「だいすき!」
「何かあったら、マンマが守ってあげるからね。マンマこう見えて、結構強い」
「パパより?」
「パパより強いかもしれない」
「パパよわい」
「こらこら」
後ろで聞き耳を立てていた彼は慌てて弁明に入る。日本語で弁明する彼に、彼女と男の子はイタリア語で返す。イタリア語が堪能ではない彼はこの幼少期の時点で男の子の言葉に負けていた。
この幼い頃のことは、現在の男の子の記憶からは忘れられていることだろう。
男の子はそれは大切に育てられた。目に入れても痛くないというのはこのことかと思うほどに。
好奇心旺盛で目を離すとあれやこれやと機器を分解するという少し困った性格はあったが、それを彼女は面白がって、壊れた機器などを引き取って男の子に与えた。家の中がガラクタの部品ばかりになると、今度は散乱した部品を組み合わせて遊ぶようになった。この辺りで彼には、男の子が何をしているのか理解できなくなった。行動の理解ではなく、どうしてその部品をくっつけたらこういう物になるのか、ということについてだ。
「ルナ、遊ぶのはいいけどな、螺子を転がしておくのは駄目だぞ。パパが踏んで痛い」
「パパ、スリッパあげる」
「ああ、うん。ルナは頭良いな。そうなんだけど、そうじゃない」
「空を飛べたら、床のことは気にしなくていいから、空が飛べるもの、かんがえてみる」
「ああ……うん、そうかもしれないけど……! 螺子を片付けるのが一番手っ取り早い!」
「でもみんな大きさがちがうし」
「じゃあ分けられるケース買ってやる!」
「ほんと!? やったぁ!」
「ルナはそういうの喜ぶよなぁ……玩具より。玩具バラすし」
「おもちゃも楽しいよ」
「急に気を遣ってきたな」
こんな嗜好で学校で友達と上手くやれているのか心配になるが、気を遣えるなら大丈夫なのだろうか。まだ小学校に上がって間もないし、もう少し外で遊んでみても良いのではないかと彼は思う。
まあルナが楽しいなら良いか。彼女も楽しそうだし。
「ルナは大きくなったら何になりたい? 何かやりたいことある?」
ある日彼女は、家の外の石畳で遊ぶ男の子に問い掛けた。男の子の隣にしゃがみながら。
男の子は少し考えた後、彼女を見上げた。純粋で無垢な瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいた。
「あんまり考えたことなかったけど、マンマを守れるくらい強くなりたい」
その言葉に彼女は少しだけ寂しさを覚えた。他人のためではなく自分のために生きてほしい気持ちと、そういう別の世界でもできるようなことではなくこの世界でしかできないような夢を抱いてほしかった気持ちと。
「……そっか。ルナはもう強い子だから、大丈夫だよ」
「そうかな……アンジェの方が強いんだよ」
「ルナは強いよ。強い子よ」
「ん……」
男の子は照れくさそうに目を逸らした。
大人になったら話しても良いかもしれない。彼女は一つの区切りとして、男の子が大人になる時を選んだ。
彼女がこの世界の人間ではないことを。
だがその瞬間を、彼女が迎えることは叶わなかった。
【第一章 『月』】
「じゃあルナ、留守番頼んだぞ! いってきます!」
「Buon viaggio. いってらっしゃい」(良い旅を)
欠伸を噛み殺しながら、大きなトランクを引く父にドアを開けてやる。朝の清々しい空の下、車に荷物を詰めるのを手伝う。
「いってらっしゃいのキスがないというのも寂しいもんだな」
亡きリリアのことを思い浮かべ、父は遠くを見詰めるようにぽつりと漏らした。新婚の頃はそういう習慣に恥ずかしさもあったが、今やそれはすっかりと根付き、違和感のない習慣になっていた。それが突然失われ、ぽっかりと穴が空いたように空虚になってしまった。
「俺はしないからな」
「お前も小さい頃はしてくれてたんだぞ。お前もそういうのが恥ずかしくなる年頃ってことだな。彼女できたら言えよ」
「飛行機の時間遅れそう」
「あ」
時刻を確認し、父はバタバタと忙しなく車に乗り込んだ。
リリアがもうこの世界の何処にもいないということにまだ実感はなかったが、日本での挨拶や手続きも一段落し、一つの区切りとしてルナの春休みの時期に父はイタリアへ挨拶回りに行くことになった。ルナは日本で留守番だ。イタリアに共に行くことも考えたが、今は気に掛かることも多い。何かと適当に理由をつけて断った。
(俺も終業式行かないと)
机上に広げっぱなしの食器を運び、二人分を洗う。台所が妙に広く感じた。蛇口を閉じると、ぴたりと静寂が支配する。
鞄を肩に掛け靴を履き、廊下を振り返る。
「いってきます」
返事がないことはわかっているが、明かりを消した薄暗い部屋に向かってぼそりと言葉を置くことは、虚しいとは思わなかった。
学校へ行くと、いつも通りの日常が広がっている。フードを被って机に突っ伏す久慈道宰緒もいつも通り教室の景色に溶け込んでいる。
だがそこに玉城花菜の姿はない。違界から戻ってきてから一度も学校に来ていない。兄――稔を喪ったことの精神的な衝撃が大きすぎて、未だ彼女を蝕んでいた。あれからまだ二ヶ月しか経っていないのだ、まだ時間が必要だろう。
もう一人の兄、玉城雪哉も三年生なので学校ではもう見かけない。雪哉は東京の大学を受験している。違界転送の一件で有耶無耶になっているが、この春から東京で暮らすことになるのではないだろうか。そうなれば花菜は一人になってしまう。両親は健在だが、違界のことも稔がどうなっているかも知るはずはない。
「玉城さん、冬休みから後殆ど来なかったな」
学級委員の与儀勇斗は教室をぐるりと見回しながらルナに声を掛けた。
「お兄さん、まだ見つからないのか」
「……うん」
稔の件は行方不明ということになっている。無惨な死体は違界に置き去りにされ、死んだという証拠がない。行方不明とするしかなかったが、永遠に見つかることのない行方不明の話を聞くと、気が重くなる。
「早く見つかるといいんだけどな」
「…………」
死体が存在し葬儀まで執り行えたルナとしては複雑な心境だった。返答が難しい会話を切るように、クラスメイト達が終業式へ向かうため席を立ち始めたことがありがたかった。
その流れに乗ってだらだらと式へ足を運び、気怠いような気分のまま終業式は間延びした空気を纏い上の空で進行した。三年生がいないため、講堂ががらんと広い。まるで家の台所だ。
終業式が終わると、また嫌な時間がやってくる。通知表だ。多くの生徒は諦めたような吹っ切るような顔で談笑している。
それとは違う嫌な気持ち、あまり好きではない自分の名前が呼ばれる瞬間。気にしているのはきっと自分だけで、他の生徒は他人の名前をそこまで気にしてはいないだろう。教室の中で一人だけそんなことを気にしているのが、一番嫌なことかもしれない。名前の順なので、どうしても一番に呼ばれることが多い所も嫌だった。
その名前が呼ばれる瞬間「青羽ルナ」後ろから服を引かれた。
「おい青羽。春休みお前ん家泊まるわ」
「え!?」
呼ばれた返事に素頓狂な声を上げてしまった。教室の視線を一身に浴びる。名前が注目を浴びたようで一気に体温が上がった。
タイミング、最悪。
背後に一瞥をくれると、突っ伏したままのフード頭が小刻みに震えている。笑うなこのやろう。
「――で、何で春休み泊まりに来るんだよ」
終業後逃げるように学校を飛び出し、気怠げに自転車を漕ぐ。
「お前、春休みイタリア行かねーじゃん。だからお前ん家」
「行かないけど……結局何処でもいいのかよ」
「三食昼寝付き」
「ホテル行けよ」
違界から戻ってきてから平和を強く噛み締めるようになった。他愛のないどうでもいい会話にも平和を噛み締める。
「何処か出掛けるって言うなら考え直すけど。何か予定あんの?」
「予定……って言うと、母さんの鍵が何の鍵か探したいって言うか」
「ヘッドセットから出てきたっていうアレか? 心当たりあんのか」
「心当たりはないけど、あるとすれば母さんの部屋じゃないかって」
「すぐ探せばいいのに」
「父さんが入り浸ってたから……父さんがイタリア行ってる今がチャンスなんだよ」
「あー、成程」
それで留守番か、と宰緒も合点が行く。
「何かやばい鍵だったらどうするんだ?」
「やばいって……?」
ただ鍵が出てきたからという単純な理由だけで探そうと思ったのだが、何か危険なものの鍵という可能性もあると言えばあるのか。言われるまで考えたことはなかった。言われて初めて緊張感が走った。
「地球が爆発するとか」
「ねぇよ」
緊張感が一気に霧散する。何でそんなものを母さんが持ってないといけないんだ。静かに耳を傾けていることが馬鹿らしくなり、ルナはペダルを思い切り踏み込んだ。
「あっ、おい、待てっ」
一気に距離が開く。宰緒も慌ててペダルに体重を掛けた。運動が苦手な宰緒と言えど、自転車は漕げる。
「昼飯、何」
「来る気満々じゃねーか」
泊まることを許可した覚えはないが、宰緒はぴたりと自転車を寄せてくる。
「料理面倒くせぇ」
「俺にやらそうとすんな」
「腹減った。朝飯食ってない」
「朝飯は面倒臭がるなよ。じゃあ何か食いたい物あるか?」
「何でもいい」
押しに折れて尋ねてみたらこれだ。ペダルを更に踏み込む。
「次それ言ったら追い出すからな」
「えっ。じゃあ……クレフティコ?」
「え? クレ……何?」
速度を上げた仕返しだとばかり、聞いたことのない名前を出してきた。
「ギリシャ料理、急に思いついた。知らねーの? 近所だろ、イタリアの」
「近所……と言えば近所かもしれないけど、間に海があるからな。作れそうなら作るけど、それ材料何?」
「何だっけ、羊肉?」
「羊!? 羊は家にないかな……」
「えっ」
「何で意外そうな顔すんだよ」
「違うメニュー考えた方がいいか?」
「……いや、俺もそれ気になるから作る。羊買ってくる」
「お前のそういうとこ、すげー面白い」
上手く乗せられたかとルナは面白くはなかったが、知らないものを知れる機会というものは、うずうずする。それが自分の手で作ることができるかもしれないと思うと、やってみたくなる。
「あ、でも夜な。それ。それまでに調べる」
「鍵はいいのか?」
「どうせ今日は家事で潰れるから……あ、手伝ってくれるなら」
「面倒くせぇ」
本当に泊まるだけかこのやろう。
リリアが亡くなったことで、青羽家の家事担当はすっかりルナになってしまっていた。父がまだ何かと忙しそうにしているのでルナが買って出ているのだが、イタリアから戻ってくる頃には落ち着いているだろう。戻ってきたら家事を分担するつもりだ。料理は嫌いではないが、油断するとすぐに時間が掛かってしまう。父がいない間は適当で良いだろう。
昼はインスタント食品で適当に済ませ、宰緒はきっちり何も手伝わないまま夜を迎える。
机に置かれたリクエストのクレフティコに、宰緒は呆れているのか感心しているのかよくわからない溜息を吐いた。
「本当に作るからすげぇと思うわ」
「味はこんな感じで合ってるか? オリーブオイルと檸檬は家にあったから良かった」
「美味い」
本当に適当に言っただけなのだが、まさか本当に完成品を出してくるとは思わなかった。ルナは満足そうだった。
* * *
夜も更けた頃、月の光しか届かない忘れられた廃屋の中で動く影があった。がちゃがちゃと音を立て、光を点したランプを頼りに銃のメンテナンスを行う。
蔦の這う廃屋の外壁に背を預けて座り、音に耳を傾け淡い紫の頭を葉に埋めて椎は月を見上げる。
この世界に来て何度目の夜だろう。少し眠れたこともあったが未だに眠り方がわからずにいた。目立つ格好ではあまりうろうろと歩き回ることもできず、本当は廃屋ではなく青羽ルナの家に一緒に住みたいとか、そんなことを時々考える。ルナが一人ならすぐにでも会いに行くが、彼の父親は違界のことを何も知らない。何と説明すればいいのかわからないのに、無闇に近付くわけにはいかない。それでもルナが許してくれればいいのになぁと思う。違界に転送された一件から、やはりこちらの人間の傍にいるべきではないのだろうとも思い、尋ねる勇気はない。
などと考えていると、近くの木の陰からちらりと人影が覗いた。この世界には違界にはいない厄介な存在がいる。警察だ。野宿する者に声を掛けてくる厄介な者達。見つかると面倒だ。
「あ……」
廃屋の陰に身を潜めようとした所で、その人影が月明かりで照らされた。予想に反してそれは警察ではなかった。
「……ラディとモモ?」
「あ……椎……?」
互いに予想外だという風に目を瞬く。
「どうしたの? こんな所で」
椎はすぐに立ち上がり駆け寄る。二人の他に人影はない。
「いや……急にこっちの世界に来ちまったからな、何をすればいいかわからないって言うか、適当にうろうろと」
「太陽は凄く眩しいの」
違界は常に薄暗い。こちらの世界の昼間はあまりに眩しいので、ルナ達から離れてからは椎も夜に行動をすることが多い。夜は人気もないので動きやすい。
「食糧もそろそろ尽きそうだし違界人に会えて良かった。こっちではどうやって暮らしてるんだ?」
「そういうことなら入ってよ!」
手で示された先を見る。蔦の絡まる小さな廃屋を。
「それ、椎の家か?」
「灰音もいるよ」
「廃墟っぽいけど」
「誰も住んでないし使ってないみたいだから、使ってるの」
「マジか。憧れるなぁ、家」
招かれるままラディとモモは廃屋に入り、銃のメンテナンスをしていた灰音に心底嫌そうな顔をされた。
「何拾ってきてんだ椎」
「こっちでどうやって暮らせばいいかわかんないんだって」
「私も椎もよくわかってないぞ」
バレルを軽く振り、出て行けと手振りする。
「でも、何か食べるかなって」
「黒葉から貰った金ももうすぐ無くなりそうなんだぞ」
揉める二人に、火種になるなら出直そうかとラディも考えるが、そんな余裕もあまりない。
銃を片付け、灰音は財布の中身を確認する。最近漸く物の値段がわかってきた所だ。金が尽きれば誰かに集る予定だが、それでも無駄にはできない。それに、よく知りもしない人間を助ける義理もない。
「そもそもお前ら、固形物は食べられるのか? 私も椎もすぐには無理だったんだが」
「飲み物なら大丈夫だよ」
小屋の隅に置いていたビニル袋を漁り、椎は勝手にペットボトルを取り出す。
「足りないならオレの分はいい。モモだけでも何か」
懇願するように勢いよく頭を下げるラディを一瞥し、二人は同時にモモに視線を落とす。
「寝てるぞ」
「うん」
「……え?」
ラディの隣にちょこんと座っていたモモは、こくこくと頭を垂れ夢の中だった。随分静かだと思えば。
すぐに眠れるとは羨ましい、と思いながら、椎はモモのために床に布を敷いてやる。布団代わりにするには薄い布だが、無いよりは良いだろう。
「悪いな、急に来て場所取っちまって」
「大丈夫だよ」
「モモは小さいからな。お前は外で寝ろ」
再び手を振る灰音。
「別にいいけどな……」
モモを横にし、少し離れて座り直す。
他には何も話すことは無しと沈黙が流れる。暫しそれぞれ視線を虚空に向けていると、椎がぽつりと呟くように言った。
「ラディは違界に戻るの?」
「ん?」
「レジスタンスするって言ってたから」
「ああ……」
違界にいた頃に熱心に話したことを思い出す。無意識に梛原結理がいないか確認してしまう。いないことを確認し安心した。また言葉で捩じ伏せられれば心が持たない。
違界にいると城の存在は大きく感じる。こちらの世界に来てからは、とても遠くに感じるようになっていた。二つは違う世界なのだ、遠く感じるのは無理もない自然なことだろう。それでも忘れることだけは決してない。戻りたい気持ちは残っていた。危険な違界人を違界から出さないようにするためにも、やはり城の存在は邪魔だ。
「オレ達がこっちの世界に来たのは偶々って言うか不可抗力だからな。城を壊したい気持ちは変わらないし……違界に戻ろうとは思うんだ。けど、折角安全なこっちの世界に来たってのに、わざわざ危険な違界にモモを連れて戻るのは気が引けるって言うか……モモはこっちの世界に残す方が幸せなはずなんだ。でもモモがおとなしく残ってくれるか……」
正直に吐露する。モモには安全なこちらの世界にいる方が幸せに決まっている。まだこんなに幼いのだから。
「モモに転送装置を渡さなければいいだろ。装置がないと世界間を移動できないんだからな」
「……まあそうなんだけどな……こっちで面倒を見てくれる奴がいれば安心なんだけど」
「つまりお前はモモを持て余していると。邪魔なわけだ」
意地悪く口の端を上げ突き放すように言う灰音に、ラディはムッと口を尖らせた。
「邪魔じゃねぇよ。拾った時は気紛れみたいなもんだったけど、今は結構懐いてくれてるし」
「拾う奴は大抵気紛れだろうな。もしくは物好きな技師」
何気なく飛び出した技師という言葉に、それについてはそうだと納得する。自分一人が生きていくだけでも大変な違界で、他の誰かの面倒も見ようなんて、なかなか思いつくものではない。
「技師は何で他人を拾うんだろうな。拾われる方はありがたい話だけど」
「人恋しいとかかなぁ」
ぽつりと椎も会話に加わる。他人にとにかく恐怖する違界で人恋しいとは、狂った発想をする。
この場に技師はいない。想像することしかできない。
「技師は何を考えてるかわからんし、考えてもわかる気がしない。頭の構造が違うんだよ。螺子締めてるくせに頭の螺子は弛んでるって言うか」
「上手いこと言うな、お前」
「何でも作れる奴は余裕があるってことか」
「技師はすぐにでもこっちの世界に行けちゃうのに、何でずっと違界にいるのかな」
ふとした椎の疑問に二人はぴたりと口を噤む。考えたこともなかった。転送装置が造れるのに、危険な違界に留まる理由。
「……聞いたことないな」
紫蕗もそうだ。自由に世界間を往来できるのに、違界に戻り技師として動いている。違界にそれだけの魅力があるとは思えない。
「技師にしかわからない何かがあるのかもな」
結局何もわからないまま、再び沈黙が流れる。
沈黙の中でラディがうとうととし始めると、灰音は彼を小屋から引き摺り出した。
* * *
春休み一日目。窓から射し込む光がキラキラと眩しい。
寝返りを打つと光が顔に当たり、閉じた瞼から外を感じる。ぼんやりと目を開けると、眩しい光に緑の奥の虹彩が揺れる。
一度枕に顔を埋め二度寝も考えるが、ふと時計を一瞥し思い直す。
(もう昼……)
のそりと体を起こして欠伸一つ。まだ思考力が完全に目覚めていないが、目をぱちぱちとゆっくり瞬き、青羽ルナは久慈道宰緒の存在を思い出す。結局きっちり泊まる態勢になっていたことを。
(三食昼寝付き……じゃないな全然)
これでは朝食抜き寝過ぎじゃないか。
宰緒のためではないが、ルナは急いで着替え、顔を洗って頭を覚醒させる。母リリアの謎の鍵の鍵穴を探さなければならない。
バタバタと客室の前まで足早に向かうが、廊下も客室もしんとしている。ドアを叩くが、返事もない。
「開けるぞ! サク!」
返事を待たず勢いよくドアを開け放つ。机の前にはいない。ならばベッドしかない。
「寝てると思ってたけど」
カーテンを開け放ち、布団を引っ剥がす。宰緒は迷惑そうに眉間に皺を寄せるが目は開けない。しぶといなこいつ。
「起きないと洗濯挟みの刑だからな。一秒に一個」
「――――いや多いわ」
「ほら起きたら昼飯考えろ」
堪らずツッコミを入れてしまったが、家に泊まる代わりに献立係にされてしまった面倒臭さを宰緒は全力で表情に出す。
「…………」
「言っとくけど、わざと面倒臭い時間の掛かるメニュー言ったら、お前も食いっぱぐれるだけだからな」
「良くできたシステムだ」
「何がだよ」
寝起きでまだ頭が働いていないのか何を言ってるんだと呆れながら、引っ剥がした布団を畳む。
「二度寝すんなよ」
釘を刺して部屋を出ようとすると、動かない大きな亀に呼び止められた。
「あー……カップ麺でいいんじゃね、昼」
「いいのか? それで」
「鍵探すんだろ。料理に時間掛けなくていい」
昨日知らないメニューを叩きつけてきた人物と同じ人物だとは思えない発言にルナは目を丸くする。今日も知らないメニューを叩きつけてくるのではと構えていたのだが。
「気遣いは嬉しいけど……まあ、ありがと。お前が作ってくれるのが一番楽だけど」
「後半は余計だろ。面倒くせぇ」
「昨日のメニューに比べたら大分譲歩したよな」
けらけらと笑い飛ばしながら今度こそ部屋を出る。宰緒が無理矢理でも泊まりに来て、結果的には良かったかもしれない。誰もいない一人だけの家にいると、嫌なことを思い出して思い詰めてしまうかもしれない。未だに鮮明に脳裏に焼き付く、母の庇う姿を。自分を庇って誰かが死ぬというのは、一番辛いことなのではないかと思う。あまりに突然すぎて、感謝も後悔も何も言うことができない。何もない普段から、誰かが死ぬかもしれないなんて考えて生きていない。考えないことが幸せなのだから。
昼食を本当にカップ麺だけで済ませ、宰緒は再び客室に引き籠りへ、ルナは意を決してリリアの鍵を手に家の中の捜索を開始した。
最も可能性があると踏んでいるリリアの部屋のドアノブを握る。リリアの生前、実はルナはこの部屋に入ったことがない。誰も入らないように、特にルナには中に入らせないように徹底されていた。
父は遺品整理などで部屋に入っているが、何かを捨てた様子はなく、おそらくリリアの私物は生前のまま残されているはずだ。持ち出した可能性はあるかもしれないが、鍵の差せる物が残っていることを祈る。
「お邪魔します……」
緊張で息を呑みゆっくりとドアを開けると、綺麗に整頓された小さな部屋がそこにあった。壁には棚が並び、日本とイタリアの辞書など書籍が収められている。奥には机があり、机上も綺麗に片付けられていた。その机の引出しの一つに、鍵穴が見える。
「! 鍵……っ」
早速当たりかと逸る気持ちを抑えながら引出しに手を掛けた。
「あれ……?」
だが引出しに鍵は掛かっておらず、すんなりと開いてしまった。中には何の変哲もない文房具。念のためにと鍵穴に鍵を差してみるが、上手く入らない。この引出しの鍵ではないようだ。
(そんなにすぐに見つかるわけないか……)
期待はしていたので肩を落としつつ、周囲を見渡してみる。見える所に他に鍵穴らしきものはない。
棚から本を引き抜いて確認するが、本にも棚にも変わった所はない。引出しも全て開けてみるが、特に変わった物は出てこない。扉の付いた棚も開けてみるが、鍵穴など見当たらない。代わりに、ルナが幼い頃に母にプレゼントした絵やガラクタが出てきた。本当に何の役にも立たないガラクタを全て残していたらしい。今だったらもっと使える物を作れるのに。
(何でこんな……)
ガラクタに触れようと手を伸ばしかけ、ふと思いつくことがあった。ポケットから、紫蕗から貰った違界の腕輪を取り出し、中に仕舞っていたヘッドセットを形成する。部屋の出入口まで下がりぐるりと見渡し、頭に装着して電源を入れた。ジャミングを施してあるので問題はないはずだ。
「部屋の中を探索」
違界の装置は思考で作動する。何処まで扱えるかわからないが、試す価値はある。人が捜せるなら物も探せるはずだ。物は電波を発していないかもしれないが。このまま自力だけで探していれば夜になっても見つからないだろう。
違界から戻ってきてからは初めて装着したが、違界で感じたあの不快なノイズは無かった。静かに脳に情報が流れ込んでくる。紫蕗がカスタマイズしたからだろうか、それともここが違界ではないからなのか。
(足下に何かある……?)
電波を感知しているわけではなさそうだが、物の輪郭が脳に伝わってくる。物陰に隠れている物も、肉眼では見えないのに隠れた輪郭がわかる。不思議な感覚だった。
その輪郭の中、足下に妙な空間がある。
(絨毯の下……?)
床に敷かれた絨毯を思い切って捲ると、床に鍵穴が現れた。
先程の合わない鍵穴のこともありこれは当たりか外れかもどかしく鍵を握り差すと、今度はぴたりと嵌った。慎重に回して床の小さな扉を開けると、物置なのかぽっかりと小さな空間があった。そこにはたくさんのノートが重ねられていた。
(何だこれ……?)
一番上にあった一冊を手に取ってみる。表紙には数字が並んでいる。
ぱらぱらと中を見てみると、すぐにそれが何なのか理解できた。
(日記だ……)
まだ白紙の多いノートに最後に書かれていたのは、母が死ぬ前日の日付。
他のノートも取り出し、床に並べる。表紙の数字は西暦だ。
(これはイタリアから日本に引越した辺りの……)
何気なく頁を捲る。
『アンジェちゃんの家にいつの間にかいた黒葉くん。気づくのが遅くなってしまった。あれは違界の言葉。話しているのが聞こえた。ルナは気づいていないだろうか? 何かあってからでは遅い。ここから離れなくては。ルナと陽助くんに違界人を近づけないように』
(黒葉のこと……違界人だって知ってたのか!?)
あの時の詳しい引越しの理由は聞いていなかったが、黒葉が違界人だと気づいて日本に渡ったと言うなら合点は行く。
『陽助くん』というのはルナの父の名前だ。
リリアはルナを黒葉から引き離したかったのだろう。だがその思いは届かず、イタリア帰省の度に会っている。そのことはリリアも知っていたと思うが、既にアンジェを介して友人関係になっていた所を無理に引き離すこともできなかったのだろう。黒葉が少しでもルナに違界のことを話したり危害を加えようとしたならば話は別だろうが、黒葉はそんなことはしない。
リリアは身の回りに気を配り、ルナを違界に近付けさせないようにしていた。――だったら。
他のノートも開いて見てみる。思った通りイタリアでの一件も、学校の文化祭での件も、違界絡みだと気づいている文面がある。だから急いでお守り――何かあった時にすぐに駆けつけられるように、転送の座標とする補助装置をルナに持たせた。急いだからか出来はあまり良くはなかったが、心配で堪らなかったのだろう。技師でもないのに時間を掛けて無理に作ったのだろう。
ルナは一度深呼吸し、日記を全て順に並べた。一番古い日記は二十二年前。違界でラディが、リリアは十三歳の頃にこちらの世界に転送されたと言っていた。それが二十二年前だ。こちらの世界に来てから欠かさず日記を書き続けていたらしい。その一番最初の日記に手を伸ばす。違界から出て初めての違界ではない世界。どんな気持ちだったのだろう。この世界は、幸せだったのだろうか。
黙って日記を読むことを心の中で一言謝り表紙を開くが、ぴたりと手が止まる。
「…………んん?」
もう一枚頁を捲り、首を傾ぐ。
更に捲るがそこに文字らしきものはなく、絵のようでもなく、ただ線がのた打っていた。
「え……何だこれ」
ヘッドセットが何も反応しないということは、違界の言葉でもないだろう。どんな気持ちだったかとか、そんな感情は何も読み取れなかった。どういうことだと捲る手を速めて頁を流していくと、やがてぽつりぽつりと簡単な単語が現れてくる。街や家の中にある物、色の名前など。そこで漸く気づく。文字が書けなかったのだと。ヘッドセットと首輪があれば翻訳機能が作動するので、文字を書くこともできるだろう。だがこちらの世界で生活するにはそれは外しておかなければならない。だから文字が書けなかったのだ。この様子だと、話せはするが違界の言葉すらも書けなかったのだろう。あんな世界で学校があるとも思えない。違界の識字率は相当低いのではないだろうか。
日記に単語のみから短い文章が生まれ、母の努力が窺える。文法が可笑しな部分、イタリア語には男性名詞と女性名詞というものもあり、添削が必要な所が其処彼処に散らばっていた。
しっかりと文章が書けるようになった辺りで、新たな登場人物が現れる。――父だ。
両親の馴れ初め。その辺りのことも両親から聞いたことはない。父がイタリア旅行に行った時に出会ったということしか。
(これ読んでもいいものかな……何かあんまり……)
知りたいとは思わない。むず痒いと言うか。
誰もいないのはわかっているが、きょろきょろと辺りを見渡す。
(父さんに直接違界を知ってるか訊くわけにもいかないし、母さんが違界人だと知ってるなら本当のことを話した方がいいと思うし……)
葛藤を繰り広げノートを睨むが、結局は意を決して日記を読むことにした。
『道を歩いていたら、知らない男に声をかけられた。困っていると、知らない言葉を話す男が話しかけてきた。何を言っているかわからなかったけど、最初に声をかけてきた男もその言葉がわからないようで、面倒だと思ったか去っていった。後の男は日本人だと後でわかった。このあたりは英語と日本語がわからない人が多い。小型翻訳機を作って、私もやっとわかった。青羽陽助くんは友人とはぐれて迷子になったそうだ。』
(うわ……ベタな出会い方してる)
要は友人と旅行に来ていた父が迷子になり、その時偶然リリアがナンパされている現場を目撃し助けに入ったものの言葉が通じなかった。ということか。言葉が伝わらなさすぎてナンパ男が撤退するとは、余程しつこく伝わらない言葉を浴びせたのだろう……。いまいち格好がつかない。
その場を想像して苦笑しながら頁を捲る。違界のことを話したなどということは一切書かれていない。
これは今も父は違界のことなど知らず、リリアが違界人だとも知らないままなのかもしれない。日記には父のことが書かれる頻度が高くなるが、全く違界のことには触れていない。黒葉が違界人だと知って遠ざけようと引越すくらいだ、話している方が不自然か。
考えながら何気なく頁を捲り続け、完全に油断していた。
『明日陽助くんは日本に帰るので、とまってるホテルに遊びに行きました。夜も遅いのでとまっていくといいと言ってくれました。はじめてのことだったのでとまどったけど、陽助くんはベッドで、』
「わあああああああ!!」
ばしんと音を立て勢いよくノートを閉じた。
「展開が早い!」
ばさりとノートを落とし、反射的に後ろに仰け反りかけて棚で頭を打った。目が泳ぎながら頭を押さえる。危うく両親の一夜が繰り広げられる所だった。多感な高校生の息子にはきつい。気軽に読むものではない。
でも自分の生年月日を考えるとそうかこの辺りか……などと考えぶんぶんと頭を振る。この辺りの日記は息子が読むものではない。
その一冊を脇に退け、気を取り直して次の一冊を手に取る。読むのを止めようかとも思ったが、先程の日記の所為もあり自分が生まれた時のことには少し興味があった。そういう話も聞いた覚えがない。ルナには弟も妹もいない。ほいほいとそういう展開はないだろう。
(名前は母さんが決めたっていうのは聞いたけど……違界では変じゃないかもだけど、父さんは何も言わなかったのか、この名前……)
慎重に頁を捲り、生まれた日付を探す。ノートの真ん中くらい。六月二十九日。
『午前2時。少し小さいけど、かわいい男の子が生まれた。窓から見える月がとてもきれいで、名前はルナにした。陽助くんは、夜に生まれたからだと思ったかな。陽助くんの知らない違界の月はおぼろげでよく見えなくて、でもこの世界の月はこんなにきれい。きっとこの世界が平和だからこんなにきれいで、この子もそんなふうに平和できれいでいてほしくて、名前はルナにしようと決めた。私の鎌も三日月みたいで、月でおそろいだよ。違界で守ってくれてた三日月の鎌みたいに、この子を守ってくれますように。この子の行く道に光が照らしますように。しあわせになってね、ルナ。大好きだよ。』
視線を日記に落としたまま、指先が微かに震えた。知らなかった。そんなたくさんの意味が名前に込められていたなんて。
名前を呼ばれるのが嫌で、名前を好きではない気持ちは変わらなくて、でも幸せを願ってつけられたものだということは、胸が痛むほどによくわかった。
『私は違界でくらしていた分、あまり長くは生きられないと思う。この世界にも違界人がいて、大切な人たちより先に、だれかを守って死ぬこともあるかもしれない。でも大切な人を守れて、その人が生きていられるなら、私は死んでも後かいしない。私を拾ってくれたおじいちゃんおばあちゃん、陽助くん、ルナ。だれにも違界は近づけたくない。
もし私がもういなくて、今だれかがこの日記を読んでいるなら、
私はさいごに、守れましたか? 守れていたら私は、とてもしあわせです。』
「…………」
日記の文字がぐらりと揺らいだ。じわりと滲んでゆく。
ああもうこの人は、ここにはいないんだ。そう滲む視界の中で思った。
その日付の後はすっかり育児日記になっていた。少しずつ違う毎日が短く綴られていた。目の色がこの世界の人間とは少し違う母の色を継いでしまったことには心配の言葉もあったが、『おそろいだよ』と嬉しそうにも書かれていた。
だが視界が揺蕩うままではふらふらと、文字が頭に入ってこない。
声を出さないように押し殺し、濡れた緑眼を伏せる。
「……幸せかどうかはわからない。けど、不幸だとは思ってないよ」
ぼそりと囁きかけるように呟く。何よりの本心だった。不幸だと言って違界を否定してしまえば、母のことも黒葉のことも椎達のことも、全て否定してしまうことになる。違界は残酷な場所だが、残酷なばかりではない。必死に守ろうとしてくれる人達もいる。そのことだけは、否定したくなかった。
名前はやっぱり好きになれそうにないが、意味を知ったことで少し、照れ臭くはなった。
* * *
青羽家の客室でノート端末に齧り付いていた宰緒は、ヘッドホンから流れる音に微かに不協和音が混じったことに気づく。怪訝な顔でヘッドホンを外し耳を澄ませてみるが、何も聞こえてこなかった。
(? 青羽の声だったような)
今この家には宰緒とルナしかいない。テレビなどでなければ宰緒が声を出していないのだから犯人はルナしかいないが、一人で大声を出すようなことがあるだろうか。鍵穴探しで何かあったか。
ノート端末に向き直って切りの良い所まで打ち込み、重い腰を上げる。何か見つかったのかもしれないと興味本位で様子を見に行くことにした。
廊下に出ても声は聞こえず、どころか物音もしない。
ルナの母親の部屋の場所は聞いている。物音一つしないので、釣られて宰緒も足音を立てず部屋に向かう。
部屋のドアは少し開いていた。隙間から一筋の光が走っている。ドアを動かさないようにそっと光の中を覗いてみた。
「…………」
床に散乱した本やノート。その中で膝を折って青羽ルナが静かに泣いていた。手には一冊のノート。
絨毯を捲り上げ、その下の床はぽっかりと空いている。その穴の蓋に鍵穴が見えた。謎の鍵はあの空間の鍵だったのだろうと推測できた。
(母親の遺品……)
すぐにそう思い至る。
宰緒とは違い、ルナは誰かのために泣き、母親を喪ったことを悲しむ。そういう家族もあるのだということはわかる。だがその気持ちは宰緒には全くわからなかった。自分の親がもし死んでその遺品を前にしたとしても、きっと泣くことはないだろう。葬式にも参加したくない。
ルナにとっては大事な存在で、そんな大切な人が何故亡くならなければならないのか。どうでもいい自分の親はまだのうのうと生きているのに。姉は死んで、でもあの親は生きていて、この世界は何て残酷なのだろう。
――自分は、いつまで逃げているのだろう。
ドアの隙間から暗い廊下に走る一筋の光から顔を逸らす。
光は誰もいない廊下を割くように真っ直ぐに伸びた。
* * *
すっかり日記を読み耽り夜になってしまっていることに気づき、ルナは我に返った。
「やべ、晩ご飯……!」
散らかしたノートを慌てて床の穴に戻す。重ねてあった順番は気にしなくても良いだろう。きっとリリア以外はこの穴の存在を知らない。
「ん……?」
先程はノートに気を取られていて気づかなかったが、穴の隅に何かあることに気づいた。丁度開いた穴の蓋の影になっている。何かは菓子箱のようだ。
箱を持ち上げると、妙に重い。中身は菓子ではないだろう重さだ。箱に鍵はない。中身の見当が付かないので、少し身を離して警戒しつつ慎重に蓋を開ける。
「あ」
菓子箱の蓋の影から覗くのは、工具だった。幾つも詰まっている。見たことのない形状ばかりだった。それが何なのかルナにはすぐにわかった。
「違界の道具だ!」
少しだけ見覚えのある物も混じっていた。紫蕗が義足や義手を作っている時に使っていた物に似ている。紫蕗が使っていた時は、そういう物も何処かで売られているのだろうとしか思わなかったが、リリアも同じ物を持っているとなると、違界の物である可能性が高い。ノートと共に床下に隠すような物だ。知られたくない違界の物に違いない。転送補助装置などを作っていたリリアだ、違界の工具を持っていても不思議はない。
ルナは日記のノートだけ床に戻し、蓋を閉める。しっかりと鍵を締め両手を合わせ、床に向かって力強く頭を下げた。
「母さんは不本意だろうけど、この道具、俺にください!」
好奇心で口元がつい歪んでしまう。こんなに興味をそそられる物を床下にただ仕舞っておくなんて勿体ない。母は苦笑しているだろうが、幼少期の分解癖も笑って見ていた母だ、きっと許してくれるだろう。いずれこうなると予想していただろうか。
菓子箱を机に置き、絨毯を丁寧に敷き直す。父に不審がられないように元通りにしなければならない。本の並んでいた順番も間違ってはいけない。菓子箱については、開けられない床下の空間から一つ物が消えているとは流石に気づかないだろう。それは良いとする。
部屋を片付け物の位置が変わっていないか念入りに確認した後、大事に菓子箱を抱え、緩みそうになる顔を引き締めてドアを開けた。
「……?」
開けたドアの脇、足元に何かが置かれていた。
菓子箱を抱えたまま膝をつく。白いビニル袋の中に透明なパックが入っていた。
片手で中身を確認する。
「何でエビフライ……?」
パックの中身はどう見てもエビフライで、二匹入っている。その他には何も入っていなかった。廊下を見渡すが、やはり他には何もない。
家の中にはルナの他には宰緒しかいない。だとするとこれは宰緒が置いた、もしくは落としたということになるが、落としたのなら部屋の中にいたルナも物音に気づくだろう。だが何故エビフライ? ルナの好物ではあるが、意図が読めない。
パックの入った袋を菓子箱に載せて抱え、宰緒のいる部屋に向かう。他の場所に気配はない。
部屋のドアを開けると、明かりが点いていなかった。
「サク……?」
しんと静まり、誰もいない。ベッドで寝ているわけでもない。暗い部屋の中で、人の気配は感じられなかった。
首を捻りながら玄関に走り、靴を確認する。宰緒の靴がない。
「帰った……?」
確認を取ろうにも宰緒は携帯電話を持っていない。もう一度首を捻り、置き手紙くらい残しておけと思いながらも深くは考えず、菓子箱を置いてルナは夕食の準備に取り掛かった。
ただ気紛れを起こして帰ったか、近くのコンビニにでも行ったのだろうと思った。