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ショートコメディ

あ、蚊

作者: かげる

「あ、蚊」


 そう言われるより前に、平手ではたかれた。ぼくは蚊ではない。人間だ。なのになぜ、こんなことが。あまりに唐突な出来事に、驚いてしまった。いや、この時のぼくは驚く暇もなく「ぼぶへッ!」と言いながら、足が宙に浮いていた。この時、あらゆる思い出が、走馬灯のように回っては消えていった。同じ場面が何度も回って現れる。この場面はどこだ。


 ああ、思い出した。


 この場面は夏の浜辺。モノクロの世界。サングラスを耳にかけたぼくが、日陰でアウトドアチェアに腰掛けていた時の光景だ。前を通りすぎる水着ギャルの胸元を凝視していた時の、情景だ。空は青く、雲がふわふわと浮かんでいて、おっぱいがでかかった。


 胸がざわめく、この感覚はきっと青春と表現するにふさわしいものだっただろう。そう。あの頃のぼくは、活発な思春期真っ只中のガキだった。エネルギッシュだった。これからのことばかり考えていた。過去は振り返らない。走馬灯なんて言葉も知らなかった。


 浜辺で、堂々と腕を組みながら椅子に踏ん反り返っているこのおとこ。ぼくはもちろん、太陽を凝視していた。サングラスなので失明する心配はない。しばらくすると、白く輝く二人組のコロナが前を歩いた。ぼくは目をカッっと開いた。太陽ナイスバディ瞠目どうもくしたのである。


『ほぉぉ』

『ねえ、なに見てるの?』

『ほぉぉ。あまりの眩しさに、恍惚としてしまったぼくは、いま世界で一番幸せかもしれない』

『ねえ、ちょっと聞いてる?』


 そんな会話をしてから、ぼくは耳に違和感を感じた。そこにあったはずの重みがなくなっていたのだ。どうやら、隣にいたお友達が外したようだ。しかし、それは危ない行為である。太陽に夢中になっている人間のサングラスを外すなど……、正気の沙汰とは思えない。失明したらどうするのだろう。


 と、そう思った時の場面。隣から、なにか動きを察知した。ぼくはまだ太陽から目をそらすことができないでいる。まさか、この燃え上がるフレアから目をそらさないでいることができるおとこがいるわけがない。胸が高鳴る。ぼくは幸せだった。


 それが刹那という間に、暗転することになる。巨大な風を頬に感じる刹那にも、手の平がぼくをふき飛ばす刹那でも、足が宙に浮いた刹那でもいい。その刹那の場面をぼくは思い出した。


『ぼぶへッ』

『あ、蚊』


 走馬灯が一周し終わった。ぼくは立ち上がる。


「蚊が、女の子に欲情していたから。幼馴染の私が、殺してあげたの」

「違う。お前とは幼馴染ではない。ぼくは女の子に欲情していない。下校中の幼女を見つめていただけだ。更に言うと、お前とぼくはお友達だ」

「違うだろ!」

「ぼぶへッ」


「あ、蚊」と言いながら、ぼくを張り倒したお友達の手が止まった。


「私は、ち、違うんだもん」


 表情を悟られないように、俯きながら言う。


「ん。どうした、お腹でも痛いのか?」

「違う。……違うって言ってるの」

「大丈夫か? ごめんな力になれなくて。おとこのぼくにはわからない痛みとかあるから」

「そうじゃない!」

「ぼぶへッ」


 またぼくは宙に浮く。死に際のような走馬灯が、記憶が、蘇る。楽しかった思い出。夏。青くて澄んだ空。海に行った思い出、隣にはお友達がいた。夜の祭りには走馬灯のような提灯がぶら下がった屋台があって、そこにも浴衣を着た、美麗な彼女がいた。気がつくと、いつも隣にはお友達がいたのだ。もしかして、こういうのを幼馴染と言うのだろうか。


 いや違う。ぼくは気がついた。ぼくにお友達はいない。隣にいた人間はお友達ではなかった。お友達じゃないから、名前で呼べないのだ。恥ずかしくて、まるで、その存在を認めたと思われたくなくて、だから、言えなかった。そんなんだから、いままで、アイラブユーの和訳なんて言えるわけがなかった。


 ぼくは空中で浮遊した刹那的な時間に、そんな気づきをした。そして、地面に倒れこむ。苦しい。いや、苦しいんじゃない。胸が、心臓が、ポンプの役割を活発にしている。痛いけど、嬉しい。


「あ、蚊」


 それは、あまりにも遅い報告だった。たとえぼくの頬に蚊がとまていたとしても、あまりにも遅い。だが、いまはそんなことなどどうでもいい。ぼくは、強敵に立ち向かう傷だらけの主人公のように、負けない野心を持ってゆっくりと立ち上がる。


 遅れてやってきたスーパーヒーローのように格好良く。いまから、ぼくは、名前を言おう。固有名詞なんてどうでもいいと思っていたぼくが、苗字ではなく、下の名前で。氏名で呼ぶのだ。


「あ。蚊、蚊がとまっていたから、つい……」

「大丈夫。そのボケはもういらない。おふざけはもう終わりにしよう、夏亡」


 彼女の名前は香取夏亡。アイ大好ラブきな貴方ユーと書いて香取夏亡。それを、伝えるためには、とても難しいけれど、ずっと、隣にいてくれて、嬉しかったこと、あの太陽おっぱいのように燃え上がるフレアのような気持ちになったことは伝えたい。


 いままで、そばにいてれて香取夏亡。


「思い出したんだ。お前は、お友達なんかじゃないんだってこと」


 彼女は、俯いていた顔をあげた。曇っていた表情が晴れやかになればいいと思って、言葉を探す。


「ぼくは、ずっと、夏亡のことしか見ちゃいなかったよ。いままでも、これからもぼぶへッ」

「いやあんた、いつも私以外の人に欲情していたじゃない! あ、蚊」


 それは、あまりにも遅い事後報告だった。

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