石
由紀夫は、海と水のあいだに引かれた、擦れた鉛筆の線を探しに、ある晴れた日に、静かに海に飛び込んだ。ポケットに使いかけのMONOの消しゴムをひとつ、つめこんで。のどかにさまよっていた銀色の魚の群れが驚いて、パッとあたり一面にはじけてから、またみんなで渦をつくる。透きとおる海の中、由紀夫は線を探した。
しばらく泳いでいると、遠くに、気になる黒いワカメみたいなものがポツンと、揺ら揺ら揺れているのが見えた。ひろいひろい珊瑚礁の山のなかに、人の頭くらいの大きさのワカメがくねくねしていた。近づいてみると、ゆっくりこっちを振り向いて、海の中でもサングラスをしていた。お元気ですかと尋ねられて、由紀夫はゴボゴボ、水を飲みそうになった。
パーパラパラッパー←♪
パーパラパラッパー→♪
パーパラパラッパー←♪
パーパラパラッパー→♪
探し物は何ですか
由紀夫は一緒になって踊った。揺ら揺らゆれる、ワカメのように、でも心は強く、何かを求めて、鉛筆の芯のように硬かった。カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからなかった。探しているから見つからないのだった。求めるのではなく見出すとは、鏡に向かって名指すこと。由紀夫は一緒になって踊った。もし涙が出ても、ここは海の中だから、涙は流れる前に海に溶けてしまっていて、わからない。銀の魚の群れが渦巻いて、夢の中のようだった。ポケットのMONOの消しゴムが、光り輝いていた。探すのをやめてみた。でも何も見つからなかった。ただ、何を探していたのかを、忘れてしまった。その瞬間、海は灰色になった。
『夢の中へ』は、悲しいと思った。でも、何が悲しいのか、分らなかった。探すことが悲しいのか、踊ることが悲しいのか、夢の中が悲しいのか、よく分らなかった。ワカメもよく見ると、ただのワカメだった。
由紀夫は念のために持ってきた海中用トランシーバーで、健史に連絡を取ってみた。以下、通信の記録である。
由「こちら由紀夫。こちら由紀夫。応答願います。あーあー。聴こえますか。」
健「・・・・・・・」
由「あーあーあーあーあーーーー。こちら由紀夫。こちら由紀夫。聴こえますか。」
健「・・・・・・・・・」
由「・・・火事だー!大火事だー!火事なんだー!本当に火事なんだーー!ボーボーボー!!」
健「・・・プチ・・・ガチャガチャ・・おお、ごめん、昼寝してた。とても気持ちいいポカポカ天気で、ついうっかり、夢の中さ。ふわぁ~。こちら健史。聴こえます、どうぞ。」
由紀夫はトランシーバーを鮫の餌にくれてやった。鮫はバリバリ粉々に噛み砕いてから吐き出して、銀の群れを追いかけて、すぐまたどこかへ行ってしまった。
これでわかった。この悲しみや悔しさの正体は、距離だ。しかもこれは頑張っていればそのうち縮まって、いつしかめぐりあえるといった類のもんじゃない、ある決定的で、圧倒的な、現実的な位置の違いなんだ。そうして由紀夫は思い出す。ポケットの消しゴムが冷ややかに熱を帯びる。この海のどこかに引かれてある境界線を、その擦れた鉛筆の線の在りかを、確かめて、確かめながらゴシゴシと消し去ってみたいのだった。海の中でも、涙を拭うように。
健「あれ?・・・もしもーし。・・・フフ、本当に火事だったりしてな。海の中なのに。まあ由紀夫のことだ、うまいこと火消しにまわるだろ。そんじょそこらの火に焼かれて死ぬような男じゃない。どうせ返事なくて怒って、トランシーバ、鮫にでも食わせたんだろ。」
♪『傘がない』は、どうでもいい恋の病を歌った軟弱な男の狂気として聴いたってつまらない。問題は傘がないことではない。君。すべてを投げ打っても、問答無用で君という個人がある、この存在論的な情熱だ。君がいなければ、君の街に行く必要もなく、だから外の雨なんてはじめから関係なく、黙ってお家にいれば傘をさす必要もない。テレビを見たり、新聞を読んだりしていればよい。そうじゃなきゃ、いい年こいたおっさんが涙まじりに、あれだけ熱唱を確信できる理由がない。
この君とは、そのまま歌であり、深刻な顔をしてしゃべる人であり、自殺する人であり、向かうべき人であり、まあ、彼自身であるのだから、今なお、新鮮に感じる。
いつの時代にも、君はいるから。
使命が曖昧なままで、知らなくてはならないもの、手に入れなくてはならないものが現前に体系的のあったのではなくて、私たちの力が事後的に世界を織り成しているのであれば、こんな時に、ひとまず考えるのはやめだ。少なくとも、1+1=2みたいな思考はやめだ。おりこうさんは、やめ。
768495769849+9674937504856×957697+9675849÷97+9675849÷37504856×958495769849+9674937504856×957697+9697+9675849÷97+9675849÷37504856×958495769849+9674937504856×957697+9675849÷97+9675849÷37504856×958495769849+9674937504856×957697+9675849÷97+9675849÷37504856×958495769849+9674937504856×9576=手を上げて「解りません」と言って、素直に好奇心が学びを乞う無垢な楽しさを、忘れてはならない。その正直な温かい信頼を、いつまでも忘れてはならないだろう。
まったく、知らないのだ。
普段分っているような気のまま、徹底して定義されない言葉たちの声。
x²-7x+12=0 ***x=3or4 /可能性の答えはひとつではないのだ。
いつだって学ぶことは、喜びでなければつまらないだろう。ダラダラと際限のない宿題に追われるよりも、そもそもの初めにあった切実な問題を今一度見出すことに努めることのほうが、よほど大切で本質的で、普遍的でありえる大変なお仕事なのだ。
希望とは、知識で構築されるビジョンではなく、自分自身で開放される、それ自体パワーなのだ。様々に生き延びるために、どこか潜在的に本能と結びついてある、吹き抜けるようなユーモアなのだ。
しょっちゅう、引っ切り無しに、何の前兆も理由もなく、絶対的な不安になったりする。暗闇の混沌を恐れる。光に照らされる、有機的な秩序を求めて止まない。あるべき秩序の根拠は、私の内の闇の最中には在り得ずに、街の角から何処までも、手に触れられるように目前にあって、科学的に見る私以外の蠢く地球の表面構造、構成物質の陳列に、そ知らぬ風で、ずっと昔からある。穏やかな把握への意志。言葉を従える準備。不安な私は、秩序がほしいために、再び外部のものだ。そしてそんな秩序がなんともすべてを結び付けている、本当に。不安が寄り添い合うのではなく、いつまでも完成のない希求であっても、自分でやってゆく秩序で関係させて行けることを、息せき切って守らざるを得ない。圧倒的なものに対しては外に立って争い、弱きものに手を差し伸べることは、英雄の定番。憂いの時代の閉塞感は、曖昧であるくせに、あらかじめ漠然と世界を決めてかかりすぎる。閉塞感は、そんな秩序の倒れた腐乱死体。
知識は、説明するためにかき集められた、寂しげな道具であるだけでなく、果てしなく個々の、歩み続ける道端にハラハラと舞い散る、ある、この様にしてある、私たちのかけがえのない、優越や野心を振り払う、転々とした確かさだ。
おんなじ人かもしれないけれど、絶望の中を奔走するお偉いさんたちも、希望を求めて飛び跳ねるお偉くはないさんたちも、友情を思い出すことがなくても、きっとその胸の中で、忘れられないだろう。忘れたら、本当に死んでしまうくらいなのだから。昨日もニュースでやってた。極端になってしまうものを、恐れなければいけない。お互いを、信頼できなければ、意味がない。勝手にそうなってる。勝手にそうなってるから、信頼しちゃって、成り立ってる。
仕事の帰り道、何も考えないで歩いていた。博之はこの暮れかかった街の風景、有機的な巨大な機械に食い込んだちっぽけな螺旋であるように、尽くしたい、尽くしていると思い感じながら、歩いていた。見たことも見ることもない野生の機械の表面を、それがどんなものかもわからずに、血も汗も涙も、その得体の知れない内側からぬくぬくと滲み出して、何の反省もない、そうあるしかないような過去も未来もすべて道連れにしながら、いつも同じところをみんな必死で歩いているような気がした。自分の生活に、どんな問題も下らない事のように思われて、正体のない平凡なあたたかさに、人々が行き交う、ざわめいて自分自身である街路樹を重ねてみたりした。どんな予感も、皆無だった。あらゆるものが等しく、同類だった。
博之は、とっさにタバコに火をつけた。
天国で雲に躓き、天使が転んで星が粉々になった。
「すみません!すぐにかき集めてきます!」
小賢しい名ばかりの言葉たち。襟元正して、☆靴履き忘れて、しゃしゃり出て来る言葉たち。いい加減に、眠らせよう。お前らは実体ではなく、ど☆☆んなに巧みに「実体」という言葉☆を駆使して☆も尚、私たちが言葉を求めてしまうだけであるのに、ずいぶんとハッキリしているようじゃないか。この文☆☆☆章だってそうなんだ。要するに私は、どうやらキリンのよ☆☆☆うにうとうとと居眠りし☆ながらこれを綴っているようなのだけれど、眠らな☆☆い動物なんて、いるのだ☆ろうか。僕は眠たい。☆
眠って僕も、星を集める。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一切の説明のない風の中で、抗うことなく起立しながら。
つまり、従うよりも、生き延びたい。神様に従うよりも、どうせなら馬鹿と神様でありたい。神様であるから、神様を創造した。あたりまえなんだ。生き延びたいのに眠りたいだなんて、まったくいい気なもんだが。でも、いい気でいることができるという嘘みたいな深呼吸も、時になかなか大事なことだろう。睡眠は、必要である。サバイバルと拳銃にいじけてみたって、はじまらないのだ。大体戦場には、無言の掟しかない。無言は眠り。
「いじけてたまるか!」
そうやって、イジイジしながら、雄樹はパンをかじっていた。
「おはよう」
健史は新聞を読んでいる。
いかなる意味も空洞化せず、体系化せず、何物をも意図せず、ここに、人と、物と、神が存することを、私の脳髄に掠める文字列によって、あえて信仰を試みたいと思う。社会の一因子としての従属と個性の自由とが統一される場所は、両者が生み出された場所、思考の中にある。そしてそれはその欲望に忠実に、現実的な場所を求めて創造される。僕たちは僕たちの力を信仰するより他に、術はない。ただそれが行使される旅程表について、いつでも赤ペンを口と鼻の間に挟んでいなければならない。それはただの矛盾ではなくて、漠然として途方のない信頼なのだ。それが持続だ。未来から差し出される手紙であり、人間の人間に対する普遍的な宗教だ。抽象的で観念的な対立は、その消耗の割りに合わない。
何かを証明する為に、無が必要であるということ。むしろ、証明とは、無であるということ。つまり、いかにして無を啓蒙すべきか。美学か。倫理か。だから私たちは、夜の星さえ、結び合う。そのようにして、名付けながら。
雄樹はパンをかじっていた。落としたパンくずをカモメがさらってゆく。それよりも健史は焼肉食べたい。焼肉。そうだ、今日は焼肉を食べに行こう。寂れた駅の裏手に、常連しか知らないように地味にある、健史の生まれたときからずっとある、ちいさなホルモン焼き屋さん。久しぶりに食べたい。ジュージューもくもく。冷えて泡立つビール、おいしいくらいに、飲みながら。あの日、お肉の皿を運んでくる女の子は、まるで愛想があるようなないような、一生何にも慣れることができないような真面目そうな感じがして、かわいかったな。まだいるのかな。いつも店を出るときにくれる薄荷のチューインガムは、銀紙がべったり張り付いていて、なかなか剥がれなかったっけ。
実際にアフガニスタンへ行った事がないのだけれど、アフガニスタンについて書かれた情報を、どのくらい集積すればアフガニスタンなのだろうか。アフガニスタンとは、アフガニスタンであるとともに、アフガニスタンではないような場所として、問題なんだろう。それでも、あなたを知っているといいたい、愛の越権。超えることは愛ではなく、偉大なる錠が、いつも密かに囁かれる、歴史の再来。
理解しようとつとめることが、離れ離れにしてしまうもの。知識の越権。人は知識ではなく、その営為が知識の雪崩。あらゆる街の、どこもかしこも。
明け方まだ薄暗いビルディングの乱立に、転々と灯されて秩序ある風景。そのオレンジ色の意思ある整列に、由紀夫は夢も現実もないような他人の希望を感じる。それは白々しくも、自分自身のことだった。カラスが鳴いても、関係なかった。ビルディングは、確かにここにある。そして、それになるように、心は凝縮されてゆく。ここに吹く、風と光だけが、はじめから零されて、そのことを笑っていた。いや、心底疑っていた。
「アフガニスタンの女性刑務所には、服役する母親と一緒に暮らす幼い子どもたちがいる。小さいうちは母親が子育ての責任を負うとする法や習慣にあわせた措置だ。だが、{塀の中}で育つことの悪影響も指摘され、母親とのかかわりを持たせながら、別の施設に移す試みが始まった。」
2010年1月21日付 朝日新聞
すべての情報は、情報である限り、サイコロのごく局面でしかない。と同時に、あらゆるものを示すことが出来そうな可能性を無責任に、心地よく、潔く与えるものだ。それが歯がゆい。暗闇の中で、長か半か。にもかかわらず、吹き荒ぶ風に追われるような資本の媒介は、ニュースの報道にしても、コマーシャルにしても、なんにしても、ひとまずそれが通信技術の発達と進歩のおかげで、すべてが世界に共有されているかのような、当然のような、共有されるイメージの錯覚の図々しさにウンザリだ。それは不公平だ。情報は無限の砂漠。オアシスの蜃気楼。そこを行く僕らに、本当に必要な水筒のようなメディアの不在。メディアの精神の不在。退屈しのぎではなく、生命線。実際は、そんなこと言っていられないで、四季折々の風向きや天気予報や蜃気楼が面白いんだろうけど、娯楽なんだけど、どうでもいいことが娯楽なんだろうけど、やっぱり、距離は実際の距離としてあるのだから、通信技術の革新によって結ばれるべきことといえば、毎日毎日の身近なことに必要なことを、その現地の人が素朴に語れるような場所が、世界通信の現実にとって大切なことだ。教えることでも、伝えることでもなく、ただそこにある確実な事実。そこの木に登って。だからテレビは世界中の国と地域と同じ数だけチャンネルがあって、そこのレポーターが、どんな些細なことでも伝え続ければ楽しい。たくさんのことと、警報として。同じ職場の人同士みたいに。
光の通信。どこにも存在しない、この光の網の目の上に、いまやってる泥沼のような場所からまったく独立したもうひとつの政府のようなものが誕生したりしないかな。もうひとつの日本。もうひとつのアメリカ。もうひとつの国。自ら意志する民は、自由にそこに参加できる。24時間、アクセスできる。税はなく、任意で渡す。偶像や知識や現場が、各々の声で世界をどうするかを協議する。自分たちで、未来を考える。たとえどんなに最初はちっぽけな御飯事でも、自分たちの力で、考えで、それを成してゆく。そんなこと、今までなかった。もうひとつの政府でありながらNGO、やがて世界連合。関心がないのなら、関心をつくる。それが想像力。
日の落ち掛ける幸福な縁側で、椅子に腰掛けた初老の男が新聞を読んでいる。まるで世界の日記をめくるみたいに、穏やかな時間が流れている。彼は情報を求めるのではなく、ある諦観の愛情を安らかに消費するために、平板にそれを眺めているのだった。彼にはもはや知りたいものはなく、隠されたものもなく、ポストに届くものだけが、生活の物静かな読み物なのだった。それは確かに日記のように見えた。そして彼の人生もまた、ささやかな日記のような愛情に包まれて、記すことが何にもなくなっていったのだ。薄暗い居間で寝転ぶ妻の寝顔を、テレビの明かりが薄っすら白く明滅させている。男はそっと、ブランケットをかけてやるのだった。
天国でも地獄でも、ツイッターが流行している。寝転んだままで、正岡子規は、藤を眺める。
政治に興味はない。政策が重要だ。
約16時間前 via web
そもそもが、何のための税なのか。何をするための金なのか。実際、全然伝わってこないし、誰も伝えようとしない。空虚な良心を実現することなど、出来やしない。@*** 所得税は己れの良心にかけられた税と認識すべきである - ミル 「自由論」
約17時間前 via web
身近なところから、改革、改革。普遍的なものは、美しい。;-)
5:52 PM Feb 24th via web
僕たちが、本当に欲しいもの。それは生み出される前から、すでにここに、あったもの。RT@*** われわれは生産をあまりにも重視し、消費をあまりにも軽視しすぎる。- バートランド・ラッセル 「怠惰への讃歌」
6:56 PM Feb 23rd via web
@*** 君主は椅子に、座らない。Cool!メントール!
6:50 PM Feb 23rd via web ***宛
知識と資本の類似性。蓄えたそれを、自らが活かさないこと。空虚な虚栄心の中で、もったいぶって生きること。そんなふうに白けてみる僕は、どっちもお好きな浪費家です。必要なものが目前に、お腹が減ったりこころが乾いたときには、いつもあるから。
6:40 PM Feb 23rd via web
トーストむしゃむしゃ、たべる。おいしいなう。おとなりさん、干した布団をパタパタ、たたく。考えることが、なんにもない、なう。今日、あったかい日。休日。;-)
4:45 PM Feb 23rd via web
タバコなう。
7:58 PM Feb 22nd via web
髪、切った。毛の硬い人は、よく白髪になりやすいそうです。ふえてきたかな。白髪。WW
6:27 PM Feb 22nd via web
そうしたいのだし、そうなってしまうのだから、しょうがないのだし、しょうもないのだ。
5:12 PM Feb 20th via web
そのことについて想うことは、やっぱり大事なことだ。たとえそれで失敗しても、絶対あやまらないのだ。;-)
5:09 PM Feb 20th via web
僕たちの世界が、どんどん出来上がってゆく。
5:06 PM Feb 20th via web
信頼を現在進行形で結晶化する。新しい音楽の役割。
5:05 PM Feb 20th via web
{{ 小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。 }} イチロー
7:05 PM Feb 19th via web
***さんの好きなところは、いい気なあらゆるものを完膚なきまでにぶっ壊しておいてなお、どうしても可能性が必然的に生まれてしまうような、今と直結した未来への愛情。愛情?よくわからんが、そういうところです。
6:17 PM Feb 19th via web
信頼とは何かを探求する。新しい文学の役割。
10:54 PM Feb 18th via web
酪農かなあ・・・。RT@*** :常に危機感を持て。そしてこれが行き詰まったら何をやるか、いつも心がけておけ。(パイオニア創業者: 松本望)
8:34 PM Feb 18th via web
まもなく独立、新米有機農家って、いつのまにかすごいね、***さん!
10:58 AM Feb 18th via web
僕ももっと、がんばろう。オリンピック!:-6
11:08 PM Feb 17th via web
やっぱり努力だね。それでいてそれが苦じゃなく楽しいってんだから、プロってカッコいい。オリンピック!:-9
10:15 PM Feb 17th via web
***さんが「僕には才能がないんですよ。でも、一つだけあるとしたら、それはどんなにずっとネタを書き続けていても、全然苦にならないこと。100個書いたら、1個ぐらい、そりゃおもしろいのあるんですよ。」みたいなことを答えていた。
10:08 PM Feb 17th via web
おもしろいなあ!:-))
6:01 PM Feb 17th via web
語るべきことは自分の中ではなく、外にある。自分の中のように感じられるものも、外にある。なぜなら語られるものはすべて、誰でも聴くことができるから。;-"
9:11 PM Feb 16th via web
大切なことです。
8:54 PM Feb 16th via web
最期のYesを言いたいがために、そのための百万回のNoを突き付けてたい。しっかりとそれに、触れていたいがために。ぺたぺた♪ それはしょーもない、しょーもーかもしれないけどね。;-*
8:47 PM Feb 16th via web
@*** もちょっとタフになりたい。Zzz...
8:02 PM Feb 16th via web ***宛
いつのまにか、消耗しちゃったときは、本質的なことににだけ、ゆっくり静かに、耳を澄ましていたい。今夜お月さんが、照らしているみたいに、明日の朝を、ひとり迎えるみたいに。静かに耳を、澄ましていたい。何も考えない、夜みたいに。
7:41 PM Feb 16th via web
世界中に散らばった言葉の、ごく一部。ここにあるのは、ごく一部。みんなつぶやきは、ごく一部なのです。ごく一部だから、いい。ごく一部があつまってる感じが、いいな。;-)
7:03 PM Feb 16th via web
繊細な感情は、必要に共有を求めてくるけれど、それは世界の喪失になる。なぜなら世界は感情ではないから。大切なものを喪ったとき、だから人は感情的になる。求めも、求められもせず、ただ普遍的な発見を常に待ちわびてあるもの。それが健全な世界。喜びも、悲しみも、超えてある! ;-))
5:55 PM Feb 16th via web
市場原理の中における信頼とは、純粋に発展に求められるのではなく、発展せざるを得ない自転車操業の脚力に向けられるために、実体がなく、宗教的なのだ。
6:42 PM Feb 15th via web
お風呂にはいる。
5:38 PM Feb 15th via web
@*** 本当は泣いてなんかないけど、涙は直感を超えながら、流れてゆきます。自由に流れ流れて、あたたかく胸に回帰する。;-)///ゲーデルの不完全性定理
5:14 PM Feb 15th via web ***宛
「涙って、矛盾してるわ。だって、流れたり、流れなかったり、するんですもの。」Angel/
9:57 AM Feb 15th via web
僕はポトスのハートのかたちの葉っぱも、かたちなき何かを求める心も、同時に枯らさないように生きていきたい。個人的なことだけど、個人じゃない人は存在しない。
5:48 PM Feb 14th via web
精神と自然の統合、統一のこと、そのX、理念。人間の理念ではなくて、人間が理念。事後ではなくって、いまその渦中。ぜんぶこのXに、取り戻す。///c'est la vie
5:39 PM Feb 14th via web
@*** 焼いも。もぐもぐ。;-() @*** もぐもぐ。;-()
9:03 PM Feb 13th via web
人間とは、多くの矛盾を内部にかかえるだけでなく、その矛盾に耐え、矛盾のなかで自分を守り、自分に誠実に生きていくものですから。/Georg Wilhelm Friedrich Hegel
8:54 PM Feb 13th via web
今夜は冷蔵庫のなかみたいだ・・・とっても、さぶい。ロゼのお湯割り。飲む。
6:41 PM Feb 13th via web
何をしようかなんて、迷ったことない。はじまっているもののなかで、どうしようかをきっと探しているんだ。ずっとそうだった気がする。これからもそうする!そうなる!YES///;-)
6:39 PM Feb 13th via web
感性が裏切るんじゃない。ただ、何事にも妄信は禁物なんだ。みんな死ぬまで考えてる。考えるべきことが、ここに、あるから。YES///;-)
5:09 PM Feb 13th via web
9:58 PM Feb 12th via web
@***僕は松尾芭蕉を思い浮かべました。
9:49 PM Feb 12th via web ***宛
こんやももう眠ろう。連休、ずっと雨だったな。みなさん、おやすみなさい。;-)
8:05 PM Feb 12th via web
@***自分自身、もしくは権力者。
6:35 PM Feb 12th via web ***宛
@*** いまは寒い季節なので、音楽つくってないんです。暖かくなってきたら、あたらしいものができるとおもいますから、また聴いてください。;-)
6:31 PM Feb 12th via web ***宛
反省のない言葉を嫌がる自我を、ポイポイ捨てていきたい。ポイポイポイ・・・/そのこころみ。
6:27 PM Feb 12th via web
政治的理念というのは、どうもシックリこない。・・・だって僕たちの理念として、事実、こうやって政治が存在しているんだから。
10:53 AM Feb 12th via web
なるほど、そうですね。舐めたらあかん。RT@***"誰も一夜にして肉体を鍛えようなどとは思わないだろう。それなのに、こと精神に関しては、すぐにも効果が現れるのが当然だと考える人が多いようだ。ウェイン・W・ダイヤー(心理学博士)"..
10:42 AM Feb 12th via web
眠たくなったので、眠ります。Zzz///
10:18 PM Feb 11th via web
理念とは、遠くにおいて目指されるべき方向性ではなく、すでに常に目指されてあったような、現実のもろもろの区別の具体的な関係性の統一であり、主客のない自由。んー。
10:16 PM Feb 11th via web
誰も、自分のすることしか、できない。って、あたりまえだけど、また思った。どこか気になる。気になる言い回し。できること、しよーっと。
だから小説家は、思い切って、限りなく☆☆現地のレポートをしたいと思う。でも現地は、勝手にどんどん広がってゆくので、そこはお許し願いたいとも思う。アンテナみたいに、木が伸びて☆ゆく。まったく政治ではなく、政策が重要なんだ。
月と太陽、昼と夜の振り子が素敵な催眠をかける。
ほら、そうやって☆だんだん言葉でそこの地域や領域を、人生を理解したくなって来るのでしょう。ゆっくりゆっくり、今この社会や世界を学ぼうよ。詩にすれば一行のところを、ゆっくりゆっくり、学ぼうよ。☆土を手にとって、詩はもう、完成しているのだから、ほっといて☆いいんだ。後は、無限の社会が、関係してゆく帝国。木に登りながら、木が伸びてく。
情報は、その時☆々で、赤や緑や黄色に変わる、不思議な☆☆果実。茶色い猿の、嗅覚と記憶。そして、味覚。☆商品になれ☆な☆い☆☆もの。そ☆れは、果実ではなくて、もう、種。それが☆☆、そこを☆行く僕ら☆に必要な水筒のような確かな情報。伝える媒体にも、媒体であるか☆らこそ、自立した自由と☆精神がな☆☆☆きゃ嘘。食☆☆った後に、何が残る?それが大事。みんなが見たり聞い☆☆☆たりするからこそ。3☆チャンネルぐらい、あってもいい。☆☆☆
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「すみませんでした!たぶんこれで全部です!」
ゴツン!
☆
「おはよう」
健史は新聞を読んでいる。
「おやすみ」
いちいち絵画なんて評論するもんじゃない。感性なんて、何とでも言えるんだから、もっと別のことを考えなくちゃ。健史は新聞を読んでいる。
存続ではなく存在にとって、互いが必要であるという形而上学的な結婚は、力であり、ささやかなぬくもりのある望みだ。夫婦は金でこれこれやってるわけでなし、カネでやれそれ動くものはカネを生むだけだし、+αの気持ちがハアハア理念でやってるわけでなし、自然の掟でやってるわけでない。知識で人を説明できてはいけない。人で知識を説明するような無防備が、清清しい理解。それでもあなたを知っているといいたいのであれば、それは、やっぱり愛の越権行為。そのすべてであると同時に、だからどれでもない。ただどれかがヤバくなったら、文句つけるだけだ。ぷんぷんしているけれど、根っこの部分が、肝心なんだ。死んでしまわないように☆。記念日を、忘れてしまっても、指輪はその美しさをやめない。ダイヤモンドは、隠れて見えない部分を含めて、永遠の輝き。
人を知る☆こと。知りきることは出来☆ないと心得ながらも、なお必死に想いを定めて、水面よりも薄い表皮でそ☆の存在を限りなくとどめて、認識したいという終わりに近い欲求。希☆価値の不思議☆。いつまでも止まない、こころ☆の刺激。
だから☆
本当の自分なんて、糞食らえさ!(言葉を慎まなきゃだめ。糞はだめ。大切なときほど、感情的になってはいけないの。もとあった従順な感性が、あなたのことが、損なわれてしまうから。)本当も嘘も、自分でしかないのならば。世界中が、世界に帰属している!(!のマークもなるべく避けたほうがいいわ。語気の強い感じがバカっぽいから。バカっぽいバカは、救えないの。もっと黒子であるべきよ。目立つことは、その内容が検討される前に、とりあえず嫉妬を買うものよ。内容を合理的に議論する前に、虚像が権力を争うの。政治家の仕事は、政治であるはず。もっと言って絶え間ない政策。まったく、私たちの裏方であるはずよ。選挙のときだけそんなふうにするなんて、人ではなくて、物事を映してよ。テレビの嘘つき!)そのための対立が必然だ。かけがえのないものであれば伝統は、必要であれば、勝手に生き残ってゆく。信じられたものであるから。・・・問題はね、・・・何もないんだよ。仮象ではなく、切り抜けてゆく物事に、確かに耳を、澄ましていれば。今はまだ、テレビのニュースより、新聞の言葉のほうが、信頼のようだ。映像は、賑わって、空虚なものばかり。白黒の活字は、サングラスをかけたように、どっちかと言えば、今日もクールだ。
不意に誰かに吹き込まれたような「理想」の奴隷になってはいけない。反射的に、殴り返すのもだめだ。ペガサスのように、耳を澄ます。今ここを駆ける、馬の耳に念仏のように流れた風の後で、仏さんではなくて、声を超えた、言葉だけが、現実に宿る。
何かを読む前に、あなたは言葉を、信じていますか?自分自身、つまり、物語を。
新聞の、切り抜き。
世界地図に、張り付ける。色をつけたり、線を引いてもいいかい?それをそれと知っているならば。
共和制は、君主が存在しないのであるから、ひとりひとりが考えていなければいけない。
ピンポン。
日の光にきらめくセーヌ川とエボラウィルスが、共に表層で戯れる囀りでしかない言葉の浪費を諭して、人が生けてあるという事実を、あなたの名前に変える。
{希望の架け橋}と言うものはところで果たして、本当に必要なものなのだろうか。都合良く後から付け加えた単なる美辞麗句では?
資本は、人に外に出て風に吹かれる、考える暇を、与えない。資本、それが重力の中心。そんなモチベーションの不可能。残されたものへの愛慕。
私たちは、多くの人々や物事と共に関係し合いながら労働しているけれど、ひどく限って個人的な視座において自分の行動の過程だけを振り返ってみるならば、その動きとは、あらゆる意味を超えたところで起こる、透明な自己運動のみであり、休息の合間も、戯れのおしゃべりのため以外には、そこに他者が存在してあるとは言いがたい、恍惚とした忘却の、一定の高揚感に包まれてある。このことの犯人は、反省のない個の攻撃性である。
この透明感の中で、あらゆる芸術が、戯言になる。なぜなら芸術の本質は攻撃性、自らを提示することにはなく、ただそこに、ありありとあることに尽きるからである。ありありとあるということは、つまり、在る無しの区別を超えていることであり、差異の無効化である。無効ではなくて、無効化というところが味噌で、それは区別が生まれないように常に動いている運動である。
たとえ平和をモチーフに制作されたものであっても、それは平和が戦争に対して抗議する限り、変な言い方だけども、平和が戦争を攻撃する限りは、たとえ平和といっても名ばかりの攻撃性を確かにその中に宿しているのです。またたとえば、よくある可憐な少女の憂鬱であっても、その祈りや沈黙のあり方自体、実世界に対して無意識に抗議していて、攻撃性なのです。そもそもそういったものはすべて、世の中に対しての自我の葛藤でしかなく、問題を自分のうちにだけ見るような差異化なのです。働く人は、目前にある有無を言わせぬ職務と格闘します。そのようにして、同一性が保たれようとします。
・・・・・・・マリア。
同一性ということでつまり、雇われた労働は行く先の盲目であり、自分に都合のいいものであるが、たいていは何だってそうであり、金と人と物が世界を経巡りまわる経済には、ただ血液のように必要である。経済が成り立たなければ、生活が出来ない。だから常識的に働く。まもなく透明な忘却の低い高揚感が、その寂しさゆえに私たちを結びつけている。何かを証明する為に、無が必要であるということ。・・・そんな芸術。
違いを明確にしながら、その違いを目的の力でどんどん小さくしてゆく統一。労働という、神聖で自明の徳があるかのような観念の最期。いつから労働が観念に成り果てたか。
労働力とはあくまでも人間の存在の一局面であり、労働自体にすべての価値があるのではなく、その結果、生み出されるものに価値があるはずだ。資本主義の競争原理の中で生産されるものは、労働者自身の必要性、理念から生まれるのではなく、他者の欲望を先取りして大衆本意で生産されるのであるから、その価値は自分に直結した誠実なものではありえない。そしてここには根本的に信頼はない。ただの予測があるだけだ。
だから、生産されるものに本質的な価値が見出せないがゆえに、労働自体にそれを求めるという逆説が生じる。
タロイモ、ヤムイモの収穫は、全員参加の芋掘り競争。
地球に優しさをアピールするなど、実際、もっとっもっと昔の、古代宗教の自然崇拝に等しい。お題目としてのイメージではなく、自然の危機ではなく、人類の危機であるのであれば、問題は優しさではなく、普遍的な主義のあり方にあるはずだ。ECOは共有される目的としては、人の中にある自然を軽く考えすぎていると思う。なにか新しい信頼が必要なんだ。
資本主義は有名人だ。知名度と名ばかりの信頼は、深く関わっている。そしてそうならざるを得ないものへの興味が、さまざまな影が過ぎる。商品が穏やかに僕たちの情念を映しだしているとき、それはなかなか苦痛になる。
どんなに等しくても、人間と労働は、はっきりと区別してあるべきだ。人間のための、ひとつの方法の労働として。
ルネサンス。
偉い、いや、偉くもなく、お坊さんがしゃべる。『私には子供がいる、私には財産がある、と愚かな人は思い、そして悩む。すでに自分すら自分のものでないのに、どうして、子供が、財産が、自分のものであろうか。Dhammapada』と言うのは、とても個人的な観念の話。だれもこれはただの紙切れだと言って、銀行券で鼻を咬む人はいない。誰も所有することによって富を確認する。ただ、すべての子供を自分の子のことのように、世界中の財産を自分の財産のことのように考える人は、すでに自分のものではない自分を知っているという点で、ちょっと理性的です。自分が自分のものではないと言うことは矛盾だけど、あえてそこを果敢に展開してゆくことは自由の掟であり、抽象的な反抗の感情を所有し心の糧にするよりも現実的な信仰です。欲しいものは車やマイホームや恋人やお金ではなくて所有する富としての自分であるけれど、その実現は車やマイホームや恋人やお金であるという物質的な神秘に、何が引き裂かれてあるのでしょうか。それは、本当の富であるはずの自分自身の自由な可能性である力の在り様を、人生という意味での労働を、全部、物欲の箱にしっかりと仕舞い込むことです。その中を覗き見る鏡の中の自分のことが、裸の王様みたいなのです。
ちいさな個人の尊き力が及べる範囲とは、実際、ごく限られています。実際的な近親、親近に持てる力を集中して注ごうとすることは、観念以前に有機的で合理的な自然の事実です。そこから発展されてゆくべきものは、固定された身内的なものの開放と言うよりもむしろ、そこで得られた規律であることへの信頼がもつ力の拡充、ミクロもマクロも大切な、私たちの生産を所有し囲うことでなく、世界中に星屑みたく砕け散らすことではないでしょうか。
お金が貯まらないように、働ければいいのに。
むしろ、証明とは、無であるということ。つまり、いかにして無を啓蒙すべきか。美学か。倫理か。それとも・・・。
だから私たちは、夜の星さえ、結び合う。そのようにして、名付けながら。
「この」経済と、愛情。何が食い違って、同じもの同士でいるのかが肝心だ。
トム トムトムニャーゴ♪
「この」経済の中にある愛情なのか。愛情の中にある「この」経済なのか。
ジェリー ジェリー ジェリー チュー♪
「この」経済の外にある愛情なのか。愛情の外にある「この」経済なのか。
どの地点に立って、それらを見るのか。穴が開くほど見るべきで、相手の胸を突き抜けた批判は、視線は、地球を回って自分の背中に突き刺さる。マルクスの労働力っていうのは、単なる労働力ではなくて、そこからはみ出すすべての生きる力を含めた、人間の力のことなのでしょう。
確かにその相手は存在している。ただ個人が益々希薄で、大きな群れを、成しながら。それぞれがひとり、握り締めた手のひらの中にだけ、みんなはあるのでしょう。
斉藤さんのリンゴ100円
セザンヌのリンゴ15億円。
そんなもったいぶった二元論じゃない。未来への信仰から構造を変革することも、構造から信仰を啓蒙することも不可能であるのなら、それが同時に起こる可能性は、ひとりひとり、個々人の中にしかありえない奇跡だ。
もしも戦争の原因が髭で、髭を剃ることが平和のためだとしたら。
「ある村でたった一人の男性の床屋は、自分で髭を剃らない人全員の髭を剃り、それ以外の人の髭は剃らない。この場合、床屋自身の髭は誰が剃るのだろうか?」
床屋が自分の髭を剃らなければ、彼は規則に従って、髭を自分で剃らなくてはいけなくなり、矛盾が生じる。
床屋が自分の髭を剃るならば、「自分で髭を剃らない人の髭を剃る」という規則に矛盾する。
したがって、この規則はどちらにしても矛盾してしまうことになる。
言うことのない花と散る生命には、とやかく言うのは不毛なことだ。ただ、信頼には確固とした理由があり、理由にはそれに関する具体的な知識が理論的に必要なのだ。なぜか?理性のない信頼とは、単純に妄信だからである。考えることは、あらゆるものを透き通す、無常の世界についてではなく、なぜなら無常とは考える対象に実質的になり得ない、観念的な思想界の空洞であり、私たちは私たちの、あらゆるすべての領域においての力(この街の一角でも一目見ればすぐに思い至るように、人間的な英知の生成の結晶)を発揮し、不可避的にその影響を信頼し、活動しているのだから、理性と信頼は、必然的なのである。個人的な集団の生命には黙し、その透き通る本性を認め隷属し、その中でなお私たちは各々世界について、それぞれに起立して勇敢な自由、信頼を構想しなければならない。
描いては、ならない。奏でても、ならない。感性の虚無を軽やかに超えて、歩まねば、ならない。資質は、一人歩まずにはいられない。全体に、後ろ指を指されても、気づかずに、目礼してゆく。
全体には法律がある。しかしそれに従うか否かは、その人自身の意志に関するのであり、法が何か実体的に肉体を鎖のように拘束してあるのではない。確かに警察に捕まれば法的な処罰を実際に受けるにしても、少なくとも、罰を受けることは可能なのであり、また、異議を持つことは、それがまあ万人に受け入れられることがないとしても、個人として持つことはできる。つまり、法以前のルールは諸個人の中に、最終的に諸個人によってのみ、保持されてある。
法律が、私たち全体が関係付けられて、そこを運動するためにより良く整えられてゆく道であるとすれば、個人においての倫理的なルールとは、局地的であり、その人の同一性にかかわる、日常の手引きのようなものだ。私たちは身近な生活の中で、漠然とした法律よりも、普段、労働という現実的なルールを生きている。それはトラクターを運転することであるだろうし、貨物を積みおろしすることかもしれないし、情報を通信させることかもしれない。つまり分業であり、世の中に分け隔てられてある、それぞれの分野の仕事である。
ひとつのことに専業するということは、法ではなくて、社会の人として個人が定めるルールである。この意味においては、科学者も宗教家も等しい。そして芸術家も、まったく等しいのである。そして社会とは、もっぱら私的な理由の総体として成り立っているのであり、我らの美しき社会全体といったような便利な観念は、実際の現場においては微塵も存在していないのである。仮に何か啓蒙的な試みがあったとしても、それは利益と存続のために導かれたレトリックに過ぎないか、安全に保護された者の欺瞞である。理由は単純で、社会の中では、稼いで経済をかき回し、なによりもまず、運営し、経営してゆかなければならず、それ以外のことは無力で、大抵は無知であるとされてあるからである。
労働とは私的なことであるのだが、この当たり前であることの閉塞感は、どうだろう。何か公的なものにかけて、希望を生産したいとは、一体どういうことだろう。私たちはそれぞれに、各々のルールを持っているのだけれど、それらは大体どれも似たり寄ったりで、自分がそこをドライブするための道でしかなく、その果てがどこに続いているのか知れないけれど、職業という分業が、枝葉のように広がっている。
問いを立て直して、公的であることと、私的であることの違いとは何だろうか。たとえばドビュッシーの音楽は、あれは一般に言われるように、本当に美しいものなのだろうかと、あえて問いかけてみる。芸術における技術と、労働における技術とが、どういうわけで異なるように見えているのかが、曖昧なのだ。金になる、ならない。気持ちがある、ない。そんな違いではない。万人の前で、舞台の上で発表されたものが公的であるのか、舞台裏で時を過ごしているのが私的であるのか、そもそもこれはどうでも良いことで、単なる嫉視に過ぎないのではないか。
いや、ここには重大な問題があるはずだ。グローバルに見た実際の世界の格差問題と、暗に通じているように思われるからだ。嫉視と希望は表裏一体である。
有名な作家は、金になるから有名なのであり、金になるように有名にされたのであり、魔の退屈がそうさせたのであり、より優れた感性の理解者であるという素敵な優越感であり、まして、その作品に何か実態的な真実が宿っているというような倒錯が絶望的なのである。真実とは流動する情報の正確さであり、どこかに確固としてある価値ではない。批判する力が内在していないものが世の中に出回ると、世の中は批判する力を失ってゆく。ようするに、無駄が多くなってゆく。一生懸命無駄なものをつくる人が、多くなってゆく。力が、無駄なものに使われてゆく。
公的であるとは、私的なものと争うことである。常に社会の中にあって私的なものの中へ回収されそうになりながらも、それを批判する精神だ。
労働よ、限りなく透き通りたまえ。
子供たちを、騙してはいけない。
これは民と平行して、一国家の物語でもある。世界における、国家の役割。たとえ願われるものがなくとも、経済は実体的な欲望として、普遍的にあるのである。そして、資本が裸の王様なのだ。それに媚びることも、それを利用することも、それを忘却することも意味がない。生産活動は、元来素朴なのもであったのであり、過剰なものが・・・・・・
表現が世の中を変えることはなく、ただの提示であると言うのも疑わしい。本能的に搾取されることを嫌う。偽りを嫌う。生命に、さえも。具体的な道筋ではない。理路整然と語られる方法ではない。どこからも零れ落ちてしまう巨大な犬の唾液のような、どうにも仕様のなさを、どうにかしたい、それだけなのかも知れない。しかもそうであっても一向構わないと思っている。
好きなようにやるがいいさ。
僕も好きなようにやる。
でも、自分がいる場所がどのような場所であるのかを、最低限、知れる限り知っておいたほうがいい。『私が見たり聴いたりしている私のこの時間以外、どんなに本当らしく真実めいた一筋の時間の延長も集積も、その首を絞めて、そいつの本来あったところの永遠の中に、永遠に、一途に葬り去ってやりたい。大いに可能だ。むしろそれが常識。』
死ぬのはいつも、混乱しない、パッとした生命ばかりだ。
貧しい国と、富める国。戦争と、平和。世界中にあらゆる状況がある事実は、明白である。調べはついているんだ。そのことと、私生活に距離があることが気に入らない。貧困に対して、ただ経済的な援助をするだけで何かを施しているかのような気になってる丸投げの愚鈍者と、平和を信じきっている者が唱える反戦のメロディアスな雰囲気も気に入らない。経済は近代の格差を生み出したのだし、銃弾には第三者の平和など、そもそも関係ないのである。
何かが胸につかえている。理想的な世界の構想と、現実的な人生の間。私はその間に立って、何も言えなくなりそうになる。すでに、何も言っていないのかもしれない。何かを言う人は、最期には必ずどちらかに立つ人のように見えるから。どちらからも距離を隔てられている。無力を感じるとき、人生に立ち、倦怠を感じるとき、世界に耳を澄ます。私の都合の良さは、間という虚無に留まっているだけのことかもしれない。理想にも自信がなく、現実にも確信がない。今あるこの場所を過ごしている。
情熱も受難もない、今あるこの場所を過ごしている。そのことによって、生かされるものは、果たしてあるか。せめて意識の中で、あらゆるものや分野、人を等値する力と理論を突き進める。それは、それらの関係を見ること。最後の信頼の中に。
それを信じようと想う者は、それをその身から引き千切らなければ見えない。その身から、引き千切らなければ、ならない。存在論でも超越論でも、しくじった相手のパイを飲むのがロンだ。ツモが本当ジャーラジャラ、ジャーラジャラったらジャーラジャラ。
僕の左胸から生まれた太陽を手放し
のっぺりとした大きな青い空にはめ込んで 絶対
僕もみんなも一緒にそれに照らされようとする
慈愛のごときもの
だけど
自分を離れたものは必ず形骸化して
やがて彼方に落ちる落日
僕はまた
同じその胸に
生み出さなくてはならないだろう 絶対?
つまり
神や理念は自己の内にしか在り得ず
そのままその精神が神や理念のことであり
胸に留めたままで
あまり大げさにしゃべってはいけないし
そんなものからも自由であるべきだし
風のように街角を吹いても
他の誰の神殿にも
入り込めやしないんだ
入り込もうとする必要もない
少しだけ
世界中が仲良くなれはしてもね
僕たちはいつまでも
考え始めているのだから
神様のために
いわゆる労働と、社会とは、それぞれ別個の事象として捉えて考えるほうが、より総括的なのではないか。収入を得るための労働力は、より社会的なものをはじめから目的としていないし、利己的であらざるを得ないし、だからこそ同業者は共有的な活動の親近性を必要とするし、一方俯瞰する社会的な意識は、その現場の労働力を形式的に二次的な概念として把握しているから。
現場とは、有無を言わさぬ掟の中での生命である。
ところで発明と言うものをどう考えればいいのだろうか。研究と労働の違いは何か。労働というと反復的であり、研究と言うと斬新的である。目的の有無であるのか。では目的とは何か。労働の目的とは。発明の目的とは。目的。
探求。
では、僕の言う、本質的な、人と人との繋がりの、核心を。
攻撃性という、板に打ち込んだ釘のような、決定的な大問題。これはあらゆる次元の多岐に入り組んでいる。戦争のことだ。
とにかく、根本的であり、普遍的な認識が必要なんだ。世界はうごめき続けてあるのだから、自然とそれは流動的なものであるだろう。
ただ、言葉は実体ではない。実体が言葉を求めているだけだ。
あらゆる時代、あらゆる事態が産声をあげるとともに、あらゆるものが、終わりを告げられる。生命の本質の周りを、明滅するもの。反復しているもの。
言いたい。終わってしまえるものなどは、初めからそれが存在していたと言ってしまえるのかどうか、疑わしい。バブルのように実体のない信頼が、仮称として私たちを欺き結びつけていた、圧倒的多数の観念態では。環境問題でさえ、そのように消費されてゆくだけであれば、まことにお粗末。生命とは、澄み渡る空気や綺麗な海や新緑ではなく、私たちの、あからさまな活動のことなのだから。
即且対自。自らが生命であると同時に、それを見るためには、その外に立って死ななければならない。この積極的な死は精神の目的の誕生として意識されてゆくものだ。
私は土を掘る。私は土と抗っている。私が掘っている土と、私の間には、対抗する結果として不可避的な区別がある。
「区別こそが力の法則である。」と、ヘーゲルが言う。
何を区別しようと関係ない。この労働に付随する差異自体が、その者の固有名となり、存在の拠り所となる。名前のない力に巻かれながら、自分自身を認識している正体のない恍惚。自己の活動の中に果てしなく埋没して行こうとする、生命の自己愛。ただ実際的な力だけが信頼であるような、自然。
中上健次の「枯木灘」にそんな描写がある。
「川は光っていた。水の青が、岩場の多い山に植えられた木の暗い緑の中で、そこだけ生きて動いている証しのように秋幸には思えた。明るく青い水が自分のひらいた二つの目から血管に流れ込み、自分の体が明るく青く染まっていく気がした。そんな感じはよくあった。土方仕事をしている時はしょっちゅうだった。汗を流して掘り方をしながら秋幸は、自分が考えることも判断することもいらない力を入れて掘りすくう動く体になっているのを感じた。土の命じるままに従っているのだった。硬い土はそのように、柔らかい土にはそれに合うように。秋幸はその現場に染まっている。時々、ふっとそんな自分が土を相手に自涜をしていた気がした。いまもそうだった。」
神話的に語る方法のために、誇張され、どぎつく神秘化されているけれど、これが自他のない純粋な労働力というものだ。この神々しさを自涜と感受する認識をもって、文学的な真実味を圧倒的なものにする。そしてゆっくり慎重にここにニーチェの「この人を見よ」の一節を重ねる。
「攻撃する者の力の強さを測る一種の尺度は、彼がどんな強さの敵を必要としているかに拠っている。人の成長度を測るには、その人が自分よりどれくらい強力な敵を探しているか―あるいは、どれくらい強力な問題を探しているかを見れば自ずと分る。それというのも、戦闘的な哲学者は人間だけではなく、問題に対しても決闘を挑むものだからである。その場合の彼の課題は、抵抗してくるものに何にでもかににでも打ち勝ってしまいさえすればいいということではなく、彼が自分の全力量、全技能、全武術をあげて戦わなければならないような相手―つまり自分と対等の相手に対し打ち勝つということでなければならない。・・・敵と対等であるということ―これこそが誠実な決闘の第一前提である。」
そしてさらに内緒でここに、折り紙、赤い紙切れを重ねてみる。バイバイ。
ここで思惟する人間としての発展性が示唆される。小説家と哲学者を区別して云々という話では、まったくない。言いたいことは、「哲学的問題」が「土」であっても一向かまわないし、「土」が「政治的問題」であっても「芸術的問題」であっても「科学的問題」であっても、ますますもってかまわない。重要なことは、区別こそが力の法則であるという体系的な、ある対等で誠実な認識の仕方である。
誰も自分の存在を確保したいがために、その固有の現場を、無意識に利己的に守りたがる。共通してある事実は、「対象」と「私」との対抗に生じる「力」だけだ。これを理念と呼びたい。神様といっても、いいではないか。
神様と言っとかないと、フニャフニャになっちゃうから。そよ風に揺られた、柳の幽霊みたいに。
「信仰は、もし啓蒙が語っているようなやり方で、歴史的なものから、自分の内容の基礎づけをしようとしたり、少なくともそれを確認しようとしたり、またまじめに、そういうことが大切であるかのように思いこんだり、行動したりするならば、すでに啓蒙の誘惑に陥っているのである。こういうやり方で、自分の基礎をえたり、自分を確認したりしようと思い煩うのは、自分が啓蒙に感染していることを、自分であかししているにすぎない。」Georg Wilhelm Friedrich Hegel
さあ、ゆっくりしていってくれ。何処にもお金はないけれど、でもでも、こんなたくさんの借金をこさえることができたんだ。頼もしき欲望は、まだまだ何事かを、これからもずっとずっと、成し遂げてゆくことができるだろう。ああ、何事かを。なにごとか!
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パルプ・紙・紙製品製造作業者
印刷・製本作業者
お前はそこを動くことを、拒む。地上を満たすそこはかとなく冷たい夕凪に押し黙り、その手を引いて行こうとするものを疑い、限りなく透きとおって・・・
ゴム・プラスチック製品製造作業者
革・革製品製造作業者
装身具等身の回り品製造作業者
定置機関・機械及び建設機械運転作業者
電気作業者
採掘作業者
建設躯体工事作業者
建設作業者
土木作業従事者
運搬労務作業者
労務作業者
労働者
不自然な心の痛みを信じ、かつ笑い、後ろ手に自らの手のひらを握り、その力を生きようとする。
静かなる時。
すべての労働者
すべての俺たち。俺たち!俺、わたし、私。私の夢。夢。すべての、時間。
世界のあらゆるものから逸脱しながらも、なおここにあると断言すること、いや、逸脱するようにしてしか、そこへ向かうことができない、そのことが自信の意味。
これから生まれてくる、時間。未来。すべて、君たち!君、彼方、あなた。あなたの事実。事実。本当にすべてある、時間。みんな。ミンナノコト。信頼は安心だが、世界はこれっぽちも安心なんてしていない。その気掛かりが落ち着きを攻撃し、信頼を概念として揺るがせる。つまり問題とは気掛かりであってはならない。不可避的な信頼の情念の中に、明確な闘争として、したたかに笑い飛ばしていなければならない。
コンニチハ。
「美代子、あれは何て言うの?アケボノ?」
「日の出って言うのよ。きれいね。」
「朝焼けじゃない?」
言葉、いらない。言葉は、あるから。だって、あるんですもの。あるんですもの、だって、どうしようもないくらい。だから、新しい言葉を。語られたことのない言葉ではなく。言葉になりえないものではなく。空白でも空間でも何でもいい。何かを証明する為に、無が必要であるということ。むしろ、証明とは、無であるということ。つまり、いかにして無を啓蒙すべきか。美学か。倫理か。それとも。だから私たちは、夜の星さえ、結び合う。そのようにして、名付けながら。
理解されなくても関係ない。誰も、そう思ってるんだからしょうがない。それが、捕まれることのない文化。そこんとこ、夜露死苦。それが、ノン・イメージにしてオン・ステージ。よろしく。信頼の条件は単なる現在ではなく、未来の現実性を抱えた具体的な信仰だ。無条件の信頼など、ありえない。あってもそれは今を盲目に消費するだけの、群像の影だ。
分厚い本を海に投げ捨てた。
「それで一体、どうするの?」
だから、組合ではなく和解、再会、常にあたらしい信頼。etc/:-)
約16時間前 via web
自由に話し合える場所。ここだってそうだ。
約17時間前 via web
組合とは共有ではなく、団結よりも前に純粋な検討の場所である。パパにおねだりするチルドレンじゃない。自立すべき知性だ。もともと何かと対立するためにあるのではない。
約17時間前 via web
一般抽象的に翻訳された概念は、自分を残酷な自然に還元する。具体的なものは精神を想起させ、執着を神秘化する。だから、一般抽象の中にこそ個々の具体性があるという常識を理念化する、それが組合の意義になり、虚栄をスルーなのだ。
約17時間前 via web
これしかないと思われる構造の中に自らの力を精進させようという健闘が抑圧になる。掟と言ってしまえばそれまでの感動を改革すること。微笑みに構造はなく、まして健闘は領域を囲わない。すべての感動は、そのことの比喩だ。
約17時間前 via web
与えられた形式を生きることはできない。なぜなら、それは形式を越えているから。それを選ぶことさえ、できない。
5:55 PM Feb 28th via web
夢を「追いかける」というとき、その夢にはゴールである成功が暗黙に彼方に置かれている。では成功のない夢はどうやって追いかければいいのだろう。いや、終わりがないゆえに、夢の尻尾は追われているんだ。厄介なものには違いないからね!***;-)
5:23 PM Feb 28th via web
幸福がおっかないのは、克服された忍耐を持って、死や未来や不幸の諸々のことを忘却し、なおその諦観が愛情めいて暖かく感じられること。どっちもいやだ。;-(
6:56 PM Feb 27th via web
与えないように、与えられないように、それが透明で自明なもののように生きてゆきたい。それに必要なものはただひとつ。それ以外が存在できないようなもの。
9:06 PM Feb 26th via web
金メダルには、どこか自分自身への飽くなき愛を感じる。
8:56 PM Feb 26th via web
与える者と、与えられる者との間にある差異の意識が障壁になる。銀メダルを与えられて、感動を与えたのだろうか。ちがう。誠実に「今の自分に出来ること」をしたのであり、きっと彼女の涙は家族やコーチや国民への涙だと思う。
8:49 PM Feb 26th via web
「自己増殖する価値の運動体」としての資本の問題は、そのことのためにお客様が神様になってしまうことだ。僕たちは神様じゃない。自由に創造される価値を、いつだって胸にくすぶらせている、人間なんだ。
7:28 PM Feb 26th via web
こんなときは、シャワーを浴びて、部屋の掃除をする。しゃきっとする。
オリンピック、毎年あったらいいな~。OOOOO
2:07 PM Feb 26th via web
@***:サステナブルというんですね。持続可能なものほど、本当はとってもスリリングなものだと思います。いつだって未来もいっしょなんだから!
12:23 PM Feb 26th via web ***宛
エコは環境の問題ではなく、資本の問題として考える。自然崇拝は古代宗教だし、共有される目的としては、人の中にある自然を軽く考えすぎていると思う。なにか新しい信頼が必要なんだ。;-)
11:59 AM Feb 26th via web
「おお!生きるべきか、死ぬべきか!いや、死んだように生きるべきか、それとも、それとも、生きるために幽霊になるべきか!おれは今、猛烈に苦悩している。」
それはとても冷たい風の吹く、薄明るい光の空を覆った曇り空、雪の降りそうなある日のことだった。智樹は、また、お決まりの意味にとりつかれたのだった。
問題が、意味に関するものであるなら、単純に、考えることで最期には決着がつくと、実は智樹は知っている。なぜなら意味は、考えることの戦利品だからだ。やがて街中に、静かに雪が、降り出した。
「ああ、知っているとも。降る雪に、意味などないということは。自然の摂理に意味など、神様の業であることも。アーメン!」
しかしそれは、神様という意味だった。ちがうちがう。
「騙されないぞ!俺は、雪だるまなんかじゃないのだ。この雪と、俺は、同じじゃない。」
智樹は立ちどまって、静かに空を見上げる。細かな雪が、この街の何もかもに、等しくとめどなく舞い降りてくる。冷たく濡らした顔を、両手でゴシゴシと擦った。問題を、忘れないようにするために。
「もしも生存することだけが、現実であるのならば・・・。ああ、まるで牡牛や雌鹿のように。そんなふうに思えてならない時に、この雪の風情はただの叙情に堕するのだ。恋愛が、ただの性的な欲望の叙情でしかないように。」
それでも関係なく、さらさら雪は、舞い堕ちる。目的のないところに意味を見出そうとすることの矛盾が、智樹の苦悩だった。存在自体の意味。それは計り知れない謎だった。だからそれはいつでも手軽に神様になった。しかしすぐに思い至るのは、その、苦悩することの精神、人間自身のことだった。いつでも自然に掌握されまいとする、人間というそのことの目的だった。
「人間は歴史を作る。しかしそのことを知らない。・・・カール・マルクス。」
自然が自然を目的とするように、人は人を目的とする。そのことを曇らせるものが、確かにある。それが、権力。権力は弾丸にも偶像にも、物にも心にも、何にでも化ける。そしてそれが、意味に化けるとき、とんでもなく厄介なことが起こるのだ。本当に純粋な力だけが、その諸々をすり抜けて、さまざまな虚栄の仮面をかぶった意味を振り払いながら吹き抜けてゆく。それは自然に似て非なるものであり、それこそが人間の力なんだ。
「理念。人間の理念ではなく、人間がもうすでに理念なんだ。」
『理念なるものは、人間の頭脳に現実から転移され、移し替えられた物質的なものに他ならない。』Karl Heinrich Marx
「降る雪に意味なんてなくていい。でも、俺の、いや、俺たちのすることにはそれが必要だ。それは光り輝く汗ではなくて、その結果である結晶なんだ。」
智樹はその結晶である、素敵な折り畳み傘をひらいた。雪は一層その確かさを増しながら降り続き、降り積もり、智樹の傘はキシキシ鳴った。
「諦められた社会の中で、その仲でしか通用しない掟の中で、掟に忠実なものだけが権力を夢見る。彼らはその仕事の意味ではなくて、むしろ現場の汗を信仰しながら絆を深める。資本から生まれて、その資本から離れることが出来ない。その原理から、利益に繋がるものが最高善になる。俺はこの掟を破りたい。破ることが出来ないとわかっていても、心中密かに打破していたい。俺の思う、掟のために。」
想像力がなければ、人間は人間の奴隷に成り下がる。現実があまりにも現実でありすぎると、もはや現実的であることがそれだけで罪になる。何の法に触れるのか?もちろん人間の法にだ。今ある法学六法は、Amazonでも売っている。
会社に埋める骨は、犬が咥えてどこかへ行ってしまった。幸福にはまだ早いと、智樹は思ったのだった。労働自体に、何かおかしな価値が混入されている現代、そしてそれを傍から理解者として揶揄する国家が、雪の降る街で、神様と追いかけっこをしていた。
安易な良心でものを言うことには、十分気をつけなければいけない。それが当事者ではなく、別の環境にいるものの発言であればなおさらだ。彼は実際の現地の論理を軽視して、感情で空想的に物事を解決しようとする。というよりも解決したことにして、気を引く言葉を垂れ流し、それだけならまだしも得意になっているその容姿が、本当であるはずの情念を挫けさせて白けさせるのだ。雁字搦めの中をあらゆる矛盾を闘争してゆく不可避の企業に必要な倫理は、それ自身の中から、その論理の中から共有され生まれてくることが真実でありえるのであって、単なる知識であるだけの、あらかじめ自由が前提となっている場所からの助言など、山に吹く風なのだ。そうして山組、風組に分かれて、似たもの同士で寄り合って、胸張ってみたり、いじけてみたり、嘲笑しあってみせるのだ。しかもそうやって似たもの同士が集まっていると、必ずその同じ形式のカテゴリーの中で、そのルールに則った優劣の意識が生まれてくる。それが競争意識に発展していくと、今度は権化が現れる。これがイナカッペ大将だ。ニューヨークに、自由の女神が微笑みかける。
自由とは個人であり、個人を断念させるものは、だから形式とそこに生まれざるを得ない権力である。そしてそれしかないという選択のなさと、そのことの帰結でしかない強要された膨大な愛情なのだ。だから戦争も愛であるかのように語ることもできる。
しかし今は戦中ではなく、戦後も過ぎて、はるかにマシなのだ。何がマシか?為すべきことを自分で考えることができるだけマシなのだ。撃たれる前に撃つ時代よりも、焼け野原にバラックを建てるところから始める時代よりも、これから必要なものを想像できるだけ、自由なのだ。戦争の原理は今もなお世界経済の中に欲望の影として潜み続けているけれど、弾丸が札束に化けただけ、マシなのだ。紙切れが血肉に食い込むことはない。奴等はそうと、信じているのだろうが、関係ない。関係あるものは、想像され、作り出されてくる未来なんだ。
「そんなこと言ったって、じゃあ、じゃあ、どうしたらいいの。」
2010年03月24日 (水曜日)
今頃、北野武「座頭市」見た感想文。
蓮実重彦がETと呼んでいたが、(彼はゴダールも宇宙人として賞賛するのだが・・・)市は紛れもない地球人である。そもそも理解できないものをETとして命名するほどつまらない言い方はない。むしろ、超越論的な視点を持つ主人公だからこそ、それは曖昧にされてはならない。・・・で、彼が切ったものは、物語の構造から言って、2つある。浅野の演じた純愛と、組織の頭の権力である。金と権力を槍玉に挙げてそれを想像の中でぶった切る(想像の中で・・・、というのも大抵それを撃つものも金と権力に同化した影武者であるのだから。資本から独立して正義を語れるものなど、無きに等しい。)ことは、ありきたりだ。純愛(純愛?ベタな言い方だが、あえて死を課した恋愛か?空虚そのものだ。)を切ることも、10000000回唱えられる茶番だ。この話の妙味を解さないならば、観る者はラストのミュージカル、タップダンスに疑いの目を持ったまま、大いに白けるところであろう。さらに、「なぜ目が見えるのに、目くらでいるのだ?」それは、「目くらの方が、人の気持ちがわかるんだよ。」などの素朴すぎる応答に、一層顕著な嘲笑を誘われることだろう。市は、地球上のどこにも属していない、本当に異星人だろうか?ゴダールにしても。本人が演じているように、彼はれっきとした民間人である。人の間に積極的に属そうと、自ら意志した自由人である。金と権力と純愛を切るものの本意は、もともと形式になりえないものであり、往々にしてそれは苦悶の過程で放棄された狂気として表現されてしまって不毛なのだが、市の穏やかさはある理性を予感させる。最後にずっこけてみせる大人のユーモアなどは、責任の無効化などではなく万人に対する信頼の回復を意図したものである。単純に、肉を切る爽快さは精神の優位を思わせて文学的なのだが、たとえその中にあっても自律なく他に依存した精神ほど無責任で矛盾したものはない。切るのであればまず守るべきもの、利己的に守りたいものを切ってから、それでも残されてしまうものの責任を自らに突きつけるべきだ。彼は同胞と思われるものをそのことにおいて、しっかりと見捨てている。(偶然にも助かるのだけれど。再会はしないので、信頼の本質には関係ない。)私たちはいかに表層において美的に精神を語ろうとも、必ず背後の資本や愛や権力にその自由を回収されてしまわざるを得ない。むしろそのことが道徳的にまかり通っている通念であり、そのことの苦痛をもって互いを確認しあっているに過ぎない労働者だ。それは如何様にも変奏される。神話とは、人の話でありながら、いつでもその為に神秘的なものだ。そしてそれは余りにも身近すぎることが伝わらないために、ETであるしかない私たちのことである。
自分で何をしたらいいのかわからないとか、自分には語るべきものがないとか、同じことだが、自分はこれをやっていればいいとか、人生とはこんなものだという安住は、はっきり言って、どうでもいいことだ。ミレーでもゴッホでも、「種をまく人」を部屋の壁に掛けておけばいい。現代は、するべきことや語られるべきことが自然に与えられている時代ではなく、自らが新しく勝ち取らなければならない、ようするに、マシな時代なのだから。悪夢を繰り返しては、くだらないし、だらしない。そうでなくてもいつでも僕ら、気がつかないままに、勝手に何か蒔いてる。☆
いつの時代も、どこの場所でも、この風が吹き、雨が降り、太陽が燃えてあったことの不思議な当然。今あるものを確かめたかった。
形式に縛られない透明な労働を愛する。しかし全体労働は形式を必要とする。その固有の形式に身を売った主人の権力が、透明なる労働力を嫉視してカネと自由を奪おうとする。なぜか?知識と経験と判断が、経営の心臓になるからだ。作業員は、その手足として動く。報酬は、形式に捧げられる専門への対価になる。でも本当にそれがそんなに偉いことだろうか。それはその形式を維持するための見せしめとして振舞われているのではないだろうか。利益を追求することへの専心は、それを積極的に考慮しない単純作業よりも付加価値があるというのは意識上の差異であって、労働力それ自体の差異ではない。つまり時間による拘束ではなく意識の拘束が職務に必然になっている。それにくらべて自由な意識を持とうとする透明なる労働力は、その部分で「安く」見積もられているのだ。これは当然といえば当然。だけどあんまり組織の上部にカネが流れてゆくことには、これも当然問題があるだろう。自由を義務として生活する人々におカネが回ってこなければ、そして生活が困難になるのであれば、意識の拘束を免れることはできないだろう。これが現実なのだ。
「だから頭を削って、底辺の時給を上げて欲しい。」
大抵カネの集まる偉いところというのは無駄が多いのだから、透明な労働力を支持したいと思うのは、世間を甘く見ているのではなく、単純に、利益に縛られる意識のない、自由な労働によって世間を身近に実現したいという願望であって、不自由な意識の虚栄を払拭したいのだ。それに、拘束された力はその中で過剰になる。過労死は、よくない。
『人間は自分の運命を支配する自由な者のことである』Karl Heinrich Marx
利益を争って生きる社会には、そのための掟と報酬が結果として当然だ。それを超えてあろうとする意志は、青臭く無力な堕落として解される。話しはそう簡単ではない。カネ自体が富ではないのと同じように、稼いだ収入自体が徳の表れではないのだ。掟が仲間を作り出すのではなく、人類が法を作り出すように、あらゆる垣根をぶち壊したいと思うのは、この自明の決まりきった閉塞感だ。信頼は団結にはなく、信頼だからこそ点在してある。強要される意識に倫理はなく、今ある社会によってあてがわれた自意識と、そのために訪れる幻滅に顔を背けるようにしてあるだけの、甘く切ない物語の途中なのだ。幸せになるには、まだ早い。そして、幸せを約束されたはずの、誰も幸せそうには、見えない。
この時代の定めを無批判に受け止めて、従順に社会に付き従う猪突猛進の兵士たち。その精神は資本の生き残りのために消耗し尽くされ、新しい空を目指す術を捥がれた神風のように愛くるしく、諦められてある、自作自演の喜悲劇の支配。
『われわれのあくまでも廃止しようと欲するものは、ただ、労働者は資本を増殖するためにのみ生活し、そして支配階級の利益が必要としなければ生活することができないという、そんなみじめな取得の性格である。』Karl Heinrich Marx
資本に意識を売ることなく、意識だけは売ることなくありたい。
由紀雄は、乾いた土を一生懸命掘り起こしながら、そんなことを考えた。
万国のプロレタリアよ、透明なる自由な魂を取り戻した後、拡散せよ!
この道にはいくつも、名の知れぬ風が吹く。名の知れぬ花たちが、個々に立つ者に舞う。何の前提もない再会が、いつでも僕たちの力を試そうとしている。信頼と歴史の果実が、自然と熟れて落ちるのを待っている。
太陽が、真っ白に輝いている。
新しい言葉を。語られたことのない言葉ではなく。言葉になりえないものではなく。空白でも空間でも何でもいい。何かを証明する為に、無が必要であるということ。むしろ、証明とは、無であるということ。つまり、いかにして無を啓蒙すべきか。美学か。倫理か。それとも。だから私たちは、夜の星さえ、結び合う。そのようにして、名付けながら。
「そんなことより、もっと面白い話を聞かせて欲しいわ。なんだか小難しい話しじゃなくて、もっと柔らかい語り口で、洗練されたフィクションをやってほしいのよ。そりゃぁ、あなたはそう考えてるのかもしれないけれど、エンターテイメントの精神に欠けてるわ。みんなはそれを求めているの。みんなで楽しめるものとして。」
暗がりに浮かんだ色鮮やかなオレンジ色のジューク・ボックスの前に立って、女は事も無げにそう言った。男は何か黒い手帳に書きとめながら、やがてそれをやめ、テーブルのタバコに火をつけてから、こう言った。
「エンターテイメントは、それが自足して面白いのではなくて、それが成立するための現実と手を組んだ詐欺集団だ。切実な内容を現実に預けておいて、自分は無邪気に空っぽな自由をお披露目している。無邪気なものが洗練されてくると、それだけで単なるイノセントが、どこかしら神聖な良心に見えたりするものだ。それがくだらない。しかも人は事実に対する集中力に消耗させられると、その事実をどうにかしようと意識するのではなく、急に意気揚々とくだらないものを手にとって、まったく子供じみて慈しんだりする。それは時に腹立たしくもある。」
くたびれたトレンチ・コートに身を包んだひとりの老紳士が、向こうのカウンターでマスターと大笑いしたあと、トイレに向かう途中、ふたりの傍を通り過ぎるときに教えてくれた。
「このジューク・ボックス、壊れててね。お金入れなくても、動くんだよ。内緒だけどね。ほら。」
でも、流れてきたのは、知らない曲だった。
「みんなは、知ってる曲を聞きたいのよ。安心するために。」
生まれて此の方、ここにある社会を否定しながらその中を不可避的に生きることは、どうしたって意識の中で、素朴に素直に否定しているそのために、つまりどうしても自分自身に嘘はつけず、すべてがアウェイの仮象に包まれる虚しさに不本意に尽くそうとすることになり、ドぎつく、相乗的に消耗するだけでなく、その集中力が分裂して散漫なために能率が悪く、まったく、いいところがひとつもない。そんなふうに引き千切れた心のままで、そのまま時間という主観がその先のことを獏として暗く憂鬱に残酷に予感させるし、かといって何か具体的な別の肯定策が組み立てられてあるわけでもなく、あってもそれはただただ、頭の中にある批判を欲している思考の抽象であり、わがままで、とてもばかばかしく、意気消沈する不毛な異物で、虚弱で大人気ない、はかない空想の産物であるように説き伏せられて、追い詰められている。
その虚しさは、すべての他の人の人生をも、その目にそのように映しだす。退屈な忙しいことのために、脳髄が占有されてゆくことの無力は誰だって悲しい。確かに酒や女の優しさ、休息する開放はそのことを紛らしたり、忘れさせたりするものだけど、当たり前だがそれは、紛らしたり、忘れさせたりしているだけであり、何事かは何べんも何べんも、ここに繰り返されるのである。いっそここにある社会の論理にひざまずき、その中の友愛と勲章を胸に精進するのか。それとも探求される対象を回復し、孤高に些細なことだと諭して心神するのか。どちらにせよ、不快な夜は、必ず訪れる。いや、むしろ本当に不快なことは、夜ではなくて、白昼に突如として起こる。とにかく必ず、訪れる。
なぜかといえば、結局それは、ある失われたものが、そのまま欠けているからである。欠けているものとは、何を隠そう、ぶっちゃけて言えば、百万回見せびらかされてきた、あの愛でもこの金でもなくて、いつ死んでしまっても可笑しくない、いつまでたっても、個人の『全体』である。本当に個人というものはいつ死んでしまっても可笑しくない、当たり前のすれすれの個性だ。個性とはいつも、すれすれなものだ。個人があるから、全体に飲まれる幻滅があるのではない。個人を離れた全体があるから、孤立する幻想があるのだ。個人を離れた全体!なかなか気の効いた言葉だと思う。
恐るべきことに、あの声高い「共産党宣言」でさえ、すっぽりとして、あまりにも易々と観念になり下がり得る。世界の観念とは、逃れられないようなひと括りの輪郭であり、実際そこに自分が属しているという認識であり、ひと時の調停である主客の混合であるのだが、明らかな根本的問題がある。それは、なぜそう考えたのか、自分自身を酔っ払って説明できないことにある。明け透けにこのように言うと、これはまったく涅槃のことなのだが、現実はそんなに穏やかなものではない。話をもっと進めて、その知り得ないものがこしらえた世界というものは、もっと平たく言って世間というものは、その無根拠さゆえに想像的な安定を無意識に求めている。それが形式であり、演繹されてある知覚としての世界であり、別にここで経済といってもいい。だからこの際、世界の実体などというものは、あっさり無いと言って置こう。あるのは模索される体系的な理論であり、生きる力である過激な世界はなぜだか、理論とはまったく次元を異にする、そう思うことも考えることもできない、思考自体を大抵おちょくっている、すれすれの物であることを。そしてこの偉大なる無名の不安は、その盲目ゆえに明視を我が物にしたい。つまりそれが、無にして一切の個性、『全体』という沈黙のおしゃべり。肯定はもちろん、否定することさえできないということを、肝に銘じる。そうじゃなきゃ、やってられない。そしてこのことをもう一度、あの夜に、正午の現場で唱えてみる。これをあの人は、潔く堕落と呼んだのだ。
生活を、理論や形式でもって眺めると、その視線に潜んだ信仰が、そこを生きている知ることのない巨大な信頼の自由によって弾劾される。人の体である体細胞は、その人の容姿、形態を保ちながらも、そのなかで常に寿命を終えた細胞に代わって新しい生命を再生し続ける。どんなに思い描かれた綺麗な女性であっても、その皮一枚はがせば、素人にはどこの誰とも、なんとも見分けのつくものではない、血みどろのお化けだ。でもそれが本当にリアルなものなのであって、だから血肉は現実的なのであって、それにくらべて表象されてあるものは、そんなお化けじゃないために必要な、とりあえずのものとでも言っておこうか。
さあそれで、その血肉の根幹にある、脳や脊髄、神経細胞は、なぜだか新しいものに作り替えられるということはなくて、生まれてから死ぬまで、生涯に渡って同じである。こいつが現実や想像を、自分で勝手に構想しておきながら、やがてできたそれを見て愉快に笑うのである。だから笑うものは、それ自身が変わるのではなく、コロコロ変わるものを自分で目の前に創造する、自分でそのことを見ることのできない透明な奔放なのだ。こいつは自分が変わることを好まない。というよりも、変わらないようにできている。
それは拘束ではなくて、逆に自由である。むしろいろいろと変わってゆけるものが、その変化に限定されているのであり、動く必要のないものが、その治者として自由である。そして光の水面に霧が立つことはあっても、城が建つことはない。そのキラメキが普遍的な王であり、苦悩のない民である。
その王国は全ての領土を欲する。そしてそのことは、まるでどうでもいいことのように、放任された子供のように、自然に任されてある。巨大な信頼の自由によって、その土地に、可笑しさの種をまく。そうして世界の理論は消費されてゆく。その本来の姿に、立ち返るように。
『世界共和国へ』/柄谷行人を読んで、自分の無力に跪きそうになる。・・・青臭い。こんな無力なんて、初めからわかりきったことじゃないか。鸚鵡のように声色を変えて、その言葉をなぞっている自分が気に入らないんだ。何か、わかったような気になっている鏡をぶち割りたい。
「さて今日は、何をしようか。何か素敵な、勇気のある、楽しいことをしたい。季節のない、透き通った海のように、考える。その穏やかさを狙っているものは、それを喰らうためだけに彷徨う捕鯨船。大海原を、この、空とともに、詩が、ここに赴く。そんなもん知らなくても、生きてゆける。」
そんなもん知らなくても生きてゆけるし、生きているから、一目みればわかる。実際すべてが関係し合いながら、さも関係ないかのように、舞台は鮮やかだ。時間も空間も主観でしかなく、さあ、勇気を出して。言葉が事物に先行するようなとき、問題は、その当事者に問え!
桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍團子、一つわたしに下さいな。
やりませう、やりませう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりませう。
行きませう、行きませう、あなたについて何處までも、家來になって行きませう。
そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
萬萬歳、萬萬歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
そんな街角で、出会う。
通勤電車の窓の外、東京湾に粉々の光と、金色に朝の日が浮かぶ。いつもそれを見る。疲労した学問を嘲笑するように、港に隣接するいくつもの株式会社の巨大な倉庫の群れと、貨物を吊り上げる重機の諸々と、船と工場が、砂の山とトラックの集落が、ある体系的な掟をまざまざと見せ付けている。詩を探した。視線は水面と、朝の光を、その表面を移ろっていた。薄く目を開けていた。どうせひどい顔つきで、睨み付けるような目になっているに決まっている。だから、わざと目を細く、微かに開いて、探した。言葉にするほど、納得もなく、ただ、その心持のようなものだけでも、今、欲しいと思った。その無力さを知っている。でも、そうと知って接すれば、詩は、攻めての心を静める。そう思った。刹那であってもいい。自分のために、詩を探した。意志だけが必要だった。その理由となるものはすべて、その粉々の光と、金色に朝日の下敷きにして、メチャクチャにコテンパンに埋葬してしまいたかった。視線は、それ以外のものを、情け容赦なく引き離して、それぞれの場所に連れ戻してしまった。そうやって残された後も、これっぽちの寂しさもなく、むしろ全然、自分ひとり、物足りないような気がした。
ある映像があまりにも美しいとき、その表面に手のひらで触れてみる。その毛の甲をかさねて見るとき、何を隠そうとしていたのか。皮肉にも人生。あらゆる人々を通り越して、いかにも真実の、道化としてしかありえない美しさに、その横溢する内面の誠実に、果てしなく年老いたのだ。美しいものがあるならば、それに触れたい。その手の甲に、その影にこそ、光を。
ある芸術作品が美しいと感じることと、実生活の論理が異なると言うことは、何も言ってことにはならない、事実だ。なぜ互いに、抵抗しあうのか。実生活にとって芸術は、その何の役にも立たない「もの」であり、芸術にとって実生活はそこに時間を割きたくない当たり前の「こと」なのだ。誰もやりたいことをやりたいし、やるべきことのほかには興味がない。そんならそれで、いいじゃないか。やりたいことと、やるべきことが別々にあっても、その差異を思考して保持するならば、どちらに折れることもない烙印として、やりつづけることだろう。
よく働き、良きものを食べ、よく眠る。生活の平凡な型を、求める。そこから湧き立つ為に。変な前置きなんて、いらない。黙ってそれをやって見ろってんだ。いつまでも変わらないあの詩を、実現するために、変わろうとする心だけ、まだその外があるという監禁の罪状をもって、裁く。可能も不可能もない場所で再び出会う、何とでも言える、明るい沈黙の各々、計り知れない、人生。その空白に記される、「X」。そもそも、終わってしまえるものなんて、はじめから・・・はじめからはっきりと存在したと呼んでよいものなのだろうか。
本を読むときに、前提的に啓示に打たれるようであってはいけない。書物は、読むものの根本的な力の前に、したたかに、文字通り、羅列してあるだけだ。どんな名著であっても、それを抜きには語れない。それはすでに、書かれてあった。その確認の後、書かれていなかったものを、読むものが想像するのだ。これを読書と言いたい。
「涙って、矛盾してるわ。だって、流れたり、流れなかったり、するんですもの。」
頭が、考えることを拒んでいる。表現されるべきものが、勇気を失って、大胆に寝そべっている。駆け出す前に、満腹になってしまった長距離ランナーのように、ただ風にそよがれる、草木の眠りのように、存在できないものを、まずは見殺しにするように。
大いなる企業はその成員に、経験の時間と、熟練への努力を求める。分業の領域に、その個人の力を限定し、集中させる。実に、我が資本のために。その組織の中で、あらゆる事後的な啓蒙が試みられる。見習いから積み重ねられてゆく専門的な知識や技術を、心的な葛藤と織り交ぜながら、与えられる役職と自尊心の蓄積と持続を使命とする。そして、企業の義務が、自身の義務と、いつしか愛と、実に奇妙に、うまい具合に重ねあわされる。
与える者と、与えられる者。雇うものと、雇われるもの。心理的でありながら実際的な、このゆっくりと着実に移行する階級的な差異の構造的な現実性は、いかにありありと社会に浸透した論理であっても、捏造された論理であることによって幻である。ここを生きざるを得ない不可避性が、何の疑念もなく幻を現実化している。そして反省の暇もなく、骨身にしみてその思想に慣れてくると、やがてそれをこぞって美化し、唯一の体系であると、そこに精神を埋没させようと、従順に、つまりよりよき成員として、その内部における倫理として、不特定多数の他者の影に尽くすのである。義務に従順であるということがそのまま自然な連帯であり、局所的にみた政治の得であり、錯覚して、ひとつの敬虔な愛にまで高められもする。
これは利益を奪い合う組織における必然的な優しい、心のこもった洗脳であって、宗教としての企業の内面的な形式であり、はたまたそれに反抗するものは、手っ取り早く飲み交わす酒であり、しかもそれは一時の消極的な自壊の開放だけであり、その混沌はすばやく資本への、つまり現状への愛を補完し、安定を取り戻し、強固にする。
つまり社会的に共有された他律的なものを、そこに消尽する自己をもって自立とする。他に方法がないというただそのことが、批判よりもその正当性を自明のものとして一般化し、真に疑いなく互いに微笑み合っている。これが信用加熱になり、恐慌の理由だ。
階級という意識がそもそも宗教的であり、というのも、それをしていれば、やがてもっと良い状態に発展していくという漠然とした信仰に預けられる意識は、決して自由とは言えないからだが、なぜそれが必要であるかが現実的な課題としてくすぶっている。
世界的な理想を目的として提示することももはや、この偏狭な愛に満ちた精神には一切通用しない。むしろそれを咀嚼することなく丸ごと飲み込みながら、真面目に平和を唱えれば容易く形骸化し、得々として突き進んでゆくだろう。あらゆる物や力を消費する反復のことが、抽象的な愛に置き換えられてあるのだから。
今ここを、現存するシステムとして見ても、定めを生きる人生として見ても、取り逃がしてしまう事実がある。現存しないものが在り得ることを知り、定めなき人生として、あらゆる形式を傍観して、その上を歩く、透明な事実である思考の闊歩。自由にとって形式は苦痛であるが、どんなに纏いつく利己的な啓蒙にも屈せず、根本的にそこに属さない。属すことができない。何かに所属することは、そこにある目的を共有することだが、逸脱を本領とする意識は、共有し得ない各々の個々人をもって関係されてある。だから形式の退屈よりも、一方的な個人への信頼のことが、独断的で陳腐な理想をその胸に宿らせることが往々にして、あるのだが。
あえて消極的にこう言ってしまおう。意識には、何物も強要することはできないにもかかわらず、世界は女のように、それが隠されてあることによって魅力的であり、強いられた生活の中にあっても、その日常を対象化する精神の特権性が、なおそこを行きながら隷属の産物である権力を、同等の欲望として、一先ず笑うことができると。
僕たちは、消耗する力によって繋がり合い、労わり合っているのではなく、言うなればそれ以前に、力があるという事実の可能性によって、互いに運命付けられてあるのだから。
Hello.Arbeit.
自由な意識を優先する。取って付けたような職務の前に。それが本当に全体的なものへの興味であり、利益としては報われない、だが、すでに手にあるものの中を充溢させる、愛情を笑う、愛情なのだ。
安全な水鉄砲と、敵は至る所に。しかし攻撃性は、その視線を拘束することで盲目にする。むしろ仇は彼方の空に、見事に、微塵に散り去ってしまった。砕かれて、ガラスの飛沫と、シブキのように。乱反射する、彼らが彼らを見る目がそのまま、その正体のように、同胞は、至る所に。虹の架け橋。
恋愛は、語るに値しない。ただただそれが、恋愛であるがゆえに。
支配している実体が、その当人ではなく、資本、あるいは権力であるという、つまり支配者というものは存在せず、支配しているように見えるその者こそが最高にその抽象物の奴隷である、もっと平たく言って欲望の奴隷であるという認識の仕方は、ある種の知的な優越と安堵感をもたらすが、それは、せめて攻めるべき宿敵が人ではないという、ちょっとした慰めにしかならない。人間のうちにある矛盾は大きな不安であるから、そのことを構造的な物の体系に転化させたい。矛盾した自分ではなく、自分の置かれている状況を、理論的に明確にしたい。そして不可避的に強固なその中を生きる過程が本来の葛藤を生み出すのであるから、それは終わることなく対抗している。
目の前で必死に働く人々、その渦中において盲目は必然の愛か。いや、その業務こそ、その領域の限定、ターゲット、拘束され、集中された視線の純度、そのフィールドで合い争われる攻撃性、その職務、任務、客観的な遠近法のない力の没頭こそが、ここでは絶対的な明視であって、現場の活躍なのだ。それが仕事の誇りであり、組織的な倫理である。都市の息吹となって、力強く混迷する街路を吹き荒れる。力の集積。目にほこりが入って、涙が出る。
しかし、自らに強要された現実と思念の反動でしかない愛情の不毛を思うとき、生き残るという意味について、客観の戯言はその存在を回復する。それを言うとき、何が失われるのか。いや、何を見出そうというのか。その答えが、自らに強要する現実と、その結果である思念、つまり自由という自律。人生は自分で思う1/1000。主は自らの利益に躍進する。その方法として立ち現れる客が一体誰であるのか、口を挟むものは忙殺される。単なる構造的な問題に解消できない人間性は、もはやどこにも求めることができない。そしてこのことが、むしろ挑発する新しい闘争として、真の自由を構想させる火種になる。
新しい言葉を。語られたことのない言葉ではなく。言葉になりえないものではなく。空白でも空間でも何でもいい。何かを証明する為に、無が必要であるということ。むしろ、証明とは、無であるということ。つまり、いかにして無を啓蒙すべきか。美学か。倫理か。それとも。
だから私たちは、夜の星さえ、結び合う。そのようにして、名付けながら。
太陽がいつまでも、真っ白に輝いている。
あなたがここに、ある限り。
由紀雄は、乾いた土を一生懸命掘り起こしながら、こんなことを、いつまでもいつまでも考えた。
やがて、いつしか埋めた「消しゴム」を掘り当てる。
そのとき、どこかで雉が、二度鳴いた。