線
由紀雄は、乾いた土を一生懸命掘り起こしながら、こんなことを考えた。
太陽が、真っ白に輝いている。
新しい言葉を。語られたことのない言葉ではなく。言葉になりえないものではなく。空白でも空間でも何でもいい。何かを証明する為に、無が必要であるということ。むしろ、証明とは、無であるということ。つまり、いかにして無を啓蒙すべきか。美学か。倫理か。それとも。だから私たちは、夜の星さえ、結び合う。そのようにして、名付けながら。
生命と、言葉についての章。
まったく、大嘘だ。小賢しい言葉たちを、微笑だけで眠らせよう。お前たちが口の中にモゴモゴ詰まって、うまくしゃべれないのだから、しょうがない。
この無意識に任せた切なさに、生命は言葉を求め、言葉は生命を求めている。その和解は、求め合うがゆえに、困難。求め合うことは、互いが異なる起源のものであることの、証になるから。
私たちの祈りである終わりなき労働は、こんな世の中があって成り立つし、思考のない空には、いつも雲がぜんぶ嘘みたいに、正直にギラギラしていたし、それがとても恐ろしかったし、100万年前から当然の答えのような街中の世の中には、肌理細やかに鬩ぎ合い、恒に身勝手な愛情の枠を破り、突き抜け、溢れ出してしまう涙の渦であるような、異様なこの労働があってギリギリ成り立つみたいだ。前者は構造で、後者は、意味だと決め込んでみても、まだ息の根のある体力ある若者の腕力ほどの戯言。いかにしつこく自分を傷つけようにも、実に良くできた困った脳味噌は、神様が吊るされた状況を貪り喰らう。愛と憎しみを鍛え上げようにも、やっぱり、そばで働く親身な友達が必要なのだ。だから落ち着いて。その息を整えて。
夕焼けが、乱れている。あまりにも自然が整然としすぎて、これ以上ないほどに。
現存する体系の認識によってその意味が後に付されるのか、先立つ意味によって新しい構造が確立されるのか、はたまたそれらはどうしようもなくいっぺんに織り交ぜられてあるのか、考える頭に閉じこもった目の見えない静かな振り子であるのか、なんら提示するもののない単なる居酒屋の愚痴であるのか、わからない。把握するだけじゃ、その内容を変える力に全然ならないから。変わることのないはじめのものが、残酷に神話と胸を刺すから。
もういつのまにか皺くちゃのおじいさん。未知を考えることは、そのことを必要としないものからの手軽な逃避であるのか。
そのことを必要としないものが、頼もしく笑う。それが悔しい。いや、歯痒い。
ただ、世の中が信頼に基づいてあるのであれば、その信頼を拡充し、普遍的であらしめるそのことが、今一度、文学というもうひとつの方法になるのではないだろうか。信頼とは何かという探求であり、そうして今ある偏屈な信頼の欺瞞を取り除き、人々の間にずっとあったもの、ずっとあって抑圧され続けているそれを果敢に新鮮に感受してこそ、今と未来を生きることがなお一層、可能になるのではないだろうか。
変な前置きなんて、いらない。黙ってそれをやって見ろってんだ。どんな現実も、そう思いたいように想っていればいい。
遠くの歓楽街で、自然で巨大な終わってしまったものたちの、無言の声がする。風の音だ。誰も風の中を行き、その冷たさとそれゆえの快楽に結ばれ合う。今ここを吹いているものがすべての風の現実だ。
人の集まりとは、不思議なものです。一体全体、何が基準になって私たちは終結し、何が引き金になって離散を余儀なくされてゆくのでしょう。あちらを立てればこちらが立たぬ駆り立てられた隷属に、蝿のように飛び交う、転々とうるさい無謀な価値のキラメキ。要するに、そのときには実際、たとえ刹那であったとしても、何が共有されていたと、言えたのでしょうか。むしろ言わざるを得ないのでしょう。ひとつのことを証明することが出来ないままで、あるとしか言い様のない、困惑と落ち着きを内包する徒党を組んで、ただひとつの時は流れた。
あなたの胸の中に。カチ・カチ・カチ・・・
真知子は流れるように詩を綴る。たとえまっすぐでなくても、大きな海洋ならば渦巻く潮流であるように、由紀雄はそれを見て、うっかり感心したことがある。その大事な内容はよく分らなかったけれど、何かそういうものをスラスラ、ときに沈没していく船の窓から、必死に掻きあがる様に書けるということが、自分にはない悩ましさのようなものが目の前に当然のように自然に現れたようで、大変なんだなと思った。
それで、ひとつ、それはこんなものだった。
「Last name.」
何回だって夢に
思いつけば指で徴
コンバンワって星は
それぞれに別々に浮かぶ
国境なんてどこも
雲の壁と日の光に
ハッキリさって それは
どんな色と線で踊る
ああどんなものにだって 名前があるけど きっと
分けたら呼べない不思議
明後日だって昨日
書いた手紙よりも昔
全人類の夢に
冠をかぶせれば終わり?
そうオオカミだって歌う
風と風がぶつかる音
気のせいさって これは
眠れる森に吹く掟
ああどんなことにだって 理由があるけど きっと
ひとつも知れない不思議
みんな
ああ空が美しくって
誰もいない海の名前
ライフルの夢に
奇跡
見つかるの?
真知子の友達が、これを歌にした音楽を聴かせてもらったけれど、最期の方にある「シャナナナ~♪」の部分が、一寸、いまいちだった。本人には、言っていないけれど。どんなにセンスが良くたって、共有され程よく消費されていく、良くできた音楽なんて、もうたくさんだ。いつでもどこでもそれだけで、音楽は独立してあって欲しい。勝手に、僕たちのために。でも詩は、必要のないときに詠むと、笑えるくらいしょぼくれて見える。そのことのほうに、興味があった。
「私にとって、詩は読むものではなくて、綴ること。読むのはとっても退屈で、書き記す段になって、まったく、すでにそれは読まれてあるの。詩人は他人の詩なんて、読んだりしないんじゃないのかな?詩神がいるんじゃなくて、それになるだけよ。フフン。カッコいいでしょ?」
由紀夫は、カッコいいと思った。なんだか、知らない自由な感じがした。詩神になるって、どんな感じだろう?
「自由を待って想像するんじゃなくて、それをつくる行為が自由を創造するのよ。とにかくどうしたらいいかわかんなくても、やってみるの。少なくとも最悪のものであれば、それを見て、何がよくないかわかるわ。表現されたものの奥の暗がりに自由があるのではなくて、表わされたものがそれを実際、発散しているの。」
なんだかわからないけど、由紀夫は自分のいろいろなことが、とても些細なことのように思えた。詩神か・・・。詩神も泥土を、掘るのだろうか。
時代時代であらゆるものが、その始まりよりも明らかに、明確に終わりを告げてゆく。そもそも、終わってしまえるものなんて、はじめから・・・はじめからはっきりと存在したと呼んでよいものなのだろうか。確かにいろいろな言い方で、反省は出来る。完膚ない反省が、そのことの終わりを告げてゆく。勃興と衰退の過程を超えて、普遍的に根底に流れ続ける潮流の痕跡を、なまのまま表象したいという欲望の果てしなさに、生命の果てしない奴隷として、精神の妥協と格闘が生まれる。でも、どんなに自分を他人を見る目で見ようとも、確かに已むに已まれぬものはある。自分とは結局、自分以外のものに対抗して発展させていく無謀なエレガンス、それが義務としての自由。嘲笑と表象に還元されてもなお、死ぬまで安らぐことのない、たとえばそれは圧倒的に取り残され続けた、静かで広大な青い海。潮騒。
ピアノ・コンサート。
〔Piano Concerto In D Minor BWV 1052: I. Allegro〕
ライブの魅力は、その迷いのなさだ。確信の美しさ。人が、どうしようもなく何かを信じているという日常茶飯事が、舞台の上で象徴になる。何かを信じるという行為の裏には、それと同時にある全体的な理論が思い描かれてある。博愛的な理論と信仰は表裏一体であり、大昔から、そうだ。だから理論は単なる知識としてではなく、事実そこを生きるための碇として、バッハのフーガのように、生活とともに、生活のためにあるから、犯しがたい。美しき反復の美しさ、その迷いのなさだ。
部屋の真っ白なカーテンから、朝だか昼だかわからない、時間不明の曇り空から元気ない光が射していて、うっすらと目を開けている。体もこころも、どんよりと、重たい。
浩介は、今回ばかりはさすがにヘトヘトに疲れた。三日間、ずっと徹夜だった。得意先の企業の、新しい電気自動車のコマーシャル撮影で、それがなぜだか有無を言わさぬテンヤワンヤの大忙しだった。女の子たちはみんな泣いていた。とにかく大変な現場になった。新人のスタッフさんは何人もことあるごとに怒鳴られたり蹴飛ばされたり、血色の悪いチーフは何度も何度もぺこぺこどこかの偉い人たちに頭を下げたりして、電話で話しながら頭を下げたりして、うまくいかなかった。大事な機材がいきなり勝手に壊れたり、雨が降ったり止んだりした。それでも、なんとかまあ、とりあえず上がったのだった。
家に帰ってから、翌日の休日も、曇った空とおんなじで一日中ボーっとしていて、まったく意気消沈だった。浩介は根っから負けず嫌いであったので、寝転びながら、だんだんそれが悔しくなった。だから、もちろんヘトヘトになったけれど、それとともにこんなに負けず嫌いの精神を消耗させたものはどこのどいつか、反省してみずにはいられなかった。ストレス社会のストレスなんて、信じてなかった。だって素敵な仕事だったら、むしろこの休日はもっと恍惚としていてもいい日だと考えたからだ。
ガバッと跳ね起きて、紙とペンで、箇条書きにしてみたのだった。
たとえばそれは、降ったり止んだりの雨。
たとえばそれは、みんなでアイデアを出す圧倒的な時間のなさ。
たとえばそれは、最近、嫌いな奴との慣れない共同作業。
たとえばそれは、上司のあきらかに理不尽な説教。
たとえばそれは、決まってしまって賛成できない意見への気を利かせる心遣い。
たとえばそれは、まとまった休憩時間、自分の時間のなさ。
たとえばそれは、沈黙を埋めるだけの、空虚な会話。
たとえばそれは、先週からの、風邪っぽさ。
たとえばそれは、途中でお湯が足りなくなった、カップラーメン。
たとえばそれは、突然の機材の不具合。
思いつくままに書いていて、違うと思った。紙をびりびりに引き千切って、ゴミ箱に投げ捨てた。背伸びをしながら、窓の外を見る。こんなことは全部、本当の原因じゃない。こんなことは毎度のことだ。まったくもって、毎度のことだ。
偉大な小説。あなたはどこに閉じ込めようとするのですか。導くような、涙の手腕で。何を掻きたてるのですか。過剰な情念の引力と決別によって。
浩介は、ふと死んでしまった明良のことを、思い出した。
「浩介、精神とは唯一の自由であり、自由とは唯一の精神のことだ。ヘイゲルも言っている。」
またヘーゲルの受け売りか!それにお前まだ半分も読んでないじゃないか!ヘイゲルも言っているって、さも自分が考えたことのように言ってる!ププ!と、当時、少年の浩介は思っていたけど、ツッケンドンにそんなことを突然言ってのける明良の、何の屈託もない意気揚々としたところが、無邪気な友達だった。
遥か遠くの雲の終わり、青い空を行く飛行機の、キラキラした影の中から、そこから長い時間をかけて赤い紙切れがひらひらとベランダに落ちてきて、
[私が、私自身を活かすこと。これを至上命令とする。BY AKIRA お元気?俺、ぜんぶ読み終わったよ!今、マルクス読んでる。]
浩介は笑った。
太陽が、真っ白に輝いている。
生活の妥協だけが、酒と情事が、汗だけがある、忙しさに感けた、安らかな国で、安らかな息を継いでいる。もっと、いっぱい、金がほしい。時間もほしい。幸福とは何だろう。もっと純朴なストーリーが。とても立派なことさ。上出来だ。
幼い頃に見た、静かな田舎のちっぽけな空に、優しさをいっぱい詰め込んだような、温かい夕焼けだ。なんで夕焼けなんかを、覚えているのだろう。もっともっとたくさん、大事なことだってあったはずなのに、今、なんで夕焼けなんかを、覚えているのだろう。
くわえタバコの釣り人を横目に、川のほとりに腰掛ける。
水面に、思い描く神々。素顔で朝焼けに張り詰めた青空を仰ぐ。すべての大陸が、かつてのあの海の底に、自らの権力と正義の無批判のために、立ちはだかるいくつもの帝国を巻き添えにして、みんながみんな、不本意に沈没してしまったかのように、清らかなせせらぎを聴きながら、由紀雄は勢いよく顔を洗った。
共に生きていると思われた私たちの寄り添い合う微熱が、気づかずに、腐るようになってつめたく冷めてゆく。
「チ。」
釣り人の舌打ちが聞こえた。
「生命よ。言葉になれ!言葉よ、生命になれ!信仰を超えて、歴史、ただただ、世界の事実たれ。そして言葉よ。どうか生命に、追いつきたまえ!滅びることの、安楽の彼方に、威厳をもって、我々を慈しみ給え!」
そして諸説は、私たちの考察の中に。胃の腑と、母胎の中に閃光になり、突き刺さる言説。確信的に、生命が、有ればこそ!
その試みとしての、諸々。まずその胸に見つかる新大陸。天気のいい日に限る。そこを駆け巡っていたい。
あたらしい風で木々の緑がさわさわしている。
釣り人は、どこかへ行ってしまった。
古ぼけてゆくものに対する後ろめたい気分には、どこか大切な言い分がある。気を使う対象、それが本望、ではないはずだ。だけど、胸に秘めた言い分は万人に、共通事項としての世界に関してでなければ、つまらない。気遣いではなく自立が先決であり、何かを守るとき、つまり、時に自分の外のお決まりを攻撃する充実感は、それが世界の力への愛情においてでなければ、窮屈だ。充実は開放の独立。まずは黙ってそれを為し、何において結ばれてあるのか、それを見極める。Information.
パシャリ。
目の前に、銀色の魚が跳ねる。
無意味だと思うこと自体の無意味が、矛盾の息苦しさ。役者の意味は、形式ではなく、苦悩する態度で示される。身振り手振りの形式は、次に生まれてくる主役の要素として、繊細なスパイスとして消費される。
「自由を待って想像するんじゃなくて、それをつくる行為が自由を創造するのよ。表現されたものの奥に自由があるのではなくて、表わされたものがそれを実際、発散しているの。何度言ったって、何度言ったって、いいのよ。」
おお、マリア。
全世界各国が究極的にひとつのガイアであり、全世界通貨がXとして統一されて単一であり、全世界言語が新しく共用されるひとつの母語、言葉であるというあまりにも観念的で超越的な認識は、その偉大さゆえに大雑把であり、あるいは大きな頭だけで考えすぎであり、そうじゃなくて、全世界各国が実際的には冷然として相対してあり、全世界通貨が各々攻防してあり、全世界言語が別たれてある母語、文化であるという現実、ここにある現在の「理解」を妨げる。慎ましく獣の目を曇らせる。つまり、本能的に敵対してある事実が、物事の実際の理解を助け、それと同時に、あるいはそれとは別に、すでに和解してしまって安全に行過ぎた生命の幼さが、振り返って、何故と問うのだ。
何かと対立するように歌ってはいけない。祐二はそう思った。何かと対立するようにして歌うと、まるで自分が曖昧などこかへ、うっかり気取りながら向かっているような気がしてしまう。
「俺は、どこへも向かってなど、いない。」
祐二は正直者だった。なんと言っても、宇宙だってそうだ。
平和や友愛に向けても、享楽して活躍する生活に向けても、幸福や不幸に向けても、要するに、他人に向けて、歌ってはいけない。
「俺が歌えばいい。歌うものがあるのなら、黙って歌えばいい。」
そんな気持ちは、モーツァルトに教わった。
「モーツァルトの音楽は、どこへも向かっていない。内面への穏やかな信頼と、モーツァルトがあるだけだ。」
パン工場で働くアマデウスを想像する。
感受性で人を啓蒙することなど出来ない。それは無責任なことだ。祐二がそういったことを話したら、真知子は答える。
「物語って、義務ではなくて、自由よ。自由があって、はじめて義務になるの。」
言われてみれば、そのとおりだった。義務ではなくて自由。自由ありきの、義務。
「自由って、あんたのことよ。何度言っても、足りないわ。自由。自由。自由。」
思考することが情念からの逃避であれば、それはどうしたってそこに舞い戻る。
絶望は、不可能です。絶望するということは、望みがないということではなく、望まれる対象がないということです。望まれる対象を求めようにも、それがないということです。だから、絶望と言えども、少なくとも求めたいとは思っているのです。いや、むしろ切実にそう思っているのです。そんな自分のことを、も一度信じてみるべきです。自分が信じられない人は、絶望しません。そもそも何かを信じていることが絶望の根拠ですから、動物は絶望しません。人間は、不可避的に、何かを信じています。それが、生きることの優しさです。人はたとえ知っているものであっても、まるで知らないものであるかのようにそれを探求し、欲したいという楽しみを持ちます。
いちいち問題にしてもしょうのないことはほっといて、物語の、はじまり、はじまり。
電車を降りて改札口まであるく途中、駅の掲示板に、セーラー服を着た美しい少女が、元気いっぱい、笑顔いっぱいに、どこかの青空の中をジャンプしているポスターが、何枚も何枚もペタペタ貼られてあった。がんばれ!受験生!
ガンバレ!ジュケンセイ!と書かれたそのポスターを見て、祐二は思わずいちいち虚しくなった。
変わらないと諦められた形式の中で、既得権益の関係を演じ続けることの非効率と、隷属することでしかない人情の不毛を不快に感じることには、現代を生きるものの胸に去来する空虚には、ごく当然の理由として、未来を想像する力のなさがある。私たちは変えたいと思っている。子供たちのために。つまり、私たちの闇を渡るために。
『白紙にもどそう、遣唐使』
『人は混みあう、ペリー来航』
『行くよ一気に真珠湾』
祐二は思わず虚しくなった。こんなつまらないピラピラしたポスターと睨めっこしてしまった。ちがうちがう、歌うものがあるのなら、黙って歌えばいいんだ。偶然対立する状況に左右される音楽なんて、みんな嘘っぱちだ。問題があれば、おれはこのおれが生み出した虚しさとだけ、責任を持って相対してやる。みんな頑張ってるだけじゃないか。でも、あらゆるすべての歴史の偉人たちに共通する御意見はただひとつ、変革せよ!ということ。虚しさは、何も変えない。Good bye!
Good bye!
与えられた無目的な目的を達成することだけの、冷たい形式的な奴隷根性を熱くたぎらせながら、危うい微笑みをに、Good bye!
ある晴れた日、のっぱらでアレクサンドロス大王とイエス・キリストが、睨めっこをしました。風や太陽や石や草も、こっそりそれを見ていました。
睨めっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ♪
アレクサンドロス「ぶへぇ~。」
イエス「アハハハハハハハ!」
アレクサンドロス「笑ったな。君の負けだ。」
イエス「アハハハハ!君は強いね。」
風や太陽や石や草も、こっそりそれを見ていましたが、みんなつまんなそうでした。それは何をしているのか、わからなかったからです。
その晩、お城に帰ってひとり静かにバイブルを開く大王は、
「フフ・・・やっぱ聖書はおもしろいなあ。」と、言いました。
笑ったものが勝ちかもしれないと思った。お約束でも、変な顔なんて、したくなかった。
これは真っ赤な嘘だけど、お月様が、真っ白に輝いている。
石焼芋を買いに、玄関を飛び出すお母さん。
色とりどりの電飾を散りばめた都会の夜に、家路を急ぐ、サラリーマン。「自己増殖する価値の運動体」としての資本の退屈は、そのことのためにお客様が神様になってしまうことだ。僕たちは神様じゃない。自由に創造される価値を、いつだって胸にくすぶらせている、人間なんだ。
それでもお星様はぜんぶ、キラキラしていた。これは本当のことだ。何か大まじめなことには、それとまったく別にある、小さな小さな微笑を。幾つものあたたかな言葉を交わしながら、今ここにある団欒と、はっきりとした少年の瞳のように、大らかな夜の海にこぼされて優しい。見つかったなら一目散に、明るく夜空に逃げてしまうような当たり前の信頼、この分け隔てられて集まる星屑たちに、無理やりにも休息を!
いつまでも勝敗のない、約束のない澄みきった笑い声と、その音楽を聴きながら、波間に浮かんだ僕たちかもしれない、生まれて間もない人生の勇姿。湯気立つ子羊のように。
確かな夢などないけれど、確かなことなら、今ここに。
お風呂にはいって、ちゃんと体を洗って、頭を洗って、そのあと素敵なまっさらな服に着替えるのだ。身だしなみは大事なのだ。整理整頓、大事なのだ。
パンパカパーン♪・・・常に物語からこぼされてしまうもの。
やってやろうじゃないか。
誰もみんな、自分のすることに、命を賭けている。
現実は、自分が心の奥底で、そう思おうと欲しているのではないか。隷属の苦しさの中にあっても、本当はそれに憧れているのではないか。
それは永遠のお父様。
「国境を明確にしながらも、生命の幼さよ。それでも、振り返り給え!たとえその額に百年の銃弾が打ち込まれてもなお、汝の脳漿は新しい世界の地図を、その境界に投げかけぶちまけて、じわじわと祖国の土に乾いて染み入るだろう。
そして撃たざるを得なかった汝、醜くも従順な兵士たちよ。汝も、振り返りたまえ!遥か地平線に、幼き頃の疑問の数々が、再び涙と胸を打ちながら、祖国の空に銃と起立する英雄を見るだろう。」
チャンチャラおかしいや。
いつもの通勤電車に揺られながら、親父はばっさばっさ新聞を開く。
「鳩山由紀夫首相と自民党の谷垣禎一総裁が21日の衆院予算委員会で相まみえた。政権交代後、初めての党首対決の焦点は、政策ではなく、{政治とカネ}。夏の参院選に向けた2大政党の緒戦は、首相の脇の甘さと谷垣氏の詰めの甘さが目立つ論戦となった。」
2010年1月22日付 朝日新聞
曇り空から、空の雲からぽつぽつ雨が降ってきた。柳の通りを当てもなく歩いていた銀二は、興味もないのに、たまたま目にはいった小さな画廊に入った。雨宿りのつもりで。
中は思ったよりも広々していて、ひっそりとしていたけれど、思いのほか、人が入っていた。でも、壁に飾られてあった絵は、並んだ同じくらいの大きさの二枚だけだったので、みんなその前に集まって、突っ立っていた。他の絵はどうしたのだろう。誰かがその場で買って、脇に抱えて持ち去ったのだろうか。それとも最初からこの2作品の展示なのだろうか。まあ、銀二はどっちでもいいと思った。そこは静かで、ずいぶん薄暗かった。作品のタイトルが、変わっていた。
『良い絵』
と
『良くない絵』
銀二はちらちら見比べた後で、どっちでもいいと思った。どっちもただの絵だと思った。感心している大人たちを尻目に、退屈しはじめた子供たちが鬼ごっこを始めて、そこらじゅう走り回っている。
しばらくボケッとしていると、突然、黄色い帽子をかぶった鬼役の子供が駆けてきて、銀二のジャケットの裾を小さな手でギュッとつかんでこう言った。
「良い絵と良くない絵の、どこちがうの?」
いつのまにかしんとして、逃げ回っていた子供たちは、みんなこっちを見ている。
銀二はもう一度並んだ絵を見て、今度はどっちでもいいと思わなかった。区別しなくてはいけない。答えなくてはいけないと思った。子供たちがみんなこっちを見ている。銀二は考えた。
「・・・うーん。」
銀二はまるで自分に説明するように話した。
「僕たちが、何かを信じたり、求めたり、はたまた絶望したり、愛したり、傷ついたり、争ったり、仲直りしたり、繰り返すそういった諸々の感動や情念のことだけど、つまり右往左往のこころのことだけど、それはやっぱり目に見える物の形にしないと、現に存在しているとはいえないんだね。」
前髪をくるくる指で弄くるのが、ひとりで考えるときの癖だ。
「・・・好きな女の子ができたときに、好きだって言葉や行動にちゃんと表わさないとと、伝わらないじゃない。手紙書いたり・・・。素敵な音楽だって、書けば楽譜になるでしょ。ちゃんと耳に聴こえるでしょ。・・・そういったものの存在がなくても動物は生きてゆくのだけれど、さすがに動物と人間とはちがうだろう。君が不思議に思って、そう問いかけるように。絵の表現とは、たとえばそういうものさ。心の現われだよ。」
子供たちは時々目を見合わせながら、くすくすと笑っている。それでもまた小さな手で、銀二の裾を、ぐいぐい引っ張る。
「ちがう!良い絵と良くない絵の、どこちがうか聞いてんの!何がちがうか聞いてんの!」
壁にかかっている良い絵は、ふわふわしてルノワールのようだった。良くない絵は、かくかくしてピカソの小品のようだった。銀二はでたらめを言っているような気がしてきて、悔しくなった。
「あらかじめこれと決まった○×があるわけではないんだ。だって、表現の自由というか、そもそも表現が自由なんだから。それに優劣はないよ。うん。」
いや、それは、あるだろう・・・。しばらく銀二は考えた。
「ここに飾られてあるものは、よくよく考えてみれば、ただのかたちに、線や色なんだよ。お猿さんの目で見ればね。うーん、ちょっと違うけど、たとえば山羊さんに一万円札あげたら、きっとむしゃむしゃ食べちゃうでしょう?」
お猿さん。山羊さん。銀二さん。
「でもね、それを鑑賞するということは、・・・鑑賞ってわかる?それを作家のこころとして信頼して見るということなんだよ。その人に何か表現すべきものがあるって、そういった目で見なければ、すべての絵画は、やっぱりただのクネクネした線とばらまいた色の平たい物体でしかない。君たち知らないと思うけど、むかしマルセル・デュシャンという人がそのことを皮肉って、展覧会にトイレの便器を展示したんだ。みんな金を払って便器を見に美術館に集まるんだ。」
あらら。また、はなしがそれた。でも、だまって子供たちは静かに聴いていた。いいたいことが通じているのか、銀二は薄々疑問だった。
「ちがう。良い絵と良くない絵。」
おお。通じていた。子供だと思って舐めちゃいけない。失礼、失礼。違いについての結論。
「つまりね、唐突だけど、それは歴史なんだ。世界中にはいろんなたくさんの国があって、白人とか黒人とか以外にも、いろいろな人たちが住んでて、そのそれぞれに固有の文化があって、歴史ってのはその人の絶え間ないこころが現れる現場なんだ。もっとちゃんと言うと、その人自身なんだ。だから言っちゃ悪いけど、お猿さんや山羊さんたちには、歴史がありません。歴史はお互いの信頼がないと見えないし聞こえなくて、僕たちはそれをいつだって確かめたいんだ。信頼すべきものがある。それが良い絵画。」
ふーん。
「でも、よくよく考えてみれば、やっぱりすべての絵画はただの線や色の形なんだよ。・・・というよりも、目に見えるとはそうゆうこと。それと同時に歴史でもある。不思議だね。・・・いや、あらゆる物が物体として平等に存在しているということは、とても素敵なことさ。便器にも、便器職人の歴史はあったんだ。良いか良くないかは、これから、僕じゃなくって君の歴史が判断してゆくことさ。」
するとあっという間に、みんな一目散に逃げていった。気づいたら、傍の小さな鬼もいなくなってた。急にどこからか生温かい風が吹いてきて、振り向いたら一瞬、ガツンと頭を殴られたような気がして、いつか遠い昔に、なぜだか誰かと行ったことがあるような、とても寂しくて懐かしくて、真っ青な草原にポツンとそのまま立っていた。静かな大人たちはさっきと同じように壁の絵があった辺りにまだいて、全員、虚空を凝視している。
呆然として銀二は、耳に聴こえたような気がした。
「長々とありがとう、おじさん。僕たち、歴史と、見たり聴いたりできる、自由な物でつながってるんだね。意味不明だけど、ありがとう。今度は、おじさん鬼ね!手の鳴るほうへ♪」
ああこれは、きのう読んだ本に書いてあったことだ。
鬼になった銀二は人だかりに近づいて行って、約束どおり、知らない男の胸倉を掴んだ。
人類には、コインよりも先にナイフを発明したという歴史的事実があるのです。敵対する、その皮膚感覚のようにぴりぴりと境界を付されて対立する事実が、思「想」ではなく、それ以前に、思「考」する際の基軸になるのです。「想」は発展した信仰の領域にあり、「考」は目前の実方法の領域にあるのです。優しさに、打ちのめされたい。
『お前の目の前にいるのは英雄でもなんでもないただの男だ、撃て』/ Ernesto Rafael Guevara de la Serna
いきなり胸倉を掴まれたメガネの男は、びっくりして直立不動であり、草原にはまだあたたかい風が吹いており、どこまでも青い草の光が波打って、銀二は優しくほっぺにキスをした。空の隅っこで、恥ずかしそうに、鳥が鳴いていた。
明確な区別こそが、統一のことです。もしも何がしかの平和を私たちが希求するのであれば、実践的方法とは、つまりその迷いのない信仰の為に動き出すのであり、信仰は活動として現われるために、その実方法と活動を、女が男を、男が女を、この際、男が男でも、女が女でも、掻き抱くようにというよりも、気づけばどうしょうもなく抱かれたものとして必要とするのです。そりゃあ鬱陶しいこともあるでしょう。独りになりたい時もあるでしょう。でもでも問題は、願われ得る最高のその世界の像が、結局、信仰にも成り得ず、方法にも成り得ず、そのどっちにも在り得ず、ああ、もうここにあったのだと、あまりにも偉大でありすぎる為に、統合して念頭に浮かび辛いこと。想像力の中にだけ許された、許された瞬間に人生になる、限られた一生にある無限の世界交渉。さっきいたのは、生まれてくる子供たち。
「・・・あれ。おじさん、追いかけてこないなぁ。・・・あ!男同士でキスしてる!気持ちワル!」
強いられた形式たちの争いではなくて、自発的な争いを穏やかに願う。すべての欲望を公開したい。北アルプスの亜高山帯針葉樹林のように、強く、確かに、はっきりと起立していたい。清潔で冷たい空に、信じるしかないように突き抜けていたい。
強いられた結束ではなく、自由なる統合を願う。あらゆる非暴力的な攻撃の方法を、吟味してみたい。香りでさそうそれぞれの、日に日に輝くトロピカルフルーツのように。
やがて信じていることも忘れて、それが当たり前で普遍的なことになって、信じる信じないのはなしじゃなくなって、健全な欲望を含めた自然としての生命となり、それがそのまま力になっているという、超自然としての全人類的な調和。牛の乳を搾るように。その奇跡。全人類的な調和は、誰もが少年少女の心のうちに、かつて誰もの胸にあったのではと。疑いの果てに、取り戻すんです。
その心は変わるのではなく、隠蔽されるのです。たぶん。
「・・・もういいや。もう帰ろっと。カラスが鳴くから、帰ろっと。」
欲望のないモラルは貧弱で不実。生命の欲望こそ健全なモラルであるべき。モラルこそ欲動の結実であるべきだ。僕らは、欲する。欲望は勝手にここにある。だから心配しなくてもいいんだ。
いつまでも、永遠の困難を待ちわびながら、それを忘れる。忘れた頃に、もっと大きなものが、現れる。
最期の素粒子は、絶対に目に見ることのできない、かけがえのなき、その人のSelf Identity.内面って奴は、外部への疑いから始まって、どんどんスフィンクスの謎かけに答えるようにして、自分を検証してゆくけど、最後の最後で、どうしても信じざるを得ないものにぶつかるんだ。でも、疑うことは信じることに納得できないから、そこでどうするか。信じるってことを、別の言葉に言い換えるんだ。たとえば百科全書みたいにね。で、それは世の中のことを、ひろくひろく、知ってゆくことさ。疑いは、世界の一部として大切に、そのまま小さくなって組み込まれてゆく。
それを正確に見ようとする人の意志、その光が、対象を変化させてしまうんだから、そんなに正確に見なくてもいいや。最後の最後で、パッと開けた世の中が大事なんだ。
それで、素敵な本に書かれてあったことを読んで、その知識をまるで木になった林檎をもぎ取って、ポケットにつめ込んで持っているようじゃ駄目さ。その林檎は透明で、もぎ取ることなんて出来やしないんだ。いつでも本当のポケットは空っぽさ。ただその木にたわわに実っていることを知っていればいいんだ。必要なとき、それを指差してみればいい。それが誠実なハングリー精神。食った知識で語るのではなく、語るために、知識のかたちはいくつも実って揺れている。アダムとイヴの、時代からね。
不確定性原理の提唱者、ハイゼンベルクは若いころ、ピアノの名手でもあったのだ。だから、だから意志のない内面ってのは、チャンチャラおかしいっていうの。何も疑わず、何も信じないってのは、チャンチャラチャンチャンチャン♪っていうの。
少年少女。彼らはやがて、大人になるんだ。
そして世界は変わらない。しかしもう一度、それを愛することはできる。いやいや何度でも何度でもできる。変わらないものはほっとけばいいでしょ。変えられるものを考えなくちゃ。
特別な人など、いない。ただそのとき、あなたの愛している人が、いるだけなのだ。その人のSelf Identity. 信じるってことを、別の言葉に言い換えるんだ。 疑いは、世界の一部として大切に、そのまま小さくなって組み込まれてゆく。
「悟性のない愛は、憎しみ以上に人を傷つける」Georg Wilhelm Friedrich Hegel
それで由紀雄は、乾いた土を一生懸命掘り起こしながら、こんなことを考えた。
太陽が、真っ白に輝いている。今日は天気がいいね!
忍び寄る憎しみの本質は、自分の敵が何であるのかを、明確な対象として自分が認識できていないという混沌、その混沌のことではないだろうか。相手ではなく、ハッキリしない曖昧な区別が憎いのではないか。区別は大切なことだ。
たとえばスイカの種が嫌いであるのに、まるでスイカそのものが嫌いなのだと思い込んでしまうような過ちだ。スイカとスイカの種は、ちがう。
想像された可能性のない場所で、人は憂鬱になり、人に攻撃的になる。
赤い実の部分は活躍する力であり、おいしい部分。黒い種の部分は、単に蓄積されてゆくだけの死んだ知識、資本、元手になってもそれ自体は食えたもんじゃない。土に埋葬するもんだ。
毎日毎日、映像をみている。思えばそれは、なかなか不思議な光景だ。
たとえばそれはテレビのように、いくつものチャンネルが一つの画面を争って現れる。裏ではあらゆる物事が同時に生成している。どれひとつとっても、主観的にならざるを得ない。すべてのチャンネルを同時に見ることはできない。コーヒーを飲みながら、ワインを飲むようなものだ。僕たちはチャンネルを区別しながらも、それが同時に起こっていることを暗に知っている。選択された番組の裏に、いくつものチャンネルがあることを知っている。今は、それを選んでいるだけなのだ。そうしないと、眩暈がするから。
だけど、眩暈をせずに、すべてのチャンネルを見る方法がある。区別を保持したまま、各々の醍醐味を見る方法がある。それは、複数のイメージをそれぞれ理論化することだ。そしてその理論の中を動く情熱を再度、同じ情熱で感じ取ること。人はいくらでも同じであっていいけれど、そこにある理論だけはしっかり区別していなければいけない。
種を吐き出して、スイカをおいしくいただきたい。ただ由紀夫は、種を吐き出すことが、面倒だった。それまでの話だ。
でも、きのう食べたビーフ・ステーキは、文句なしに、最高だ。
まず、銃で頭を撃って気絶させます。昔は、斧やハンマーで思い切り殴ってやっていました。その間に、一気に動脈を切開して放血させます。ここ、熟練した技術で捌かなくてはなりません。こいつは紛れもない、高級和牛です。腕の見せ所です。おいしいお肉です。
暗がりから牛
いつだって僕らは何かにたて突いている。死を、恐れるように。いや、死が不愉快であるように。退屈な時間を思い知った後で、獲物を狙うようじゃあ駄目なんだ。生きるべきか死ぬべきか、とりあえずまあ心臓は動いているとして、ここに迷っている男を想像してみよう。それでそいつをどこか高いビルの屋上の隅っこに、一人で立たせておこう。そいつに比べたら、何て僕らは多くのことができるだろう。多くのことをしているだろう。今日の日が終わって、ベッドにもぐりこむときにも、そいつはずっと、同じところに突っ立てる。そいつの顔を思い浮かべてみよう。そして尋ねてみよう。なぜ、生きるか死ぬかを迷っているのかを。彼は理路整然と答えるだろう。それでぐっすり眠れるさ。
世界に平和をもたらすこと意外、大抵のことは、何でも出来る。みんなで力をあわせてね。
アスファルトに落ちた新聞が、雨と泥で、ぐちゃぐちゃになっている。
「財務省が試算した、2013年度までの財政状況の予測が明らかになった。10年度予算に盛り込んだ事業や施策をそのまま継続した場合、11年度の新規国債発行額は51.3兆円に達し、13年度には一般会計の総額が100兆円を超えるという。
10~13年度の名目経済成長率が、0.4%から2.2%に伸びていく想定で試算した。」
2010年1月28日付 朝日新聞
牛の角を蜂が刺す
大抵の政治家が「国民」と呼ぶとき、それは有権者のことであり、つまり自分自身のことである。彼らは小さな箱の中で金と権力と嘲笑に引っ切り無しで、「国民」の名前を知らない。その前にまず、自分の名を消されることを恐れるのだ。
資本という父権。打倒。
木や砂や石、風や土埃は教えてくれない。私たちは一体何を区別し、そしてそのように協力して疼き合ってあるのかを。迷いの果てに何を捧げ、魂の集積、民族には、一体、怨恨と開放の、何が込められてあるのかを。この国家が、本当は、私たちの実際、闇夜の月明かりに薄い皮膜のようにして、何のために誇張されてあるのかを。果てしない金平糖のスコールのような、甘ったるいどうでもいい溶けてなくなる情報の火花に水脹れして、とりとめもなく形骸化した薄っぺらなアイデンティティーの意味を超えて、人間的な生命とは、この情念が何であるのかを。頭の中だけにある自己意識は、自然そのままに存在しないに等しく空虚でありながら、そのことに悶える。そんな曖昧をやめて、等々、それが何であるのかを。しょうもないことだ。そして答える必要もなく、答える意味もない。その答えが、答えになり得ないから。本当に?むしろそれを拒む。
銀二は画廊を出て、雨の中、走って地下鉄に降りた。ハンカチで顔を拭いながらプラットホームまで歩いている途中、不思議なポスターを見かけた。セーラー服を着た美少女が、笑顔いっぱいに青空の中をジャンプしているのだけれど、そのポスター、なぜか微かに震えている。よく見ると彼女、泣いていた。彼女はジャンプしたポーズのまま張り付けられて動けないで、ぽろぽろと流れる涙の自由が、彼女に語りかける。
右目の涙。
まず、君自身がしっかりしていなくては駄目ポロ。世の人のために、どんなに知識を掻き集めてきたって、それはやっぱりそのままの知識であって、世の人ではないポロ。その証拠に、知識は感情の前に、無残で脆いポロ。単なる理解だけでは駄目ポロ。
左目の涙。
世のために人があるのではなくて人のために世があるのだから、それがずっとずっと変えられないことはないポロ。ただ具体的にどこの誰の為にかという問題がずっとずっと昔からあったポロ。君のためポロ?それともより良き世のためポロ?正直なところ、よくわかんないし何でもいいから、どっちでもない真面目なポロポロ忍耐って奴が、いいように必要なポロ?空に飛ぶのでなく、この土を蹴るポーロ。
ポロポロ、ポロポロポロポロ、ポロポロポロ!
決定的に、選ばなくてはいけないことがあるポロ。それは何かの為に闇雲に頑張ることじゃないポロ。君の態度だポロ。闇を突き刺す指差しだポーロロー!
銀二は、思わず少女の手を引いて駆け出した。思っていた通り、あの同じ真っ青な草原だ。やるせない風に彼女の涙が乾ききったころ、もとの青い空しか写っていないポスターには、さっそく悪戯っ子の落書きで、
「SEX!頑張れ!受験生!」
こんなことになってしまっていた。
さっきより、雨が、ひどくなっている。冷たく光った水槽の熱帯魚が、水草に隠れて遊ぶ。エレファントノーズフィッシュは、尾柄部にある器官で発電することができて、小さな電流を流してレーダーのように使用しているらしい。それと、すごく臆病だ。名前はエレファントノーズだけれど、象の鼻のように見えるところは実は鼻ではなく、下あごが出っ張っている。淳は窓越しにボンヤリと街の景色を眺めた。静かな部屋にいるから当たり前だけど、いつもいる都会の喧騒が、本当はとても静かなもののように感じる。薄暗い空と、光を透き通す激しい雨が、無機質なビルやネオンやコンクリートを、今だけ、虚しく美しく、変わらないものの様に見せる。そしてそれは、なぜだかとてもなつかしい感じだ。もしもこの雨がこのまま街中をその底に沈めてしまうのならば、このなつかしさは本物になると思った。
海は本物のなつかしさで、だからいつまでもそこに在るのだと、淳は買ってきた分厚い本のページをめくった。
{理性は、全実在であるという確信が、高まって真理となり、自己自身を自分の世界として、また世界を自己自身として、意識するようになったとき、精神である。}Georg Wilhelm Friedrich Hegel
…………………………ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZエピソード(この間に泥棒がはいった事を、淳は知らない。)
zzzzzzzzzzzzz………午後の三時。ふと目が覚めてから、手もとにあったリモコンで、何となくテレビを点けてみた。人気アイドル・グループのPVが流れている。前にカラオケで女の子が歌っていた曲だ。ビリーヴ。淳はBelieveの意味を思い出せなかった。
いったい何をしているんだろう
いったい何を見ているんだろう
いったい何に生きているんだろう
“僕はもう・・・”嗚呼もう 走馬灯のよう
小さいプライド守るため 誰かを不意に傷つける
昨日も今日も今日もそうだろうが
今日は今日でどうかしよう
チャンネルを変えると、それはニュース番組だった。容疑者Kを乗せて走るワゴンを、空撮した映像。車を降りて、Kが走り去った後の現場を、アスファルトをメジャーで計測。記者がマイクで報告。車から降りたK氏は、~メートルを走って移動しました。走っているところも空からの映像で、疑いなく記録。Kは麻薬をやっていたみたいだ。
淳はテレビを消してからしばらくボ~っとしていて、ふとテーブルの暗がりのほうにゆっくりと目をやって、ゾッとした。買ってきておいたフライドチキンの箱が、メチャクチャにボロボロに引き裂かれている。中身もグチャグチャに食い荒らされている。
誰だ!
水槽の熱帯魚が、水草に隠れて遊ぶ。彼の電気は、水槽の中でだけ。エレファントノーズフィッシュ。どうせお前は犯人を、知らないだろう。
私たちは、ある理念と想像を余儀なくされてあり、そしてそれが世界平和であろうと唯一の世界宗教であろうと、いのちであろうと、未来であろうと、世界は各国に隔たれて、200カ国近く。
壁の掟。壁の中にも、壁、壁、壁。Self Identity.
ここで壁の話をひとつ。オホン。紙芝居です。はじまりはじまり~。ただし、あの妖怪の話ではありませんので、アシカラズ。
「健史君って、自分のことにしか興味がないのね。」
学生のころ、時々そんなふうに言われるたびに、そんなことはないと思っていた。ただ興味のあることって、世の中にそんなにバラバラたくさんあるものではないと思っているのだった。興味のあるものが、とてもとても、少ないのだった。だから別に自分に興味があるわけでもなかった。ただ何となく硬派でありたいと思っているだけであった。
そういえば子供の頃に見て真似して遊んでいた仮面ライダーだって、1号と2号ぐらいしかいなかった。自分も変身できると思って、何回も胸の前で腕をクロスさせていた。くるくる回るベルトも欲しかった。
世界中のいろいろなものに興味があるって言うのは、どこかピンボケしていて、焦点が合っていないようで、博識ではなくて雑学のようで、曖昧な感じがして、そんな付き合いは上辺だけのものだと思っていた。つまり、そうじゃないものにあこがれていたのだ。
しかし、それでもどこかに興味を持って接してしまう人には共通して、みんなそんな硬派な印象を、健史はどこかしらに感じていた。ハングリーだった。それは今になってみれば、確かに青臭いものだ。そしてやがてその青臭さでさえも匹敵しなくなってしまうような空腹の精神は、いずれもう、闇雲に求めることをしなくなるものだ。
健史は問題ではない問題をつくり続けている様な気がしていたけれど、いつしかそのことに興味があるのだと気づいた。どうしようもないことだ。
「君は心を閉ざしている。」
そんなふうに言われるたびに、そんなことはないと思っていた。だって、閉ざされている心の中身なんて、本当に、空虚そのものなのだから。大体、こころというものは、開けたり閉めたりできるものなのだろうか。謎だった。そういう壁のようなもの自体が、謎だった。仲良くあるようなことの意味が、確固として存在していて、前提として在るようなものの言い方が、疑問だった。そんなの、仮面ライダーじゃないか。あんな変な虫みたいな顔して、悪と戦っているのだろうか。そんなもん、在りはしないし、もう、面白くもなんともない。
面白くないから、もう、おしまい。
鼻の高い少年が走ってくる。
「違うよ、おじちゃん。そんなことじゃないよ。壁の話、僕、もっとすごいの知ってるよ。インターネットで見つけたんだ。インターネットはまだないページが、どこまでも真っ暗闇に広がってるんだよ。ほらほら。紙芝居なんて、もうおしまい。」
『1989年11月9日に、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳部に提案された。このときクレンツをはじめとする政府首脳部は国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、また2日前の11月7日にヴィリー・シュトフ首相が解任されて11月8日にハンス・モドロウを首相に任命することが決まったばかりという混乱の中であった。このため大した審議もされず、政令の内容を確認したかも怪しい状態で「11月10日から、ベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が政府首脳部の審議を通過した。
この政令の内容を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであったギュンター・シャボウスキー(社会主義統一党政治局員)はこの会議には出席しておらず内容をよく把握しないまま、現地時間19時頃から記者会見を始めてしまい「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。
この記者会見場で記者が「(この政令は)いつから発効されるのか」と質問したところ、上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにも拘らずそれを伝えられていなかった(文書に記載されていなかったとも、次の紙に書いてあったのを気が付かなかったとも言われている)シャボウスキーが「私の認識では直ちにです」と発表した[1]。この発言を受け、後に国境ゲート付近でゲートを越えようとする市民と指令を受け取っていない警備隊との間で当該指令の実施をめぐるトラブルが起きる。マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調されたことも混乱に拍車を掛ける。
東西ベルリンの検問所を越えるトラバントと歓迎する西ベルリン市民(1989年11月14日)この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(ベルリンでは電波が当然にスピルオーバーとなる為、東西双方がお互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。
一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず報道も見ていなかったため対応できず市内数カ所のゲート付近ではいざこざが起きはじめた。21時頃には東ベルリン側でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがった。門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となった。
ふくれあがった群衆にさして多くはない国境警備隊は太刀打ちできず、また現場にいない上官は責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は対応に困り果てた。また同年の六四天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はとうてい不可能で事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の0時前、ついに警備隊は群衆に屈しゲート開放が行われ東西ベルリンの国境は開放されることになった。
本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であったが、混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、抱き合ったり一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散らすなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。この大騒ぎはそれから三日三晩続く。
数時間後の11月10日未明になるとどこからともなくハンマーや建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始めた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。
こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は28年後の1989年11月10日未明、突如として破壊される事となった。冷戦、越えられない物、決して崩れない物、地域と国民を分断する物を象徴するベルリンの壁はあっという間に崩れ去った。これは西ドイツ国民も誰も予想しておらず、事件当時、西ドイツのヘルムート・コール首相は外遊先のポーランドにいたがこのニュースを聞くと慌ててベルリンへ向かう。
東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製の小型車「トラバント」に乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツへ入っていった。西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する有刺鉄線などが張られていたが、これらも壁と同じく撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから暫く東西ドイツ融合の象徴として扱われた。』「ベルリンの壁崩壊」(2009年12月22日 (火) 16:19 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
「ほらね?」
水槽の熱帯魚が、水草に隠れて遊ぶ。でも彼の電気は、水槽の中でだけ。エレファントノーズフィッシュ。お前は犯人を、知らないだろう。
ハンマーを、振り下ろす。砕けろ、コンクリート!
本当に必要のないもののために、働いてゆくのか。必要でないものを、必要と思わされて。このさき、ずっと。
決して平和では在り得ず、神はひとりでは在り得ないというXXXの中にあって、ひとまずそれに即して考えることが、理想にとっては、大切な教訓のひとつになる。と言うのも、理想は現実を見ないというよりも、本当に、実際に見えないからだ。理想の中にいれば、現実は、理解できないことばかりだから。
由紀雄は、乾いた土を一生懸命掘り起こしながら、こんなことを考えた。
世界中の人や金や物が、互いに限りなく接近している。それは合一の可能性であると同時に、そのまま差異や利害の強調になる。手を握り合える距離にあるということは、それがそのまま争いの源泉でもありえる。事実、地球は、全的な平和を構想しながらも、局地的な繁栄のために、いつまでも闘争されてある。
言葉に回収されてしまう人間なんて、在り得ない。しゃべるのは、私たちなのだから。無限の文章は、あなたの0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000001秒にも、満たない。
物語は、ここにはなく、あなたの中に、ここと一緒にある。
太陽が、真っ白に輝いている。
楽しみの腹立たしさは、それが楽しみでしかないこと。
トム トムトムニャーゴ♪
苦しみの腹立たしさは、それが苦しみでしかないこと。
ジェリー ジェリー ジェリー チュー♪
総じて矛盾、人生であれば、死んでもいい。物語は、ここにはなく、あなたの中に、ここと一緒にあるからさ♪砕けろ、砕けろ、砕けろ。
苦しいとき、自分の血をすべて、この海に溶かし込んでしまいたかった。その恐ろしさのために返って、目を閉じて、潮騒を血潮に注入してやる。深呼吸、ひとつでいい。涙なんて嘘だと想っていた。
人生の確信は、今ここに、このようにして、在り得ています。ハンマーを、振り下ろしたように、砕けろ、コンクリート。築かないように、築くよう。気づかないよう、気づくよう。
全部、僕たちは、未来に向けられた『commando』
自らの攻撃性をもって対象を創り出し、その分身を克服してゆく過程である差異を生きようとする。即ちこれが自己同一。精神のロマンス。
『見たいと思う世界の変化に、あなた自身が、なりなさい。』Mohandas Karamchand Gandhi
何のための、誰の利益のための、攻撃であり、協力であるのかを、成す事の前に、あなたがクールに自覚していなくてはならないだろう。気取らない。ただ目の前になる物事を消費してゆく生命の慈愛を超えて、接近された私たちの事実について、ささやかであっても想い学べることは、元々、私たちの結果成し得る事であるのだから、諦めてはいけない。生活にお金が必要なことはもちろんだけど、まずそれ以前に、お金とは世界中の生活を媒介するための手段であり、それが目的ではないことはハッキリさせておきたい。お金が必要だということはつまり、結束の力の結果だ。
全部、僕たちは、未来に向けられた『commando』
非暴力でさえ、暴力に向けられた遊撃。信仰でも、啓蒙でもない、普遍的な、あなたの名前を、取り戻すたびに。
今、政治に無関心であることは、ある意味で正しい。どこの政党の、誰が泣こうが笑おうが、誰がやめようが勤めようが、何を黙そうが喚こうが、当選しようが落選しようが、自然に税金に与る彼らのリップ・サービス、慇懃無礼と根本的な情熱の欠如と嘲笑の対立は、自ら消えてなくなるほか変わりようがないと思われるほど、茶番を通り越して醜悪である。僕たちはまず、あんな輩の空騒ぎにいちいち耳を貸して怖気を奮うよりも、まず個人の政治から関心を回復させるべきだ。テレビに出てくる政治家の身振り手振りの醜さが、僕たちの本当の政治への意志を奪う。まさか彼らとて、そこまで計算してやっているわけではあるまい。
搾取した税金がまとめて懐に入ってくるのであれば、ただそのことだけで、誰でも偉くなったような気になれるものだ。その内実とは無関係に、威勢良く振舞っていれば、人の一生くらい、難なくやり過ごせるのだから。せいぜい小さな箱の中で、虚栄をいがみ合っているがいい。多くの人々が、徐々に気づき始めるために。
いつか誰も投票に行かず、納税しない日が来たら、そのときの手段を考えていなくてはいけない。それが政治の本領。
マリア。あなたまた、そんなおしゃべり・・・。
坂口安吾は『私は海を抱きしめていたい』の中で、カントと同じ「想い」に至ってはいなかったでしょうか。手段であると同時に、目的としての自然について。たとえば、目的と手段の矛盾として見る、比喩であるひとりの女性の描写・・・
「私は然し、ちかごろ妙に安心するようになってきた。うっかりすると、私は悪魔にも神様にも蹴とばされず、裸にされず、毛をむしられず、無事安穏にすむのじゃないかと、変に思いつく時があるようになった。
そういう安心を私に与えるのは、一人の女であった。この女はうぬぼれの強い女で、頭が悪くて、貞操の観念がないのである。私はこの女の外のどこも好きではない。ただ肉体が好きなだけだ。」・・・「この女は娼婦の生活のために、不感症であった。肉体の感動というものが、ないのである。」・・・「女の虚しい肉体は、不満であっても、不思議に、むしろ、清潔を覚えた。私は私のみだらな魂がそれによって静かに許されているような幼いなつかしさを覚えることができた。」・・・「女の肉体が透明となり、私が孤独の肉慾にむしろ満たされて行くことを、私はそれが自然であると信じるようになっていた。」
・・・
「女の無感動な、ただ柔軟な肉体よりも、もっと無慈悲な、もっと無感動な、もっと柔軟な肉体を見た。海という肉体だった。ひろびろと、なんと壮大なたわむれだろうと私は思った。」
そして「私は肉慾の小ささが悲しかった。」と結ばれているのだけれど、いかがなものでしょうか。対象である目的が無感動で無慈悲なものであり、抱きしめる内実が、みだらな魂がそれによって静かに許されているような幼いなつかしさであるという感性のうちに、その圧倒的な自然の中に埋没しつつも、あえてそこで起立しようとするちっぽけな個人の闘争が、一体、何を願ってのものであったのかが、不思議でしょう。それで、願いというのは彼にとって、どうしようもなく文章を書くことだったのですから、書くことそのものが、抱きしめていたかった、愛すべき海の本質だったのでしょう。文章を吐きだすことが、そのまま生きることの祈りだったのですから、たとえそう思っていなくても、そうだったのだから、そのように彼は抵抗したのです。言葉が、海に抗う最初で最後の武器だったのです。
このことは本当に、事前に女の無知や無邪気さを囲って、実はそれに依存しながらも対立する理性と称する虚栄、あの無知に依存した張りぼてでできた幸福な知のようなものとは無縁であり、その海とは、音楽であって音もなく、和解であって言葉でないような、ある極限の知的事件なのです。だから、
「私は肉慾の小ささが悲しかった。」
悲しいのはいやだ。
由紀雄は、乾いた土を一生懸命掘り起こしながら、そんなふうに考えた。
「大きくも小さくもないや。欲望は、大きくも小さくもないぞ!」
三人は、あたらしく近所にできたマクドナルドでハンバーガーを食べながら、楽しくおしゃべりした後、夕方になって別れた。A之介が車で送るよといってくれたけど、由紀夫はこのまま歩いて銭湯に行くからといって、カラスの鳴く変な畦道をブラブラひとりで帰っていった。A之介とB子は氷が溶けて味が薄くなったコーラを、時々ちょっとずつ交互に飲み合いながら、日の暮れてゆくいつもの風景の中を、ラジオを点けながら、車を走らせた。
道があるというのは、愛に似ている。そこを行くことができるから。誰も通らない道を作ることは、天国に似ている。そこに行く必要がないから。
A之介「安吾って変わってるな。普通、逆だろ。不感症でヤリマンが落ち着くって、どういうことだよ!俺にはわからん。なかなか許してくれない女の子が、その時になってみたら、めちゃめちゃ感じるタイプの女の子だったってのが、一般的に、盛り上がる筋だろ。」
B子「・・・。」
A之介「いやいや、あくまでも一般的にですよ。なに、俺の究極の目的は、言ってしまえば、お前を幸福にすることさ。そのためにも、当たり前だけど、一生懸命働いてるんだ。それが俺の幸せでもあるんだ。とにかく今の企業の成功のために、頑張る。やんなくちゃいけないことが、山積みなんだ。やるべきことがあるって、大切なことさ。ふたりの生活のために。誰もそうやって生きている。やがて産まれてくる子供のためにも。なんと言ったって、本当の幸せは、家庭の中にしかありえないのさ。」
B子「・・・ところで由紀雄くんの頭の中って、わからないわ。つまり、何が言いたかったのかしら。」
一瞬反対車線に、轢かれた動物の死体のようなものが目に入ったけれど、B子は気づいていないようだったので、A之介は視線を前に戻して、ちょっと間をおいてから、また話を続けた。
A之介「夢、見てるのさ。要するに、世界の平和を世界活動の根本理念として、みんなが意識して協力し合っていけたらいいんだけど、実際の世の中の本性はもっとドロドロガチガチ、バチバチしていて大変なんだよねっていうことだよ。ただそれだけだよ。だってそうだろ?人にはその人の、事情ってもんがある。固有の文化や歴史がある。それをいちいちネチネチわざと良く分らないように混ぜ合わせて、全部いっしょにして念じてんだ。分りにくそうに演出することで、そこに何かがあると錯覚させようとする、出来ないことを、まるで明日にでも出来るかのように背伸びしてみせる理想主義者、面白いけど現実的にはショウモナイ奴さ。きっと、自分でも良く分ってないぜ。まあ、そこがあいつの愛すべきところで、そんなに嫌味も言いたくないんだけどな。あんまり世間の苦労を知らなそうだし、ちょっと偉そうなところがあるから、時々。ついついな。ひょっとすると、俺よりずっとずっと、助べえだぜ。」
みんな帰宅の時間で、ショートカットのつもりの道が、じわじわ混み始めていた。ちょっとした沈黙の後に、ラジオから、知らないクラシックの音楽が流れてきて、しばらくして、B子はスイッチを消した。
B子「・・・いつになく饒舌ね。ふーん。つかみ所がないって、そういうことなのね。なんだかがっかりだわ。・・・でも、本当にそうなのかしら?でも、もし、そうだとしたら、ますますもって、良く分らないことがあるの。・・・今はそれをいう事はできないけれど、わたし、微笑んであげることは、できる。」
A之介「好きにするのがいいさ。・・・問題はね、・・・何もないんだよ。」
A之介は、残っていたコーラを飲み干してから、また何となくラジオを点けた。
B子「さっき見た、あの死んだ猫にだってよ。A之介。」
近くの小学校の校庭を囲った緑色のフェンスに、グネグネからまり伸びる蔦の葉が、生ぬるい夜風と不気味に揺れている。黒いコートの不審者が、落ちていた空き缶を草むらに蹴飛ばして、何もないところをうろついた後で、路地の闇に消える。傾いて音のない信号機だけが、誰もいなくなってゆくそこで、無関心に点滅している。
さらに真夜中になって、冷たく静かに月の灯りに照らされる、轢かれた猫の死体。
猫?
しっかりと腹の皮ぜんぶ裂け千切れ、出鱈目に爆ぜたように飛び出した赤と緑とピンクのテラテラする内蔵に、一匹の蝿もタカっていない。蛆も湧いていない。剥製のように静まり返ったあたりに、そこいらじゅうに死の存在感を発散している。これは嘘なのだけれど、やがてその猫は起き上がり、ズタズタの内臓をアスファルトにズルズルと擦って引きずりながら、ぶるぶると震えながら、驚くべきことに、ゆっくりとどこかへ歩き出す。何て意志の強さだ。これはきっと、猫ではない。化け猫だ。
猫「・・・ワガハイハ、ネコデアル。ゲンミツニイッテ、コレハ、ショウシンショウメイノ、コトデアル。・・・ワガハイハ、オトウサンネコデアル。ワガハイハ、カエリヲマツワガコノモトマデ、サカナヲクワエテ、イキヨウヨウ、カエルツモリデアッタ。・・・ナノニコンナザマダ・・・。チクショウ!・・・コンナトコロデクタバッテハイナイ。・・・ワガハイハ、ネコデアル。・・・ワガハイハモハヤ、イケルタマシイニナリハテル・・・アーメン・・・。ニャホッ!ニャホッ!」
だけど実はその事件の三日前に、残された子猫たちは、学校から帰る途中の近所の女の子に拾われて、(さらわれて?)小さな御椀に並々のミルクをぴちゃぴちゃ舐めて、口のまわりを真っ白にして、みんなでニャーニャー鳴いていた。女の子はかわいくってうれしくって猫じゃらしをブンブン振り回して、一緒になってニャーニャー鳴いていた。
猫「エ!ソウデアッタデスカ・・・。フム・・・ワガコタチヨ。・・・さようなら。我が子たち。いや、もう我が子ではなく、今や純粋な、いわゆる子猫として、立派に逞しく成長していってくれ。ミケ、クロ、マイケル。お父さんはもう、イワシもサンマも、蛇もねずみも、お前たちに運ぶことはないのだ。なぜならお父さんは、こんなことになって、神様のもとへ赴かなくてはならなくなったからだ。お前たちのために為すことはもう、お月さんの照らした、月の影のようなものになってしまったのだから・・・。いまや我輩はもう猫ではなくなってしまった。お父さんでもないだろう。なぜだか私は私の命ずるままに、行かねばならないことになったのだ。死んだからじゃない。死んだらこんなこと、話せないのだ。お父さんはもう、お前たちのお父さんではないのだ。お前たちの声にまぎれて、はやくももっと、大勢の、たくさんの鳴き声が、ニャーニャー、ニャーニャー、知りもしなかった世界中から、ニャーニャー、ニャーニャー、聴こえはじめているのだ。実際。」
そんな天に昇る元父親の声が聴こえている間も子猫たちは、小さな御椀に並々のミルクをたっぷりいっぱいぴちゃぴちゃ舐めて、口のまわりを真っ白にして、お構いなしにみんなでニャーニャー鳴いていた。猫じゃらしをブンブン振り回して、家の中を駆け回っていた。女の子はそれぞれの名前を考えていた。
化け猫の向かったあの世という未来には、これから生まれてくるような、小さい小さい泡粒みたいな子供の猫たちが、いっぱいいっぱい、死んで名無しになったお父さんを待っていた。途中で会ったブチの猫は、体は丈夫そうなのでどうしたのか尋ねたところ、なんか薄暗くて狭いところにやられて、しばらくして苦しくなった。気がついたらこうやって名前を忘れて歩いていたそうな。
しばらくして、自分のこの裂けた腹は何とかならないものだろうかと、ふと、おなかに目をやると、なんだかだいぶお腹が御尻のほうまで、ぐっと伸びたように見えた。裂け千切れて醜い腹が、ゆっくりどんどん伸びていくようで、変に思ってじっとみていると、今度はもうひとつの自分の頭と目が合った。目が合ったのに、向こうの自分はてんで無視して、やっぱりそのままズルズルした内蔵を引きずったままで、後ろのほうを分身が歩いている。そしていつしか、見えなくなった。自分は移動する、形のないものになったと思った。そうしたら急にミケ、クロ、マイケルが恋しくて恋しくて堪らなくなった。
泣きたくても涙がなかった。涙が欲しかった。むかし、人間が泣いているところを見たことがあった。人間は泣く。ただそう思っていた。いま、その意味が、無理やりにもわかったような気がした。
未来を思えば目的は、たった一つの人の胸のうちにしかありえない。目的を共有しようとすれば、目的は形式になる。形式を目的とすれば、力は手段になる。手段は目的ではないから、空虚になる。空虚は動物的な欲望を否定する。否定はその対象以外が漠然と目指されてある。目指されてあるものは意志である。意志は個人である。個人は自分のために生きる。生きることは不可避的な目的である。そしてこれは、自然のはなし。大人も子供も、親も子供も、ないような、はなし。
今日も不審者は、現れる。
「栃木県足利市で1990年に当時4歳の女児が殺害された{足利事件}の再審第4回公判が21日、宇都宮地裁{佐藤正信裁判長}で始まった。当時の取調べを録音したテープが再生され、菅家利和さん{63}を虚偽の自白に追い込んだ密室でのやりとりの一端が明るみに出た。取調べの録音が公開の法廷で再生されるのは極めて異例だ。」
2010年1月21日付 朝日新聞
反復よりも、これから起こる、不愉快を信じて。
失業率Xパーセント状況下での大手企業面接。がんばれ受験生。まったく君たちの未来のために。主婦の売春によって天上から、天使の子猫がニャーニャーニャーニャー、パタパタと、堕ちてくる。
だから、チャンチャラおかしい。是非とも具体的な説明が、必要だ。
・・・問題はね、・・・何もないんだよ。
目的に寄り添われて、ひとり眠る夜の、静けさ。
〔Twitter〕、はじめます。
何かを信じているからこそ、今一度それをしっかり吟味しなくちゃ駄目だ。うん、何の比喩もない。
about 1 hour前 from web
無意識のうちに、信じてるもん。
about 1 hour前 from web
なんか、信じてるもん。
about 1 hour前 from web
何でも突き放してみるがいいや。大事なもんだけ、残ってくるや。
about 1 hour前 from web
言葉を否定することは無理。だって、言葉は理性になるもん。理性がなきゃ、めちゃくちゃだもん。
about 1 hour前 from web
小説とか詩を書いた後で悲観的になるときは、いつも「しょせん、これは書かれた言葉だ」ってこと。でも書いてるときはいつも生きた言葉のことを、かんがえてるつもり。
about 1 hour前 from web
そういう反復って、いつまでも続くのかな。僕、続いてるけど。なんか空しくなるときが、いつか、来たりするのかな。
about 2 hours前 from web
それってどういうことだろう。考えの関係性のことなのかな。
about 2 hours前 from web
うーん、そんなことって出来るのかな。1行では無理だとしても、変転する行を連ねていけば、展開としていいとこいくんじゃないかな。
about 2 hours前 from web
知っていることを表現しようとするときに、どうしても表現である以上、形式化されてしまうことは、さらにもう一歩、その殻を破りながら現れなきゃ、面白くないんじゃないかな。
about 2 hours前 from web
また同じ問題。空から見れば何でも点に見える。でもその何でもが、みんな一緒に空にタンポポの綿毛みたいに舞い上がったら、今度はパラシュートで降りなくちゃ見えない。
about 2 hours前 from web
事後的にあったことを説明することと、これからのことを構想する可能性を言うことと、どちらが難しいかと言えば、うーん、後者だと思う。それで終われないから。
about 2 hours前 from web
空が曇っていると、何となく元気が出ない気がする。でも、元気があるない、関係ないや。今日のお天気なんて、関係ないや。窓の外なんて、
about 3 hours前 from web
ドキドキする心臓の希望とは、ビジョンではなくて、パワー。もしもビジョン(形式)がパワー(力)を拘束するのであれば、それがたとえ現実であれ理想であれ、必要と思われる知識であれ技術であれ、何であれ、私たちがみんなで持つべきようなものであれ、ぶっ飛ばして破壊することが先決になる。翻ってそれが一番最初の希望だ。もともと世界(自然)は、未来永劫、これっぽっちも変わりはしない。動かないものに尽くすよりも、自分(理性)は自由に動きまわっていたほうが健康的で、とてもいい。真実(義務)は、自分(自由)の内にある本当になる。少なくとも、いくら輝いていても、太陽(絶対)にはない。
自分の存在が危ういとき、『俺は、俺だ。』と意識することは、人生の、始まりなのか終わりなのか。そのとき、回復を求めるのか、それともさらに突き進んでその崩壊を試みるのか。私は守るよりも、むしろ解体を支持する。何も考えられないようなとき、すでに考えられた言説を突き崩すことは、直接そのことの突き放した力が徹底的になることによって、残酷に在り得る。それは彼岸に渡ることだろうか。そうだとしたら、さっきまでいた現実もまた、ここから見た彼岸ではないだろうか。大陸と孤島の間で、波に飲まれてしまう精神は、難破であり、軟派なのだ。とにかく必死に足掻いて、たどり着くことだ。どちらの岸にも、言い分は、ある。そして潮騒は、今、聴く必要はない。
太郎は今日も、牛の乳搾りに出かける。それだけだ。
太陽が、真っ白に輝いている。本当に、それだけで、とても自由な感じだ。
太郎はむかしから物静かで無口な男だったけれど、たとえば笑うときは、子供みたいによく笑った。小さい頃、祖父の葬式のとき、木魚のポンポンという音がむしょうに可笑しくて、お坊さんのツルツルの頭も可笑しくて、実際その場でひとりで笑い転げて、親戚の叔母さんにこっぴどく怒られたのを覚えている。他にもいろいろな思い出があるけれど、太郎はすっかりみんな忘れている。
太陽が、真っ白に輝いている。それで、太郎は今日も、牛の乳搾りに出かける。それだけだ。だけど、宇宙がどこまでも広がっていくようないつもの風が吹いていて、生きている以上、死ぬまですることがあって、それはみんな同じで、芝を踏む長靴の足音も、風で木々がこすれる音も、モーモー言う声もちゃんと聴こえていて、目に見えるものも、その表面を突き破りたくてしょうがないような満ち足りなさと退屈さでうずうずとして、現実的な感じがした。本当に、それだけで、とても自由な感じだ。なぜなら太郎は、解決できない問題はないと思っているからだった。
文学だけが人を騙していいだなんて、可笑しな話ではないか。ちがう、ちがう、書きたいことを書いているだけだろう。騙される奴が悪いのではなく、一緒に何かを、しゃべりたいのだろう。あとのものは、もうみんな、バレバレだ。バレタもんとして、見るしかない。
今、平々凡々の日常の領域に苦悶しているのなら、未知の分野に、それが自分にとって未知であるというまさにただその事そのものが動因として、約束の地へ赴くモーセになるだろう。退屈を知った男が、臆病に女のXに仕えるように、どこか悲しき恋愛だった。
未知のものを手に入れるために、少しずつ少しずつ、記憶の器に砂を積もらせてゆく。不明瞭なものを、明確なものにした気になって、真面目に蓄積してゆく刹那の精神。その単純な勤労的使命感に対する疑問は、やがてある高さに至って崩れだすこの砂の山のカタストロフと、突然に吹く風の自然と溜息によって、もっともっと知らない広がりになる。
記憶はすでに、あなたを選択しているはずであり、目的しか、本当には覚え続けていることが、出来ないのではないだろうか。
細かいことは、気にしないのだから、辞書は砂場だ。