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  作者: A
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ミイちゃんは、知っていた。そして彼もまた、良く知っているのだった。

彼らは互いに、互いの名前を、恐る恐る、呼び合ってみた。疑い合い、探し合い。

名前などなく、ただその思考が存在したという痕跡。

忘れてはならない、事件。


あの日、柵の向こう側、涎をたらした狂犬の群れの影に、震え、慄きながら。

様々な色彩の違い。


大きく開け放たれた部屋の窓に、重たいベージュのカーテンが、微かにゆれている。遠くの青空を行く飛行機の、分厚い空気に擦れる轟音だけが、ひっきりなしで、忙しない。

庭の木に、毎日、小鳥が戯れる。


小鳥に言葉はいらないけれど、鳴き声だけが、その小さな体に必要だ。


何故、必要なのか。



ソファの横にある、小さな丸い腰掛の上に、ストレプトカーパスが花を咲かせている。見ると鉢の土が乾いている。裕子はそれまで読んでいた日用品のカタログを閉じながら、ずいぶん水をやっていなかったと思う。

でも、この花は、そんなにしょっちゅう水をやっては、根腐れするからいけない花なのだ。

飾ってあるというよりも、そばにあるだけで、けっこう気持ちが違う。でも、葉につく気持ち悪い虫は嫌いだ。

裕子はしばらくストレプトカーパスを見つめてから、またページの続きを開いた。



それに比べて血に飢えた貧血みたいな、やり場のない、地の底に行き詰まったような空虚で、過剰な混沌。永久に続くかと思われる、無邪気な怨恨に満ちる弾丸の疾駆に、いよいよ世界中の誰もがウンザリだった。そうしていつまでもそうでありながらも、なおそれが本当は誰のことであるのか、誰一人、わかるものはいなかった。と言うよりも、考えてみる意味も、価値も、真実も、誰もいなかった。


何でもいいから、ひとつのことに打ち込んでいれば、安心だ。


誰でも生きて、死んでゆく。死んで生きてゆくことさえ、大いに可能である。


それはまことに勇敢な、毅然とした、優雅なため息のはじまり。この荒涼とした光の地平に、あらゆるものを巻き込んだつもりで、思い切ってかけ出していこうと、彼は思った。銃弾が胸に突き刺さるよりも早く、そんな時間もないのではないか。

この星は、明らかに、高らかに、透き通った悲鳴を上げていた。

夕立と、陽だまりの中、ただいまも、行ってきますもない、閑静な住宅街を、はるかに離れて。

修行の身であると言う。悟ることはたやすく、その後始末がやっかいだ。


いてもたってもいられないで、家中の窓を全部開けて、空気を入れ替えて、黄昏の光が差し込んで、シャワーを浴びて、パンツ一枚のままで、冷蔵庫を開けて、おなかが減ったら、今日の夕食は、カルボ・ナーラにしようと考えた。鯖の味噌煮でもいい。


今一度、その唯一の名前にまつわる信仰を、逃れることのできない意志を、空を切るブーメランの軌跡のように、そのままに生け捕り、記すために。理論になっていなくてもいい。たとえこれっぽっちも、望まれていなくても、関係ない。関係は、偉い先生が結んでくれる。


豊穣な心の権威。投げたものを、奪回する。

顔面で、ナイス・キャッチ。小説なんて、本当は、大嫌い。

無知は無知を声高く呼び続けながら、自ら隠蔽される知性がさもしく、誰も呼べないでいじけている。


夢が売れるには、当たり障りがよくなきゃだめさ。


熱く焼けた砂のような目つきで、知り立ての奴隷の、ナンセンスな気配を感じながら、とどまることなく、いくつものため息を通過する。何だっていいんだ、何かをしていれば、たいていのことはやり過ごせる。さらに言って、無を為すほどに、落ち着きを要し、勇ましく豪快に、昼寝をする。

事の後に、それが何であったのかが、解かれることのない魂の号泣とともに、明快になる。


善も悪もない、無限の牢獄が、愉快なくらいにかしこにある。


もう何も特別ではなく、未来でもない、理想もない、近所で交わされる挨拶みたいな、空一面にあっけなく引き伸ばされた、意味が生まれ来る、怠惰な瞬間。

真新しい過去のようだった。そこからすべてが発信される、腰を据えた不動の父、目に見えない日常。ここに在るものを、ああでもない、こうでもないと、記す。希望だった。

もう無駄口はたたくまいと、彼のこころは、きびきびと晴れ渡った。


それでも、まだ、愛することができる。



ミイちゃんの右の手の甲には、今も、うっすら小さな傷が残っている。猫にかまれているところをずっと昔、彼は見たのだ。もしかすると、あれは実際、猫ではなくて、なにか、ほかの動物だったのかもしれない。だだっ広い公園で、ほんの一瞬のことで、離れていて、よく見えなかったし、ワンでも、ニャアでも、鳴く声を全然聞かなかった。無邪気な影が、近づいたミイちゃん目掛けて、うるさがるように、いきなり、襲いかかったのだ。


キャッ!


かまれたような、ひっかかれたような、一見変わった傷だった。でも彼は特に、その小さな事件を見ても、あんまりかわいそうな気がしなかった。たいしたことのない、傷のようだったから。平気そうだったから。子供の頃で、もう、忘れてしまった。


血がにじんでいた。


ひび割れて、白いペンキの剥げかけた木製のベンチにもたれながら、彼はかんだ動物のほうが、今思えば、気にかかっていたのだ。もうどこかへ行ってしまったけれど、そのとき、少しだけかむ、ということが、傷になったにせよ、人好きのする、日向ぼっこを邪魔されたペットのように、愛らしく思えたからだ。



詰まる気持ちが、もしも、他人を不愉快に思ったところで、当たり前だけど、他人は自分を快適にさせるためにあるのではないのだから。世間は。でも、そんなことではなくて、正直なのは、喧嘩をしたって、いいことだろう。

他人は、求めるのではなく、耐えるのでもなく、讃えるのでもなく、転がる石のように、どうしたって、あってしまうものだろう。一緒にやってくものだろう。

もしも、自分を不愉快に思ったところで、自分は他人を快適にさせるためにあるのではないのだから。どこに行ったって。

自分も、求めるのではなく、耐えるのでもなく、讃えるのでもなく、転がる石のように、どうしたって、あってしまうものだろう。


ふむふむ。彼は修行の身である。


今ある絶望のうちに、見出すことだ。超越論的に透き通りながら、実際的に生きて、愛するべきなんだろう。例えどんなに遠く離れていても、何より一番接近しているように、滑稽な姿に、気がつかない、ピエロのようであったとしても、それ以外の、何者であることができるだろう。愛しているとも気づけないように、きっと、愛するべきなんだろう。

人は、だれしも人間として、動物として、生物として、想像されるものとして、唯一の人でありながら、まったく果てしなく二重三重であるのだから、視線は反射する光の運動のようになる。それがいやなら、黙って眼を閉じればいい。それさえ不快な闇になる。

涙の余地もない。それは流れる前に、汲み上げられて、眼に見えない暗がりのほうへ、至るところに運ばれなければならない。砂漠の商人のように。だらりだらりと、愉楽の蜜と光と抗いながら、ただ、生きるしかないのだろう。


涼しげな顔で、勉強したまえよと、インチキ先生よろしく、髭を引っ張る。



数学のノートをとる。

1.

S が A 集合であるとする。

S は A 集合なので、A 集合の条件から S は S の要素にはなりえない。しかしS は A 集合なので S の条件、「S はすべての A 集合の集合である」より S は自身の要素となるはずである。よって矛盾。


教室の静けさが、苦手だ。音のない、美術館のように、ひっそりとクーラーが効きすぎていて、何か死んでいる気がする。。


2.

S が B 集合であるとする。

S は B 集合なので、B 集合の条件から S は S の要素となるはずである。しかし SはA 集合しか含んでいなので、A集合の条件からS の要素となることはない。よって矛盾。


昨日、くだもの屋さんで買ったマンゴスチンを思い浮かべる。智子は、今日家に帰ってから、それを食べる。

くだものの中でも、マンゴスチンが、大好きだ。とてもおいしいと思う。



巨大な噴水に溜まった水が、キラキラしながら、汚れている。

街の灯りを静かに、ふるえながら映しこんでいる。そこに飛び込んだ酔っ払いがいる。

玄関を出るホテルのロビーに、古くて高価そうなカーペットが敷いてある。そのとき空には、いくつもの星が、輝いていたはずだ。次々と新しい展開を、無数にこじ開けるように。


たった一つだけ、満ち足りた神話が、満開のように、時と場所を変えて、あらゆる分野で共有され、変奏され続ける夜。

力、そのものになりたい。寝つけないで、だんだん寂しくなる街灯のともる中、蚊にさされながら、歩いた。

それは本当の、いつもの深く、分裂するような、ごつごつした青い夜だった。


自分の欲望に、忠実な、あからさまな奇跡。


いやいや、しょうがない。彼は修行の身なのだから。


彼は、芸術家は、奇跡の線をひく人の別名であると思っていた。たとえば、海と水の間に線を引く人は、彼にとっての、天才であった。遠く海の底にある、深呼吸であった。

どこにいても、海は永遠にロマンチックだった。語りたいものと、語りたくないものにだけ、そのようにしぶしぶ語りかけた。そういった清らかな自立した心の貧しさが、彼には大切なもののひとつであった。

そんな気持ちで、今日は玄関を出る。


ドライブをして、海に来た。


潮の香りも潮騒も、何の思い出もないままに、無条件に懐かしい。でも、その頃の饒舌だけの彼の生活の中で、言葉にされる言葉は、いやらしいくらい平凡な、雑多で空疎な言葉でしかなかった。快感を求めて、彼はあらゆる可能性の海を泳ぐことを夢見た。まったく、どこにいても、無意識に彩られて、泳がざるを得なかったからだ。そうやって、行く行く、おなかが減ることに、感動したものだ。きらきら光る、汗をかいて、夏は、いい。


声なき声。


彼の裸足に、冷たくて透き通る水が触れて、はっとする。

何かをしていなくてはいけなかったのに、それとも海に、来たのだろうか。一体、ドライブをして。車のキーを、ポケットに持っている。


風景。光があふれる夏は、いい。でも、冬だって、いい。秋も、春も。季節だけを見るならば、つまり、季節が、記憶をまぜこぜにしたのだ。仮にそうやってひかれているぶっきらぼうな線が、不埒な物語だと、彼は信じていた。どこでも手に入る、どんな一級の小説も、音楽も、それぞれに、悲しいくらい、どこか同じだと思っていた。歴史だけが動かずに、彼らだけが愉快に、そのまわりをいつまでも堂々巡りしていた。そしてやがて、信じることをやめて、明確な線引きを、世間で実感した若者のつもりになっていた。ただ照れるように、生意気だった。

その国は、ただ暑く、ただ寒い。季節は思い出されるだけになって、あらゆる意味を失うことになった。まだまだ、大人にならないのだ。人生は自分で思うよりも、ずっとずっと、短い。


生まれて数ヶ月の赤ん坊は、あらゆる猿の、微妙な顔の違いがわかる。



トラベルグッズのページにさしかかり、裕子は最近、イタリアを旅行してきた沙希の写真を思い出す。フィレンツェ→チヴィタ&オルビエト→ローマ→ミラノ→ヴェネツィア、いいな、素敵だな、きれいだなと思う。

沙希は昔から、ちょっと、変わった女の子だった。あたらしい洋服を一緒に探しに出かけたときも、沙希のお洒落なセンスに、裕子は待ち合わせているときから、なんだか楽しい気分になった。

沙希に選んでもらった服を、今でも気に入っていて、よく着る。


真っ白な、ワンピース。



経る事のない時間を味わいたいと思う。憧れるよりも、時間を、空風に吹かれる様に観念して、裏腹にさらに欲張って、栄えた旬を、常に新しい恋人の乳房のように、舐めていたかった。そしてそれは、たいていのありふれた日曜日には、あっけなく許された。日曜日には、永遠だった。そうして花びらをちぎるように、いっぱいの忘却によって、孤独を甘やかしているのだった。

日曜日には、無責任な異邦人のように、何の根拠もなく昼寝ができた。眠りが来るまでの間、詩的に語ることの安直さを憎みながら、それ以上に、経験のたわいなさを実感する。

 

 かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に

鶴と亀が滑った 後ろの正面 だあれ?


けれども結局、みんなで輪になるような、ならなければならないような、誰かに与えられてしまった遊びなんて、どれもこれも、つまらないものだ。ちっとも面白くなかったのだ。誰も与えることのできない魂の火遊びを、彼はひとりですすんで楽しむことに、少年の憧れを費やした。それをよしとした。そうしてそれがやがて、ふるさとに住むガキ大将の、汗びっしょりの、やけくその仕事みたいになった。


一切は与えられているけれど、それなら何をしたって同じだと、何を言ってもしょうがないと、よく不真面目になった。それだけで、投げ出せたつもりになった。真面目ぶるより、いいと思っていた。もしも憎むのならば、善いことも、悪いことも、ごちゃごちゃで等しかった。彼はたくさんの友人から、積極的に遠ざかっていった。



コッヘルが見つからない。来週、山登りで使うのに、数年どこかに仕舞いっぱなしになっている。沙羅は、落ち着いて考える。あれを、捨てるはずはない。この家のどこかに、必ずあるはずだ。貸したかもしれない友人だって、思いつかない。よりによって、コッヘルかと思う。大中小一式が揃えてあって、たしか、そこそこ高価な買い物だったのだ。まだそんなに使っていないし。

埃でくしゃみが出る。

部屋の中がめちゃくちゃになって、懐中電灯で照らしたクローゼットの奥に、引越しのときに使ったダンボールらしきものが、ちらりと見える。記憶がよみがえる。コーヒーメーカーと、プラスチックの小さなまな板と、一緒に仕舞ってあったのだ。

沙羅はひとりごとを言う。何でもっと早く気がつかなかったんだろう。くしゃみが出る。でも、まあ良かったと、荷造りをはじめるまえに、また、ひっくり返った部屋を片付けた。



稼ぐ仕事はやめることはできなかったけれど、退屈なときには、同時に、それを疑うことでなぐさめていた。別の口だってあるんだ。やり様なんて、いくらでもあるんだ。今はただ、こうしているだけなんだ。

本当の仕事とは、停滞した現実と平行してありながらも、形のない軽やかな勇気を、その胸に組織しつづけることではないか。そう言い聞かせた。切々と自分自身に正直に語る勇気が必要なんだ。

そんなとき、気持ちは同じように、それこそ浮気根性の気分屋のように、心だけ蝶々のように弾んでいった。いまだ与えられることのない原野を切り開く人が持つ、目的の力を、すごいと思った。


一切は与えられている。戯れずには、いられない。

どこにも突き刺さることのない思考。

世界の歴史はどこにある。


その公園は、昔ゴルフ場だった。

恋人たちと、親子連れと、広い芝生があった。


日は暮れかかっている。そしていつしか、当然同じ夜は明けかかっている。とても静かに、謎めいて、冷ややかな熱を帯びた、無情の宇宙がロマンチックに回っている。広大な宇宙の反対側には何もなかったけれど、思い描くことの陽気な切なさだけが、救いだった。


何事も、恐れるに足らない。恐れることを知らないのではなく、恐れるほどのことなど、こんなところには滅多にないと、本当は、思っている、焼き鳥屋の片隅で、頬を赤く染めたような、みすぼらしい慇懃無礼者。むしろその傲慢な意識の核心にある虚無にポカポカと頭を打ち続けていること自体が、よっぽど恐ろしい事実ではないか。


点在する、ブラック・ホール。過去と未来の交信のために、いつか完成するだろうタイム・マシーン。でも、街で交わされるほとんどすべての日常会話が、過去と未来からしか成り立っていないことを考えれば、文学は、光を超えてあることへの、現在への、ささやかな願望であるといっても、あたりまえのことなのだろう。

神は、サイコロを振らない。それはサイコロを持っていないからだ。騙されちゃいけないんだ。



由紀子が作る今晩の料理は、久しぶりのクリーム・シチューだった。人参も、ジャガイモも、鶏肉も、マッシュルームも、ブロッコリーもあったけれど、肝心な玉葱がなかったから、近所のスーパーに買い物に行かなくてはいけない。ついでにほかにも必要なものを頭の中でリスト・アップして、財布の中身を確かめる。パンも、今日はガーリック・トーストにしようと思う。

由紀子は友達と一緒に、食べたいと思う。



いつになっても、純粋の果ての鏡のように、見上げる空には目的がなかった。彼には目的がなく、否定したい根拠なき反抗だけが詩になって、屍のように生き延びた。誠実であろうとする知覚だけが、生まれついての孤児の特権のように、その土地にへばりついて、大きな機械のネジのようにへばりついて、あらゆる微妙な意識の違いを心中に明らかにすることにつとめ、その報われない泣き声で創造し、ドブ臭い路地裏の暗がりによろめきながらも、なお声だけが軽快にそこを行く。それでも足取りが、死に場所ではなく、目的へ至る道を示すことを、信頼し、愛している。


踏んだり蹴ったりの世間の文化は、笑うに越さず、利用するにも味気なく、父も母も、あらゆる兄弟が、誰彼ともなく変てこに手をつなぐ、だからこそエゴイスティックな、涙にまつわる古くからある壮大な難破船であった。利己的な稚魚があっちこっち、きらきら、ぐるぐると群れる。

珊瑚礁は、美しい。

ふたりは、この懐かしさを胸に、どこまでも歩いていた。その懐かしさの静寂こそが、ここから繰り広げられる、恍惚と不安に秘められた、誰も見たことのない、激戦区であった。

 

公園のベンチで、いつしかミイちゃんは、死んでいた。それを見て彼は、まもなく生き返る。


 

夢は恥ずかしい目にあう。それがいやであれば、夢を夢でなくせばいいのだ。それが夢として意識されないくらいに、したたかに、生きた夢になればいい。だって、みる夢のほうが、ずいぶんと残酷ですものね。



耳をふさいだような、しんとした浜辺で、意識を取り戻し、ゆっくりと眼を開ける。あらゆる季節を越えて、音のない雪が、あたり一面に降っていた。その一粒一粒が、まるで、しつこい、無意味に訴える手紙のようだった。

彼はどんなに素敵で良くできた比喩も、犯されるように嫌いだったけれど、真っ白に消えてゆく無限の言葉の数々が、地の熱を優しく冷ます様が、女の神様の微笑みのように、静寂が、まだ見ぬ人々の安らぎのようで、ひとりでに、風に揺られる揺り篭のようで、空虚な親しみをおぼえた。

でも、まったくそれがどういうわけか、気がつけば、気をつけてみれば、同時にそれは彼を苛立たせ、諦めるように、無意味へ転落して行く意味を、憎ませていた。まるで空から落ちてきた、鳥の糞みたいだった。

そんなふうに対立することは、いつも忘れたころに、胡散臭くやってきた。

そんなものは紙飛行機にして、飛ばす。そんな手紙は何を、運んでくるのやら。彼は、すべてがほしいだけだ。


はるか海原に、点々と、貨物船が浮かんでいる。

あらゆる手段は、いったい、何のために。


何のためになんて。馬鹿を言っちゃいけない。食ってやってくためなのだ。誰もその寂しさに結ばれたい。そんな擦り切れるような野性の中にこそ、きらりと光る、理知がある。いやいや、馬鹿を言っちゃいけない。結局、人はどんな時に、どんな場所にでも、愛情を見出さずにはいられないのだ。愛情のない場所にでも、愛情を見出さずにはいられないのだ。



ミイちゃんは、まだ夢を見ているのだろう。この雪の数だけ、いっつも男に抱かれているのだ。男は、雪の数のように。

いつしかヨボヨボに年老いた、皺だらけの夏が、千も過ぎていた。


しかし、語りえるものについては、七転八倒、語るべきだ。


やがて彼は船に乗って、遠くの小さな島に旅に出ることになった。

すべては始まっていたのだけれど、彼はことの終わりをずいぶん舐めてかかっていたのだ。世の中には止むを得ないことが、因果が、当然のように、どこにでも、ある。ただそのせいにすることだけは、心底できない相談だった。


彼は舌打ちをした。


そんなふうにして、彼は海岸を歩いた。また、ぽつぽつと考えるために。


ある日、彼の夢中のコレクション、マチスやゴッホのいくつもの絵画が、なくなっていた。額に飾らず、心の友としての色彩。そうしてずいぶん前から、本当はなくしたかったことに、やめてしまいたかったことに、風の便りで、ようやく思い至った。時にそれが勇気のない、モノクロームの生活を悩ませることが、度々あったからだ。彼は静かにしていたかった。黙々としていたかった。修行の身に、色を禁じたかった。でもやっぱりそれは絵画のせいではなく、彼の彼自身に見せる悲しみでしかなかったのだけれど。だから絵画は、恥ずかしそうに、逃げていった。再会を待たないで。まず大体が、所有するのが、よくない。もともと不可能だ。所有することが、すなわち破局だ。


遠くの空が、雲でギラギラしていた。


流木を拾い集めて、火をつけて、燃やした。空は輝いて真っ青だった。何回でも人生が鐘を鳴らしたけれど、それは本当には、鼓膜を震わしていないようだった。彼は耳ではなく、ずっと鐘の音を、ギラギラした眼で疑っていた。それが生き物の、生きる掟、常識だと思っていたから。活躍する肉体ってやつは、いつだって信じるに足る、まったく硬派で清潔なやつだ。清潔な助平心が形而上学の泉である。


しばらくした後で、明らかに、あの、見出すことの偉大な画家たちに、また絵を描いてもらいたいと思ったけれど、心の中にとどめたまま、彼は何も言うまいと思った。彼は間違えたけれど、後悔ではなく、ただ、その時、自分の愛情に、慣れなかっただけだ。

見出されたものが、今もなお、望むのであれば、それは現に、生々しく、そこにある。そうして海と水の間に描かれた線が、求められた色や形とともに、彼にとっての玩具みたいなコンパスだった。


彼はほんの少しの珍品と、冷めた弁当と、船に乗っていた。それと気づかずに、船が彼をなぐさめていた。

暢気でへらへらした青年のように、こだわって絵画を、まだ、想っていた。


嵐の予感がした。ピカピカ空が光っていたが、近づいてみると、それはピカソ、パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダードだった。ピカソは空の空気の運動のようだった。触れることのできない、息詰まる、魂の立体であった。たくさんのものが、情熱で手をたたきあい、創造していた。別にそれは、絵画ではなかった。


きらきらする波は、どれほどか知れない、至福の海底を隠している。


彼は退屈することにも退屈していたので、あえて、読むべき本を、少し読んだ。本が真っ白な彼の中に、いくつもの飛び石みたいな波紋を起こした。そしてじわじわと、忘れ去るように奥深く沈んでいった。碇のように、ずっしりと堪えた。やめてほしいと、彼は思った。長い話で、飛ばし読みをした。


時に、本当に、勇気付けられながら。

でもこれは、今読みたい本ではない。読みたい本が、読みたい。


彼は、知識は内蔵のようなものだと思った。痛むときは痛む。本を閉じて、作家その人のために、とりつこうとする共感の亡霊を振り払うように、海に投げ捨てた。決別の一瞬の飛沫と疑惑を起こして、蛇みたいな象形文字のように、原始の狩のように野蛮で誠実で、落ち着きと美しさで、薄気味悪かった。

彼は眩暈をこらえて、先を急ぐことにした。それでも祈りのように、筆を握るその手を思い返して、握り締めていた。遠い遠い、いまここにある文明を、思い出していた。肉体の愛だって、本当にこうあるべきだと思った。


まったく、すべてがどうでもいい、あてのない徴だった。そして、記すものの所在を、確かめていた。

彼は、ラジオをつけた。



ロード・バイクにまたがって、市役所に住民税を納めに行く。ゆっくり走っても、まだ間に合うくらいだ。途中でお米を買うから、大きいザックを背負っている。

貴子は財布の中を確かめて、坂道を下る。坂道を睨み付ける。貴子は税金を払うのが大嫌いだ。時々いろいろな納付書が送られてくるたびに、いちいち漠然とした憤りと不安を感じる。一体、国家とヤクザの違いが、つまるところ、わからない。

誰かのなくした風船が、うっかり並木にからまって、ボンヤリゆれている。

貴子は、お給料が少なくて、毎日きびしい。


 諦めよりもきびしさを、信頼する。


だんだんと軽やかなモーツァルトの音楽に乗せて、雲の一群が、渇いた彼の喉にかかった。彼は巨人になったかと思ったけれど、それはミイちゃんにもらった、形見の手編みマフラーだった。彼は寝ぼけていたのだ。でもしっかり舵を取っていたし、そばでモーターはぐんぐん鳴りっ放しだった。

一瞬惚けたように投げ出しそうになったけれど、空っぽではちきれそうな、虚栄心で満ち満ちた、理性の悪戯と思われる力で、また島を目指した。そうせざるを得ないのだから、時には、突き詰めて、ぐれてもいいと思っていた。


真っ赤なマフラーが、風になびいた。昔によく録音されたもので、ちゃんとしたモーツァルトを、聴く必要があった。心の底から。聴こうと思った。彼も音楽になりたいと思った。  

でもちょっと、また眠りたかった。ちゃんとしたモーツァルトは、彼自身が見出した、彼自身であったから、安心できたし、今日は日曜日なのだ。永遠は、背後にあった。その音楽は、前ではなく、後ろで鳴る。前には風が、鳴る。


自分を見失うことは、とんだ手間だ。

誰も本当は、死ぬまで自分のための音楽しか、聴くことができないのではないか。


彼はとても疲れた。するべきことを、もしも気分が悪くなったら、ふたつに絞って、よくないことが起こるようであったら、あまり無理をしないように、大切なこのポンコツのエネルギーを浪費しないように、そのふたつを選択することに決めた。新しい土地に咲いた美しい花を、花壇に移してはっきりと眺めているように。

手に入れるためではなく、そのものの目の前の、一度きりの奇跡を、保ち続けるように。


水をやる。ひと時、眺める。それがふたつのことなのか、ひとつのことなのか、まだ少し、彼には疑問だったけれど。自分ののどが渇いたら、そんなことはそっちのけだから、静かに雨を請う。


それでも、数年に一度くらい、しばらくの間、いわゆる平面的で単純な生活が、どうでもいいような気がした。平面的で単純な生活なんて、どうでもよかった。どうでもいいから、単純なのだった。人々がひしめいていた。背中合わせのせせこましい、内面的で複雑で、でもはっきり言って、ただそれだけの単調な生活。内面なんて、これっぽっちも出る幕のない生活。そして太陽にとっては、それだって本当にどうでもいいことだった。

でも彼は太陽ではなかった。彼は、太陽と運命とともにあるものだった。それは、彼の奮闘にとっての太陽になって、一段と真実だった。


波間に、光の粒が、どこまでも粉々に震えている。


万事快調。彼の体にも、偉大な熱は、バッチリ保たれていた。ただ、本当に、それだけだった。誰も、泣かなかった。エネルギーは、みんなのものだった。森は枯れ続けたけれど、誰も、泣かなかった。不幸なくじ引きのようなせつなさも、何もなかった。


衰えない力。最底辺の、力。


だんだん反応が鈍くなって、ミイちゃんのことも、関係がなくなってきた。何しろ長い距離を来たのだ。この世の初めからあって、争いと模倣は大洪水になった。



昨日の深夜にテレビでやっていた、昔の本当にあった戦争の番組で、戦車に轢かれて真っ赤にグチャグチャになった青年の無残な映像を、翔子はぐずぐずと思い返していた。映像が、焼きつく。

ひどく気持ち悪かった。ちょっと、吐いた。気が滅入る。でも、本当に数え切れないくらいの滅茶苦茶な争いを、無限に繰り返しながら、自分が、今ここにいることが、もっと気持ち悪いことのような気がしてしまった。でもこのことを受け入れなければ、忘れたままでは、いけないと思う。このことが、日常茶飯事なのだ。あたりまえなのだ。事実なのだ。事実に慣れなくてはいけない。事実にならなくてはいけない。

急に、だからといって、感情を妄信して、反射的にこころに砦を作るのは、同じくらい愚かで、おかしいことなんだ。下手な絵画みたいに、そうさせるテレビのワン・カットも、一方的で安直な挑発も、おかしい。もっと、根本的な説明が必要だ。

戦争についてどう思うかなんて、全然、関係ない。思う問題じゃない。墓場に腰掛けたみたいな、もっとましになるような大きな賢い理論が、きっと世界的に、涎をたらしながら待たれているんだ。せめて静かにしてほしい。

明日はなんだかずいぶん久々のデートだし、このことを踏まえて、今までにない、素敵な温泉旅行になったらいいな。温泉なんて、好きだけど、何年も行っていなかった。私ははじめから、未知の人たちと、いつも知り合うようにして、いつもこの星にいる。

自らの声を、声なき時も、勇気を持って聴き続けること。

翔子は、擦り切れそうな恋をしている。

自分の一生は、究極的には選べないけど、そいつと付き合う。もしかしたら、ぺしゃんこの青年も、戦車の操縦士も、何故だかそうせざるを得なかっただけなのかもしれないなと思う。そうやって、かよわい混乱のまま、運命を、慰めてみる。

でも、自分の微笑みは、決して、賢い理論じゃないな。

翔子は、そう思って、顔を洗う。



滅亡が実際のこととなって目前に現れてやっと、失われた希望でさえも、戦争と同じ原理で、悠々と消費されてゆくのではないか。

あらゆる精巧な理論もまた、完全な破滅的人間性のあたたかな暗闇を、ひそかにその母体としているのではないか。闇から生まれたものは、闇に帰る。

 盲目の熱量よ、ただあまりにもわがもの顔の偉大な光にさからって、快楽とともに、刃向うように、存在もなく、飛べ。


血を、克服しうる、倫理。自らの声なき声を、生きること。

声は、至る所にこだまする。

争いと模倣は大洪水になった。


ピラミッドの頂上でソフトクリームを舐めるような、奇妙な人間味の無さを感じた。救いを求めることは、自分の中の何かが損なわれていることの証だったので、彼は困難を考えた。無意味な競争や、優越を、逃れようがないままに、彼は軽蔑していた。それは自分のちっぽけな歴史に注がれるべき独創的な愛によって、消耗されるためにあるものだと、信じていたのだ。だから、同じように、彼は仮にも世間的な関係を信頼しようと思った。世の中は信頼なしには生きることができないみたいだ。


信頼の遊覧の中で、またうとうとと、居眠りしたくなった。ひとまず、仮の構造であるのに、心底恐れていた。ゆらゆら揺れる船のわきを、いつしかぽっかりと浮かんだブイみたいな詩人の慈愛が、ぶるぶる震えながら来たほうにたゆたってゆく。


僧侶の自殺。死を賭けるにたる自己があるというエゴイズム。

賭けられたものの主人なき逃走。光の犬。


ワンワンワン。


そうやってミイちゃんは何を見つけたのだろうか。みんなは、いったい何を、いつも見たり聴いたりしているのだろうか。むしろ勤めてそうしているのだろうか。眼を合わせればきっと、白状してしまう。でもそれは、知ることのできない、未来のことだと、彼は、思念とは裏腹に、唇を結んで、余所見をしないことにした。


静かな生活の、毎日の味噌汁を作るように、あえて習慣になりきりながら、本当にやりたいように、やる。全部、どこにいったって、しなやかに熱の走る均質な、同じ世界の舞台だ。ただ、照明だけが、とんだ怠け者。太陽がいなくなったとたん、ひっくり返ってドタバタやりだす。きっと、友達がいないんだ。

神様にも、悪魔にも、寂しいって告白する前に、自分で自分のことをやっちまうんだ。スケジュールは砂漠のかなたに、湧き出る泉のように、ビッシリだ。仲がいいってのは、結局、退屈なものだ。それを知らなきゃ、もう、会えない。


友達、百人できるかな。

光。照らすのであれば、すべてを照らせよ。


どうしても話の通じないときには、話をあわせることなく、耳を澄まして、ただ黙って笑っていた。何も考えないで、このまま気づかずに船の目に、いや、海の目になってしまいたいと思った。


しょうもないと思った。友情の沈黙は難しい、実際のことだった。心を開くには、彼には失えるものが多すぎて、最後にはいつも、一人ぼっちではありえなかった。


でも、時々、顔にできた小さなにきびを気にしていた恋人の、にきびを間近に見たような、逃れようのない、迎合的で、ささやかな生活感が、彼に郷愁の念を、気まぐれなつむじ風のように、サワサワとためらいのように起こさせることがある。やっぱり、彼はまだまだ、修行の身なのだ。そんな時だけ、彼は急に一人ぼっちだった。やっぱり現実的な海が、静かに波打っていた。それはにきびよりも、対等な消費されてゆく、もうひとつのあっけない人生であった。


大きな自動車工場の、ほっそりと痩せていて、熱血漢社長の幸三さんが、彼が会社を辞めるときに、ポンと肩をたたきながら、ひとつのキーホルダーをくれた。彼はお礼を言った帰りの電車の中で、めそめそと泣いていた。それは不幸なお守りのようで、すぐにどこかへなくしてしまったけれど、彼は好きだった。それは逆説的に、究極的に、構われる個人の、尊重される人生のないことをしめす、ある、勇敢な形と硬度をもっているようだった。彼は、社会人になれなかった。

世界中の工場が、つぶれたり、買収されたり、合併したり、事故にあったり、幸せそうであったり、悲鳴を上げたりして、鉄の塊からもくもくと煙を上げて、金品を撒き散らして、貧しさは、何がなんだかわからなかった。無頼の貧しさは、その工場の母でありながら、微笑むようで、現に、今漂っている、孤高の海の一滴であった。

工場のせいで、海は汚れていた。同じくどんな未開の血でさえも、その血を逃れることはできなかった。意識されずに、自ら汚れるもの。群れる清らかさ、根拠のない美しい感情、みんなみんな、自ら汚れるもの。

綺麗で清潔なものが、怠惰から見た清潔であると、彼は自然の風景のことを、そういうぐるぐるした過程のものだと思っていた。

自然の、真に穢れる圧倒的な力に、快感原則に、彼は理想ではなく、愛でもなく、陽気で儚い、ただただ、肯定的な美しさだけを見出したいと思っていた。それは忘れることではなく、彼を離れた、常にあたらしい、生まれたばかりの、野性の視力のような気がした。彼は眼をこすった。

孤独を生きることが、大切な友情のように思っていた。


この広い世界で、これだけをしていれば良いなどという事が、あるだろうか。


神秘など、なかった。神秘に見せる、詐欺めいた商売根性だけがあった。

静かなキラキラ光る、水面を見ていた。

むずむずして、彼は自慰をした。彼はまだまだ若いのだ。


ピュッ!


平和だった。

聖も俗も、苛立ちの果てに、等しくくたばっていた。


7月の終わり、御伽噺に出てくるような、落ち着いた生活の明るい、澄みわたる天気だった。見たことのない、でもきっと何処にでもいるような、小さな羽虫が、彼のそばにとまって、あたりを気まぐれにうかがうようにして、そしてすぐまたどこかへ飛んでいった。    

彼は今日は何もしないことにしようと思った。

でも、何かをするということが、本当に何を意味するのかを考えて、シルクロードを歩いている気分だった。あるいは、ミルキーウェイを思い描いた。それはなかなか幸福だった。自分ではないような、白々しい無責任な清らかさで、いっぱいだった。こんなところには、ながくいるもんじゃないんだ。


彼は実際の友人と、彼の魂の中の友人を、同じ人物だと思い続けていた。まったく知りえない他人とともに、知ったように微笑むことができる。そのことは、彼の希望でもあり、また同時に絶望の種、じりじりとした脚力になる、生き生きとしたカタストロフのはじまりでもあった。やりたいことを、勝手になって、やってしまうことを、大袈裟に人類の奇跡として、必然的にその身に物悲しく抱きしめるだけあった。それも野に吹く風のように、なかなか幸福だった。

薄気味悪くて滑稽で、彼は笑った。



夏休みの宿題を溜め込んだのか、隣の家の子供部屋の窓から、一日中、親子喧嘩の声がする。どこかで庭を駆る草刈機の音もあいまって、とっても、うるさい。蝉も鳴きだした。

どうしてできないの!

でも、恭子は何気なしに、そのお母さん先生と少年生徒の、ガミガミと授業のやり取りする話に、耳を傾けている。少年は、よっぽど出来が悪いらしいが、ちょっと道であったりしたときには、必ず訳もない明るい大きな声で挨拶してくれる、元気でかわいらしい男の子だ。

恭子は小学生のころから、学習塾に通っていた。本当はいやでいやで仕方なかったけれど、進学校を目指して、とても勉強していた。社会人になった今でも、そのころの夢を見ることがあって、悲しい。そんな先生と生徒と、組織された冷たい授業が、悲しい。

よくがんばったね!

夏の日の午後、恭子はお母さん先生と少年生徒の奮闘と、草刈機と、蝉の鳴き声に、耳を澄ましている。風がカーテンを揺らしながら、恭子にとって、不意に発見した、それは微笑ましい時間であった。



愛なんて、訴えるものではないと思っていた。それは対象ではなく、その人の、その人自身であるとする、積極的な安定した態度だと考えていた。愛を語ることは、彼にとっては、硬直した死を意味する。愛は、未完成だった。愛は、反映であった。だから、途方もなく、それは魅惑的だったけれど、約束は、沈黙であった。


女の人は、いつ、美しいのか。カノン。

もうずいぶん、セックスをしていない。本当の、あたたかくて、しっとりとするXXXに、触れていなかった。なんともいえないその事態に、普段の成り行きでは、起こりそうにない。彼は、さらりと娼婦を抱く。カノン。それが名前だ。


思考のない空に雲が、ギラギラしていた。


ところで、ありのままであるということが、一体全体、どのような事なのか、どのような状態のことなのか、これっぽちも、わからなかった。自由もまた、一体全体、そうであった。彼はそのことが、本来的に、彼のどうしても普遍的であろうとする、眼の見えない未熟な愛情のために、駄々っ子のように、必要であると考えていたのだけれど。



深夜のバー・カウンターに一人、背の高い女が座っている。マスターはグラスを拭き拭き、女の話しを片手間に、黙って聞いている。店の中には、ワルツ・フォー・デヴィーが流れながら、タバコの煙がそこ等じゅう、もくもくしている。女は、濡れたグラスの底でできた、真っ黒なテーブルの水滴を爪で引っかきながら、しばらく黙っていたけれど、よくわからないものを書き終えてから、また話し始めた。

「結局私、彼の考えていることが、まったく、わからないのよ。人が何を考えて生きているかなんて、そりゃぁ、最終的にはわかりっこないし、超能力者でもあるまいし、当たり前のことかもしれないけれど、でも、普通は、わかっているような気にはなれるものでしょ。あいつはああいう奴だから、とか、あの子は絶対そういう事はしない子だ、とか、誰も街中を、いつ刺されるかなんて、そんな事件がニュースで流れた翌日だって、気にしないでしょ。そんなのってちょっと、いかれてるわよね。こうゆうのって、常識って言うのかしら、コモン・センスがあるでしょ。お互いを深く分かり合いたいって言うんじゃないのよ。私は私の世界をはっきりさせておきたいだけなの。これって、なんか、とても普通のことよね。でもね、彼と一緒にいるときって、なんて言ったらいいのかなぁ、すごく落ち着く時間と一緒に、すごく不安になることがよくあるの。それが何なのかなぁって思うの。それがようするに、彼の考えていることがわからないって事なんだけど、ねぇ、マスター聞いてる?」

マスターはミート・グラタンのチーズを袋から出してぱらぱら撒きながら、黙ってうなずいて、聴いてますよとにっこり笑った。

「だいたいね、彼自身、自分の考えていることがわかっているのかしらって、突っ込みたくなることがあるのよね。たとえば、パイロットは飛行機を運転するし、農家は畑を耕すし、えー、科学者は科学を研究するし、猟師は魚を釣るし、男は男だし、女は女でしょ。みんな各々そのことに一生懸命なわけじゃない?詩人は詩人だし、恋人は恋人だし、私は私で、マスターはマスター。いっつも酔っ払いの話しを聞いてくれる。そうでしょ?」

大きなミックス・ナッツの蓋を開けて、じゃらじゃら器に分けながら、またにっこり笑った。女もそれを、一皿注文する。

「そうやってある程度、世の中は成り立っているわけじゃない?ゲイやレズビアンや、ボヘミアンもいるけど、それにしたって、彼らはゲイやレズビアンやボヘミアンよ。でもね、なんていうか、彼は違うのよ。んー、と言うよりも、俺は違うんだって、常にぶつぶつぼやいている様な風情なのよ。私が彼のことを想って安心したいと思っても、俺は違うんだって、突き放されるような気になっちゃうときが、やっぱりあるのよね。それで私はなんだかよくわからなくなっちゃうわけ。それが彼のチャーミングって言ってしまえば、それまでなんだけど、私がただ、しっかりしてないだけなのかなぁ。俺は違うって、じゃあ、あんたは一体何者なのって、そうかと思えば、人類皆兄弟みたいなことを言って、笑わせてくれるのよ。ねぇねぇ、マスターどう思う?」

マスターは流れてくるジョッキを次々流しにぶち込みながら、考えたような顔をくつって、首をかしげながら、また、にっこり笑った。


自然とこぼした愚痴ように、遠くあるところでは歓迎されても、間近に寄せるにつれて、それは個人の存続にとっては、危険な業であった。未知の発見は自然から線を引いて集まり、決め事をこしらえて、訝ったという。うほうほと、火に触れては火傷をしたし、暗闇では怪我をして危ない。時の止まった、若い男女のようだった。


「ねぇマスター、私はただ、どこにでもありそうな、幸せな生活を望んでいるだけなのよ。二人ではっきりしたひとつのことを、ずっとしていたいの。・・・もちろん、Hのことじゃないわよ。」

「仕事を決めて、結婚して、子供を産んで、ずっと、平凡だけど温かい、愛情ある毎日を、望んでいるの。きっと、・・・きっとそうだわ!」


当てもなく時と場所を超越するのではなく、その限界に憐憫を寄せるのでもなく、約束を結んだ幸福の輪を絶つこと。取るに足らない、些細なことだと、とぼとぼと元の場所に至ること。責任を、持つこと。責任を持つことこそが、自由の大前提なのだ。


空の雲が、どこかへひいて行った。


彼らはまた、自然の知性の名立たる歴史であることには、全然かわりがなかった。それでも、仲間意識とは無自覚な孤独の楽天であり、愛すべき単純さであり、流行の決め事とは、探されたものではなく、単なるはっきりした空っぽの元気になる、みんなの方法であった。何となくでも、ありのままでないだろうことは、一目瞭然だった。問題でないものを、問題と取り違える、疲労感。世間に口出しすべきではない。

思考に潜む攻撃性が、的をはずしている、不快感。世界の空に、睨みを利かせて。


グハッ!してやったり!


昔の歌、レット・イット・ビーは、ポップなポップな、演歌の中の演歌になった。ビルボード初登場最高位で、マイケル・ジャクソンが、その後を塗り替えた。

アイドルは、突然、ビルボードにあらわれた。音もなく炸裂するネオン・サイン。


流行は、誰も傷つくことのない、大いなる同情であった。


「マスター、また来るね。」


それからそれから。



電車の中ではいつも耳栓をしている。本当は時々泳ぎにいくプールで使うために買ったフランジタイプの青い耳栓。電車の中の音が気になるわけではないけれど、どう考えても毎日あの大きな音を聞き続けているのは、体にいいことではないように思う。電車を降りると、会社までの道、お気に入りの曲をアイ・ポッドで聴く。

桃子は最近の音楽に詳しい。過去も未来も思わせない、今このときを、実際に、一緒に生きている、今をときめくアーチィストが、好きだ。親しみが深々こもる。親しみのもてないものなんて、まったくどうでも良いと思う。だって、音楽なのだから。

タイム・カードを切りながら、さてと、イヤ・フォンを外す。あいさつしながら、今日もそんな一日が始まると思う。



今でも、田舎の公園につづく街路樹を潜り抜けるときには、ざわざわと、赤裸々に、胸が洗われる。


土産屋で、どんなに良くできたものであっても、所謂、快適な趣味で作られたものは、最終的に、彼の憧れを不快にさせる。職人の仕事にも、興味がない。にもかかわらず、困難な現実がむき出しの情熱にも、彼の憧れは飽き飽きしている。憧れとは天邪鬼なものだ。

旅先の人々は土産屋に群がるが、冥土の土産に決していい代物ではない。必然的な、苦悩を賛美した。どんなに良くできていないようなものであっても、旅情は、流れない涙のようにやさしかった。


それでそれのどこが、悩ましいのだろう。


多様な可能性を孕んだ快楽を勇敢に突き進むことは、他から見て、何に対して攻撃的にならざるを得ないのだろう。災いとして、映らざるを得ないのか。誰がなぜ、それを被るように思うのか。

土産屋が、放火魔の仕業で、明るく燃えている。

それは個人の、まさにその人の寂しき誇りにかかっている、唯一の、守られるべき名前の一端であったからだろうか。彼らは、どこに来て、どこに行くのだろう。


無邪気な自由があることなどかつてなく、ただ良くも悪くも弾劾されるためだけにある、貪欲に愛情に飢えた名前にまつわる、その奇跡である芸術のしるしだけが、そこかしこに隠されて祭られている。胸の奥に仕舞われたように、洞窟壁画のように、少年少女たちに発見されることを、その暗闇で、ずっと待ち続けている。

奇跡を知るもの同士は、眼を合わせれば、わかる。

ほとんど砂漠のエジプトは、ナイルの賜物であったが、偉大なナイルは逃避することなく、当たり前だけれど、その流れを、因果と帰結を、雄大な海に、わけなくそそぎ続けていた。究極の理論の模範として。


覚めていると思ううちは、まだ覚めているという夢中にいるのだ。


それが、彼の洗練されるべき、美学であった。片意地を張らない、のんべんだらりの独立であり、優雅な大人の姿であった。果たして彼は、うつむいた。


彼は、また、モーツァルトを、奔放な音楽の思慮を、聴きたくなった。気分転換するためにではもちろんなくて、独立した固有の主体として、その死んだ作家の魂と共鳴することを求めて。失われたときを求めて、今いるときを回復するために、モーツァルトは、一瞬にして、透き通る意味であった。すばらしい小説は、本当は誰も読む前にわかっていることを、つぶさに確かめて、奮い立たせてくれる、また優しく頭をなでてくれる、自然な息遣いだと、彼は思っていた。前もって、筋なんて、いらない。前もった筋なんて、実際に働く労働者の筋肉でしかなかった。


何の変哲もない祝祭。静かな生活のために、彼は、彼の希望に絶望している。あたらしい認識を予感してゆくために、望むこと自体が、消耗され、消滅していった。大手を振って歩く、虚無と安楽死のために、彼は、ただ生きて呼吸する、人物だった。庭に水を撒いた。夏の日が暑かった。ラジオで平穏だけが、様々に変奏されて歌われていた。興奮して膨れて、ぱーんと、足で踏み潰されて干からびた、河豚みたいに、わけのわからない面白さが込上げて来た。


絶望と希望。こんな馬鹿げた話しがあるか。

何かが望まれているとき、今ここにあるものが、失われている。自分が望んでいるものなんて、究極、自分で分かりっ子ありゃしない。ほっといても、勝手に何かが叶う。あけてびっくり、毎日毎日、みんなの何かが願われて、みんなの何かが叶っているんだ。

希望なんていうな、それを血と呼べ。生きることが、先決だ。


でも、彼は、神様がこそこそと両脇をくすぐることを知っていた。笑い転げるのだった。転げる。なんだってそうだ。ゲームはルールだけ聞いてみたって、つまらない。本当に、本当に遊んでみなくては、願望は、はじまらない。ルールはたった一つの、謎めくリズムだった。


ケンパ ケンパ ケンケンパ


ミイちゃんの、もっと洗練された悲しみが、必要だ。ミイちゃんは、ずっと眼を瞑っている。


自分で勝手に思い込んでいる不幸を糧に、真面目に日々を送ることができるということは、幸福を思い込むよりも、案外気楽なことだった。共同体に属することが、そもそもの孤独の原因なのであり、何物にも依存せず、夢や希望や、正義や純潔にもとどまらない、つまり常に漂白することの中にしか見出されないような現実が、独立にして共にある世界の、認識の美学であった。


彼は島にたどり着いた。島には何もなかった。彼だけが、新しい異物であり、彼方からの逃亡者みたいだった。問題は、はじめから、何もなかったのだろうか。問題は勝手に、消滅していた。漣がたっていた。彼の愛した英雄は、その木に揺れる果実のように、日の光とともに、不確かに微笑みかけていた。


そこは十年前に、幾人の仲間たちと一緒に、一本の映画をつくりに訪れた場所であった。彼の役割は、物語を失った小説家として登場し、私的な観念の困難と、大切な恋人の死を乗り越えて、新たな可能性を胸にその島を去ることだった。

その島は、記憶の島として、舞台になった。妖精も住んでいた。Andante. アンダンテ。[歩くような速さで]というタイトルだった。


海岸には、いたるところにいくつも温泉が湧いていた。潮の満ち引きと、その日の天気で、そのときの湯加減が、自然ときまった。当時彼は手足や背中に、とてもとても痒い皮膚炎を患っていて、その海水の温泉が、そのような症状によく効くと知って、朝も昼も、一人で出かけては、適当に温かい所を探して浸かった。一週間ばかりの滞在だったけれど、元の生活に戻ると、しばらくして、やっぱり、また痒くなった。


今はもう、すっかり治ってしまった。彼の物語は、そのころに比べて、ずいぶん成熟していた。問題数が、減っていた。まったく似たような経験を、無意識に実際に体験しなければならなかったけれど、何度見ても飽きない映画は、その再演ではなく、構造でもなく、物語の生まれる、その一瞬の不可視的な、ひっくり返ったような明快な謎であると彼は思った。彼は閃きを自然に待つことを、大事な徳のひとつと考えていた。


単なる刺激を求めるならば、事欠かない。あらゆる刺激を沈静させる、最大の興奮、人生について。


当たり障りのないことをして、人情の共感を得るよりも、例え至らずに、無視されたり、野暮な反感を買ってでも、その理性の冒険を確信して、ありもしない火に焼かれることのほうが、目的に適っている。へへんだ。


 彼は同じ場所に座り、透明な本を読んだ。透明なペンを握り、透明な机に向かい、透明な紙に、透明な文字を綴った。透明な水平線を眺めて、透明な息を吸いこみ、透明な鳥の鳴き声を聞いた。

よく晴れた空に、日が、光の粒が、きらきらと輝いていた。確かに、時が経っていた。そして、今、この時も、時は経っている。もしかして、どこかでこれを読んでいる、君のときも、誰のときも、等しく、経っている。


彼は食堂を探した。ここの娯楽といえば、傍目にはもっぱら釣りか海水浴であり、その他、夜の酒場と、男と女であった。彼はギャンブルをやらなかったが、いつも空に突飛な憧れを賭けては敗れる、甲斐性なしだった。女に関しては、まったく、なってなかった。  

彼はおなかを満たした後、温泉に浸かった。バシャバシャ顔を洗ってさっぱりした。


遠くの浜辺に、幼い子を連れた、優しげな若い夫婦の淡い姿が見える。父親に抱きかかえられ、不意によいしょと浜に下ろされた子は、少し離れてしゃがんでいる母親のところまで、覚束ない足で、よたよた走りだす。けたけたと笑い声を上げながら、とても、うれしそうだ。両手を広げて待っている母親のもとに、たどり着きそうになると、後ろからわざと遅れて追いかけてくる父親が、えいっとつかまえる、直線状の、鬼ごっこだった。またもとの離れたところに戻されて、同じことをする。つかまるときも、けたけたとわらっている。

楽しいのだ。うれしいのだ。また、よたよたと走る。海に遊びに来た、家族の風景だった。


波は、とても静かだった。それは焦がれながら、死して尚死ねない祈りのようだった。彼はそのことを、眺めていた。


観光マップをもらった。ここはここであるだけで、純朴な広告によると、観光地であるのだった。道と名所と、ごく簡単なご案内が書いてある、どんな細部も皆無であり、実際行って見なければ、何のことだかよくわからない観光マップだったけれど、一日あれば、一週回れるくらいの、小さな島であった。

彼は、方向音痴だ。彼は冒険を好んだが、それは無際限の多様性に限った話で、行くことの限られた場所の中では、当てもなく、むやみやたらと散策することが、むしろ嫌いであったし、興味がなかった。だから、彼にとっては、最適の、お粗末で、ありがたい観光マップだった。

研究に飽き足らず、探求を賛美する、頓珍漢な、放浪者だった。 


昔の俳人の句が彫られた石碑が、たっていた。流暢な文字で、彼は読めなかった。読みたいと思わなかったが、大きな石碑で、苔が生していた。なんとなく彼は、傾きかける日と、あの親子と、風のはこんだ潮騒に、背伸びをした。何かが思い浮かんでいるような気がしたけれど、それが何かはわからなかった。あやしい気分だと思った。でも気分にしては、どこか普遍的なものもあった。

彼は、普遍的なものの印象を、愛していた。ただ、それだけだったけれど、そのことだけが、彼を自由にした。もちろん、自由は、すなわち彼のことではなかったのだけれども、草木の茂み、開けた丘に立ち、少なくとも、あたりまえに、囲む海と、澄んだ夕陽は、そこにも、あった。美しい、眺望が、あった。

美しいと、彼は想い、手のひらを、頬に当てた。


心のジャンプは、生活の傍らにあるものではない。生活の中に潜んだ血液である。それなら、生活とは何だろう。誰もが生きることである。生きることとは、そのほか全部ふくめた、無垢な知性である。知性が答えである。答えは問うことができない。知性は問題を作らない。友達を作らない。それを開放する。そこに新たな出会いと、困難と、和解を約束する理念がある。

もしもこの世界がそのように組織されるのならば、伝達されるべきものも、一流のシェフのキッチンのようなものだ。捌かれる魚に、同情はいらない。知性は方法を、吟味しなくてはならない。


新発売・激辛カップ・ラーメンの時代。大金をはたいた、刺激と興奮。大型パチンコ店。隅々まで、行き届いたサービス。テンションだけになる、はちきれそうな忘我。恣意的で、均一的。偏狭な優越感のために、あやふやな帰属意識と競争心。致命的な、無関心。

消耗されるだけの卑小な欲望の群れは、不自然でいびつで、盲目的な人工物だった。それさえも、言わせれば、おかしな徳になる。


鶏が先か、卵が先か。


一陣の風が吹く。

誰もがさびしい。同じことをしている、無抵抗な仲間がほしい。彼もまた、同じだった。彼は夜道で石に、躓いた。たくさんの虫の鳴く声が、何だか、恐ろしい気がした。こんな日は、ただの一日として、とっとと過ぎ去ってしまえばいいと思った。


宿に帰る途中、海岸で、幾人の若者たちが集まって花火をしていた。

離れていて、よく聞こえなかったけれど、会話もしていた。


名のなき肉体。

呼ばれなければ、それは名ではないのだろうか。


べらんめえ。わずかな糧を得るための、労働の振幅。それは普通に考えられているようなものではなくて、無闇に続いてゆくものとしてよりも、すでに終わってしまったものの亡骸の上に咲かせた孤高の花として、唯一残される、心地よい決別の回復だった。

終焉の湖上、軽やかな精霊の戯れだと、彼はパチンと、指を鳴らした。それは男の信仰であった。

打ち上げ花火。彼は花火に、一本気な男ぶりを感じた。野良犬が駆けてゆく。まったく彼も野良犬も、違いがなかった。人と犬の、違いのなさに、そのじわりとした途方もない認識のあっけなさに、彼は躊躇した。

結果がわかっているものに、根源的な喜びを見出すことは、難しい。その場合、それは慈愛であって、刹那のものであった。


年をとることよりも、若き日のことを嘆くべきだろう。それは悔いではなく、胸に突き刺さった、本当の若さである。


べらんめえ。それは儚い。

彼は布団にはいって、また明日のために、ぐっすり眠ることにした。


夢。


いちょう切りの西瓜に、カブトムシぐらいの大きさの種が三つ、ついている。西瓜はあまり好きではなかったけれど、種を吐き出す手間が少なくて、いいと思って目が覚めた。

よく眠れなかった。もう一度目を閉じた。


もうひとつの夢。


声だけの母と、面倒くさそうに、何かを話していた。何か身近な段取りに関する遣り取りだったが、それはすぐに遠のいていった。一人、四角い懐中電灯を片手に、ちっぽけなビニール袋に摑まって、必死に真っ暗な海に一人で浮かんでいた。夜の海は、荒れているようだった。どこかへ向かうはずであった。あたりはどこまでも真っ暗で、明らかに遭難している。彼は声とはぐれて苛ついていたが、すぐに圧倒的な恐怖に押しつぶされそうであった。バタバタする足に、巨大な鮫か何かが、襲い掛かるのではないか。首から下が、青くにごって、よく見えなかった。食いちぎられるのではないか。大きな影が、気配だけを予感して、恐怖になっていた。懐中電灯の明かりが、凶暴なものを呼び寄せると思って、彼は上に手を伸ばして、遠くを照らすようにしていた。

急に工事現場の足場に、ブルー・シートをかぶせたようなものが見えた。彼は急いでそこに這い上がった。それは陸のほうに続いたものであるらしかった。鉄板の上に、串がビッシリ突き立ててあって、彼の柔らかいサンダルを、今にも突き破りそうだった。ゆっくりと慎重に歩いた。その足場には、少しだけ電流が流れていた。彼は電源のスイッチを切ったが、それはいけないことのようであった。

救急車とパトカーがそれを察知して走ってきた。彼は、カード・キーを使って、いくつもの扉をくぐって、逃走しなければいけなかった。監視人は呼び止めはしなかったが、確かに、足音は、彼のすぐ後ろに迫ってきた。

最後の扉を開けて、鍵をかけて、彼は、長い大便をした。そのときは、隣の薄い壁越しの部屋に、ひとり、友人もいる様子であった。

彼を追いかけて間に合わなかったものたちは、人間になって、悔しがっているようだった。それを見ながら彼は、便器に腰掛けたまま、細長い便を続けながら、人間よりも進化したものになるつもりだったのだろうかと、考えていた。


眼が覚めて、夜の海の恐怖が、彼に読むことを欲望させた。


窓の外に、激しく雨が降っていた。


もしも生きてゆくために必要なことが、現前に、微塵の疑いなくあったとしたら、たとえそれが人殺しであったとしても、それと別のものに、非本来的に言及することがないように、人殺しは人殺しとして、その宿命を、その身をもってまっとうし、それを引き受けることは、極限の愛である。少なくとも、つまらない偽りに無意識であるよりかは。彼は孤独を感じながら、それに対処するすべについて、降参しながら、心を燃やした。


もう、正午であった。


文字による構成。なぜお前は、絶え間なく改まらなければならないのか。現にここにある、愛情から遠く、放浪の中に、何を見出すというのか。触れられもせず、何に抗する権利でありうるのか。繁華街で起こる殺人事件。声を忘れた文字による不透明な重なり。太陽に向く発砲。必要であるならば、声をたくましく、その手は、朋友に仕えるべきだ。言語はその後だった。

どこにもたどり着くことのない、とどまる事のない移動し続ける透明の距離だけが、自らに権力を与えない、最上の権威だ。


しかも同時に、書くことによって隠蔽される古ぼけた精神の特権性は、光よりも慎ましく、したたかであるべきだ。貧しさは必定であり、なおそこに勇気を見出すことが最低限の狂おしい掟だ。

両の耳で聴かれる幸いの声は、本当にささやかなものでしかないのだから。


あめ つち ほし そら

やま かは みね たに

くも きり むろ こけ

ひと いぬ うへ すゑ

ゆわ さる おふ せよ

えの を なれ ゐて


天 地 星 空

山 川 峰 谷

雲 霧 室 苔

人 犬 上 末

硫黄 猿 生ふ 為よ

榎の 枝を 馴れ 居て


真に自発的な人の胸に、あたかもすでに書かれてあったかのように読まれることが、自由の享有として、望ましい。

自由とは、何かを退けることではなく、あらゆる命令を、必要と見ては軽やかにこなす事だ。過剰なものの中に落ちるのではなく、今にも死んでしまいそうな空気の中で、自らを、たった一人で、黙々と、生きてみることだ。

世界平和のための、自由だ。

囲った愛よりも、賭けるに値する、根源的な甘ったれだ。今や、それが必要だ。


今や、存在が疑わしいとき、存在を、構成する。その願望は、必然だ。

一寸先は、闇。


そして、雨が降っている。

誰も本当は、自分の小説しか、読むことができないのではないか。書くことにおいてすら、排泄される、肛門の愛情の域から、どれだけ隔たることができるのか。


雨が降って言う。健全である。


都市に恋して、幾度となく破局せしめる。それが自らの生きた歴史と再会し、事実として回復されるまで。

それすらも危うい、失われた、時を求めて、その名を、土に埋める。石に彫る。


雨が降る。花よ、咲け。世間という神殿に、あらゆる道が、雪崩れる、交響曲。

Andante. アンダンテ。[歩くような速さで]、恵みの雨が、降る。


それらを聴きながら、彼は午睡した。

どうとでもなってしまえ。実際、どうとでも、なる。


激しく雨が、降る。

それは本当の、いつもの深く、青い夜だった。


彼は絶望した。死んでしまうかと思った。

空に馳せる、自己であろうと欲した希求は、ずぶずぶと、土にめり込む歪な鉛のように、窒息していた。彼は得体の知れない、広大無辺の影となった。

気づかずに胸に宿していた最期の宝の石を、嘲笑とともに、無残に、誰も彼もに、奪い尽くされたようだった。


彼はこの心中の変容を、つぶさに心の眼で観測する。

再生の瞬間を、待つ。

苦しみの中、そうであろうとする自己に言及する。


雨の音しか、聴かなかった。


果たして、彼にはひとつの肉体が残されていた。肉体以外の、それはいったい、どんなものの、何なのだろうか。何であるといえるのだろうか。肉体的なものの復活は、意識の揺らぎとともに、一瞬にして、凝結した自己の、人気のない、ひっそりとした墓場のようであった。


死ぬのはいつも、他人ばかりだ。

でもそれは、決定的に、絶え間なく、一寸前の、自分自身だ。


あたらしい、宙吊りの主観の祝祭であった。無言で墓石を砕ける、振り子の権力であった。ただその切なさに打ちひしがれるときにだけ、すべてが偽りになった。


たぶんこうだ。


自己は肉体を愛することができないが、肉体は自己を愛することができる。

自己は他者を必要とするが、肉体はそれだけでも、源泉である。

自己は一であり、肉体は多である。

神としての零。


バカ、つまりこうだ。


理性=肉体=人情


ここに砂漠がある。蜃気楼は必死だ。


彼は、男性であった。

眼に見えない、まるで愛の行為のようだった。道に迷わないように、パン屑を撒いていったヘンゼルとグレーテルのように、彼は砂漠に石を置いてゆくようだった。


また次に出会う同じ絶望の中で、もっとよくはっきりと考えたいと、彼は思った。深呼吸。自分の腕を、つかんでみる。奇跡の線をひく。たしかに、思考は、肉体のものだった。

奇跡の線。それは何やら地上絵のような、石で彫った、果てしない不可解な文字になる。

肉体が、存在している。そしてそれ以上に、それを名づける、彼らの歴史を明確に記すことが、対象化されないまま、理想ではなく壮麗な概念が、そのまま彼の現実的な生気になっていった。そして同時にそれは彼ではあり得ない、ひとつの圧巻的な健康の創造であり、アダムとイブの世紀から、零から考えることだった。世間の、身近な繋がりのことを、根本的に考えることが、いちばん必要だった。そして解決して、楽しさとともに、全部忘れたようになる。

世界に馳せる関心事は、そこから育まれてゆくと、彼は思っていた。


どんなに巨大な主義も、あたらしい理論も、ひとたび実践になると、ちっぽけな、自分ひとりがあるだけであった。それが現実だった。


でもそこに、彼と、彼らがいた。

感じられたものではなく、滲むだけの印象を克服するために、砂漠と肉体によって考えられ、認識され、それによって失われたもの。ランボーは、詩を去った。コーヒーや象牙や武器を扱う商人となって、砂漠を歩きつづけた。世界が彼に代わって、詩人になった。託した。そうまでして、偽りの富のために、偏狭に争うことを、しなかった。


世界の危機を、待っていた。


心の砂漠はいつのどこにでも、ある。温かい、孤独を愛した。

熱い、手に掬い上げる砂のような眼で、無名の奴隷の、ナンセンスな気配を感じながら。


理性=肉体=情念、この闘争の山脈を縦断し、飛翔すること。それぞれの雄志を認識すること。距離をとることではなく、それを受け入れる器。それらがその中にあって和解すること。本質的な、この星の歴史的な事柄に関心を持つことが、理念だった。たとえそのようにしていたとしても、死にはしない。

彼はコップの水を飲み干した。

たとえそうしていたとしても、死にはしないから、平気だと、彼は思っていた。

ただし、自ら死を選ばない限り。

思い出すようにしてしか存在しない都会には、ただつまらないものが多すぎて、必要以上に媚びて過ぎていて、我が物顔で、どれもこれもうっとうしかった。そうして彼は、やむなく生き延びるために、敬うことを学んだのだった。

ただし、その身に危険が、及ばない限り。


夜明けの海岸を、彼は歩いた。立ち止まって、原初の風景を、見ていた。

原初にしか、風景はなかった。彼の中にしか。そのほかは、自分が歩くことしか、できない。

鳴かない火の鳥のような、海。

無感動に、美しかった。


もしも、草だけを食べて生きて行けたら。


雲は流れていた。海はさざめいていた。日は昇り、ゆっくりと、この地上を暖めていた。

それが最初で最後の、物語だった。


どんなにすばらしい意味も、後付だった。

ポケットの中の手が、ごつごつしていた。

時が経っていた。

なんだかみんなで集まって、ちょっと一杯、飲みたい気分になった。


価値は価値に突きつけるものではない。組織して、消費するものだ。

あたらしい、汲み尽くしえない、資源。


奇妙な小説家は、小説家になれないために、必然的に、小説を書く。物語は、必然的であった。だから別に、書かなくても、いい。ペンを持って書かない人のほうが、多い。彼は必然的に、彼であった。誰も彼も、そうであった。偶然なんてなかったけれど、運命だとか、宿命だとかいって、気張って見せるほどのものでもなかった。はっきりさせたかった。


いろはにほへどちりぬるを

わがよたれぞつねならむ

うゐのおくやまけふこえて

あさきゆめみじゑひもせず


みんな、死んだ仏さんだった。だから、涅槃の世界から、実体のために、回復しなければならない。何かをすることとは、そういうことだと思っていた。罪と救いは、同義だった。ただ空虚であることが、罰であった。それは、趣味によって隠される傷であった。


小鳥に言葉はいらないけれど、鳴き声だけが、その小さな体に必要だ。


自由のために、必要なのか。


彼らは互いに、互いの名前を、恐る恐る、呼び合ってみた。疑い合い、探し合い。


様々な色彩の違い。


彼は砂浜を、全速力で走った。裸足で砂を蹴った。

大人になってから、走ることなんて、滅多になかった。泣くことも、そうだった。


海の水は、冷たくて、温かくて、塩辛かった。永遠に読まれることのない、物語のように、彼を浸していた。そこを泳ぐことを、彼は、愛していた。


宇宙は、ひとつの魂を持って同一である。あらゆるものが繰り返されながら、その強度を増してゆく。洗練され、熟練されてゆく。熟練の愛情を知らないものが、陳腐な新規さを求めて心をそらす。本当にあたらしいものは、熟練の枝に咲く、無垢で知的な戯れである。それは生活という土壌を同時に肥やす。


遠くに争いの灯がともる中で、それは祈りであった。祈りとは、満ち足りた孤独であった。それは、彼にとって、至上の贈り物であった。


ミイちゃんの誕生日に、彼は、おしゃれな腕時計をプレゼントした。


世界中で、ある祈りが交換されている。それと知らずに。

もらって嬉しいものは何。

もちろん、それは悲しみではなく、喜び。喜びのための悲しみも、色っぽくて艶っぽくて時にはいいけれど、悲しみのための悲しみなんて、なってないし、かっこ悪い。

悲しみのための悲しみ。たとえばそれを受け取ったとして、その祈りを、地下室で続けるのであれば、祈りは和解のない現実に消化される。


眼には眼を。

歯に歯を。


現実とは不可能性である。不可能性の中にあっては、すべてのものが細分化される。細分化の果てに、最小単位は絶対零度の熱病によって心理的に理論化される。その結晶を、真の愛情といっても、もはや現実ではない。決闘である。


愛情のない祈りを、軽蔑する。

それがふたつのことなのか、ひとつのことなのか、まだ少し、彼には疑問だったけれど。彼は本当に犬のような男だったので、嗅覚が先に立つのだった。感覚の中にも、先天的な嗅覚があるのだった。匂いだけでは騙されること数多かったが、彼はそれに従うしかなかった。それでいいと、思っていた。怠惰であったが、安定はしなかった。


匂い。それは真実だった。


超越論的自己と他者は、接近した対話がなされない限りにおいて、ふんわりと共存可能である。しかし対話のないものを共存と呼べるのだろうか。それは歴史のない、数字だけの仮初の時間ではないだろうか。それは魅惑的な死の一形態ではないだろうか。

彼はもっと匂いを嗅ぎあいたいと思った。実際に嗅ぐことはなかったけれど、彼は対話がひとつに収斂することを、独断的に、嗅ぎ当てているように思っていた。


超越を超越して超越する。それは海の器であった。

人は血潮の器だった。

自己であろうとする意志に対して、それをも抑制する、権威。認識者。


彼はそれに誘われていた。

右も左も、内も外もなく、ただ、前と後ろがあった。それは歴史の顔に似ていた。

モナリザではなく、野菜を売りに来る、日に焼けた、元気な斎藤さんところのお婆さんの顔だった。

真っ赤なトマトにぶつかって、彼の視線は透明ではあり得なかった。


世界中で、事件は勃発し続けていた。

彼はトマトを齧った。旨いトマトだった。新鮮だった。


それで一体、物語とは何なのですか。



さあ、考えてみよう。

なぜ、何を、考えなくてはならないのか。

なぜ、宿敵、目的を欲するのか。

なぜ、安住を拒むのか。

汗、それは何であるのか。

何かと対立しながらでしか、存続できないものとは、何なのだろう。


仕組んだものも、仕組まれたものも、炸裂するときを忘れたまま、終わってしまうのだろうか。そうではなく、標準化した炸裂が、標準であるのだろうか。もはや、意識されない。


だんだん反応が鈍くなって、自分のことも、関係がなくなってきた。何しろ長い距離を来たのだ。この世の初めからあって、争いと模倣は大洪水になった。大恐慌になった。誰もが小さな泡粒になって、荒れ果てた大地は、海の底に沈んで、神話のようになった。



弓矢をたずさえて、近くの森に、狩に出かけた。彼は弓の弦で音楽を奏でることができた。それが好きだから、いつもそうした。

湖のほとりまで来ると、突然ぼたぼたと、たくさんの神様が降ってきた。最初は雨粒だったけれど、湖に降り注ぐと、粒は集まって、たくさんの人の形になった。彼は神様だと思った。

そしてたくさんの人の形をした水の塊がさらに集まって、ひとつの大きな人の形になって、震えていた。

日の光に、輝いていた。

彼は、その大きな胸をめがけて、一本の矢を放った。大きな水の人の胸には、刺さらなかった。彼の手から放たれた矢は、勢いよくそのまま突き抜けて、太陽に焼かれた。そのかすかな灰は、風に運ばれながら、どこか遠いところの、雨になった。


彼は、素っ裸になって、大きな人の中を泳いだ。その中は、ゾクッとするほど、ひんやりと冷たくて、体の重さが感じられなかった。足の親指からもぐって、頭のてっぺんまで一気に掻き分けていった。たくさんの人の声が、聴こえるようだった。


頭の上に顔を出して、ようやく息をついだ瞬間に、バシャッと、もとの湖にもどった。彼は一緒に落っこちた。まわりにいた動物たちも、その大きな音に驚いた。

彼はしばらく、呆けたままだった。


綺麗な小鳥が、たくさん鳴いていた。


何だか、だんだんと水が冷たくなるのがわかった。彼は急いで、服を脱いだ場所まで泳いで戻った。湖からあがって、振り向くと、小さな波もそのままに、湖面は凍りついていた。


彼は近くにあった岩を持ち上げて、湖の真ん中に放り投げてみた。氷の板は分厚くて、割れなかった。

すると、ちょっとして、大きな一筋の亀裂が走った。その音は、また動物たちを驚かせた。鳥たちは、遠くへ飛び去った。

ゆっくりとその亀裂が開き始めた。そこにあらわれたものは、ひとつの大きな眼球であった。氷の湖は、青い眼になった。

彼は見られたので、矢をかまえた。

矢は、目に突き刺さった。

湖は、眼が見えなくなった。


森は静かに、囁きかける。

紀元前1285年頃 カデシュの戦い

紀元前12世紀頃 トロイア戦争

紀元前770年 - 紀元前403年 春秋時代

紀元前492年 - 紀元前449年 ペルシア戦争

紀元前431年 - 紀元前404年 ペロポネソス戦争

紀元前395年 - 紀元前387年 コリントス戦争

紀元前403年 - 紀元前221年 戦国時代

紀元前334年 - 紀元前323年 アレクサンドロス大王の東征

紀元前4世紀 ディアドコイ戦争

紀元前343年 - 紀元前290年 サムニウム戦争

紀元前264年 - 紀元前146年 ポエニ戦争

紀元前264年 - 紀元前241年 第一次ポエニ戦争

紀元前218年 - 紀元前201年 第二次ポエニ戦争

紀元前149年 - 紀元前146年 第三次ポエニ戦争

紀元前229年 - 紀元前219年 イリュリア戦争

紀元前215年 - 紀元前148年 マケドニア戦争

紀元前215年 - 紀元前205年 第一次マケドニア戦争

紀元前200年 - 紀元前196年 第二次マケドニア戦争

紀元前171年 - 紀元前168年 第三次マケドニア戦争

紀元前150年 - 紀元前148年 第四次マケドニア戦争

紀元前206年 - 紀元前202年 楚漢戦争

紀元前192年 - 紀元前188年 シリア戦争

紀元前181年 - 紀元前179年 第一次ケルティベリア戦争

紀元前165年 - 紀元前142年 マカバイ戦争

紀元前153年 - 紀元前133年 ヌマンティア戦争

紀元前155年 - 紀元前140年 ルシタニア戦争

紀元前113年 - 紀元前101年 キンブリ・テウトニ戦争

紀元前111年 - 紀元前105年 ユグルタ戦争

紀元前91年 - 紀元前88年 同盟市戦争

紀元前88年 - 紀元前63年 ミトリダテス戦争

紀元前88年 - 紀元前84年 第一次ミトリダテス戦争

紀元前83年 - 紀元前81年 第二次ミトリダテス戦争

紀元前74年 - 紀元前63年 第三次ミトリダテス戦争

紀元前73年 - 紀元前71年 スパルタクスの反乱

紀元前49年 - 紀元前45年 ローマ内戦

紀元前44年 - 紀元前30年 ローマの内乱

紀元前58年 - 407年 ゲルマニア戦争

紀元前58年 - 紀元前50年 ガリア戦争

66年~70年 - ユダヤ戦争

68年 - 四皇帝の年

101年~106年 - ダキア戦争

220年~280年 – 三国時代

291年~306年 - 八王の乱

304年~439年 - 五胡十六国時代

663年 - 白村江の戦い

751年 - タラス河畔の戦い

907年~960年 - 五代十国時代

1019年 - 刀伊の入寇

1066年 - ノルマン・コンクエスト

1096年~1291年 - 十字軍

1096年~1099年 - 第1回十字軍

1147年~1149年 - 第2回十字軍

1187年~1191年 - 第3回十字軍

1202年~1204年 - 第4回十字軍

1217年~1221年 - 第5回十字軍

1228年 - 第6回十字軍

1248年~1254年 - 第7回十字軍

1280年 - 第8回十字軍

1271年~1291年 - 第9回十字軍

1274年~1281年 - 元寇

1296年~1333年 - スコットランド独立戦争

1314年~1429年 - 三山時代

1337年~1453年 - 百年戦争

1419年 - 応永の外寇

1453年 - コンスタンティノープルの陥落

1453年 - 志魯・布里の乱

1455年~1485年 - 薔薇戦争

1508年~1516年 - カンブレー同盟戦争

1521年~1559年 - イタリア戦争

1524年~1525年 - ドイツ農民戦争

1546年~1547年 - シュマルカルデン戦争

1558年~1583年 - リヴォニア戦争

1562年~1598年 - ユグノー戦争

1563年~1570年 - 北方七年戦争

1568年~1648年 - 八十年戦争

1592年~1598年 - 文禄・慶長の役

1611年~1613年 - カルマル戦争

1618年~1648年 - 三十年戦争1619年 - サルフの戦い

1621年~1629年 - スウェーデン・ポーランド戦争

1622年~1890年 - インディアン戦争

1624年 - 丁卯胡乱

1636年 - 丙子胡乱

1638年~1660年 - 三王国戦争

1639年~1640年 - 主教戦争

1640年~1649年 - アイルランド同盟戦争

1641年~1649年 - イングランド内戦

1643年~1645年 - トルステンソン戦争

1648年~1653年 - フロンドの乱

1652年~1654年 - 第一次英蘭戦争

1654年~1667年 - ポーランド・ロシア戦争

1655年~1660年 - 北方戦争

1655年~1659年 - スウェーデン・ポーランド戦争

1657年~1660年 - スウェーデン・デンマーク戦争

1665年~1667年 - 第二次英蘭戦争

1667年~1668年 - ネーデルラント継承戦争

1672年~1678年 - オランダ戦争

1672年~1674年 - 第三次英蘭戦争

1675年~1679年 - スコーネ戦争

1688年~1697年 - ファルツ継承戦争

1689年~1763年 - 北米植民地戦争

1689年~1697年 - ウィリアム王戦争

1700年~1721年 - 大北方戦争

1701年~1714年 - スペイン継承戦争

1702年~1713年 - アン女王戦争

1733年~1735年 - ポーランド継承戦争

1740年~1748年 - オーストリア継承戦争

1739年~1748年 - ジェンキンスの耳の戦争

1744年~1748年 - ジョージ王戦争

1744年~1748年 - 第一次カルナティック戦争

1750年~1754年 - 第二次カルナティック戦争

1756年~1763年 - 七年戦争・Category:七年戦争

1754年~1763年 - フレンチ・インディアン戦争

1758年~1763年 - 第三次カルナティック戦争

1767年~1799年 - マイソール戦争

1768年~1774年 - 第一次露土戦争

1775年~1783年 - アメリカ独立戦争

1775年~1817年 - マラータ戦争

1787年~1790年 - 第二次露土戦争

1788年~1790年 - 第一次ロシア・スウェーデン戦争

1792年~1802年 - フランス革命戦争

1798年 - アイルランド反乱

1801年~1805年 - 第一次バーバリ戦争

1803年~1815年 - ナポレオン戦争

1807年~1814年 - イベリア半島戦争

1804年~1813年 - 第一次イラン・ロシア戦争

1808年~1809年 - 第二次ロシア・スウェーデン戦争

1809年~1825年 - ボリビア独立戦争

1810年~1821年 - メキシコ独立戦争

1812年~1814年 - 米英戦争

1814年~1816年 - グルカ戦争

1815年 - 第二次バーバリ戦争

1820年~1823年 - スペイン内戦

1821年~1829年 - ギリシャ独立戦争

1824年~1826年 - 第一次英緬戦争

1825年~1828年 - アルゼンチン・ブラジル戦争

1826年~1828年 - 第二次イラン・ロシア戦争

1836年~1839年 - ペルー・ボリビア戦争

1838年~1842年 - 第一次アフガン戦争

1839年~1851年 - 大戦争

1840年~1842年 - 阿片戦争

1843年~1852年 - ロサス戦争

1843年~1872年 - マオリランド戦争

1845年~1848年 - シーク戦争

1846年~1848年 - 米墨戦争

1848年~1850年 - 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争

1850年~1865年 - 太平天国の乱

1852年~1853年 - 第二次英緬戦争

1853年~1856年 - クリミア戦争

1856年~1860年 - アロー戦争

1857年~1858年 - セポイの反乱

1858年~1861年 - リソルジメント

1859年~1863年 - 連邦戦争

1861年~1865年 - 南北戦争

1864年 - 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争

1864年~1870年 - 三国同盟戦争

1866年 - 普墺戦争

1870年~1871年 - 普仏戦争

1877年~1878年 - 露土戦争

1878年~1881年 - 第二次アフガン戦争

1879年~1883年 - 太平洋戦争

1880年~1881年 - 第一次ボーア戦争

1884年~1885年 - 清仏戦争

1885年~1886年 - 第三次英緬戦争

1889年~1896年 - 第一次エチオピア戦争

1894年~1895年 - 日清戦争

1896年 - イギリス・ザンジバル戦争

1897年 - 希土戦争

1898年 - 米西戦争

1899年~1903年 - 千日戦争

1899年~1913年 - 米比戦争

1899年~1901年 - 義和団の乱

1899年~1902年 - 第二次ボーア戦争

1904年~1905年 - 日露戦争

1911年~1912年 - 伊土戦争

1912年 - 第一次バルカン戦争

1913年 - 第二次バルカン戦争

1914年~1918年 - 第一次世界大戦

1918年~1920年 - ロシア内戦

1919年~1922年 - アイルランド独立戦争

1919年~1922年 - 希土戦争

1919年 - 第三次アフガン戦争

1920年 - ポーランド・ソビエト戦争

1921年 - コト紛争

1922年~1923年 - アイルランド内戦

1926年~1949年 - 国共内戦

1931年~1933年 - 満州事変

1932年~1938年 - チャコ戦争

1935年~1936年 - 第二次エチオピア戦争

1936年~1939年 - スペイン内戦

1937年~1945年 - 日中戦争

1938年 - 張鼓峰事件

1939年 - ノモンハン事件

1939年~1945年 - 第二次世界大戦

1939年~1940年 - 冬戦争

1941年~1944年 - 継続戦争

1941年~1945年 - 独ソ戦

1941年~1945年 - 太平洋戦争

1945年~1989年 - 冷戦

1945年~1949年 - インドネシア独立戦争

1945年~1954年 - 第一次インドシナ戦争

1946年~1949年 - ギリシャ内戦

1948年~1971年 - 印パ戦争

1948年~1973年 - 中東戦争

1948年 - 第一次中東戦争

1956年 - 第二次中東戦争

1967年 - 第三次中東戦争

1973年 - 第四次中東戦争

1948年~パレスチナ紛争

1948年~ミャンマー紛争

1949年~東トルキスタン紛争

1950年~1951年 - チベット紛争

1950年~1953年 - 朝鮮戦争

1954年~1962年 - アルジェリア戦争

1955年~1972年 - 第一次スーダン内戦

1956年 - ハンガリー動乱

1959年 - チベット動乱

1959年~1962年 - 中印国境紛争

1959年~1975年 - ラオス内戦

1960年~1965年 - コンゴ動乱

1960年~1996年 - グアテマラ内戦

1960年~1975年 - ベトナム戦争

1961年 - キューバ危機

1961年 - クウェート出兵

1961年 - ゴア紛争

1961年~1962年 - 西イリアン紛争

1962年~1969年 - 北イエメン内戦

1962年~1963年 - ベネズエラの反乱

1963年~1968年 - アルジェリア・モロッコ国境紛争

1963年~1964年 - キプロス内戦

1963年~1966年 - マレーシア紛争

1964年~コロンビア紛争

1965年 - ドミニカ共和国内戦

1965年~1979年 - 南ローデシア紛争

1965年~1984年 - チャド内戦

1967年~1970年 - ビアフラ戦争

1968年 - プラハの春

1969年 - 中ソ国境紛争

1969年 - サッカー戦争

1969年~1998年 - 北アイルランド紛争

1969年~フィリピン紛争

1970年 - ヨルダン内戦

1971年~1992年 - カンボジア内戦

1971年~カシミール紛争

1974年 - キプロス紛争

1975年~1989年 - ナミビア独立戦争

1975年~1990年 - レバノン内戦

1975年 - インドネシアの東ティモール侵攻

1975年~2002年 - アンゴラ内戦

1977年~1979年 - ウガンダ・タンザニア戦争

1978年~1988年 - オガデン戦争

1979年~西サハラ紛争

1979年 - 中越戦争

1979年~1989年 - ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻

1979年~1990年 - ニカラグア内戦

1980年~1992年 - エルサルバドル内戦

1980年~1988年 - イラン・イラク戦争

1980年~ペルー紛争

1982年 - フォークランド紛争

1983年~2004年 - 第二次スーダン内戦

1983年 - グレナダ侵攻

1983年~2002年 - スリランカ内戦

1984年 - 中越国境紛争

1987年~ブルンジ内戦

1988年~ナゴルノ・カラバフ紛争

1989年~2001年 - アフガニスタン内戦

1989年~1992年 - 第一次南オセチア紛争

1989年 - パナマ侵攻

1989年~1990年 - エチオピア内戦

1989年~1996年 - リベリア内戦

1990年~1994年 - ルワンダ紛争

1990年~1991年 - 湾岸戦争

1991年~2001年 - シエラレオネ紛争

1991年~2000年 - ユーゴスラビア紛争

1991年 - 十日間戦争

1991年~1995年 - クロアチア戦争

1992年~1995年 - ボスニア紛争

1999年~2000年 - コソボ紛争

2001年 - マケドニア紛争

1991年~2001年 - ジブチ内戦

1991年~ソマリア内戦

1991年~カザマンス紛争

1992年~オセチア・イングーシ紛争

1992年~1994年 - アブハジア紛争

1992年~アルジェリア紛争

1994年 - イエメン内戦

1994年~1996年 - 第一次チェチェン紛争

1995年~1998年 - ハニーシュ群島紛争

1997年~2000年 - エチオピア・エリトリア国境紛争

1998年 - 東ティモール紛争

1998年~コンゴ民主共和国内戦

1998年~2001年 - ポソ宗教戦争

1999年~2009年 - 第二次チェチェン紛争

1999年 - カルギル紛争

2000年~インドネシア紛争

2001年~アメリカのアフガニスタン侵攻

2001年~パキスタン紛争

2002年~2003年 - コートジボワール内戦

2003年 - リベリア内戦

2003年~イラク戦争・Category:イラク戦争

2003年~ダルフール紛争

2004年~サリン紛争

2004年~タイ紛争

2004年~ワジリスタン紛争

2006年 - 東ティモール内乱

2006年 - イスラエルのガザ侵攻・レバノン侵攻

2006年 - エチオピアのソマリア侵攻

2006年~2009年 - スリランカ内戦

2008年 - 第二次南オセチア紛争

2008年 - イスラエルのガザ紛争



木々がなぎ倒された後、大きな獣道がある。巨大な石の塊を転がしたようなそこを、彼は歩いた。青い空には幾千の雲が行き過ぎ、日の光が戯れに、地上に影絵をして投げかけた。

すると一匹の猪が、それにつられて顔を出した。彼は矢を射る。でもよく見るとそれは、さっきの湖の、大きな人になり損ねた、彷徨いだす小さな水の人だった。彼はその人をちぎって水を飲んだ。


彼は弓を奏でた。それにつられてたくさんの本物の猪が顔を出したが、そのときには、空を的に、音を射ることの方が、彼の時間にぴったりしていた。ほかの動物たちも、聴いているような、聞いていないような風で、関係なく、森に住んでいた。

そのうち小さな人は、もっと小さくなりながら、どこかへ消えていった。


地面が揺すれるのを感じて、彼は弓を置いた。向こうに、もぞもぞと動く、山のような手のひらが見えた。彼は近づいていった。


それは魔女の手だった。手だけが大きくて、体がそれにくっついた破片のようだった。自分の手のひらに腰掛けながら、変な声を出していた。それはこういうことだった。


親指は親指で、人差し指ではないし、小指は小指で、中指ではない。薬指は薬指だ。親指は親指で、人差し指は人差し指で、中指は中指で、小指は小指だ。もっと耳を澄ませば、爪は爪だし、間接は間接で、産毛は産毛だ。皮膚はぶくぶくとしていて、そしてそれが手だった。魔女はずっとそれをつぶやいていた。


魔女は傍らに隠していた斧を、もう片方の小さな腕で指示して、この大きな手を、手首から切断するように、彼に訴えた。

彼は斧を手に取り、振りかぶって、一息に切り落とした。

大きな手のひらは、全部の指を足のようにして、どすどすと走り出した。その姿は、頭のない、巨大な蜘蛛のようだった。

片手を失った魔女は、いっそう魔女らしかった。それはこういうことだった。


私は私で、あなたはあなた。

もっと耳を澄ませば、それは森の静寂だった。


さらにもっと耳を澄ませば、森は、こんな囁きだった。


改革しようとする構想が、感情にそよがれているとき、どんなにはっきりした輪郭を奮わせていたとしても、感性界に住む魔物たちが、それと嗅ぎつけてわいわいとやってくるよ。奴等の魅力的な手招きに引きずり込まれたら、なんでも一緒くた。何でも同じ喜悲劇になって、ごちゃ混ぜになって、ぐだぐだになるよ。

まあ、みんなのことを想えばこそだってことは、そりゃそうだけどね。感じるということは、セックスとか、自分とは別の何かが発端となってある、受動性だよね。カントの本にもある。

そうじゃなくて、構想は理性を母として、ただ自分に対してのみ尊厳を勝ち得ることができる、孤立する積極性だよね。みんなのことを想ったって、最初から指一本、触れることは許されていないんだよ。これは掟です。

でも、それではこの先何も変わらないのかというと、そうではなくて、実際、良くない方へと確かに変わっていってはいるし、叡智だけは危機に敏感であって、世界に関心の光を、さらに一層、音もなく、ともし続けて行く様にも見える。

いいかい、光は照らすことはできるにせよ、そのものにぐいっと、じかに働きかけることはできないんだ。孤立する積極性だからね。そこに居て頂かなくては、困るんだよ。世界を経巡るにしてもね。

結局、現状はもともと理由にならない。

でもね、君が光にもたれてどうするだろう。光が君に助けを求めているのに。

光は平等に、公平に助けを求めている。

ハハハ、みんな僕のことを、大いなる「自然」と呼ぶよ。

さあ、酒だ、音楽だ、天女も舞い踊る。

これぞ、悲しき私の勝利。ハハハ、君も、「自然」にならないか。倒れそうなときは、おあいこで、僕がどっぷり、受け止めてあげるから。なるようになるんだ。

ハハハ、そうやって、みんなでよってたかって、僕を虐めるのだ。

隠された可能性、本当の光は、誰も彼もに、助けを、愛を求めているのに。

フフフ、それで、もうわかったと思うけど、光ってのは、要するに、お前らのことなんだがね!


彼は小さな石に躓きながら、太陽に向かって、少し大きめの矢を射った。誰か別の狩人の焼かれた灰が、彼の眼に入って、涙が出た。視界がぼやけた。邪魔くさかった。


一切を、ここから始める。循環するものは的となって、射られるべし。

あなたならどうする。


彼は獲物をしとめて、腹ごしらえをした。火が、ぶすぶすいっていた。

しばらくして、キラキラした、広い草原に出た。隕石かもしれない、大きな岩を見つけて、よじ登った。

その上に横になって、彼は昼寝をした。


やがて空に放った大きな矢が、彼の胸に落ちてくる夢を見て、眼を覚ました。でも、実際の胸の上では、小人たちが輪になって、輪舞曲を舞っているだけだった。彼は驚かせないように、すこしのあいだ、それを眺めていた。

するとだんだん小人たちは大きくなって、彼と同じぐらいの人になった。そして彼も踊りに加わった。彼の弓は、琴に化けて、よりいっそう、音楽は弾んだ。



ソファの横にある、小さな丸い腰掛の上に、ストレプトカーパスが花を咲かせている。見ると鉢の土が乾いている。裕子はそれまで読んでいた日用品のカタログを閉じながら、ずいぶん水をやっていなかったと思う。

台所からコップに水を汲んで、少しずつ、鉢にそそぐ。

飾ってあるというよりも、そばにあるだけで、けっこう気持ちが違う。でも、葉につく気持ち悪い虫は嫌いだ。

裕子はしばらくストレプトカーパスを見つめてから、またページの続きを開いた。



仕事があるということが、どういうことか、まずはじめに、基本的に、考えなくてはいけない。


ブランデンブルク協奏曲第3番 ト長調 BWV.1048 – Allegro


それは一体なんであるのか。自らの欲望のために、ただそれだけのことではないか。働くことに、理由など、意味など、ない。どんな誇りを持つことも、変装した欲望の断片であり、個人的に美化される幻想ではないか。そんなものがなくとも、人は生きてゆける。

不可避的に捏造される競争の中に、過剰に組織される、形振りかまわぬ偽善的な惰性。

奇麗事はたくさんだ。自分のために、働く。

自発的な仕事とは、満足できないという状態のことだろう。でも、満足するための活動だったら、なにも仕事に限った話ではない。遊びだってそうだ。

誰も過剰な状態を、事物にしたい。それが創造。

満足の延長が、被造物。


管弦楽組曲第4番 ニ長調 BWV.1069 – Rejouissance


何を持って満足とするのか。それは、思い描くことの中にしかないのではないか。あり有べき世界としてではなく、現に今ある、多様性の満たされなさの中に、仕えて事を運ぶことの中にしか。それは、静かなる躍動感である。


2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV.1043 - Largo ma non tanto


賃金が、誰にも数字で表されるということは、愛に似ている。

愛は、現実的な形で表されることが、不可能だからだ。


他者に対する権力は空しく、自己に掲げる危うい潜在的な意志が、そのまま他者にかかる橋だ。この橋は、何でできているか。

めぐり合うことは、可能なのか。いや、あなたが一歩を進めれば、誰しもそこに、現れる。自分自身からの、一歩。あなたしかいない、大切な世界から逃走する、その一歩。それが人生である。


ひとつは、視線である。生活という宗教性の中に育まれている時はまだいい。眩暈がするのは、それを、見るときである。見ることによって、生活の神は宙吊りにされて、居場所を失う。生活のさなかにあって、生活を失うこととは、真実、生きることである。なおそこを行きながら、自分を律することである。しかもその視線は、憎むようでもなく、愛するようでもなく、自然と戯れるように自由でなければならない。注視することには、厄介な言説を振り払う、無垢な知性が欠けるからである。


この揺らめく橋は、一体、何でできているか。


もうひとつ、それはこの橋の上を往来しに来る人々がある、種としての可能性である。人々とは、個々の人を、集団として意識することである。社会は、集団的に、存続している。このあからさまな事実は、社会的というよりも、動物的である。生物的である。実在的である。義理人情である。集団が堕落するというのは、先の独立した視線の不在である。集団自体が、そういう傾向を、各人に要求するのだ。


しかし自立せよと要求することは、自立した集団を想定することではないか。集団とは、幻である。そのように意識するだけのことである。

誰も、踊るしかない。踊ることの中に、他人を見出す。


その各々の足音を感じることに、飢餓している、待ち伏せる橋であり、信頼である。明晰な視線であるとともに、涎をたらした橋である。この橋が大洪水で崩壊した後にもまた、先を急がされた欲望が、同じ建設を企てるのではないか。

そこから零れ落ちた人は、現に、偏在している。


教育しようなどと思わないことだ。人は真似るものである。魅力的であることが、何にも増して、教育的である。人は規則に従うのではなく、人に従う。


欲望は、まず正直にその本性のまま堕ちるが先決だ。いや、堕ちるのではなく、それをひとまず了解することなのだ。そして正直に欲望を欲望と知って、ちょいと泥から顔を出してみることだ。

エロ本を読んで、戦争ゲームに熱中していればいい。

欲望でないものなど、ありはしないのだから。すべてはその後だ。本物の国家は、まだ生まれない。本物の国民が誕生するまでは。


つまり一人の人には、二重の性質が備わってある。

新しき世界のために必要な、可能性の分子としての一面と、実際的な自然動物としての一面。しかも絶望的でありながら幸福の希望を訴えてやまないのが、双方の性質が云々ということではなく、この多彩な振幅、二重性そのことの内にある。これが詩人の饒舌の種である。

そしてこれを悪化させているものが、実は、感性である。感性の首を絞めること、自分で自分の首を絞める。息を、確かめるために。真の芸術家の指名はここにある。

そして時を同じくしてここからの脱出を図るのが、視力の距離によって、永遠に世界を走り回る、英知者の理論である。


自然の成す選択には、感性が伴わない。だから、だからその分、消極的ではないけれど、積極的になることもない。


会話は、小鳥の鳴き声と変わらない。そして対話ですら、何かを守るようであっては、一匹狼の雄叫びにしかならない。

もっと落ち着いて、把握しなくてはいけない。軽やかに流れるメビウス。


共有されているもの、共有されようとしてあるもの、共有ということ自体が、そもそもすべて幻想である。

こう言ってしまっていいのではないか。幻想とは共有の香りである。

このように言って反感を買うのは、この事実ではなく、ただ単純な離反の印象である。

孤独であるということもまた、飢えた悲しみの共有を、またしても無意識に共有を前提として、うじうじとした心の奥底で、密かに求めているのではないか。孤高とは、科学的変化によせる希望ではなく、単なる科学的分子としてあることだ。つまり、その総体はあるかもしれないけれど、共有はない。

この肉体は実在するけれど、観念の存在に根拠はない。観念は、共有を前提にしている。観念とした瞬間に、真っ赤な果実は腐って落ちる。

それは香りではなく、もはや腐臭である。腐ることは、自ずからある成熟する運動によってでは、ないだろう。


孤立した、ひとつであるところのものが、なぜ、どのように関係を持って、動き出すのか。あらゆる問題が、自他のあいだの問題として、交通を始める。

ここにはモナドではなく、人が、ある。


世界に流布し、流通するためには、個人的で現実的なものは、共通の観念的なものへと、一度、変態しなければならない。身軽になるために。

神のもとではみな平等であるとは、この一様な翻訳作業の、必然的な超現実性である。汗にまみれた商品が、指で弾けるドライな貨幣に化けるように、そこではどんな薄っぺらな人生も、逆説的に、素敵なブック・カバーの心地よい読み物になり得る。そして野心的に約束された期間、観念と手をつないだ逃避行の果てに、気ままな店先で、不意に貨幣は、人が作った実際の、労働の結晶としての実物となって生き帰り、読まれた小説は、書き手の意向を取り戻すかのように見える。


しかし一度世界のために引き伸ばされて運ばれて来たものは、ある物語を喪っている。むしろ、流通という共通の黄泉の国を耐えてきたこれらのものは、最終的に見ず知らずの買い手の手の中で、微かに息を吹き返した直後、空疎な消費という決定的で、あっけらかんとした最後を迎えるのだ。この運動の匿名性の中に、すべてが忘れ去られている。忘却が、常識である。それはある種の、透明な健康と言ってもいいかもしれない。行く先のない、ただの盲目な快楽でしかないのだけれど。

それで、いい。

ここで反動的に、働く主体などというものを、ロマンティックに想定するべきではない。働くということが元来、誠実で健康な忘却の手段なのだ。

農民の作った米も、流行りの音楽も、真珠の指輪も、すべて、消費者主体の同じ自由な超物語として、目の前で炸裂する。労働者の自由よりも、買い手の自由が、黄昏の楽しみである。買うことこそ、自由を掌握する生産である。権力に発展しない、戯れる意志だ。

買うといって誤解があるならば、それは、人生の上に、点々と輝く選択である。人が生きるうえで必要な、美しく勇敢な、静かなる闘技場である。


求めるのではなく、見出すのだ。ピカソの絵画。何度でも塗り替えされる、闘牛士。


快適な思考も、不快な思考も、突撃する思考も、思考しまいとする思考も、意のままにならない、超自然である。その最大限の虚無、胎内の暗闇から、誰も、生まれいずる。究極的な根拠は、君のその繰り返される声と、名前ではないだろうか。


声が何であるかということではなく、産声が、実際に上げられてしまうということ。

名前が何であるかということではなく、誰も何も聞かされずに、やがて歩いてしまうということ。


徴は誰にも求められずに、めくるめく、不思議な形の烙印として、対立としてではなく、接点の二重性として、打ち震える。


誰も生まれてくるものを、同時に葬り去ることはできない。


現代の買い物は理性ではなく、騙された感性が惰性的にするもののようである。どうせなら、職人の物語よりも、買い物の鼻歌に憧れよ。自らの自由を、買うのだ。それは生きるために、ある程度は働かないことかもしれないし、本当の未来のための仕事を見つけることかもしれない。

世界に消耗されるよりも、世界を消費する優雅な認識。

高価なものを買うことに付随する戸惑いは、現実的な出費の大きさよりも、その物を選択するということ自体に起こる、自己の意志に対する優柔不断である。

どこを見たって、無駄なものばかりがあふれかえる。それはどこにも選ぶ意志が見当たらないからだ。奴隷となった労働者の意志は、真に自由な選択のうちにだけ、孤立して、実現できる。

労働の共有は、幻想なのだから。


選択できないことを結束させるのではなく、鮮やかに世界に開放する。

世界とは、絶え間ない、所有なき選択である。


泣いても笑っても真実は、今この瞬間、今ここにしか、ない。


名前を失ったままのものの、悲惨と、傲慢を見よ。それは、回復されるために絶えず失われるかもしれないが、それが基本的な自由である。


真実は流通しない。なぜならばそれは、一切変われずに、死ねずに、消費されずに、つまり、生まれながらにして、唯一生産されることのない運命だからだ。


Mozart: Minuet In G, K 1


男は女を求めるが、それはよく見ると、男が女を求めたのではない。一般的に、女が男を求めさせるのだ。ここに、浅薄に、人間的なものが始まる。男が、女を、そのように感じるということと、女が、男との関係を空想するということは、まったく別の現象である。

ただ、この人は唯一であるという認識は、男女の問題を超えているので、それは分身として愛されたものである。それは、親近性の問題である。しかし同類を求めるにあっても、そこに感じることと、親和的な想像があったことは疑えないだろう。

おそらく、ほかの動物においては、感性も想像力も自らに宿されていないゆえに、言うまでもなく理想もなければ、幻滅するということもない。この幻滅のなさに、さらに言って理想のなさに、自然に、人は慰められることがある。人はよく、犬と散歩することができるように。会話をすることさえ、できる。


犬は道端でいきなり交尾をしたりするけれど、普通の人であれば、そんなことはしないし、許されない。法的に、道徳的に許されていないというだけでなく、人に先天的に備わる性質として、禁止されているというよりも、困難なのである。


Mozart: Minuet In F, K 2


人はしばしば馴れ合いのセックスの果てに、疑惑と倦怠感を覚える。それは、男は、自らの理性ではなく、軟派に備えられた感性によって誘導させられた事実に思い当たるからである。感性は、人を奴隷にする。この愛の行為へ至る一連の行動が、自分ではなく、女の美しさを原因として起こったことに、少々不愉快なのである。やがて男はちっぽけな自己の尊厳を回復するために、女を自分の欲求のための所有として再認識し、権力を確保するだろう。こういうくだらない意識は、一瞬にして組織される。

女においては、男ははじめから手段である。してみても、個人的な空想のために相手を翻弄しておきながら、感性だけになってしまったような男を不甲斐なく思う。それと同時に、自分を置き去りにして行こうとする理性の袖を引っ張るのである。男の突飛な理性は女を不安にする。理性の中には、女の余地が残されていないからだ。女のわがままとはこういうものだ。でもたいていは、互いに所有されているということも、不意に見せられる優しさによって、うまい具合に解消されているのだけれど。


こういう幼稚な青春が真の愛に至るためには、などと考えてはいけない。これはまったく微笑ましい自然な状態なのだ。そしてこのような男と女の関係は、理性と感性の関係として、一人の人のうちに存し、こういうやり取りが、いたるところで、どこを歩いていても、世界中で再演されている。まったく、陽気に推察することだ。これこそ自分に関係ないことだ。自分の尻尾に、噛み付く狐だ。陽気に推察することだ。それも、気まぐれに。祭りには、狐のお面が出回るものだ。


Waltz Caprice On Themes from "Lucia"


誰も、女を感じるように、ボケッと、テレビを見てはいないだろうか。労働してはいないだろうか。音楽を聴いてはいないだろうか。書物を読んでいないだろうか。野原を歩いてはいないだろうか。世界を感じてはいないだろうか。何かを書くということは、さらに慎重でなければならない。その文字をおく真っ白なページの上に、いかめしい聖女が鎮座してはいないだろうか。そんな時、健全な理性は、本当は何か別の行動を求めているはずだ。


「歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。」といった人は、世界を感じることはできたとしても、ままならない歴史を自らのうちの始めることを放棄し、沈黙したのではないか。私の世界なんて、どこにあるのか。それは女の台詞だ。


世界は好きな音楽では、ない。音楽が終わった後の、絶え間ない再会である。

しかし、音楽に出会うことの幸福を知らない世界なんて、あまりにも残酷である。



ミイちゃんは、天国にいながら、死を望んでいた。もっといえば、死をもたらす力を、確かめたかった。そして息を吹き返した。鼻くそを、ほじりながら。


彼らは互いに、互いの名前を、恐る恐る、呼び合ってみた。疑い合い、探し合い。

名前などなく、ただその思考が存在したという痕跡。

忘れてはならない、事件。


2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系のグループによってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室を乗っ取り、自ら操縦し、2機をニューヨーク・マンハッタンへ、残りの2機をワシントンD.C.へ向かわせた。

なお、乗っ取られた4機のうち2機がアメリカ合衆国のボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機である。この2種類の機体は、運行する航空会社のパイロットに互換性を持たせるために、コックピットの操縦システムは基本的に同じものが使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。

また、一部のハイジャック犯たちはアメリカ合衆国国内にある民間の航空学校で小型機の自家用操縦免許を取得した上、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている。

これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛ぶものであったのは、いずれも燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者もいる。なお、ハイジャックされ墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している。

 

名の刻まれた、石が置かれる。


世界でも、日本の航空会社である日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している747の特別仕様である。747SR-46の46は日本航空のボーイング社におけるカスタマーコードであり、100型の場合通常百の桁は表記しない。全日本空輸のカスタマーコードは81である。SRとは「Short Range(短距離)」の略で、国土の狭い日本の国内線を運航する航空会社が幹線及び準幹線に投入する目的に特化している。1990年にボーイング社は747在来型の受注を打ち切るが、この仕様は747-400Dとして受け継がれている。これも世界で日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している特別仕様の747である。

空港へ乗り入れる便数を少なくする代わりに、一度に輸送できる旅客数(最大で550人)を多くするため、従来の747をベースに1〜2時間程度の短距離飛行用に設計された。短距離便ではあまり必要のない機内のラバトリー(トイレ)やギャレー(調理室)を減らして座席数を増やしているため、国際線仕様の747に備え付けられている長距離飛行用の燃料タンクを搭載していない。その他に離着陸が頻繁であるため降着装置を強化、重量が重い状態で短い滑走路へ着陸する際にブレーキの摩擦熱で発火するのを防ぐため強力な冷却装置を取り付ける等の変更がなされている。

また、頻度の多い離着陸によって、国際線よりはるかに多い高度変化による気圧の変化で機体に負担がかかるため、金属疲労の進行を抑える加工も施されていたが、JA8119はボーイング社による隔壁の修理ミスと、検査での金属疲労の見落としによって墜落した。

日本航空123便墜落事故/アメリカ同時多発テロ事件 *出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2009年6月14日 (日) 18:02

 では、どうするべきか。敵もなく、慰めもなく、ゆえに、自己もなく、他者もない。いや、あらゆる敵の只中で、ちっぽけな慰めの嵐の中で、透明な自己に震えながら、あたりには、不可能に武装された他者ばかりしかいない。

 本当にそうだろうか。これはただの、自発的で奴隷的な疲労感ではないだろうか。はっきりと意見する勇気の衰弱ではないか。


 頭に浮かぶ形式の奴隷から脱出するために、ひとまず、眠る。形式は、何のために。打ち砕くためにあるのか、打ち砕かれるためにあるのか。そもそもそれは、一体、何であるのか。把握の道具として意外に。動き出すため、以外に。

 二人でいることの、三人でいることの、集団でいることの、一人でいることの、複雑さと、可能性は、形式という方法の中にありえるのだろうか。それはいつまでも不十分な準備として気を引く、一つ穴のあいた傘ではないだろうか。


 男は黙って、そこにあることを成す。形式は、実際そこにある運動の上に、浮いてある、架空の飛び込み台になる。口をきかずに、唯物的なものの中に、その身を捧げる。その肉感的なものの中に、喜々として、堕ちる。男にとっての女が、女として現れる。何度でも、果ててみる。何度でも、捧げてみる。しかし決して未来に祈りはしない。今が飽和してある共犯性の中を、一人取り残されるまで、殺伐として、黙々と行く。そして気がつくと、そのままその脚力が、期せずして、今一度導かれるように超越論的な階段を上っているのである。そのひたひたと滴る足音のうちに、体から滴り落ちるしずくのうちに、暗黙に語られることのない物語がある。


 物語。なぜそれは、いつも、涙にならない涙であるのか。しかも、絶妙に自らのそれを笑う術をも心得て、見出されるときにはいつも、ただ中心として、静かに胸に寄り添っている。物語を書くものは、物語の奴隷になることにのみ、その存在が預けられてある。目的が不可視的に肉薄してあるもどかしさとともに。


 物語のない王国は、崩壊する。それは、世界の手段としてだけ、使役されるのみになる。物語に形式はない。形式の破れ目から、物語が滴り落ちる。


 労働や芸術を含む、生活も、あらゆる思想活動にも、意味を想定すること事態が、ナンセンスという意味も含めて、罪と同時に罰である。私たちはいつまでも遊んでいる。遊んでいるという意識が、そのまま究極的に、個人領域に引き篭もる、争われることのない、安い政治である。何かに集中して作業しているようなときでも、そのこととはまったく別の何かが原動力として、無意識に思い描かれてはいないだろうか。家族のために働くものは、現実的である。


 労働が生活の手段であるとすれば、単に手段でしかないものの内に目的を探り、あるいはでっち上げることは矛盾である。自らのしっぽを追いかける虎である。この生活のための手段、労働自体が目的として置かれた循環を、勇気を持って悪徳とするものが、僧侶であり、世界市民である。彼は現代において結ばれず、未来において結ばれる。

現代を生きるものにある宿命的な寂しさは、未来への思考を禁止することによって、今ある生活の雰囲気によって、どこまでも共有されるかのように感じられる。しかしそもそも、お互いに生活の手段を生きる主体としか現れてこない現場において、すでにはじめから、根本的に破局的である。ただ生活という幻想と同情が、眼をつぶして、ただ繰り返す呼吸だけを許しているのである。それは目的のない遊戯である。未来がないことのゆえに、今を共有しているかのように思い込む、本当には出会うことのない、仲のよい仲間たちである。

しかしこんなことはどうでもよいことであって、淪落は淪落として、陽気にわいわいと存続してゆくしかない。そこにも何がしかの白々しい真相があり、刹那的で可愛らしい愛情も、突拍子もなく素っ裸で登場したりするものだ。すべてが、愛されるべき安直さと、あいまいさなのだ。


問題は、世界がどんどんつまらないものになってゆくことだ。どんどん滅びてゆくことだ。どんどん、未来が食いつぶされてゆくことだ。


未来とは、そこに向かうべきものとしてではなく、私たち自身のうちにある、過去である。過去を知ることが、自由の歯車の潤滑油になる。さらに目を凝らせば、現在でさえ止むことのない過去であり、未来にしか生きることができない。それが、唯一大人になるということである。そして、つかまれる事のない人生である。物語でさえ、途方もなくて、追いつかない。

死に場所を探している、点と線を、Xを、カッコにはいった数学の上を、カッコにはいった世界の上を、スタイルが、動き出したくて、うずうずとして、燻ぶっている。

真新しい過去のようだった。そこからすべてが発信される、腰を据えた不動の父、目に見えない日常。ここに在るものを、ああでもない、こうでもないと、記す。希望だった



 美香の将来の夢は、看護婦さんになることだ。小さな如雨露で、玄関先の道路に水を撒きながら、アスファルトを黒く塗りつぶしてゆく。蟻が一匹おぼれているのを見つけてしゃがみ込む。指で救い上げて、土のあるところへ置いてやった。

 蟻は草陰をいそいで行ってしまった。

 雲にかかっていた大きな雲が流れて、あたりにゆっくりと、明るく日が射す。水溜りが、いくつもキラキラしていた。美香は不思議な気がした。空っぽになった如雨露の先に、日の光を集めて、滴が震えていた。



 形而上学的な目的を語ることと、真実、自分自身の経験と、その身に即した文学を語ることとの間には、なんとも奇妙な深淵がぽっかりと口をあけている。文学は、それがどんな状況であれ、今、ここを生きることに徹するが、それを語らせるものの裏側には、いつでも憧れが、あまのじゃくな愛情が、行く先を挑発している。そのことを知らないはずはないのだが、今ここに、すべてを見出そうとする文学的な野心が、根も葉もなく、今を持って、未来を否定する。いや、いつの時代でも、今こここそが、不幸の発端であり、飛翔する意志は、永劫、変わらない未来を肯定する。この自然で不自然な愛情は、未来を否定しながら、肯定する。明らかに見ることの正直さと優しさに打ちのめされながら、世界は矛先を変えてゆくだろうか。

 必定、打ちのめされることだ。


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