鏡の牢獄
ミラーハウス
人気の裏に噂は付きもの。人が集まれば噂が流れ、噂は人を呼ぶ。
しかし噂は時のもの。時と共に人が離れれば、噂も自然と消えるもの。
だがここの噂は消えることが無かった。
裏野ドリームランドの七不思議。それは今も生きている。
◇
目覚ましに起こされた私、藤井ユキは、誰も見ていないことをいいことに、大きなあくびをしながら洗面所へと向かう。
寝ぼけ眼のまま蛇口をひねり、冷たい水を顔へとかけた。
「ふぅ」
さっぱりした気持ちで鏡を見て、ビクリと震えた。
ああ、またこの目だ。
鏡で見る自分の顔。その眼には、憎しみが浮かんでいた。
もちろん起きたての私はそんな顔していない。
だがなぜだろう。私の目だけは、鏡に映るたびに私に憎しみの籠った視線をぶつけてくる。
私のはずなのに。同じ自分のはずなのに――
「なんでこんなことになっちゃったんだろうなぁ」
ことの始まりは、サークルで行った肝試し。裏野ドリームランドと呼ばれていた、かつては賑わいを見せた遊園地の廃墟。
人気だった当時からいろいろな噂を孕んだ遊園地ではあったが、それは人気の裏返しだろうと思っていた。
しかしその噂は閉園後も、定番の心霊スポットとしてネットの中にあり続けていた。
大学生の私たちが、ひと夏の思い出に行ってみよう言い出すのは、ある意味当然だったかもしれない。
十四人の肝試し大会。ペアを作って七不思議の一つを調べるというもの。
肝試しと言いつつも、大半のメンバーの目標は、ペアになった子との親密度アップだろう。実際、肝試しの後にいくつかのペアが付き合い始めていた。
ただ、私は特に好きな人もいなかったし、悲しいかな誰かが私を狙ってくれることもなかった。
あまりもの同士仲良くいこうなんて笑いつつ、私たちは担当となったミラーハウスを訪れたのだ。
「結構雰囲気あるよね」
ハンディーライトで辺りを照らしつつ、呟いたのは友達の彩美ちゃん。
彩美ちゃんの言う通り、ミラーハウスの中は積もった埃の蜘蛛の巣、そして何より割れた鏡でかなり不気味な雰囲気を漂わせている。
幽霊とかは苦手な方なのだが、なぜか私はあまり怖いとは感じなかった。
「ただの廃墟とは雰囲気違うね。鏡に映った私たちが多すぎて、なんだか沢山で来てるみたい」
「すごい余裕だね。私はちょっとだけ怖いかな」
「みてみて、軍隊の行進!」
わざと足音を立て、軍隊のように歩くと鏡に映った姿も同じように動く。それを見て笑い声を上げた。
肝試しとは思えないほど明るい雰囲気で私たちはミラーハウスの中を進んでいく。
「ここの噂ってなんだったっけ?」
「えっとね――」
彩美ちゃんはスマホを取り出し、七不思議一覧を呼び出した。
「ミラーハウスから出てくると、別人みたいに人が変わったって人が何人かいるらしいって噂。まるで中身だけが違うみたいになるんだって」
「つまり私が馬鹿になっちゃうってこと? ヤダそれ怖い」
「ええ……ユキちゃんが秀才になるんじゃないの?」
「それはすでに馬鹿だと言いたいのかな? かな?」
後ろに回り込み、彩美ちゃんの頭に梅干しを決める。
あたたたたと大げさに演技する彩美ちゃんの頭を叩きつつ、私たちはミラーハウスの出口へとたどり着いた。
「何もなかったね」
「そりゃね。ただの噂だし。それに本命は別でしょ」
「それもそっか。何人付き合うかな?」
お互いに気にしてそうだったチームは二つかな? あの二つは確実に付き合うと思う。後はつり橋効果でどれだけ引っ張られるかだよね。
「うーん、三組と予想した」
「じゃあ私は四組だ」
「駅前のケーキバイキングでどうだ?」
「いいぞ、受けてたとう」
夏に向けてダイエットの準備しておかないとな~なんて思いつつ、ミラーハウスを出て集合場所へと向かう。
はてさて、何人がいちゃついているかな?
「おまた~」
「ミラーハウス組、帰還しました~」
集合場所は遊園地のゲート前。そこにはすでに三つのペアが戻ってきていた。
そしてその全員がお互いに手を繋いでいる!?
いや、確かに私が注目していたペア二つは分かる。だが、もう一組も成立していたとは……
これで三組のペアが出来てしまった。後戻ってきてないのは三ペア。このうち一組でも出来ていれば私が負けてしまう!?
「ふふふ、勝ちはもらいましたかな?」
「ぐぬ、ま……まだ決まったわけではなかろう」
「今決めることも可能なのですぞ?」
「なに!?」
そそっと引っ付いてきた彩美が、私の腕に抱き着く。
そして私を下から見上げるようにして瞳を潤ませながらのたまった。
「前から、ずっと気になってたの」
「アホウ」
「あいたっ!?」
問答無用でチョップの刑ですよ。
しばらく談笑していると、残りの組も戻ってきた。
結果は、まさかまさかのカップル五組成立。
残り物は男子一人に女子四人。子って年でもないけどね。
「ハーレムですな」
唯一カップルが成立しなかった組みの女子サクラがパートナーであるマサを茶化す。
「勘弁してくれ。俺にも選ぶ権利はある」
「それひどくない!?」
「え、自覚してない?」
「この! この!」
下段蹴りをマサに加えるサクラをなだめつつ、私たちはこの後どうするかを話し合う。
主に、カップル組が別行動を開始するので、残った私たちでどこかに遊びに行かないかということだ。
カップル組の行動? ハッ、どうせホテルでしょ。
「とにかく車で町まで行こ。どこか行くにも、ここ周りに何もないし」
裏野ドリームランドは、郊外に作られた大型テーマパークだった。閉園した今、周囲の店もなくなり、本当に何もないのである。
「じゃあ俺が車出すよ」
「「「あざーっす」」」
軽自動車に乗り込み私たちは町へと向かう途中のコンビニへと立ち寄る。
「俺タバコ吸ってるわ」
「はーい、私お茶買ってくる」
「手伝うよ」
「じゃあ私お手洗い」
ちょうどいいと、私はみんなに一言断りトイレへと向かう。
待たせるのも悪いとささっと済ませ、洗面で手を洗い鏡で前髪をチェックする。
「ヒッ!?」
そして私は喉を引きつらせながら反対の壁まで逃げた。
映っていたのは私の顔。けど、鏡の向こうの私は出してくれと懇願するように、必死に鏡を叩いている。
声は聞こえない。けど、顔をぐしゃぐしゃにしながら動く口は助けてと、出してと叫んでいた。
「な、なにこれ……」
何が起きているのか分からない。私は腰を抜かし、その場にへたり込む。
鏡の前から私が消えたことで、鏡の中の私も消えた。
なんだったの……今の。
分からない。もう一度確かめるなら、また鏡の前に立てばいい。けど怖かった。鏡の中から叫ぶ私が、どうしようもないほど怖かった。
そんな時、コンコンと扉が叩かれる。
驚いてそちらを見上げると、彩音ちゃんがストローを加えたまま首を傾げていた。
「どうしたの?」
「あ、彩音ちゃん」
彩音ちゃんは扉を開け、洗面へと入ってくる。
ふと思い出した。彩音ちゃんが教えてくれた噂話。
ミラーハウスから出てきた人が、別人のようになっている。なら、変わってしまった元の人は?
「だ、だめ彩音!」
「え?」
遅かった。彩音ちゃんの姿が鏡に映り、それを彩音ちゃん自身が見つめる。
私の時と同じように、涙を流しながら出してくれと訴える彩音ちゃんの姿を。
「な、なにこれ? なんかのいたずら?」
「分かんないよ。とにかく逃げよ」
「うん」
私たちは足早にトイレから逃げて、車の元へと戻る。
すでに買い物を済ませ、二人は車の前で談笑していた。
二人は私たちの真っ青な顔に気付き、すぐに尋ねてくる。
「何かあったのか?」
「ううん、何でもない」
話せるわけがなかった。鏡の中で、自分が動いているなんて信じられるはずが無いし、何より私がミラーハウスで変わってしまった後だなんてこと、信じたくもない。
彩美ちゃんは私の腕にしがみ付いたまま、頷くばかり。
要領の得ない私たちに、二人は肩をすくめじゃあ行くかと言って車へと乗り込む。
私たちも車に乗り込み、買っておいてもらったお茶を飲む。
「ふぅ」
「落ち着いた?」
「ありがと。彩音ちゃんは?」
「私も大丈夫」
だが、この後遊びに行く気分ではなくなってしまった。
私も彩音ちゃんも途中の駅で下ろしてもらう。
「ねえユキ、このことは」
「うん、みんなには内緒。誰にも言わないでおこう」
「今日泊まりに行っていいかな?」
「私も一人は怖いし一緒にいよ」
彩音ちゃんも私も一人暮らしだ。
あんなものを見た後で、部屋に一人でいることなんて耐えられないと思う。
既に終電は終わっているため、タクシーで家まで戻り部屋へと入る。
全ての電気を付け、できるだけ部屋を明るくした。テレビを付けて、とにかく雰囲気を明るくする。
「ねえ、私たち変わっちゃったのかな?」
ベッドに座ったまま、疲れ切った様子の彩音ちゃんが尋ねてきた。
「分かんないよ。彩音ちゃんが変わったようには思えないけど」
「私もユキが変わった風には感じなかった。じゃあ噂とは違うのかな?」
スマホを取り出し、私もミラーハウスの噂を改めて調べてみる。
やはり書いてあることは変わらない。人が変わったように性格が変わってしまうらしいが、私たちはお互いがそんなに変わったとは思えなかった。
そこで私は彩音ちゃんに提案をする。
「ねえ、もう一度鏡見てみない?」
「え、でも怖いし」
「けどこのままじゃ何も分からないよ。もしかしたら、あのコンビニの鏡のせいだったかもしれないし」
可能性は少ないと思う。だけど、このまま何もしなくてもきっと解決はしてくれない。
なら自分から動かないと。
「私、見てくるよ」
「ま、待ってよユキ!」
立ち上がり、布が掛けられた姿鏡の前に立つ。
布に手を掛け、一息にはぎ取った。
そこに立っている私は、反転した姿。
何もなかった。きっと気のせい。そう思ったのに、布をとった手から、鏡の中の私だけが手を放す。
コンビニの時の様な慟哭はない。ただ、その瞳には、確かな怒りと憎しみが籠っていた。
ああ、気のせいなんかじゃないんだ。
鏡の隅にはベッドに座ったままの彩音ちゃんも映っているが、こちらは座ったままの状態ですすり泣いていた。もちろん現実の彩音は怖がってはいるが泣いていない。
鏡へと手を伸ばす。鏡の中の私も反転した世界の中で私の手と手を重ね合わせる。
「どうすればいいの?」
鏡の中の私は、首を横に振った。
戻る方法はないってこと?
「もう一度ミラーハウスに行け――ヒッ!?」
そう口にした瞬間、鏡の中の私は怒り狂ったように激しく鏡に拳を打ち付け、暴れまわる。
驚き後ずさり、躓いて尻もちをつく。
もはや鏡の中の私は完全に別の行動をとっている。もはや鏡の中の私というのも間違いだろう。
「ミラーハウスはダメなのね? 方法はないの?」
私が問いかけると、暴れるのを止め涙を流しながら一つ頷く。
もう、元に戻る方法はないんだ。ずっとこの鏡の中の私と付き合っていくしかないんだ。
「ユキ……」
「彩音ちゃん」
その日、私たちは疲れて眠ってしまうまで泣き続けた。
そして今日も私は鏡の中の私の向かい合う。その憎しみの籠った視線を浴びて、無感情に身支度を進めるのだった。
◇
「あの二人、変わったよね」
「ほんとびっくりしたわ。戻ってきたら別人みたいだもんな」
駅で二人を下した後、せっかくだしドライブでもどうかと誘われ、結局デートのようになってしまった二人。その話題はミラーハウスを出てから別人のように変わってしまった二人の話だ。
「あれってネタでやってたのかな?」
「正直分からん。けどネタだとしたらあいつらの演技は女優レベルだな」
「確かに」
ミラーハウスから出てきた二人。その性格は、まるで二人が反転したように変わっていた。
ユキはもともと臆病で、彩音の後ろについて歩くような子だった。
彩音は臆病なユキを引っ張っていろいろとチャレンジするタイプの子だった。
あの二人が演技で性格を変えられるとは思えない。
「ミラーハウスの噂ってあれだよな?」
「うん。変わっちゃったのかな?」
「正直怖くて聞けねぇよ」
「だよねぇ」
あれが素だと言われたら、今後上手く付き合っていける気がしなかった。
ただのイタズラだったと、そう次会ったときに言ってくれることを願いながら二人はドライブを続ける。
「あ、そういえばさ」
「なに?」
男は車を路肩へと止めて、サイドブレーキを引く。
「俺たちの担当がアクアツアーだったじゃん? 水の中に何かいるってやつ」
「うん。探したけど、何もいなかったよね」
オキアミ撒いたのにねぇと笑みを浮かべる助手席のサクラに向けて手を伸ばす。
頬に当たる手の感覚に、サクラはゾクリと不快感を覚える。
粘液の様なねっとりとしたものが、頬を伝わりスカートに垂れた。
「え、なにこれ」
「俺の飯はオキアミじゃねぇんだ。悪いな」
爬虫類のように細い瞳孔。そして横に閉じる瞼。
それがサクラの最後に見た光景となった。