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第一話 夏回顧

仕事に集中していたお陰で疲労感が溜まった身体に一時の息抜きを入れる為、俺は作業をやめ、作業デスクの傍らに置かれている仕事用とプライベート用の携帯電話の内、仕事用のほうを手に取った。

そして、そのサブディスプレーに目をやると、新着のメールを知らせる表示と着信を知らせる表示が点滅し、それぞれの脇に『3』と小文字が下付けに表示されている。

が、生憎ながら今の俺が確認したいのは、こんなのではなく時間だ。

0時0分と表示されていた。

「32回目の誕生日か……」

俺は、それを見て、呟き、手に取ったそれをデスクの上に置いた。

その刹那――

ピンポーン。

この時間帯では、滅多にならない音が部屋の中に響く。

つい先ほど時間を確認したのと共に日付も確認したが、今の仕事の締切日までは二週間もあり、更に編集者が来る時は必ず事前に仕事用の携帯に電話をしてくるはずだ。

俺の友人とかが来る時も同じで、必ず事前に確認が来るはずだ。

なら、今来ている突然の訪問者はだれだ?

ピンポーン。

と、俺が考えている間にも耐えずに響くチャイム音。

と、なると他に考えられるのは、営業時間を無視している違法営業マンか取立てか?

だが、取立てが繰るような関わりを俺は一度たりとも持った覚えが無い。

よくニュースとかでは両親が持っていて家庭崩壊を報道しているが、生憎ながら今の俺には両親と呼べる奴もいなければ、家族と呼べるのは俺だけ。

すると……誰だ?

俺は、ドアを閉めているチェーンを外そうとした手を伸ばしたところで立ち止まった。

ピンポーン。

鳴り止まないチャイム。常識外れの常識外れのしつこい客。

ゴクっと、緊張か焦燥なのか、口の中に溜まった唾を呑む音が不気味なくらいに自分の中に響く。

俺は、チェーンを外すのをやめ、恐る恐る覗き穴からドアの向こう側の様子を窺った。

そして、そこから見えたのは見知ら女性。いや、外見の幼さからでは少女として表現しても可笑しくない女の子が立っていた。

髪型はツヤツヤストレートのハイレイヤーカット。髪色は黒味が少しかかったブラウン。

そして、その顔立ちを見ると――まるで、彼女を思い出させるほどの鏡写しの瓜二つ。

ピンポーン。

その少女が、何度目かのチャイムを鳴らす。

まぁ、誰であれ、一応客だ。よくってもサイン目当てのファンだ。

俺は意を決し、チェーンを外し、ロックを外し、ドアノブをまわした。

「どちらさん?」

僅かに開いた向こう側に少女の姿を見た刹那に、俺は聞いた。

「……」

が、少女はすぐに答えることなく、俺のことを見上げていた。その視線は、どこか疑いの眼差しに近いものだった。

そして――少女の口が開いた。

「あなたが……お父さん?」

ありえなく、思いもしなく、予想外だと叫びたい言葉。

「まさか、お前に隠し子がいたとはな!」

朝日が昇りだしたのと同時に俺の元にやって来た、担当の編集者が高らかに笑う。

「あのなぁ、違うって何度言わせたら分かるんだ」

このやり取りが何度目なのか忘れたが、俺はその度に毎回同じ事を言っていると思う。

「でもよ、お前のこと『お父さん』って呼んだんだろ?」

俺の原稿のチェック作業をしながら、訊いてきた。

ちなみに、こいつと俺は同い年の32才。名前は、高柳何とか。苗字だけは覚えているけど名前はさっぱり。むしろ、高校から同じだったが名前で呼んだことなど一度たりともない。だが、俺は大学を中退しライトノベルライターとしてデビューし、高柳は大学を卒業後出版社に入社し、どういう宿命という名の運命なのかこうして共に仕事をする破目になった。

「全く。んなのどうでもいいだろ。さっさと、赤入れ済ましてくれよ」

俺は、締め切りが迫っているもう一つの原稿を執筆しながら、高柳に言った。

「ほれ」

が、俺が言い終わった刹那、高柳が俺の元に赤チェック入れが済まされた原稿を差し出してきた。

「さすがに、これだけは早いな」

俺は、それを受け取りながら、一部だけ強調して高柳に言う。

「んで、これからどうするんだ?」

「どうするって?」

受け取ったそれに視線を落としながら、高柳の問いかけに問い返した。

「あのなぁ。隠し子じゃないとして、それからはどうするんだ?」

困惑気味の高柳。だが、別に高柳が困惑になったりする必要がない気がするが、あえてその部分には触れずに、放置することして、俺は視線を原稿から高柳のほうに向けた。

「そりゃぁ、あの子の家に電話して、迎えにでも来てもらうぞ」

「電話?番号でも知ってるのか?」

「聞いた」

俺は高柳のそれに一言で即答し、デスクの上に転がっている子機を手に取り、メモ用紙に書かれている数字を押していく。

それは、少女の家の番号だ。

「んで、その子の名前は?」

仲波奏絵(なかなみ かなえ)だと」

子機の受話器を聞き耳に当てると、その向こう側から相手を呼び出しているコール音が聞こえる。

プルルルル。プルルルル。―――

プルルルル。と……


部屋の壁の向こうから、電話の音が聞こえる。

が、僕はどの電話を取ろうとする気はなく、机の上に広げている算数の宿題に挑んでいた。

そして、聞こえていた電話の音が途切れた。

どうやら、母さんが取ったみたいで、今度は母さんが電話の向こう側の人とのやり取りをしている声が聞こえてきた。

が、それはすぐに途絶え他と思いきや、誰かが僕の部屋に近づいて来る足跡が響いた。

千城(かずき)、電話よ」

それは、母さんだった。

母さんは、僕の部屋のドアを開け、僕に伝えてきた。

「誰から?」

僕は、宿題から手を離し、母さんのほうに振り向いて聞く。

「仲波って子からよ」

「えっ」

正直、驚いた。

僕――藤嶋千城(ふじしま かずき)仲波純玲(すみれ)と出逢ったのは、中学2年の春。

その頃の僕は、まだ駒駈渕(くぐぶち)町立駒駈斑中学校に入学生ではなく転校生としてやってきて間もなかった為、クラスに溶け込んでいなかったけど、反対に浮いてもいなかった。どちらかというと、あまりぱっとしなかったものだろう。

そして、純玲とは『転校生』という共通点が会ったせいか、すぐに仲良くなった。

いや、仲良くなった理由はそれだけじゃない。

当初の僕たちは、周りから見ると病気がちであった。

休み時間は教室で費やすことが出来たが、昼休みになるとクラスのほとんどの連中がグラウンドに行ってしまい、その結果大概クラスに残っているのは僕と純玲だけだった。

そんなある日の昼休み、僕は自分の席に着き、腕枕を組んで寝て過ごそうとしていた。

が―――

「ねぇ、図書室一緒に行かない?」

純玲が誘いの言葉をかけてきた。

それが、僕たちの始まりだった。

その日以来、僕たちは昼休みになると、必ず一緒に図書室に行くようになった。

そして、僕たちはお互いに共通しあう点が多く、自然と仲が良くなり、自然とこれからの日々も一緒にいられると不思議なことに互いに思うようになっていた。

その結果、クラスでは話題やイタズラの的になった。

それらは決してイジメのような酷いものではなく、イタズラに近いものだったため、僕と純玲は気にすることは無かった。でも、そのお陰で僕たちの仲はより深まったとも言える。

そして、一番その効果があったことと言えば、ある日の帰りに起きた出来事だった。

それは、下駄箱で起きたこと。

その時、僕は自分の場所から靴を取り出そうとしていた。

「それで、仲波さん。あなた、藤嶋くんのこと好きなの?」

突然、その声がその向こう側から聞こえた。

その声は、クラスにいる女子の声で、確かクラスの女子のグループの中で一番大きいのを仕切っている子。けど、声は覚えていても、名前までは覚えていなかった。といよりも、覚える気がなかった。

「……そうよ」

それに答えた声は、間違いなく純玲のものだった。しかも、その口調は冷静で、当たり前のことであるかのような様。

「私たちは、何時までも一緒にいられるよ」

今思えば、これはイタズラなんかではなかった。

「ずっと」

あの頃は、まだ――まだ――僕も彼女も未熟で子供で――

「ずっと」

世界を知らなかった。

僕たちが出会ったときは春。

桜は満開に咲き乱れ、風が吹けば桜の花々が奪われ、桜色の雪のように地面に降っていく。

タッタッタッタ。

「待てよぉ、純玲」

桜波の中を僕たちは地を蹴り、空を裂き、体力と息が続く限り走り続ける。

走っても変わらないものはいくつもあった。

一つは、舞い降る桜色の雨が止まなかったこと。

そして、もう一つは僕と純玲との距離。

それは、目に見えるものであって、心の距離のように目に見えないものではない。

僕たちの心の距離は、数センチも数ミリも離れていない。

なのに、今自分の前に見える距離は、近づこうとしても業と遠ざけようとしても、それは縮むことも無ければ広がること無かった。

ただ、一定の距離を常に保っていた。

前を走る純玲と、彼女を追う僕との距離は――

それでも、走ることをやめない僕たち。

そして、桜並木道を抜けると、一対の信号と一本の横断歩道が見えた。

しかも、その信号歩行者用が点滅し、今すぐにも赤に変わろうとしていた。

「待ってよ!純玲!」

僕が呼んでいるのにも関わらず、純玲はそんな中の横断歩道を渡りきった。僕も、後に続こうとしたが、始めから空いていた距離が裏目に出て、僕が渡ろうとする数秒前に信号は完全に赤に変わってしまった。

その刹那、自動車用の信号が青に変わり、停まっていた車が流れ出す。

そして、渡りきった純玲がクルっと僕のほうを振り向き、

「ねぇ」

僕に向かって叫ぶ。でも、走り出した車の残響で遮られ聞き取れない。

「なぁに!!」

僕も同様に叫ぶ。けど、純玲の叫びと同じで、僕と純玲との間を通り抜けていく車の残響で遮られてしまう。

でも、一時的に車の流れが無くなった――

「大丈夫だよね?いつまでも、一緒にいられるよね?いつまでも変わらないようね?」

だから、純玲の言葉が全て綺麗に聞こえた。

そして、僕がそれに答えようとした刹那、一台の大型トラックが僕の前を通り過ぎた。

それは最悪なタイミングで、僕が答えを叫びだしたときだった。だから、途中で止めることが出来なくって……トラックが通り抜けるのと当同時に僕の叫びは終わって、消えていた。

でも、僕の直線状の前にいる純玲を見ると、彼女の顔には満足したような、嬉しそうな微笑が浮かんでいた。

それが見れただけで、僕は嬉しかった。

あの時、自分で自分が叫んだ言葉が何だったのか分からなかったけど。

その電話は突然かかってきた。

僕は母さんから、電話の子機を受け取り、それを耳に当てる。

僕にそれを渡した母さんは、何事も言わずに僕の部屋から離れていった。

「……もしもし」

緊張。焦燥。それでも、僕は声を出した。

「……ごめんね……突然の電話、驚いたでしょ」

この向こうから聞こえてきた声は、いつも聞いている純玲のものとは思えないほど低いものだったが、確かにそれは純玲のものだ。

「うん。純玲は、電話するの嫌いだからね」

「うん」

………その後、僕と純玲と間には長い沈黙だけが流れていた。

僕は何かしゃべろうとしても、話題が浮かばなく、そして言葉が浮かばなかった。むしろ、純玲が無理してまで僕に電話をかけてきた理由が思いつかなかった。

僕の声が聞きたいなら、明日も学校があるんだかその時に聞ける。

僕と話がしたいのら、明日の登校時に話せる。

「千城君」

「……なに?」

この時、気付くべきだった。

純玲が始めて僕のことを名前で呼んだことを。いつもなら苗字で呼ばれていることを。

「ごめんね」

「え……」

そして、一方的に電話は切れた。

なんで、純玲が謝ったのか聞くことが出来なかった。

翌日の学校で、純玲が謝った理由が分かった。

「皆さんに、悲しいお知らせがあります」

それは、担任の先生の言葉から始まった。

「明日、仲波純玲さんが転校することになりました」

何事も突然だ。予想だってさせてくれないし、予測だってさせてくれない。

純玲からの電話や転校だって。

それが悔しかった。

僕は、僕たちの前に立つ純玲の顔を、姿を見ることが出来なかった。

今見てしまうと、泣いてしまうかもしれないと感じた。だから、僕は視線を自分の脇に移すと、そこには窓があり、その向こうには外があり――

桜は、散り始めていた風景が僕の目に映る。

結局、この日の休み時間は純玲に近づけなかった。

明日でいなくなる為、自然と純玲の周りにはクラスの連中が集まり、僕はその横を何度も素通りした。もちろん、その際に何度か純玲と視線を合わせたが、僕は合う度に無視した。

そして、昼休みになると、教室に残っていたのは僕と純玲だけ。

「千城君」

僕の元に近づいてきた純玲が、あの時の電話の時と同じ声で僕を呼びかける。

「なに」

純玲は僕のことを見ている視線を感じるけど、僕は純玲を見たくなかった。

「……ごめんね」

電話と同じことを僕に言う純玲。

「……なにが……」

本当は、その理由が、その訳が分かっていた。

でも、僕はそれを認めたくなかった。信じたくなかった。

「ごめんね……ごめんね」

何度も謝る純玲。その声は、小さいだけではなく震えていた。

何度も――ごめんね。と。

ただ、賑やかな外から響く声音が五月蠅く感じても、不思議とありがたいと思えた。

そして、その日がやって来た。

純玲が引っ越す日であり、転校する日でもある。何よりも、遠くに別れてしまう日でもある。だからこそ、クラスの奴らは最後の見送りをしに、駅にいるだろう。

でも、その中に僕は含まれていなかった。

僕は、じっと部屋に閉じこもり、刻々と時間が流れて明日になるのを待っていた。

その翌日は、土曜で学校が休み。勿論、その翌日は日曜だから当然休み。

週明けの月曜からは、自然と一人での登下校になっていた。

散った桜色の絨毯を踏みしめ、新緑の葉から洩れる木漏れ日を受け――

この日から、クラスには一つの空席が目立つようになった。

最初の頃、一人でいる時間は苦しく、重く、淋しいものだった。

朝、教室に来ると僕は必ず一番乗りで、僕しかいない教室なのに『純玲』が虚像として見えたり、自分の机に向かうのに『純玲』の席をずっと見ていたりした。

授業中も、黒板を直視していたはずなのに、気がつくと『純玲』の席をわき目で見ていたりするし、昼休みになると訳も無く純玲の机の前に立っていた。

僕には、何も出来なかった。何もしなかった。

それが悔しく、憎く――僕は、誰もいない昼休みの教室で涙だけを流した。

昼休みが終わり、午後の授業が始まる。

僕は――何度も『純玲』の席を見た。

そして、その度に毎回『純玲』の虚像が浮かぶ。

僕のことを見て、舌を出す純玲。

僕のことに気付かず、まっすぐ黒板を見る純玲。

立ち上がって教科書を読む純玲。

間違った文字を書いてしまい、慌てて消しゴムで消している純玲。

シャーペンの芯を折ってしまった純玲。

いろんな純玲が、虚像として浮かんでいた。でも、それは虚像であって実像でない。

見えたとしてもあっという間に消えてしまう儚い幻像。

どんなことも突然起きることだ。

春が終わり、夏の到来を思わす陽気が続く日々。

そんなある日、僕宛に一通の手紙が届けられた。

「これ、千城宛よ」

「ぼく?」

それを持ってきた母さんから、僕はそれを受け取り、ひっくり返して裏側を見てみると、そこには思いもしなかったことが記されていた。

『仲波純玲』。

「すみれ……」

信じられなかった。だが、その文字は間違いなく純玲の文字だ。間違えるわけが無い。

何度も純玲の文字を見てきたから。

「なんで……」

嬉しかった。涙が出るほど。

「なんで……」

叫びたかった。叫びたいほど嬉しかった。

でも、それよりも

「なんで……今更なんだよ」

今頃になって送られてきた理由が分からなかった。

僕は、それの封をといた。

純玲からの手紙に書かれていたことは、当たり前のことが書かれていた。

引っ越す前に暮らしていたここと、引っ越した地区との違い。

引っ越した地区にあるもの。

新しい生活や学校のこと。

本当に、そこに書かれているものは当たり前のことだけど、読んでいる僕や書いている純玲からしてみれば、それは当たり前のことではなく物珍しいものだった。

そして、何よりも手紙の向こうから純玲を感じることが出来た。

僕が感じた純玲は、僕と出会った時のような一人でいるような感じがしなかし、何よりも文面には純玲からの思いが込められていた。

だからだろうか。読んでいるだけで僕の側に純玲がいるような気になり、読んでいるだけで僕は純玲の側にいるような気分になる。

それから、僕と純玲は互いに手紙を送りあう仲になった。

明日になれば、夏休みの始まり。

あれからの僕と純玲は、身近にいた親しい友達から、遠くに離れている親しい文通として何枚もの手紙を送りあった。でも、僕たちの関係が変わってしまっても、心の繋がりは変わることがなかった。僕たちは、互いの思いや気持ちを手紙の中に納まりきれないぐらいに込めあった。

だからだろうか。家に帰ってきた時には真っ先にポストを除く日々が続いた。勿論、その中に目的のものになっている純玲からの手紙が入っていた時は、心から喜ぶことが出来、無かった場合はガックリと肩を落とす、僕。多分、純玲も僕と同じ。

そして、僕たちは手紙で約束を交わした。

夏休みになったら、再会することを。

純玲が帰郷するのではなく、僕が純玲の元に向かうこととなって。


その約束を交わした時、僕にはとんでもない壁が待っていた。

純玲の住所が分かっていたとしても、分からないことがたくさんあった。

一つは、純玲の住所が読めなかった。

純玲の手紙の文章の中に何度も書かれていたけど、振り仮名がされていなかった為、僕は勝手に『つくにし』と読んでいた。が、後々図書室の辞書で調べてみると、『ちくせい』と読むことが判明。

後、県名も同じで、最初僕は『いばらぎ』って読んでいたけど、実際は『いばらき』。

次に分からなかったのは茨城県筑西市がどこにあるのか地図を調べて分かったけど、その駅がどこにあるのか分からなかった。

筑西市にはたくさんの駅があるのにもかかわらず、『筑西駅』というのが見つからなかった。これだけはどうすることも出来なかった為、僕は手紙にそのことを書いて、純玲に聞いた。

純玲からの返答は翌日に届いて、その文中で僕は笑われた。

『筑西駅』なんてないよ。近くにある駅は『下館駅』だよ。え~と、電車は水戸線で玉戸駅の次ね。と、書かれていた。

そして、一番大きな問題が行き方だ。

電車でいけるのは分かるけど、僕は一番遠いところで小田原までしか行った時が無く、小田原から向こう側には一度たりとも足を踏み入れたことが無かった。

つまり、小田原から向こう側は僕からしてみれば未知の領域だった。

「え~と」

学校の帰りに、僕は駅前にある本屋で電車の時刻表の本を買い、家に帰ってきてからそれで『下館』への行き方を調べた。勿論、その際に電車の時間も調べた。

「小田原だと遠いんだ」

そして、僕は時刻表の本と睨み合いをしながら、四苦八苦な思いで乗る電車とその時間を決めた。勿論、決めた時間はちゃんと手紙に書いて純玲に教えた。

7月26日。純玲と再会を約束した日。

僕は8月辺りにしたかったけど、純玲が手紙の中でこの日がいいと訴えてきた為、この日になってしまった。ただ、純玲がそこまでこの日に拘るのか教えてくれなく、聞いたとしても「内緒」と一言で済まされてしまった。

僕は秦野駅で10時8分発の小田急小田原線急行に乗り新宿駅に向かう。時間は早いけど、夏休みだからなのか電車の中は混んでいた。でも、満車と言う訳ではなく若干の空席が伺えられた。

そして僕は、その中でボックス席がまん丸空いていたので、そこに座った。

「……」

車窓から流れていく町並みの景色を眺める。

そして、ポケットの中に手を入れると、そこに封筒が入っているのを確認した。

それは、純玲に渡す手紙。

恐らく、最後になる手紙。


ただ、怖かった。

この先にある、未知の領域と、時間が空いてしまった僕たちが再会することが。

でも、嬉しかった。再会するのが怖いけど、嬉しかった。


11時10分。

初めての新宿駅に到着。

もう既に、ここからは未知の領域だ。

見たときの無い景色、見たときの無い建物、見たときの無い道路――そこにある全てのものが見たときの無い初めてのもの。

僕は、JRの自動切符売り場の前に立ち、上を見上げた。

そこには、路線が書かれた大きな地図があって、目的の駅前での電車賃が載っている。

そして、僕はそれに書かれている『下館駅』を見つけ、書かれている電車賃を確認すると、千円札2枚を入れ、1620円と表示されているボタンを押した。

その刹那、ジャラジャラとつり銭が流れ出て、切符が出てきた。

初めての旅と、再会の旅の切符を手にして、僕は進んだ。


多くの人が波を思わすかのように流れていき、足音やざわつきが響く世界。

そして、僕はその中でポツンと浮かんでいるように思えた。感じた。

だけど、実際には浮かんでいたのではなく、溶け込んでいるかもしれないが中途半端だったと思う。

僕は、自動改札機に切符を通し、駅の中に進む。

でも、僕の足音は周りの響く音に消され、聞こえない。

聞こえるとしたら、周りの響きだけ。

でも、進む。一歩、一歩――確実に前に進む。


新宿駅からは、11時28分発のJR湘南新宿ライン快速宇都宮線直通に乗って小山駅って言う駅まで向かう。

そして、ここで気をつけることは、別料金が必要になるグリーン車に乗らないこと。後、同じ湘南新宿ラインでも高崎線直通に乗らないこと。一応、大宮駅っていうところで乗り換えは出来るみたいだけど、僕からしてみれば未踏の地であり、どこに何があるのか分からない場所で乗り換えるのにはいろいろと危ないから避けた。

「にしても……」

小田急線しか乗った時が無いけど、池袋駅を越えて赤羽駅ってところまでが遠く感じた。

そして、それ以降の駅と駅との距離が思いもしないほど離れていた。

後は、このまま小山駅まで行くだけ。ここまでは予定通りだった。

だけど――僕が立てたスケジュールを狂わす出来事が突然起きた。

本当なら起きることが予測できたし、起きるかもしれないって予想できた。でも、このスケジュールを決めている時は、不思議とそのことが起きると思えなかった。

むしろ、起きないって断定しきっていた。

12時21分、古河駅に到着。

そして、ドアが開いたのと同時に車内アナウンスが流れた。

「お客さまにお知らせいたします。ただいま、野木駅にて信号機の故障が確認されました。修理されるまでしばらくお待ちください」

「え……」

そのアナウンスは、僕に現実を思い知らせた。

思い知らされた僕は、慌てて上着のポケットからメモを取り出し、右袖を捲り、露になった腕時計を見合わせた。

最終的に信号トラブルに巻き込まれ電車が古河駅を出発したのは、それから1時間ぐらい経った13時3分のことだった。


そして、13時14分、小山駅到着。

電車を降りた僕は、乗り換えになる水戸線のホームまで走った。

少し長めの陸橋の階段を登り、改札口脇を通り、再び陸橋の階段を下りた。

が――水戸線のホームには電車が来ていなかった。いや、なかった。

やっぱり、予定よりも1時間も遅くなれば、こうなるのは当然のことで――僕は、上を見上げた。

そこには、次の電車の出発時間が表示されている電光案内板が掲げられていた。

そして、そこに表示されている時間は13時36分の出発時間。


13時30分に、電車がホームに入ってきた。そして、それが36分発の電車になった。

この時、僕は車輌の中を掃除するために一時ドアが閉まるのかと思ったら、閉まることなく掃除が行われたことに驚いた。

勿論、ここが終点のため電車の中には人がいなかった。

でも、僕が電車の中の椅子に座ると、続々と人が入ってきた。

それでも、満車になることは無かった。

それから36分になるのと同時に、電車は動き出した。

「あと少しで逢えるんだ……」

僕は、自分の前の車窓から流れ行く景色に視線を向ける。

「あと少しで……」


水戸線に乗って驚いたことがあった。

まず無人駅があること。

そして、車線が一本で途中の駅で待ち合わせをしていること。

小田林――結城――東結城――川島――玉戸――

「次は、下館。下館。関東鉄道、真岡線ご利用のお客様は乗り換えください」

車内放送が流れる。

「次か……」

目に映る景色は、一面の田畑。

そして、電車の速度がゆっくり、ゆっくりと落ちていき――

「下館。下館。真岡線、常総線ご利用のお客様は乗り換えです。真岡線は一番線より――」

僕の目的地が近づいてきた。

純玲がいる場所。純玲が暮らしている場所。

そして、僕と純玲が再会を約束した場所……

僕は、電車を降り、最終目的地である下館駅のホームに立った。

そして、辺りを見回す。が、別にこれといって何か特別なのが目に付くわけでもない。

正面には、パチンコ屋や寂れた感じがする小さなバスのターミナルとなんて名前か分からないけど初めて見た一車輌だけの電車。

後は、連絡橋の役割を持つ陸橋だけ。

上を見上げると、小田急線の駅では当たり前のように設置されているものが無かった。

それは電光時刻表。それが無かった。

更に、ホーム中には売店があるものだと思っていたけど、この駅にはそれがないことには驚いた。

僕は、ポケットに仕舞っておいた純玲からの手紙を取り出し、畳まれていたそれを開く。

そこに書かれているのは、純玲が待っている場所。

その場所は、たった一行で簡潔に書かれている。なんて書いてあるのか僕は覚えている。目を瞑っても答えることが出来るほど、明確だ。

でも、万一のことを考えて一様確認した。下手したら、僕は間違って憶えている可能性だってあるんだから。

『大きな建物があるほうに待ってるね』

僕が憶えていたことに間違いが無かった。

「大きな建物ね」

僕が乗ってきた電車は、既にホームから姿を消していた。つまり、時間になったので次の駅に向かって走り出した後だった。

そして、僕は後ろを振り向くと、難なく手紙に書かれていたそれを見つけた。

それは一目瞭然に目に付くものだった。

何せ、駅の周りに大きな建物といったらそれしかないんだから。

それは、デパートのような建物だった。

そして、僕は歩き出した。

自動改札口に、新宿駅で買った片道切符を通す。

「遅かったね」

すると、一番聞きたかった声が僕の耳に入る。

「信号トラブルに巻き込まれた」

僕は、開いた改札口を通り、その人の前に歩み寄る。

「大変だったでしょ?」

その人は、笑顔を浮かべて、僕に訊く。

僕たちの周りには、多くの人が歩いているけど、不思議の彼女の声はそれらの音よりも高く、僕の耳に響いた。

「あぁ」

僕は答える。その笑顔に。その人へ。

「何ヶ月ぶりかな?」

その人は再び訊いてきた。

「4ヶ月ぶりかもしれない」

僕は答え、肩に担いでいた荷物を下ろした。

「そうだね」

そして、僕はその人を優しく抱いた。

久々に逢った、愛しい人――仲波純玲を――

その後、僕たちは駅前のデパートの地下にあるボウリング場に向かった。

そして、ボウリングをしながらたくさんのことを話した。

別れてからの互いの日々。時間。


純玲がボールを転がす。すると、転がっていくそれは並んでいるピンの真ん中に見事命中し、それらを全て倒した。

その刹那、僕たちのレーンの画像に『ストライク』の表示がされる。

喜ぶ純玲と、僕。

戻ってきた純玲と手のひらを合わせる僕。


僕たちの思いは繋がっていた。結ばれていた。

例え、どんなに距離があっても。

例え、どんなに逢えない時間があっても。

例え、どんなに手を繋ぐ時間が無くても。

例え、どんなに一緒にいられなくても。

繋がっている。結ばれている。

だから、平気なんだ。


ボウリングを済ました僕らは、そのままゲームコーナーにあるプリクラ機の中に入った。

僕は初めての体験だったけど、純玲がいろいろとやってくれた。

どうやら、純玲はなれているみたいだ。

僕はそんな純玲に聞くと、『クラスの子たちと帰りがけに撮ったりするからね』と答えてくれた純玲。


1階にある喫茶店で、休憩を取った。

その時に、撮ったプリクラの半分を僕は渡された。

どこに貼ろうかと正直悩んだ。


「ここだよ。手紙に書いてなかったけど、千城君に見せたかったの」

僕は、純玲に手を引かれるようにエスカレータを登った。恐らく、そこが最上階だろう。

僕たちが到着したところの付近には上の階登るエスカレータと上から降りてくるエスカレータが見当たらなかった。

そして、僕が案内された場所は、展望台のような場所だった。

「ここからだとね、下館の街が見渡せれるんだよ」

笑顔で嬉しそうな声を上げる純玲。

「へぇ。すごいな」

僕は、そこから外を見回した。デパートの最上階だからだろうか、下を歩く人が米粒のように感じる。

「周りに高い建物が無いから色々と見渡せれるよ。天気がいいとね、富士山も見えるんだよ」

「へぇ。あれは何?」

僕は、一際高い山を指差した。

「あれは、筑波山」

その山は山頂部分が綺麗に三角形の形で抜き取られた不思議な形をしていた。

「火山じゃないから、噴火はしないみたいだよ」

「へぇ」

ここから見る景色は、初めての景色だった。

そして、何かと教えてくれる純玲の表情は輝いていた。

「ねぇ、千城君」

「なに、す――」

純玲に呼ばれ、僕は隣にいる純玲のほうを振り向いた。

その刹那、僕の唇に柔らかい何かが触れた。いや、重なった。

それが何かは瞬時には分からなかったけど、数秒――多分、2、3秒ぐらいして僕の唇に重なっているのが純玲の唇だと分かった。


この時、僕は不思議とこんなことを思った。

僕たちは、このまま大人になっても思いは変わらないんだと――


その後、僕たちは黙って互いに手を握りながら、窓の向こうに広がる莫大な景色を眺めた。別に、これといって景色に変化あるわけでもない。

米粒大の人や、それより若干大きめの車が流れ、長い電車が駅の中を出たり入ったり――ただ、それだけの変化。

見ていて面白いわけでもないし、惹かれるような景色でもないのに、僕たちは黙ってみていた。ただ言えることは、景色を見ていることには何も感じられなかったけど、握り合っている手からは嬉しさやほんのりとした温かさが感じた。

時間はあっという間に流れ逝く、無情なもの。もし、時間に思いやりがあったとするなら僕と純玲が再会したこの時だけでもゆっくり流れてくれるかものしれない。

だけど、そんな仮想的なものがあるわけでもないし、作れるわけでもない。

全て僕の思い込みなのかもしれない。

でも、僕たちは進んでいく。流れいく時間の中を進んでいく。

前へ。明日へ。未来へ。将来へ。

ゴールが見えない、見ることが出来ない道を。


純玲と交わした一瞬のキス。

そして、純玲の唇が離れた刹那、僕は恐怖を感じた。

未だに見ることが出来ない、明日に。将来という未来に。

でも、それに恐怖を感じたとしても、僕の中には不思議と勇気のような強い意思が浮かんでいた。

見ることが出来ない、明日や将来という未来に恐怖を感じたとしても、僕と純玲は変わらない。

この結ばれて繋がった想いは、二度と解けることが無い。と、確信ができた。根拠も何も無いのに、不思議と確信だけが僕たちの間に形として浮かび上がった。

「ねぇ、千城君」

僕の元から大体1メートルぐらい離れた純玲が、僕のほうを振り向き、僕の名前を呼ぶ。

呼ばれた僕は、すぐには返事が出来なかった。

返事をするしないよりも、唇に残る純玲の感触に気をとられていた。けど、純玲が僕の名前を呼ぶ声は聞こえた。

「きっと、変わらないよ。私たち」

何度も聞いた言葉。そして、僕中にある確信を示した言葉。

僕は、返事をする代わりに、大きく頷いた。

デパートを出ると、目の前の通りでは祭が催しされていた。

とはいえ、最初から屋台とかが並んでいたから、祭があることぐらい予測できた。

「これが、祇園祭だよ」

純玲が教えてくれる。

「これが……」

僕たちの前には、たくさんの人の流れ。

着物を着た女性や、私服の男性などなど、十人十色の人の流れ。

今、僕の目の前を流れるそれは、向こうで見ることができないものだった。

「すごいでしょ」

僕は、自分の横に立つ純玲の横顔を横目で窺った。

その表情は輝いていた。

初めて出逢ったあの時のように――

「ね?」

「……あ、あぁ」

そして、眩しくって、目が眩むように輝いていて、直視出来なかった。

その後、僕らは祭の流れのなかに溶け込んだ。

僕の手を引っ張り、前々と進んでいく純玲。

その表情には、満面の笑みが浮かんでいた。

見ているだけでこっちも嬉しくなる笑みが――


「ねぇ、千城君」

僕たちは、祭で人が混みあっていると通りをひたすら流れに逆流すると、前面がガラス張りになった建物と広場に辿り着いた。そこが、なんていう建物か知らない。

そのまま僕は純玲に引っ張られるような形でその中に入り、その建物に二階のガラス張りの連絡路のところで開放された。

そして、純玲が僕のほうを振り向くことなく、僕の名前を呼ぶ。

「怖いよね」

「え……」

ハッキリと聞こえた声。だけど、それはこれまで訊いてきた純玲の声の中で一番純玲らしくないものだった。

「見えない明日は怖いね」

純玲が僕のほうを振り向き、笑顔で言う純玲。

僕は、すぐに答えることが出来なかった。とはいえ、答えを考えたりしなかった。

だって、僕の中にその答えは既にあったから。

純玲と再会した時に、僕の中にそれができたから。生まれたから。

そして、何度も思ったから。

「……そうだね」

僕は、空を見上げ、答えを呟く。

空には、満点の星と金色に輝く丸い月。

耳を澄ませば、田舎の夏を思わす虫の声と祭で賑わう人々の歓声。

「誰だって、見えない明日は怖いよ」

視線を見上げた空から、純玲のほうに移す。

「でも、僕たちは進むしかないんだ。明日に向かって、見えない日々に恐怖を感じながらも進むしかないんだ」

僕は、純玲の元に近寄り、純玲のことを見つめる。

「変わらないで、進んでいこう」

そして、僕は純玲に右手を差し出した。

理由なんてどうでもいい。訳なんてどうでもいい。

「うん」

純玲は躊躇することなく、僕の右手を掴んでくれた。

細く、温かい純玲の手が僕の右手に添えられ――感じられる純玲の全てが僕の中に侵蝕してきた。

この日は、僕たちはこの建物――純玲からは美術館だって教わった――の直ぐ裏にある羽黒神社の離れで一夜を過ごした。

夏だった為、あまりこれといって問題はなかった。

ただ互いに汗をかいていたせいか、少しだけその臭いがするだけ。

でも、僕たちは気にならなった。

気にすることなく、僕たちは互いの肩を合わせあった。

あの時から失われた僕たちの時間を取り戻すように――

「ねぇ、千城君」

「何、純玲」

「見えない明日に進んでいっても、私たちは大丈夫だよね」

「あぁ。大丈夫」

僕は、純玲の肩に自分の手を回し、純玲を引き寄せる。

「きっと、大丈夫」

そして、僕は純玲を抱いた。

力いっぱいに。でも、純玲が痛がらない程度には手加減して――

「きっと……ずっと……一緒だよ」

僕が言おうとした言葉を、純玲が先に言った。

そして、今日何度目かのキスを交わした。

最初は、ただ唇を重ねたように優しいキス。

でも、次は大人のようなキスを交わした。

それは、初めての感覚――快感。

僕は、そのまま純玲と重なり合うようにゆっくりと彼女を倒していき―――


僕たちは、見えない明日の怖さに僕たちのやり方で足掻いた。

無理に背伸びをして、無理に登れない階段を登って――

何よりも、僕たちは僕たちの思いを繋げることが出来た。

そのことだけでも嬉しかった。喜べた。

ただ、そうする為には無理にでも大人になる必要性があったんだ。

翌日。

僕は、朝9時ちょっと過ぎの電車で帰ることにした。

そして、下館駅のホームまで純玲が見送りに着てくれた。

「早いよね。時間が流れるのは」

「あぁ。早いな」

電車を待っている約10分間の間、僕たちは他愛の無い会話を交わしあった。

そして、その間にも時間は無常に流れ、待っていた電車がホームに入ってきた。

僕は、無言でその中に入り、純玲のほうを振り向く。

「……」

「……」

僕たちは互いに言いたいことがたくさんあった。

渡さないといけないものもあった。

だけど、正直言って僕は渡したくなかった。

渡してしまうと、終わってしまうように感じたから。

昨日の幸せを教えてくれた夜が、鏡に映された嘘のように砕け散ってしまうかもしれない。

だから――

「見えなくても、私たちは進んでいこう」

「え?」

突然聞こえた純玲の声。言葉。

そして――鳴り出した電車の発進を知らせるベル。

その刹那、ドアが閉まりだし――

「千城君!私、いつものように手紙書くね!いっぱい書くからね!」

純玲の叫び声がドア越しから聞こえる。

「僕も、返事書くよ!絶対書く!絶対に書くから待っていて!」

僕も叫ぶ。

ドア越しにいる純玲に聞こえているかもしれないから――

そして、電車はゆっくりと動き出した。

「これからも、僕たちは変わらない!絶対に変わらないから!」

ドア越しの景色が流れていく。

そして、純玲の姿が僕の後方へと流れていく。

それでも僕は叫んだ。

ドアに自分の顔を押し当てて、叫んだ。

きっと純玲には届いていないかもしれないけど、叫んだ。

小山駅に着くまで、僕はその場から動くとは無かった。

そして、小山駅の中にある広い待合場所でポケットの中に手を入れたときに、僕はその大切な存在を思い出した。

それに触れ、それをポケットから取り出す。

それは、純玲宛に書いた長い長い手紙。

「…・・・」

僕は、それを渡すことが出来なかったわけじゃなく、渡し忘れていた。

だけど、不思議と不安や後悔なんてものが微塵たりとも感じず、浮かんでこなかった。

ただ、昨夜の出来事があった今となれば、この手紙はただの紙切れ当然のものであり、これを渡したことでこれからの未来が変わるわけでもなければ、純玲が僕の側に戻ってくるわけでもない。

「……きっと大丈夫」

僕は小さく呟き、それをポケットの中に押し込み、宇都宮線のホームへの階段を下りていった。

ポケットの中に押し込んだ手紙の存在を、指先で触れながら。


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