警察官の流刑地
一章 警察官の流刑地
『凶悪犯罪対策室』。
そう書かれたプレートの下に、彼は立っていた。
「……本当に今日からここに?」
嫌そうに細められた目元が、自分の境遇を嘆くものだというのに、苦労する人間はこの場にはいないだろう。
彼は周囲を見回した。廊下を行く同僚達はそこに立つ彼を見て、ひそひそと何事かを囁き合っている。
もう一度溜息をついた。
そうする度に、精悍な面立ちは崩れ、ただの年若い青年にしか見えなくなる。
仕方が無い、と彼は意を決して『凶悪犯罪対策室』の扉を叩いた。
「……失礼します」
断って、扉を開く。
蝶つがいの擦れる音がして、彼の目の前に部屋の全貌が露わになる。
まず、机が四つ。
一つは一番奥に置かれた机。おそらく室長席だろう。
残りの三つは室長席を頂くように、左右に別れて置かれている。
ただし、その机達の持ち主であろう人達の姿は見受けられなかった。
「誰も、いない……?」
彼は眉根を寄せ、困惑気味に呟いた。
まさか、いくらなんでもそれはないだろうと自分で思ったことを、自分で否定する。きっとちょうどトイレに立っていて、たまたま見なかっただけだ。
いつまでもこのまま突っ立っている訳にはいかない。
彼は部屋の中に入ると、なるべく大きな音を立てないようにして扉を閉めた。
荷物――といってもそれほど対したものがある訳ではないが――を床に置き、さてどうしたものかと考える。
ちょっと推理してみよう。
一番奥の席はまず間違い無く室長席だ。なら、他の三つの内のどれかが、彼の座る椅子になる。
室長席に一番近いところにある机。デスク上がちらかっていて、書類の山だ。
おそらくここは使われているのだろう。ならば、自分の席になりようはずも無い。
その隣の机はどうか。綺麗に整頓されているが、ペン立てや書類ファイル等が散見される。きっと整理整頓が上手な人なのだろうと彼は予想した。
ならば、女性である可能性が高い。
近付かない方がいいだろうと彼は残った机に荷物を置いた。
改めて、部屋の中を見回す。
実に殺風景だった。
インテリアといえば壁に掛けられた木目の時計と子犬がでかでかとプリントされたカレンダーくらいなものだ。
そこことに、少々意外感を覚える。
噂で聞いていたのと、だいぶ違っていた。
そんなことを考えていると、
「君は……?」
背後から、少し嬉しそうな声が聞こえて来た。振り返ると、口髭を生やした男性が立っていた。
瞳を輝かせ、今にも抱きついてこんばかりだ。
「今日付けでこちらに配属になりました――――」
先手を打たれる前に動きを封じておこうと彼が自己紹介を始める。
と、それを遮るように、口髭の男はにんまりと笑んだ。
「君のことは聞いているよ、ハワード・クラウディアンだろう?」
「は、はい……」
「何でも、前のところで問題を起こしてしまったとか」
「いやぁ、お恥ずかしい限りで」
「はは、まぁ座りたまえよ」
口髭の男に促され、ハワードと呼ばれた彼は素直に椅子に座った。それを見届けた男もまた、室長席へと移動し、どっこいせっと腰かける。
「最近は足腰が弱って来てね。昔に比べて、ずいぶんと情けなくなったものだ」
「仕方がありませんよ」
ハワードは慰めのつもりでそう言ったのだが、どうやら効果は薄かったようだ。口髭の男はかなしげに目を細めると、机の上に肘を突いて両手の指を絡め、
「私の名はトーマス・ギャロ。この『狂悪犯罪対策室』の室長を務める者だ。後他に何名か来るんだが、少し遅れているようだ。お、来たかな」
口髭の男、トーマスが入り口の方を見やる。つられてハワードもそちらを見ると、室長の言う通り、二人の人物が入って来た。
「うーっす、遅れましたー」
「ごめんなさい」
一人は何ら悪びれた様子の無い若者。年の頃はハワードと同じくらいか一、二歳年上か。色白の青年で、見るからに女遊びの好きそうな人物だった。
もう一人は、こちらは見ている方が申し訳ない気持ちになるくらい頭を下げている女性。眼鏡をかけていて、決して太っている訳ではないがふくよかな肢体が目を惹く、比較的美人と称して差し支えない人だった。
どちらも、この部屋の人間らしい。
「ハワード君、右からフランクリン・リベラレス君、ステファニー・ドゥルクラン君だ。二人とも君の先輩だよ」
「ハワード・クラウディアンです! よろしくお願いします!」
ハワードが勢いよく立ちあがり、頭を下げる。フランクリンは軽く手を振りつつ、ステファニーは笑みを浮かべ、それぞれがハワードと挨拶を交わす。
「おう、よろしくー」
「よろしくお願いしますね」
こうして、ハワードは『凶悪犯罪対策室』の一員となった。
◆◆ ◆
「それで、どうして遅れたんだ?」
トーマスが問うと、それに答えたのはフランクリンだった。
「だって事件が起きたんスもん!」
「事件! どこでですか!」
事件、というワードに反応を示したのは、ハワードだ。ステファニーはまぁまぁと彼を宥めて、
「事件といっても、大したものじゃ無いのよ」
「大したことじゃない? 食堂の今日限定特別スペシャル定食が大した事件じゃないだと!」
フランクリンがステファニーを振り返り、悪鬼のごとく怒号を飛ばす。
ステファニーは慣れっこなのか、特に気分を害したふうも無くあっさりと流した。
「大したことじゃないじゃない。単に限定メニューが出たってだけでしょ? それに、ちゃんと食べられたんだから、それでいいじゃないの」
「よくねーよ! 姐さんはそれでいいかもしれねぇだが俺はよくねぇんだ! 今日のあのメニュー、どんだけ美味かったと思ってる!」
「美味しかったならよかったじゃない」
「この美味さ誰にも伝えられねぇ! 俺はそれが悲しい!」
フランクリンが頭を抱えてその場に膝を突く。
何なんだ、この人は。それが、ハワードがフランクリンに抱いた印象だった。
「あー、その辺にしておきたまえフランクリン君。ハワード君がちょっと引いている」
トーマスの的確な指摘により、ハワードはこれ以上先輩の痴態を見ずにすんだ。
「はは、すまないねぇ。フランクリン君は自分の欲望のこととなると本当に正直な人だから。あんまり気にしなくていいよ」
「は、はぁ……」
トーマスのあまりにもぞんざいなフォローに、ハワードは曖昧にうなずくしかなかった。
「そういえば室長」
と声を声を掛けたのはステファニーだった。
「この間の話、上に通していただけましたか?」
「ああ! すまない、まだなんだ……」
「何でですか! もう、早くして下さい」
あれ? 室長ってこの中で一番偉いんじゃないの?
そんな疑問を持ちつつハワードが事態を静観していると、いつの間にか彼の側にフランクリンがいた。
フランクリンはステファニーを指差すと、
「あいつ、ああ見えてかなり恐いぜ?」
「恐い、んですか?」
「ああ、それも怒るとすげーの」
「ちょっとフランクリン! 新人に変なこと吹き込まないで!」
電光石火のごとくステファニーがフランクリンに肉薄する。と、彼の襟元を掴み、ぎりぎりと上に捻じり上げていった。
足の裏が若干床と離れていたことにハワードは気づき、なるほど確かに恐いなとステファニーへの己の中の印象を掻き換えた。
「ヘルプ! ヘイ新人ヘルプ!」
「大丈夫よ、こいつは今から絞め殺すから……!」
何が大丈夫なのだろうか。ハワードには分からなかった。
動こうにも動けずにいるハワードを助けるかのように、バンッと部屋の扉が勢いよく開いた。
外から入って来たのは、ハワードもよく知る同僚の一人。
「事件です」
「狂悪事件か!」
「それもとびきりの!」
それを聞いて、即座にステファニーが持っていたフランクリンを放り投げる。フランクリンは咳き込みながらも何とか立ち上がると、ハワードの肩にポンと軽く手を置いた。
「残念だったな。早々に事件とは」
「……はは、そうですね」
ハワードは苦笑いしながら、ついて来いと手招きするフランクリンの後を追い『狂悪犯罪対策室』から出た。
「いってらっしゃーい」
後に一人残されたトーマスだけが、ひらひらと手を振っていた。
◆◆ ◆
現場はサニーエンド郊外にあるとある一軒家。
「うわ……でけ……」
「ほんと……どんなお金持ちが住んでるってのよ」
見上げるほどもある巨大な屋敷の前に、ハワードとステファニーが感嘆の吐息を漏らす。
その脇では、フランクリンが呼び鈴を鳴らしていた。
ほど無くして、マイクから少年とも少女とも付かぬ中性的な声音が返って来た。
『どちら様でしょう?』
確実に言えるのは、まだ年端もいかぬ子供であるということだ。
警戒心たっぷりに問う幼い声に、フランクリンは出来るだけ朗らかに告げた。
「通報されたのはあなたですか?」
相手が目の前にいる訳でも無いというのに、この笑顔。徹底しているなぁ、とハワードは感心してしまう。
「ほんとに、こういうことにかけては右に出る者はいないわね」
ハワードの隣でステファニーが嫌みたらしく吐き捨てた。それが聞えなかったのか、あるいは聞えなかったふりをしているだけなのか、フランクリンからの反応は無い。
『えっと、もしかして警察の方ですか?』
「はい。私はフランクリンと申します。今、部下二人と玄関前にいるのですが……」
「な! 誰が部下よ!」
ステファニーが心外だとばかりに目尻をつり上げる。今にもフランクリンに向かって殴りかかりそうになる彼女を、今度はハワードがまぁまぁと宥める。
少しの間があって、再度マイク越しに、
『分かりました。すぐに玄関をお開け致します』
告げると同時、がちゃりと金属が外れる音がした。結構大きかったなとハワードは思った。
玄関が一人でに開いた、のかと思ったが、違ったらしい。
彼ら三人の目の前には、一人の少年が立っていた。
まだ十四、五歳程度だろう。童顔に燕尾服を着こんでいる様は、まさに子供が背伸びをしている様子そのものだった。
そんな見た目とは裏腹に、その少年はうやうやしく一礼した後、ハワード、ステファニー、フランクリンの三人を屋敷の中へと通した。
廊下を歩いていると、ふと少年が立ち止まり、
「あ、あの! すみません!」
緊張しているのだろうか、声が震えていた。
「念のため、身分証を拝見してもよろしいですか?」
「ああ、これは失礼」
まず最初に、フランクリンが身分情報の入った手帳を少年に見せた。次いでステファニー。
ハワードはまだ部署移動して初日なので、現部署での身分証を渡されていない。
「すまないな、こいつはまだ持って無いんだ」
フランクリンが苦笑いとともにハワードを指差した。少年は身分証を二人に返しながら、苦笑する。
「いえ、お二人のお連れ様ということでしたら、信用します」
「ありがとう。じゃ、早速現場へ案内してもらえる?」
言ったのは、ステファニーだ。口調がやや柔らかめだったのは、フランクリンへ向けた言葉ではないためか。
「はい、こちらです」
少年は大仰に頷くと、さっさと廊下を歩いて行ってしまう。その動きの不自然さから、緊張と恐怖が入り混じった複雑な心境なのだろうということは容易に想像がつく。
三人は少年の後を追った。
現場は一階にある書歳だった。
扉の前で、少年が立ち止まる。
「えっと、僕はここで待っていてもよろしいですか?」
「そう、だな。そこを動かないと約束出来るのなら、構わない」
「分かりました。動きません」
フランクリンと約束を交わし、少年が書歳の扉の横に立つ。
まぁ、死体なんて見たく無いと思うのが普通だろう。
その程度の認識しか、ハワードには無かった。
書歳に入り、後悔した。
「ぐ!」
三人の瞳が大きく見開かれた。
全員が、目の前の光景に戦慄する。
被害者は、頭と手足の無い、胴体だけの状態で皮張りの椅子に腰掛けていたのだから。
◆◆ ◆
外の新鮮な空気を吸ったことで、少しは楽になった。
ハワードは数度深呼吸を繰り返し、二人の先輩に向き直る。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いいのよ。あんなの見たら、誰だってこうなるわよ」
ステファニーが優しくハワードにフォローを入れる。
フランクリンは少々苛立ったように眉を立てていた。
「確かにおぞましい光景だったけど、そんなことじゃおまえ、この先やっていけないぜ? 俺達の仕事の大半は、こんな事件ばかりなんだからな」
「そんなふうに言わないの。フラン、あなただって最初はそうだったじゃない」
「昔の話を持ち出すなよ、ステファ」
二人は愛称で呼び合うような仲なのか。ハワードは少し意外だった。
てっきり、二人とも仲が悪いのだと思っていたからだ。
「……そうだな、最初は仕方が無い。その内慣れるさ」
「あんまり、慣れたくは無いんですけど……」
そこまでいくと、人として大切な何かを失ってしまうような気がする。
三人が雑談に興じていると、
「あの、大丈夫ですか?」
心配そうに声を掛けて来たのは、若いハウスメイドだった。白と黒の簡素はエプロンを着た彼女は背が高く、外側に広がるエプロンドレスを着ていても、すらりとした印象を与えて来る。
「はい、だいじょ――」
「大丈夫ですよ、これくらい!」
返事をしようとしたハワードの言葉を遮ってフランクリンがメイドさんの手を取った。瞳をきらきらと輝かせ、無遠慮に顔を寄せている。
お陰で、メイドさんは困惑気味だった。
「それよりも、あなたこそ大丈夫ですか? 家人がこんなことになって、お辛くはありませんか?」
「ええっと、あの……」
大層困った顔である。
メイドさんの救援要請の視線を受けて、ステファニーがどこからともなく木の棒を取り出した。背後ではその木の棒を振り上げているとも知らず、フランクリンはメイドさんに愛を囁き続けている。
バコン! とフランクリンの頭が空っぽなのかそれとも木の棒の方が空っぽなのか判断付きかねる音がして、彼はその場に崩れ落ちた。
気を失っているようである。
「ごめんなさい、忘れてくれていいのよ」
「は、はぁ……」
最後までメイドさんは困っていた。
「あの、警察の方、ですよね?」
「ええ、そうよ」
ステファニーがにこやかに頷く。その後ろで、ハワードも仰々しく頭を垂れた。
「『狂悪犯罪対策室』のステファニーよ。こっちのは新人のハワード君」
「私はこの屋敷のメイド長をしています、シリアと申します」
ぺこりと頭を下げるメイド長、シリア。外見同様、彼女の所作はその一つ一つがスマートだとハワードは思った。
「私に出来ることなら何でも協力いたしますわ。どうか、主人をあんな残虐な方法で殺した犯人を捕まえて下さい!」
心からの訴え、のようにも見える。
だがしかし、ステファニーには彼女のことを五〇パーセントほども信用する気にはなれなかった。
「では、まずお聞きします」
「はい」
「被害者の身元を教えて下さい」
「え? それは調べがついてるんじゃないんですか?」
そこは、ハワードも不思議に思ったことだ。
この屋敷に来るまでの道中、車の中で被害者の事前情報は頭の中に入れていた。
被害者はジェイコム・バレン。有名工業株式会社『ジェイコムグループ』の会長。一代にして世界のロボット産業を席巻した超やり手の社長だと聞いている。
ちなみにジェイコム氏は、ロボットアームの分野でいくつもの異業を成していた。その功績はロボット技術を五年は短縮出来るとして一時期ニュースにもなったものだ。
新米のハワードでさえここまで知っているのだから、ステファニーが知らないはずが無かった。
つまりこれは、彼女の口から出て来る情報をあまり重要視していないということ。
狙いは、このメイド長を観察することにある。
と、考えていたのだが。
「どうしました?」
シリアはもじもじと煮え切らない態度を取っていた。彼女の顔には、若干汗が滲んでいた。
どうしたのだろうとハワードも疑問に思っていると、
「……あの、私知らないんです、主人がどんなお仕事をされていたか」
「……え?」
予想外だった。まさか、こんなことがあるなんて。
ハワードもステファニーも、開いた口が塞がらなかった。
使用人のくせに主人の仕事を知らない。それでいいのか?
「私は、ただの使用人ですから」
最後の方は尻すぼみになって聞えなかったが、とりあえず分かったことはある。
ジェイコム氏は、仕事を家庭に持ち込むようなタイプでは無かったということだ。
「……そうですか。ありがとうございました」
この人からこれ以上の情報を聞き出すことは無理だ。
そう判断したステファニーは、メイド長に向かって一礼する。
シリアも深く一礼し、さっと仕事へ戻って行った。
「こんなこと、あるんですね」
「あるっぽいわね」
ハワードとステファニーがそろって呟いた。
フランクリンは、まだ気絶したままである。
◆◆ ◆
フランクリンが目を覚ますと、夕食のいい匂いが漂っていた。
「んあ? メシか?」
むくりと上体を起こし、左右を見回す。眠っていたベッドは自分の家のものではない。少し考えて、ここがどこであるのを思い出した。
ジェイコム・バレン氏の自宅屋敷だ。
フランクリンはベッドから起き上がると部屋から出た。匂いの元をたどり、ふらふらと階段を下りて行く。
広いフロアに下り、右に左にと首を傾ける。右の方からのようだ。
そのままの足取りで、フランクリンが両開きの扉を開ける。すると、その向こう側は食堂になっているらしく、テーブルの上には豪勢な食事がところ狭しと並べられていた。
「おお、美味そう!」
「まだだめですよ。みなさんがそろってからです」
よだれを垂らして今にもチキンに齧り付きそうになっているフランクリンを制したのは、年若いメイドだった。
赤毛とそばかすがチャーミングな少女だった。
「っと、君は?」
「わたしはここのハウスメイドをしています、ロゼディです」
にっこりと微笑む彼女の手が、また一つテーブルに料理を置いた。
その手許を見ながら、フランクリンはふと目を細めた。
「……荒れているな」
「あ……」
今さらだが、ロゼディが慌てたように両手を胸元に持って行き、背中で覆い隠す。やはり彼女とて乙女。荒れ放題の手許を他人に見られて、気持ちのいいはずが無かった。
ロゼディの心情を察してか、フランクリンが優しく彼女の肩に両手を置いた。
「大丈夫」
何を言われたのか今一つ理解出来ていない様子のロゼディ。彼女は若干うるんだ瞳を彼に向けた。
「俺は、その程度のことを気にしたりはしない。いやむしろ、素敵な手だと思うよ。まじめに仕事に取り組んで来た乙女の手の平がは美しいものだ」
本心からの言葉であった。
多少脚色が混じっているが、紛れも無い。
ロゼディはフランクリンの、ある意味胡散臭いとも取れる台詞の中に真実を感じたのか、そっと顔を上げた。
「……ほんとうですか?」
その声は弱々しく、踏みにじれば簡単に散ってしまいそうなほどの美しさに満ちていた。
「ああ、本当さ」
フランクリンも、また頷く。
くいっ、とロゼディの顎を持ち上げ、まっすぐに彼女の顔を見つめた。
ロゼディはそばかすのことを気にしているのか嫌がっていたが、フランクリンは構わずにジッと見つめ続ける。
「綺麗だよ」
囁かれる吐息に、ロゼディはとろんとした心境になった。
「……名前を、名前をお聞かせ下さい」
「フランクリン。フランクリン・リベレラス」
「あなたが、フランクリン様……」
ロゼディはフランクリンの瞳に吸いこまれるように、彼に顔を近づけていく。
そして、唇と唇が重なるかというところで――
「仕事をしなさい!」
パコンッ、と何か軽くて固い物でフランクリンの頭が叩かれた。
サッと振り返ると、そこにはあきれ顔のステファニーと頬を朱に染めているハワードがいた。
「何すんだよ、今いいとこだったのに」
「何すんだよじゃないわよ。どうしてあんたはいつもいつも」
二人の会話に付いていけないハワードとロゼディ。
「あ、気にしないで下さい」
「は、はい……」
呆然とした様子で、ロゼディはハワードの言葉に頷いた。
◆◆ ◆
夕食を終えると、各自部屋に戻る。といっても、横並びに三つ、用意されただけなのだが。
鍵は掛けられない。そもそもにおいて鍵穴が存在しなかった。
これは外から侵入など不可能であるというセキュリティ面での自信に裏打ちされた、逆にいえば過信のようなものだった。
誰も文句は言わない。口にしたところで意味が無いことは分かっているからだ。
使用人達はそれぞれに家の戸締り、食器洗いなどを行っている。
ハワード達三人は、彼に割り振られた部屋に集まっていた。
「……なぁ、死体どうしたよ?」
「ずっとあのままにしとく訳にもいかないし、もう検死に回してもらったわよ?」
「いつの間に!」
「あんたが眠りこけている間にね」
残念ながら、本部に送ることが出来た遺体は頭、両腕、両足を除く胴の部分だけだ。それ以外の部位は、探さなければならない。
「じゃ、当面の目的は損壊部位の捜索ってことでいいのか?」
「そうね。それ以外にやることも無いでしょうし」
そんなことはないだろう、とハワードはつっこんでやりたかったが、彼が一番の新米なので自重した。
かわりに、二人の先輩に向かって問いを投げ掛ける。
「どうしてジェイコム氏は殺されたのでしょう?」
「さぁねぇ……犯人も動機も、それらに付随するあれやこれやも全然分かってない状態だから、今は何とも言えないわね」
嫌になるわ、とステファニーが首を振る。その様を見ていたフランクリンはにやりと笑んだ。
「とか言いつつ、この状況を面白がってんだろ?」
「そんな訳無いじゃない。私は至って普通に心を痛めてますけど?」
全くそんなふうには見えない。
ハワードは口には出さず、心中だけでそう呟いた。
それはそれとして。
「……どうしてお二人は俺の部屋に?」
「どうしてってそりゃぁ」
「ねぇ」
先輩二人がそろってお互いの顔を見合わせる。さて何を言われるのかと身構えていると、フランクリンが口を開いた。
「まだこの屋敷のどこかに殺人犯がいるかもしれねぇだろ?」
「正確には、この屋敷にいる人間の内の誰かが犯人かもしれないって話だけどね」
フランクリンの言葉に、ステファニーが補足を入れる。
どうにもこの二人、仲がいいんだか悪いんだか。分からなくなってくる。
「だから、どうしてそれで俺の部屋に来ることになるんです?」
「俺達は警察組織だと身分明かした。こんな場合、殺人犯ならどう考えるか想像してみろよ」
「え……?」
ハワードは納得出来ないという顔のまま、言われた通りに想像してみる。
もしも自分が殺人犯で、捜査関係者である人物と接触したなら……。
「……自分が殺ったといつバレるか、ひやひやすると思います」
「おう、それで?」
「それで……恐くなります」
「その恐さを取り除くためにどうするか、考えてみて」
「…………自分を探している相手を……葬る?」
「正解百点万点よく出来ました!」
パチパチパチ、とフランクリンがハワードに向かって拍手を送る。
ハワードは困惑気味に、フランクリンに喰って掛かった。
「どうして俺達が殺されなきゃならないんですか!」
「おまえが言ったんじゃねぇか」
フランクリンは面白そうににやにやしていた。
「でも、だからって……」
言いながら納得出来てしまったのか、ハワードの口調が段々と小さくなる。それを見て、フランクリンも面白く無さそうに目を逸らした。
「ま、そういうこった」
至極つまらなさそうに、フランクリンが吐き捨てる。ステファニーも小さく頷いた。
それは、ハワードの中にある考えを肯定する動きだった。
つまり、二人が言いたいのはこういうことだ。
実際はどうであろうと関係無い。言ってしまえばここは敵地で、もしかしたら殺されるかもしれない可能性を孕んでいる。
ならば、最小限の警戒はしておくべきだ、と。
ここにいる連中は誰も信用出来ない。そういうことだ。
「でも、それじゃ……」
「もちろん、強制はしねぇよ。でも、他人を信じて殺されるのは、おまえだぜ?」
フランクリンがいい放った言葉は、ハワードにはあまりにも辛辣に響いた。
他人を信じることはばかなことだ。彼は今、こう言ったのだ。
「………………はい」
全てを納得することは出来ないものの、彼らの言い分は理解出来る。
なら、従おう。そうすれば、少なくとも殺されることは無いだろう。
目に見えて落ち込むハワードを前に、フランクリンとステファニーはどうしたものかとお互いに顔を見合わせる。
「ちょっと言い過ぎたか?」
「いえ、これでいいと思うわ。何事も最初が肝心って言うし。彼には悪いけど、何だかんだ入って自分達の命が最優先だもの」
声をひそめながら、そんなことを話し合う。
ハワードはこのまま、放っておいた方がいいだろう。
何事も、自分の中でけりを付けるという行為は大きな意味を持つ。
納得出来る、出来ないは別として、きちんと理解し飲み込めるかどうか。それが今後のハワード・クラウディアンとして人生を送っていくために重要なプロセスだ。
世の中の全てが納得出来るものばかりではないのだから。
ハワードとそう年も変わらないであろう彼らはすでにそこまでの境地に至っていた。
「……さて、今日のところはこれで操作を切り上げようと思う。初動捜査としてはあまり修学が無かったが、それはいつものことだ。徐々に明らかにしていけばいい」
「そうね。とりあえず室長に連絡するわ」
ステファニーが懐から携帯端末を取り出す。起動させ、通話機能を使って室長であるトーマスに電話を繋ぐ。
「あ、もしもし。室長ですか? 私です、ステファニー。え? 違う? いえ、私はトーマス室長の部下でして……ええ、そうです。いや、室長の不倫相手ではありません。ちょっと意味が……嘘は申していませんが。そうですそうです。いえですから……」
五分ほどそうしたやりとりが続いて、
「えい」
ステファニーが通話を断った。
一体どんな話をしていたのか、男二人は想像することさえしなかった。
恐ろしい。
「……いいのか?」
「仕方ないでしょ。また後で掛け直すわ」
ステファニーは溜息を吐いて、携帯端末をしまった。
「今のは、室長の奥さんですか?」
質問したのはハワードだった。
「ええ、そうよ。室長に報告しようと電話する度にあの人に泥棒猫扱いされて、嫌になるわ」
「大変ですね」
完全に他人事だった。
ハワードの態度が気に喰わなかったのか、ステファニーは拗ねた子供のようにぷーっと頬を膨らませた。
その様が絵になるのは、彼女の美貌があってこそだろう。
「ほんと、迷惑」
その後、ぷいとそっぽを向いて口を開か無くなったステファニーを肴に、男二人は盛り上がった。
「ステファニーって起こるとああなるんですね」
「今はまだいい方だ。飲むとさらに凄くなる」
フランクリンが耳打ちした情報に、ハワードは興味をそそられた。
ぜひ見てみたい。そんな欲望が胸中に渦巻く。
それを意志の力で抑え込んだ。
今は勤務中だし、何より本人にそれを無理矢理やらせるのは無理だろう。
やろうとすれば、返り打ちに合うのは目に見えていた。
彼女の腕っぷしの強さを、フランクリンから得々と聞かされたからだ。
◆◆ ◆
翌日、多少の寝相の悪さはあるものの、着衣の乱れ等は無く、昨晩は何の過ちも起きなかったのだと推測される。
当然といえば当然か。ここにいるみな、いい大人なのだし。
実のところフランクリンとステファニーがそういう関係なのではと邪推していたのだが、もしそうだとしてもさすがに勤務中にそういう行為に及ばないだけの分別はあったらしい。
そうでなければこの場にはいないだろうが。
むくりとハワードが起き上がる。まだ眠っている二人を起こすべきかどうか考えて、まず最初にステファニーを起こすことにした。
「起きて下さい」
肩を握り、ゆさゆさと左右に揺さぶってみる。
ステファニーは色っぽく「ん……」などと吐息を漏らし、薄く目を開けた。
「ああ、おはよう」
「おはようございます」
開口一番に朝の挨拶を交わす。
ステファニーがむくりと起き上がり、寝ぼけ眼を擦っている様を確認すると、今度はフランクリンを起こしに掛かる。
綺麗に丸まって眠っていたステファニーと違い、フランクリンの寝相は大胆なものだった。
かなりダイナミックだ。
大の字になってという領域をはるかに超越しているとハワードは思った。
浜辺に打ち上げられたまま干からびた魚を連想させる。そんな寝相だった。
「起きて下さい」
ステファニーと同じように、フランクリンの肩も揺する。
が、こちらは彼女のようにはいかなかった。
手ごわい。
ハワードが何度起こそうと試みても、反応一つ示さなかった。ハワードは少しムッとして、起こし方が段々過激になる。
「起きて下さい! 起きて下さいってば!」
耳元で叫んでみるが、身じろぎ一つしただけで、一向に目覚めようとしなかった。
「……放っておいていいわ」
ようやく意識が覚醒して来たのか、ステファニーが眠ったままのフランクリンを冷たく見下す。
彼女の瞳は、氷のようだった。
そのことに、ハワードは少しぞくっとしたのを覚えている。
◆◆ ◆
朝食後、ハワードとステファニーの二人はジェイコム氏の遺体が発見された書斎へと足を運んでいた。
部屋の中は整理整頓されていて、ジェイコム氏と何かが争ったように痕は見受けられない。
「……ねぇ、シリア。こん中で盗られた物ってある?」
ステファニーは古ぼけた背表紙の本を一冊一冊手にとって検分しながら、出入り口のところで控えていたシリアに訊ねた。シリアは困惑気味に眉根を寄せて、急いで本棚の端から端までに目を通す。
「えっと……無くなっている本はありません」
「そう」
「これで物盗りの線は無くなりましたね、先輩」
ハワードが断定口調で言うと、ステファニーは否定するように首を横に振った。
「いえ、まだよ。ここはジェイコム氏の屋敷なのだから、他にも何か高価な物があるかもしれないわ」
彼女の指摘に、ハワードがなるほどと感心して頷く。
確かに本にだって価値がある。芸術的価値のみならず、単純な金銭的価値においても、書物というのは莫大な数字になることが時としてあると、ハワードは知識として知っていた。
そして、ジェイコム氏ほどの人物が古書以外にも金銭的価値のある物品を多く所有していると考えるのは、至極真っ当な考えだ。
「では、他の部屋も見て回りますか?」
「そうね。シリア、案内してもらえる?」
「はい、もちろんです」
シリアは小さく一礼をすると、まだ死の匂いが漂うジェイコム氏の書斎の空気を嫌がるように、さっさと出て行ってしまった。
その後ろから、ハワードとステファニーが続く。
「それにしても、なんでジェイコム氏は殺されたんですかね?」
シリアに聞こえないよう、声を小さくしてステファニーに訊ねた。彼女もまた、声を殺してハワードの疑問に応じる。
「あまり推測で物を言うのはよく無いんだけれど、金持ちっていうのは色々と敵を作ってしまう物だから。彼を恨んでいた人が一人や二人いたところで驚かないわ」
「ですね」
ハワードが同意を示す。
前を歩くシリアは、気味が悪いくらいに彼らの話に耳を傾けようとはしない。内容はでは分からずとも、何かを話しているという程度のことは分かりそうなものだが。
そういうふうに訓練されているのか、はたまたそうするとまずいと思っているのか。どちらにせよ、ハワードの常識では測りしれなかった。
「こちらが、主人の寝室になります」
案内されたのは、重厚な鉄扉の前だった。精緻な装飾を施されてはいるが、明らかに侵入者に対する対策だろうということは分かった。
「ここが……」
「本来ならば主人の許可が無くては入れないのですが、状況が状況ですから」
そう言って、シリアが一つの鍵を取り出した。
「それは?」
「マスターキーです」
簡潔に答えるシリアの口調は、意識してそうしているのか、とても平坦なものだった。
「開けてください」
「はい」
ステファニーの依頼に、シリアが頷く。
シリアは手に持ったマスターキーを鍵穴に差し込み、ゆっくりと回した。
ガチャッ。
ロックが外れる音がして、扉を押すと難なく開いた。
「一つ質問が」
ステファニーが部屋へ入って行こうとするシリアを呼び止めた。つられて、ハワードも彼女を振り返る。
「何でしょう?」
「そのマスターキー、普段は誰が管理してるのですか?」
「ゼシリア様です」
「ゼシリア?」
そう疑問符を発したのは、ハワードだ。だが、彼と同じように、ステファニーもそる聞き慣れない名前を不思議に思ったに違い無かった。
シリアは体ごとハワード達を振り返ると、
「ゼシリア様は主人の奥様です」
「ジェイコム氏の……」
驚きと唖然。
ハワードとステファニーが見せたそれぞれの反応を、シリアは面白そうでも無く、淡々と見つめていた。
「どうかされましたか?」
「いえ……ジェイコム氏は結婚はされていないと聞いていたものですから」
「そうですね、ハワード様。しかしそれは、手続き上そうしていないというだけのことです」
「……なるほど、事実婚って奴か」
ステファニーは得心がいったというようにしきりに頷いている。ハワードはどこか釈然としない思いを抱えながらも、そういうあるのだろうかと納得出来ないなりに飲み込んだ。
「じゃ、そのゼリシアさんにもお話を聞かないとね」
「左様でございますか。ですが、それは難しいのではないでしょうか?」
「どうして?」
シリアが口を開きかけた。
しかし、ステファニーの疑問に対する答えがシリアの口から放たれることは無かった。
かわりに別の場所から、透き通るような美声が鼓膜を震わせたからだ。
「ゼシリア・セルリコットは誰とも会いたくないからよ」
「……誰?」
ステファニーが声のした方を向き、眉を潜めた。
そこにいたのが、声から予想出来る通りの若い女だったからだ。
それも、二十代前半の。
「私はロティ・クリアン」
「ジェイコム氏の娘さんか何かですか?」
彼の年齢なら、この年ごろの娘がいたとしても不思議では無い。
あまり似ていないが。
だが、返って来た答えは全くの別物だった。
「違うわよ。私も彼の妻よ」
「は?」
「え?」
今度は、二人の反応が完全に一致する。
驚きとともに目を見開いたまま、数秒の間硬直した。
一番先に口を開いたのはロティと名乗った女性だった。
彼女はフロアから二階へ続く階段を昇りながら、口を開く。
「他にもう一人、クリスタって名前の子がいるわ。彼女も二十代だけど、ジェイコムの妻よ。ちなみに、私達三人と彼との間に子供はいない。少なくとも私の知る範囲ではね」
訥々と喋り続けるロティの話を、ハワードは唖然としたまま聞いていた。ので、半分くらいは聞き漏らしていた。
ハワードより復帰が早かったステファニーは、彼女の言葉を一言一句聞き漏らさずに聞いていた。先ほどまでの驚きようが嘘のようである。
ここは、経験の差が出た、ということなのだろう。
ロティが階段を登り切り、ステファニーと対峙する。ロティは栗色の髪を掻き上げ、不機嫌そうに口元を引き結ぶ。
「誰が彼を殺したのか知らないけど、さっさと捕まえて頂戴」
厚顔不遜。その四字熟語が似合うような態度だった。
「……あのう」
「何?」
ハワードが弱々しく挙手をして、発言権を求める。別にそんなことを気にする必要も無いのだが、まだ若い彼は場の空気に飲まれてしまっていることは容易に分かった。
ロティが発言を促したことで、ハワードは若干笑顔を引きつらせながら問うた。
「一つ気になるんですけど、あなたはジェイコム氏を愛していたんですか?」
「は? そんな訳無いじゃない!」
ロティは汚物でも見ているかのように、ハワードを睨んだ。おそらくその視線は彼に向けられたものではないのだろう。
彼女の夫である、ジェイコム氏に向けられたものだ。
「私が彼を愛している訳が無いわ! 見た目も性格も最悪だったもの。もし彼に魅力を感じるとするなら、羽振りのよさかしらね。それ以外に彼と一緒にいてよかったと思ったことなんて一度も無いわ」
びしりと断言するロティ。さすがにここまではっきりと言われてしまっては返す言葉も無い。
ハワードはすごすごと後退りし、ジェイコム氏の寝室へと入って行く。
「先輩、早く行きましょう!」
部屋の中から手招きする後輩に、ステファニーは溜息を吐いた。
◆ ◆ ◆
結論から言えば、ジェイコム氏の寝室からめぼしい物は見つからなかった。
手がかりになりそうな物はあれど、それが確実に犯人を追いつめるために役立つ物かどうか、判断のつきかねるものがたくさんあったのだ。
とはいえ、全く収穫が無かった訳でもない。
例えば、ロティが言っていたこと。
ジェイコム氏の妻(正確には妻ではないが)は三人いる。
ゼシリア、クリスタ、ロティ。
彼女達がなぜジェイコム氏とともにいるのか。それについても一応疑問の解消はされた。
金の力が大いに働いていたのだ。
他の二人はまだ分からないが、ロティ一人に関してだけ言うなら、それは間違いない。何と言っても、本人の言である。
「なるほど、そいつは大変うらやましくないな」
フランクリンが吐き捨てるように言うと、ハワードは意外だというように目を丸くしてみせた。
「意外ですね、フラン先輩」
フランクリンと呼ぶのは長いからと、昨晩にそう呼ぶ取り決めが彼とハワードとの間であった。
それはともかくとして。
「どういう意味だ? 後輩」
フランクリンは心外だとばかりに眉を立てた。彼の威圧にひるむことなく、ハワードはにやりと笑んだ。
「どいう意味も何も、そのままですよ。フラン先輩なら、きっとジェイコム氏のようなことを望んでいるとばかり思っていましたから」
いつからかといえば、昨日、彼が屋敷のメイドを口説いていたのを見た時からだ。
「あー、そりゃ勘違いだぜ、ハワード後輩」
フランクリンは失敗したと思ったのか、額に手を当て顔を俯かせた。
「勘違い、ですか?」
「ああ、俺は女の子は好きだが、金の力を使ってまでモノにしようとなんざしねぇぜ。やっぱりそういうので手に入れるのよか、愛されたいじゃん?」
「なるほど……言われてみれば、そうですね」
ハワードは顎に手を当て、考えながら同意した。
複数の女の人から同時に愛されたいという訳だ、フランクリンは。
「何か変な方向に思考が飛躍してねぇか?」
フランクリンの疑問に、ハワードは曖昧な笑みを浮かべることで答えとした。実際は何も解決出来ていないのだが、フランクリンの方も面倒臭くなったのか、それ以上の追及はしなかった。
「それより仕事のこと考えようぜ。いつまでもこんなシンキ臭ぇところにいたくねっての」
「その点に関しては全く同意ね、フラン」
それまで黙り込んでいたステファニーが、唐突に話しに入って来た。同じ思いの人間がいて、フランクリンは水を得た魚のように跳ねた。
「だろ? だろ? どうにかしてパパパーっと解決出来ねぇもんかね」
無理だろう、と思ったのはハワードだった。この事件、それほど単純なようには、彼には思えなかった。
フランクリンのいうように、パパパーっとスピード解決は望めないだろう。
「ま、もう少し調べるしか無さそうね。それでもしダメだったなら、その時は〝彼女〟に巻かせましょう」
「だな。〝あいつ〟の力を借りれば、すぐに終わるよ」
それまで朗らかだったフランクリンの表情が一転して、苦々しいものに変わる。
ステファニーも、屈辱を堪えるかのような表情になっていた。
「んじゃ、やりますか」
「ええ……なるべく〝彼女〟に頼らなくてもいいようにしたいわ」
二人は溜息を吐いて、立ち上がった。
ハワードだけが、二人の会話の内容を理解出来ず、ぽかんとしていた。
◆◆ ◆
屋内の捜査は一先ず先輩二人に任せるとして、ハワードは一人、屋敷の裏手を回っていた。
今だ物盗りの犯行であるという可能性は潰せていない。もしそうであるならば、何か手がかりになりそうな物を落としていないかと思って来てみたのである。
足下に目を凝らしながら、ゆっくりと歩を進めて行くハワード。
そんな彼の背中に、声をかける者がいた。
「……あの、何をしているんですか?」
「ん?」
ひょいと顔を上げると、見知らぬ女性がいた。
淡い乳白色の髪を背中のあたりまで伸ばしている、見るからに美しい女性だった。
それだけではない。彼女が放つ優しい雰囲気は、人間だけで無く他の生き物でさえ骨抜きにさせてしまいそうな異質さがあった。
「あなたは……?」
この場ではどう考えてもハワードの方が部外者なのだが、彼はそれまでの職業的癖から、半ば無意識にそう訊ねていた。
「えっと、わたしは……」
その女性が言い淀む。おそらくハワードを警戒しているのだろう。名乗ってもいいものかどうか、判断がつかないのかもしれない。
さほど長い間この仕事に携わって来た訳でもないが、ハワードは何となくそう思った。
これは、自分の方から名乗った方が賢明だと判断し、彼は姿勢を正して女性へと向き直る。
「俺はハワード・クラウディアンって言います。刑事です」
簡潔な挨拶の中には、脚色が混じっていたのだが、そんなことを知る由も無い女性は、彼の全身をマジマジと見つめて、
「……刑事さん?」
「はい?」
こくんと頷くハワード。その顔は、何となく嬉しそうだった。
「あの、刑事さんがどうしてこんなところに?」
「手がかりはどこに落ちているか分かりませんからね」
女性の問いに、答えになっているようななっていないように答えをハワードは返した。女性は数秒首を傾げいたが、やがて得心がいったのかぱぁっと顔を輝かせた。
「本物の警察の人みたいですね」
そう言ってにっこり微笑み彼女の顔に悪気は無かった。
「いえ、本当に警察何ですけども……」
調子狂うな、この人。
それが、ハワードが女性に抱いた印象だった。
「それで、あなたは?」
「わたしは、クリスタ・スベルといいます」
「クリスタ……あなたが」
つい先ほど、ロティが言っていたジェイコム氏の三人の妻の内の一人だ。
「わたしのことをご存じなのですか?」
「そう、ですね。先ほどロティさんから聞きました」
「ああ、ロティさんから。それで」
一つ謎が解けてすっきりしたらしい。クリスタはまたもや無防備な笑みを浮かべた。
ハワードはころころと変わる彼女の表情を眺めながら、一つの疑念に駆られていた。
「……失礼ですがクリスタ、どうしてあなたはジェイコム氏の妻になったんですか?」
「…………それは、捜査に関係のあることですか?」
何か聞いてはいけないことのようだった。
クリスタは先ほどまでと違い、明らかに気分が害していた。見た目に分かり易く恫喝するなど無くても、彼女の纏うオーラそのものが白から黒色へと変化していくように、ハワードには感じられた。
「すみません、あまり関係の無いことですが、ちょっと気になってもので。言いたく無いなら言わなくても結構です」
ハワードが慌てて陳謝する。
それを受けて、クリスタの機嫌も少しだけよくなった。
「いえ、わたしの方こそすみませんでした……」
彼女の声は沈んでいた。
どうしよう!
わたわたと周囲を見回す。しかし、彼女の機嫌を取れそうなものは転がっていなかった。当然である。
と、ハワードが縦横無尽に視線を巡らせていると、クリスタの手許にあるものに目が行った。
それは、ジョウロのようだった。
「――と、それは?」
必死になって話題転換を試みる。
彼が指差し訪ねて来た物を見て、クリスタはほんのりと笑みを取り戻した。
「裏庭のバラ達にお水を上げようと思って」
「バラ?」
どこにそんな物がある? ハワードは後ろを向き、彼女の言うバラを探した。
「ふふ、そこにございます」
クリスタが示したのは、ハワードのいる位置から数メートル離れた場所にある草むらだった。
よく目を凝らせば、その中に数本、バラの花が咲いているのが分かった。
「あ、あった!」
ハワードがバラのあるあたりを指差し、発見したことを報告する。クリスタは微笑み、そのバラへと歩み寄る。
「野生のバラ?」
「少し違いますが、概ねそのとおりだと思います」
要領を得ないクリスタの説明に、ハワードは困惑しきりだった。
野生のバラじゃないのに野生?
「このバラは亡き夫、ジェイコムが植えたものですが、彼は多忙なため中々世話をする機会が無く、そのほとんどが枯れてしまったのです」
「なぜ使用人に世話をさせなかったのでしょう?」
「たかがバラと思っていたからではありませんか? 今となってはどうだったのか分からないのですけど」
言いながら、クリスタはバラの側でしゃがみ、水を与えている。彼女の手により水分を得たそのバラ達はまるでそれ自体が嬉しいことのように太陽の下で輝いていた。
「それでも、こうして何本かは生き残り、たくましく成長を遂げました」
ゆえに、野生ではないが概ね野生、だ。
ハワードはクリスタの言に納得を示し、ここで深く切り込んだ質問をした。
「ジェイコム氏は誰に殺されたのだと思いますか?」
「……さぁ、わたしには」
少し考える素振りを見せたが、すぐにクリスタは首を横に振った。
「ただ」
「ただ?」
ハワードの位置からではクリスタの表情を伺い知ることは難しい。加えて、彼女が顔を逸らしたため、余計に見えなくなった。
「わたしには、彼が死んでよかったと思う心があります」
「………………!」
聞き間違いだろうか。
ハワードは一瞬、そう考えた。
しかし、もう一度聞く勇気は無い。
正式な届け出はなされていないとはいえ、夫の死をよかったと言える妻。仮にも伴侶であるはずのジェイコム氏がいなくなったことを喜んでいるのだろうか?
ハワードには、理解の及ばぬことだった。
◆ ◆ ◆
「そう……そんなことが」
クリスタとのやりとりを報告すると、ステファニーからそんな返答があった。
「はい。これは一体どういうことなのでしょう?」
いくら何でも、夫が死んでよかったなどというのは考えられない。
その思いから、ハワード自身は気づいていないが、若干詰問するような言い方になっていた。
「それは……」
口にするのも憚られるような答えなのか、ステファニーは言葉を濁した。助けを求めるようにフランクリンの方を見やる。
フランクリンはしょうがないなぁというように溜息を吐いて、口を開いた。
「色々あるんだろ、色々。特に今回のジェイコム氏のようなことをしていると、どうしても反感がある。それでもあの三人が文句一つ言わずに今までやって来られたのは、ジェイコム氏の金払いのよさのお陰だ」
「つまり、金で彼女達を買っていた、ということですか?」
「そういうことだな」
何てこと無いことのように、フランクリンの口調は軽々としたものだった。
大して、ハワードは不快感を抑えられず、歯ぎしりしてしまう。
「どうしてジェイコム氏は……業界でもトップクラスの技術者のはずなのに……」
「仕事の手際と性格は結びつかないもんだ」
フランクリンは冷たく言い放った。他にもいいかたがあるだろうとステファニーは思ったが、それを口にすることは無かった。
「……つまり、だからこそ殺されてしまって、彼女達はジェイコム氏の死を悲しんでなんかいない……」
「そういうことだろうなぁ」
しみじみとフランクリン。
ハワードは部屋の出入り口へ向かうと、ドアノブに手をかけた。
「どこに行くつもり!」
ステファニーの厳しい声が飛ぶ。
「……少し、頭を冷やしてきます」
自分の脳みそが沸点を超えてしまっていることくらい分かっていた。こんな状態では、まともな捜査など出来ない。
冷却が必要だった。クールダウンのために、外へ出る。
それだけだ。
「……すぐに戻ってきなさい」
「了解しました」
短く答え、ハワードが部屋から出て行く。
バンッと扉が閉まり、後には静寂だけが残った。
「……若いねぇ」
銃の手入れをしながら、フランクリンは笑みを溢していた。
◆ ◆ ◆
彼女達――ジェイコム氏の事実上の妻達――の考え方はハワードには到底理解出来ないものだった。
金銭的なもの以外の価値を見いだせなかったというロティ。
彼の死をよかったと評するクリスタ。
そして、今だ姿を見せないゼシリア。
彼女達が何を考え、これからどんなふうに生きて行くのか。想像するのは、容易なことでなかった。
「ふぅ……」
溜息ではない、深い吐息。
彼の中にわだかまるものを吐き出そうとするかのようなその行為は、はっきり言って何の意味もなさないものだった。
空気に溶けて消えていく。その程度のことでしかない。
ハワードは立ち上がり、背後を振り返った。
巨大な屋敷。おそらくは、堅牢なセキュリティによって守られた城塞。
事実、使用人達も言っていた。この屋敷には、監視カメラだけで三〇近く設置されていると。それら全てを解析に回したが、本部からめぼしい情報は得られなかった。
ジェイコム氏の屋敷に忍び込む怪しい人影も、外に出ようとする人影も見あたらなかったという。
侵入者、脱走者ともに零。
それが何を意味するのかといえば、屋敷の中に住まう誰かがジェイコム氏を殺したということに他ならなかった。
「……なんで」
疑問は、歯ぎしりとともに消えた。
犯人はゼシリア、クリスタ、ロティ。そして使用人の三人、計六人の中の誰かだ。
少なくとも、その中に一人以上は殺人者がいる。
どうにかして早急に解決を図れないものかと、ハワードは普段使わないくせに頭を回転させた。
どうにかして……どうにか……。
◆ ◆ ◆
ハワードの部屋で、彼が不在であることをいい機会と捉えたのは、何もステファニー一人ではなかっただろう。
「ねぇ、フラン」
「どうしたよ?」
「……この事件〝彼女〟にお願いしてみようかと思うんだけど、どう?」
「どうも何も実質今のリーダーはおまえだぜ?」
フランクリンがおどけたように肩を竦めてみせる。
その仕草が、彼が本音を隠す時の癖だと知っているステファニーは、彼の心づかいを無駄にするような真似はしなかった。
「そう……じゃあ」
ステファニーが制服のポケットから携帯端末を取り出した。長方形のそれを操作し、本部にいるはずの室長、トーマスに通話を繋いだ。
「……あ、室長ですか? はい、私です。実は、少しご相談があって……はい、そうです」
ステファニーが何を話し、トーマスがどんな反応を示しているのか、それをフランクリンの位置から知ることは出来ない。
しかし、おそらくいい顔はしていないだろう。
〝彼女〟の助力を必要とする。それだけで、減俸ものの失態だ。
少なくとも、上層部にはそう捉えられてしまう。
それでもステファニーが〝彼女〟に解決を依頼したいと言い出したということは、報酬よりも事件の解決を優先したからだ。
そんなことは分かっている。フランクリンの立場であれば、ステファニーのそうした態度を責めることは出来ない。
だが時として、感情は理屈を超越する。
怒りが、彼の心中を渦巻いていた。
それが〝彼女〟に対する怒りか。それとも〝彼女〟に助けを求めたステファニーへの怒りか。実のところは、本人ですらよく分かっていない。
ただ分かっていることは、今のフランクリン・リベレラスはこの上無く虫の居所が悪いということ。
それを抑え込むために、血が滲むほど強く拳を握らなければならないほどに。