依頼
<<思い出せ>>
気がつけば落下していた。
落ちたきっかけなど覚えてはいない。いや、きっかけなどないのかもしれない。
眼下は大きな闇で、砂が擦れ合う様な妙な音が耳に入ってくる。視界全てが暗く、落下している以外のことは何も感じられない。
そんな中でも分かることがある。遥か下で、全てを飲み込む暗闇が己を待ち構えていることだった。
闇に飲み込まれたが最後、命は無い。恐怖が警告音を脳内に響かせる。
<<思い出せ。そして叫ぶんだ。大声で>>
終わりが直前に迫った。
思考が黒く塗り潰され、そして――
*****
耳元がとてつもなくうるさい。
目覚ましの音で目を開いたレイスは、横になったままの姿勢で手を左上へと伸ばす。届かない。もう少し――レイスは諦めてベットから渋々体を起こした。
全身でうなり声を上げていた時計のベルはパタリと音を止めた。
息が乱れる。頭が痛い。
シャツは汗で湿っている。震える指先は、手にした時計を落としてしまいそうだ。
レイスは辺りを見回して、ここが三畳半の小さな団員寮の一室だと確認した。床がある、天井もある。
しばらくそれらを見つめ、彼は安心したように長く息を吐き出した。
「くそっ、またあの夢か」
だるい体に鞭を打ち、掛け布団を押しのけた。
ベッドに腰掛けた状態で、視界がはっきりしてくるのを待っている間、彼は己の夢見の悪さに悪態をつく。
いつも見る同じ夢。今日でもう三十回は超えているはずだ。
内容は、いつも落下。気がつけばどこからか落とされ、誰かの声が耳元で響いている。焦りと死のイメージが脳内に駆け巡り、視界は暗闇が広がっているだけ。最終的にそこへ飲み込まれたと思った時に目が覚める。
何かの警告なのだろうか。気味が悪い、と彼は呟いた。
止めたはずの目覚まし時計のベルが再びけたたましく鳴った。
一度は首をかしげるレイスだが、昨晩掛けた二度寝防止用の機能が発動したのだと思いあたり、手の内の時計をしっかり止める。
眠気を無理やり振り切ってベッドから立ち上がると、頭がくらくらした。それでもなんとか耐えつつ、紙くずや飲みかけのボトルなどが散乱する床を、無理矢理足で掻き分けながら進む。目指すはクローゼット。
湿った寝着を脱ぎ、黒いパンツと同色のストライプの入ったタートルネックを着る。続いてクローゼットの上部に手を伸ばし、大切に布でくるまれた大荷物を取り出した。
布を外すと、服とは対照的な白銀の剣と防具が現れる。彼は共にしまわれていた刷毛と研磨紙を手に、簡単な整備を始めた。手際の良さから、彼が戦い慣れた戦士であることがよく伺える。
手入れが終わり、それらの装着を始めるとドアが軽く二回ノックされた。こんな時間に訪問する予定の客はいなかった筈だと手を止めると、ドアは部屋の主の許可も得ずに開かれる。
「おはよう、レイス。勝手に入るよ」
ドアが開かれ、入って来たのは二十代後半と思われる男。優しい顔つきに程良く生えた顎髭、細いフレームの眼鏡をかけている男は、忙しく身仕度をしているレイスを見て、穏やかに苦笑した。
「相変わらず、朝は忙しいようだね」
笑われたのが気に食わなくて、レイスは仏頂面で剣を腰のベルトに固定した。
様子をぼんやりと見ている男は世間話をするように彼の肩に手を置く。
剣に続けて、ベルトに小さなバックを固定しながら、レイスは馴れ馴れしい訪問客をうるさそうに睨みつける。
「今日は、団長に呼び出されているんだろう? 急がないといけないね」
団長の呼び出し。レイスはその単語を耳にして、眉をひそめる。
「そうだよ。どうせ長々と<イレブン>の愚痴を聞かされるんだろうけど」
「それ、本人の前でいえるのかい? 団長は正式な君の雇い主なのに」
レイスの睨みは効果を成さず、クックッと詰まった笑いを返された。この男の場合、それは爆笑の一歩手前で堪えている状態である。
「それより、どうしたんだよ? まさか朝の挨拶のためだけに来たんじゃないんだろ?」
「あぁ、そうだった」
問われることで我に返った男は自分のローブの懐を探り、小さな瓶を取り出した。それをレイスの部屋で唯一まともな家具である、小さなテーブルの上に置く。
瓶の中身は白い錠剤。レイスが顔を引き攣る。
「今月の分だ。くれぐれもいつかみたいにトイレに落とすなんてことがないように」
男は小さな子供に言い聞かせるように、指を立てて、レイスの鼻先に突き付ける。
「わざわざ悪いな。ルナン団医殿」
「まぁ、同時に君の主治医でもあるんだけど」
皮肉を軽くかわす〈リジスト〉の団医、ルナンはふと声を一段低くして、体の力を抜いた。レイスは突き付けられた指が力無く引き下がったので、慌てて身構える。
「先月、塗り薬の効果が鈍くなっていたみたいだったから、併用している錠剤の方を少し強い物にしておいたからね」
嫌な予感。レイスは目の前に置かれた瓶を無理矢理視界からはずし、ルナンの顔を直視した。
「ランクは?」
「B+より少し低めかな」
「末期手前じゃないか? 先生」
ふざけた口調で驚いたふりをしてみるが、内心めまいを感じるレイス。
「あと毎回言っているが、この薬は試作段階だ。くれぐれも副作用の予兆には注意してほしい。“結晶化病”はまだ不治のものなのだからね」
ルナンの顔に笑みが戻った。再び教師のようにレイスに言い付けると、瓶に手にとって、それを無くさないようにレイスの手に握らせる。
わざとらしく何度も頷いてレイスは瓶を受け取り、ベルトの収納バックに入れ込んだ。
「そういえば」
何気なく時計へと目を向けたルナンがおやおやと眼鏡を直す仕草をした。レイスは何故かその仕草にあまり良い予感がしない。
「いいのかな? 既に八時五十七分を示しているようだけど」
支給された飾り気のない高性能の時計は、彼の言う通りもうすぐで九時を指そうとしている。
「記憶が正しければ、団長は九時に来いといっていたような」
ルナンはあちゃー、と残念そうに眉を下げ、レイスの顔へ向き直った。
そういうことはもっと早く教えろ! レイスは半ば叫び声に近い罵声を上げながら、部屋を飛び出した。
「薬、飲み忘れないようにな」
大声をルナンが上げているのでチラリと視線を後ろに投げると、部屋の椅子(もちろんレイスの物である)に腰掛け、のんびり手を振っている。
団長の話が終わっても、部屋に居座っているものなら、絶対にぶん殴ってやるとレイスは心に決めるのだった。
*****
「遅い」
九時四分二十三秒……二十四秒。
〈リジスト〉の団長、マラキアは重役や幹部の総会で使われるだけの広く殺風景な会議室で、椅子に座りながら時計を見つめてため息をついていた。
ため息は、広い部屋の中で大きく響く。自分以外に誰もいないという事実に一抹の寂しさを覚えながら、マラキアは己の今の状態を素直に口にする。
「暇だな」
呟いたマラキアは、続けてむうと、不機嫌そうに唸った。一つの集団をまとめる立場にある彼は非常に多忙だが、今は何もできないもどかしさにいら立ちを感じている。呼び出した人物が、予定時刻になっても現れないのだ。
「寝坊か? 全く、上司を待たせるなんていい度胸だ」
窓から差し込む光は柔らかく、風は木々の香りを届けては去っていく。爽やかな陽気に、相手の寝坊説を推理し始めるマラキアは、視線を外に向けたまま、目の前の机に指を這わせる。木の凹凸を感じるそれは彼のお気に入りだった。
彼の運営する組織のアジトは、古びた屋敷に手を加えたもので、伝統的な木製の壁や天井が彼に自然の香りを届けている。古いが立派な建物だ。文明の基準の高い地域では、金属や人工的な石材で建物が作られるようになっていると聞いているが、マラキアはそういった新しいものを嫌った。
のんびりしていても時間は過ぎていく。マラキアは、持て余す時間を満せるように、目の前に置かれた書類を手に取った。彼は多忙なだけに時間を無為に消費することを嫌う。
書類に目を通してみれば、そこには今まさに遅刻をしでかしている不届き者の情報がずらりと書き並べてあった。暇つぶしの内容としてはいささか皮肉だ。
【レイス・シュタール 十九歳・傭兵】
傭兵統括協会アルティスより〈リジスト〉の戦闘部隊の補充兵士として六年間の契約を結ぶ。現在三年目。
剣の腕は極めて優秀であり、《剣聖》と傭兵達の間で恐れられている。
ちなみに彼の両親は健在でサトウキビ畑の農民。長兄は死亡しているため彼が跡継ぎなのだが、本人はそれを拒否して家を飛び出している。
「相変わらず、うちの情報部は凄いな。知っても何の得のない事まで調べてある」
読み進めていくうちに面白くなってきたのか、マラキアは数十枚にも連なる書類を次々とめくり、己の情報部の力に満足していた。
【身体面に問題あり。四年前“結晶化病”ランクEと判定】
書類の最後、新たに添えられたページの一文に差し掛かったとたん、彼の笑みが凍る。
「結晶化病か」
若いのに気の毒だな。彼はどこか悲痛な表情で息を零し、再び時計を見た。
九時十二分。さすがに待ちきれない。
団内放送を使って呼び出しをしようかと考え始めると、廊下からドタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。マラキアは浮かしかけた腰を椅子へと下ろした。
ようやくご到着らしい。
直後にドアが勢いよく開かれ、白銀の防具を身につけた青年、レイスが会議室へ滑り込んできた。
「申し訳ありま――」
「来い」
「えっ?」
入ったと同時に土下座の体勢に入るレイスに、マラキアは手招きする。手をついて頭を下げかけていた遅刻者は、半分恐怖に顔をゆがめ、おずおずマラキアの間合いに入った。
「痛っ」
大きな打撃音が会議室に響き、レイスの叫び声によってその場に漂っていた静寂が破られる。
マラキアの鉄拳が落ちたのである。〈リジスト〉は時間の浪費を嫌うのだから、怒られて当然だった。
「大馬鹿者が。団長の呼び出しに十二分三十八秒も遅れる奴がいるか!」
「秒刻み!?」
レイスは頭を押さえて転がり回る。痛みに悶える彼だが、それでも謝罪の言葉をきちんと口にいたので、マラキアはとりあえずはその言葉を受理した。
「遅れた理由は?」
「痛ててて……えっと、ルナン団医に捕まっていました!」
一息ついたところで、改めて遅刻の理由を聞いてみると、なるほどと思える内容であったため、マラキアは苦笑を必死に噛み殺した。同時に眼鏡の医師の顔が彼の頭に浮かぶ。
彼は病人に会えば、どんな時も、どんな場合であっても引き止める、重度の心配性だった。マラキアは緩む口元をなんとか抑えて厳しい表情を作り、体勢を整えたレイスへと向き合った。
「まぁ、いい。この遅刻の処罰は明日の給料配分に任せるとして――」
「ええええ」
「うるさい」
減俸を宣告されて叫び出すレイスを一声で押しとどめ、マラキアは手の中にある書類から一枚を彼の手に渡す。あまりふざけた話をしている時間はない。早速本題に入った。
「今日お前を呼び出したのは、明日お前に行ってもらう、次の仕事について話をしておきたかったからだ。今回は戦闘部隊ではなく、お前一人の仕事になっている」
「はぁ」
あいまいな返事をするレイスは、さっそく書類へ目を通し始めた。書類はざっと十枚はある。
書類には小難しい文面が並び呻くレイス。少年時代、言語のテストは半分も点が取れなかった過去を持つ彼には、読み解くことも厳しいのかもしれない。少々難のある内容だったな、と思いながらもマラキアは彼が顔を上げるのを待った。
「……つまり、少女の護衛をしろってことですか?」
「ふむ、百点満点だとしたら二十五点といったところだね」
なんとか文書の意味を解読してきたレイスだが、予想通り残念な回答だった。
「正確には護衛兼監視だ。しかもそれは本来の目的をカムフラージュする表面上の仕事の名目であって、話の本筋は違う」
マラキアが言葉に凄みをつけると、レイスはゴクリと生唾を飲む。これはただ事ではない話だと分かったらしい。
「アバランティアを独占する組織、〈イレブン〉は知っているな?」
「はい」
大きく頷くレイス。
――〈イレブン〉
世界の権力のほぼ全てを支配し、自らを“調整者”とする、巨大組織。
膨大なエネルギーを有する、まだ謎の多い物質“アバランティア”を保護・監視を名目に独占し、いまだその権力に衰えはない。
しかしアバランティアのエネルギーの一部を一般の生活に必要な燃料へと形を変えて、組織を支持する民に無償同然で配給しているために支持者は多く、心中が掴めないと言われている。
逆に危害を加えようとする者には容赦がなく、アバランティアを狙う他組織を一掃している。
〈リジスト〉もその手の組織の一派であった。
「お前をそこへ潜り込ませる。少女は〈イレブン〉にいるんだ」
「はいっ!?」
思いがけず、変な声が飛び出してきた。間違いではないかと思ったのだろう。レイスの読みやすい感情にマラキアは感心する。
「まぁ、ざっくばらんに言うとスパイ活動をしてこいってことだな」
軽い口調でマラキアがレイスに現実を突き付ける。逃げ場がない、レイスは再び痛くなってきた頭を抱えた。
「じょ、冗談ですよね?」
レイスは明らかに狼狽していた。当然の反応だな、とマラキアは首を振る。敵本拠地に一人で行ってこい、といきなり言われて驚かない人間は少ないだろう。レイスのような、勢いで行動するようなタイプの者は特に。
「冗談でも、悪ふざけでも何でもない、これは正式な依頼だ」
「どうしてまた、俺なんです?」
“依頼”と聞いて、すぐに我を取り戻し、落ち着いた声で話し始めたレイス。自分に不釣り合いな仕事であろうと、筋を通そうとする彼の態度に、さすが一流の傭兵だな、とマラキアは思った。
そして、もう一枚の書類を取り出す。
「お前は〈リジスト〉の正式な団員ではない。傭兵としてここにいる。つまり〈イレブン〉に顔が割れていない。何より腕っ節の強さは団の中でお前が一番信頼できる。まぁ、その他いろいろ理由があるが、とにかくお前が適任なんだよ」
手にした書類を眺め、明るい声になるよう神経を使うマラキア。書類は仕事の依頼書であり、レイスにはサインをもらわねばならなかった。
「隠さないで下さい」
しかしレイスは真剣な面持ちで、本心を隠すマラキアを見据えていた。
「書類には諜報活動期間二年と書いてあります。俺は現在“結晶化病”がランクB+へ進行しました。せいぜい持って一年ほどの命です。……〈リジスト〉は俺を捨て駒にするのでしょう?」
マラキアの顔を覆う友好的な微笑みに亀裂が入る。
レイスの指摘は正しすぎた。マラキアを含め、<リジスト>幹部一同は彼を使い捨てしようとしている。マラキアは笑みを凍らせたまま、しばらく何も言えなかった。
「まぁ、先の短い俺の使い方としては妥当だとは思いますけどね」
万が一敵に今回の作戦が露呈し、レイスの口から〈リジスト〉の名が出てしまっても傭兵である彼は〈リジスト〉の一員ではないのだと、口実を立てることもできる。更に彼は病により寿命が短いのだから、例え情報源として囚われたとしても、時間が解決してくれる。
今まで考えてきた作戦の中でも、効率よく合理的でそして冷酷なものだとマラキアは思っていた。
「どちらにしても助かる見込みのない命です。今回を最後の仕事として受けますよ」
そんなマラキアの本心などどうでもいいように、レイスは彼の手から依頼書を取り上げ、ベルトの収納バックからペンを取り出してサラサラとサインする。
半分以上ヤケになっているように見えて、マラキアは目をそらした。
「ありがとう。まずは礼を言わせてくれ」
「やめてください。俺はただの傭兵ですよ。団長が気にする必要はないですって」
コロッと表情が変わるレイス。“明るい”が持ち味の彼だが、今は無理をしているようで、その表情すら痛々しい。
「で、俺は何の情報を流せば良いんですか?」
「あぁ……」
感傷に浸っている場合ではない。マラキアはハッとして、書類をもう一枚彼に渡した。
「簡単に言うと、お前が護衛することとなる少女についてだ。彼女は〈イレブン〉の研究機関のサンプルで、かなり厳重な警備と監視を受けている。驚くべきは彼女だけじゃなく、彼女の姉も同じように監視を受けていたらしい」
「受けていた?」
過去形だな、とレイスは首を傾げた。
「彼女の姉は書類上では死亡している。病死となっているが、どこにも病名も死亡日すらない。おそらく研究の実験の過程で亡くなったらしい」
「惨い話だ」
他人に弄ばれて終わる人生など考えたくもない、と言ってレイスは目を伏せる。マラキアも同感だと深く頷いた。
「奴らがサンプルを破壊してしまうほど熱心になっている事。俺はアバランティアが絡んでいると考えている。最近になって俺の優秀な情報部が知ったくらいだからよほどの極秘事項なのだろうな」
話を聞いていたレイスが考え深げに首をひねる。
「よく、そんな厳重な所へ俺を送り込む事が出来ますね。何か裏の手でも使ったんですか?」
〈リジスト〉は基本的に非道な手段を嫌い、使わない。だが厳重厳重とマラキアが繰り返し口にするため、レイスは困惑した様子。
「いや、お前が気にするようなことはしていない。たまたま最近その少女の護衛を担当していた者が体調を崩したらしくて、その部分が空席になっていた。そこへお前の名前をチラつかせたら、まんまと乗ってくれた訳だ」
「俺の名前?」
マラキアはいやぁ、ラッキーだったと思わず笑った。先ほどとは意味合いの違う困惑顔でレイスが首を傾げる。
「お前、実はかなり有名人らしいな。情報部が求人屋のふりして《剣聖》の噂を流しただけで〈イレブン〉だけじゃなく、いろんな所からお声がかかったらしいぞ」
「あぁ、また変なあだ名ですね」
心底まいるといった様子のレイスにマラキアは笑ったまま、サインの入った書類を受け取った。
「名誉あることだろう。少しは誇りにしろ。さて、もう戻っていいぞ。出発は明日だ。頼んだぞレイス」
「はい」
凛とした返事。こうしてレイスにとって最期の仕事が決まった。