フライフィッシング
さっきまでぼんやりしていたのがウソのように、孝輔は動き始めた。
サヤのほうが、そのスピードについていけずに、ほけーっと見ているしか出来ない。
彼は、車から携帯端末を持ち込んでいた。
いつも使う、それじゃない。
別のものだ。
機械に詳しくないサヤでも、色が違えば違うものだと分かる。
孝輔は従業員に何か説明をするや、壁のコンセントを確保した。
あれ?
いつもとは違うことだらけだ。
いつもと違う端末。
いつもと違う有線状態。
小型端末なら、普通はバッテリーで使っているのに。
孝輔は、それを手に持ったまま、スイッチを入れた。
「テストって一体どんなのでしょう?」
何だか声をひそめなければいけない気がして、サヤは小さな声になっていた。
彼の横顔は、そのディスプレイに向かったまま。
起動するや、男の指では打ちにくそうなキーボードを器用に叩く。
「フライフィッシング」
淀みない指の隙間から、横文字がこぼれおちる。
フライ?
フィッシング?
頭に一瞬、魚の揚げ物が浮かぶ。
でも、それは完全なる間違いだ。
釣り?
孝輔は、グレムリンを魚のように釣り上げようとしているのか。
「さぁ…こい」
釣り人というより、狩人みたいな目だ。
最後のキーを一つ強く叩いて、孝輔は唇をなめた。
※
その反応は──突然だった。
いる!
声に出すより先に、サヤはそれに気づく。
孝輔が行っていた、素早さというものを体感した気分だ。
唐突に、そこに現れた気がしたのである。
「きた」
しかし、それは彼も気づいたようだ。
端末に触れる指が、ぴくっと大きく震えた。
まさに、そこにいる。
孝輔の持つ端末の中。
しかし、何故彼にそれがわかったのだろう。
今日は直樹の手袋もないし、いつもの端末でもない。
もちろん、室内測定器のような大掛かりなものもない。
ひゅっと、孝輔は息をのむや─突然、物凄い勢いでキーボードを叩き始めた。
片手は端末を抱えているのだから、右手だけで、だ。
「くそっ…」
誰に向けるとも知れない悪態をつきながら、孝輔は端末を叩き続ける。
その画面には、一体何が映っているのだろう。
少し背伸びをして、サヤはディスプレイを覗きこもうとした。
すると、そこには。
丸い目の、アレが映っているではないか。
グレムリン。
その画像が、不鮮明になったり鮮明になったり、激しく乱れている。
周波数を合わせそこなったテレビみたいだ。
「測定用ソフトを入れておいた」
声が平坦になっているのは、キーボードを打つのが忙しいからか。
「こいつ…」
舌打ち。
「こいつ……自分でR値をいじって、遊んでやがる」
声は平坦なのに──目だけギラギラ。
闘争本能がムキ出し、だ。
平素とは、また違う孝輔がそこにいた。
いまは端末を通して、いわば自分の土俵で戦っているようなものだ。
こういった機械は、孝輔のテリトリーである。
だからこそ、目つきまで変わるのかもしれない。
一方、グレムリンの方はと言えば。
キャッキャキャッキャと──はしゃいでいるではないか。
楽しくてしょうがない笑いだ。
よほど、彼の端末は居心地がいいらしい。
測定用のソフトは、彼が開発したもの。
かなり特殊なものだ。
特殊だからこそ、気に入ったのだろうか。
グレムリンも見たことのない、オーダーメイドのプログラム。
「S値落したる……」
グレムリンの笑いが、彼には聞こえているはずがない。
しかし、ムキになったような孝輔が、更に強く打鍵する。
S値を落とす、ということは。
グレムリンの存在を弱め、最後には消す、ということ。
端末の中で、いきなり彼らは激しい攻防を繰り広げようとしているのだ。
サヤは、ただ見守るだけしかできなかった。
こんな現代的な戦いに、古臭い彼女が手出しなど出来るはずがない。
ボタンと、数字の変化による指先だけの戦い。
「……んなろ!」
グレムリンの気配が弱まり始めたかと思うと、次の瞬間に完全に消えたのだ。
え?
唐突な消失に、サヤは驚いた。
仕事は、無事完遂できたのだろうか。
「……」
彼は、無言で端末をしまい始める。
グレムリンと追いかけっこをした、最初の時みたいな動きだ。
ただ、今度は。
サヤの視線を避けるように、顔をそらした。
「逃げられた」
そして、言うのだ──苦々しく。
きっとグレムリンは、S値を下げられるということが、どういうことか本能的に分かったのだろう。
機械に宿る彼らなら、十分ありえる。
火を恐れる獣のように、一目散に逃げ出したのだ。
「んー」
サヤを呼びもせず、すたすたと帰り始める孝輔を慌てて追いかけた。
頭の中は、さっきのグレムリンでいっぱいなのか。
「あいつは、自分でS値はいじれない」
それは、独り言だったのかもしれない。
けれども、知識の深い部分に手を差し入れている男の横顔は──サヤにも見ることが出来た。




