兄の野望
「エスカレータで転んだ愚か者がいるというのは、本当かね」
どんな肉体的な痛みより、上回る心の痛みというものがある。
孝輔にとってのそれは、兄──塚原直樹に失敗を細かくつつきまわされる時だった。
月曜日早々から、縁起のいいことだ。
しゃべったのは、サヤに違いない。
孝輔は、兄の前では腰の痛みを隠し、あたかも平静を装って生活したのだから。
そのサヤは、ようやく白いブラウスに紺のタイトスカートという、OL風になっていた。
昨日の腰の痛みと引き換えに得た代物だ。
白いブラウスのおかげで、肌の褐色さ加減が、かなり際立っていたが。
「湿布臭いくせに、私に隠したつもりになっている愚弟がいるのは、ここですかー?」
サヤの珍しいその姿をゆっくり観察する間もなく、手で仮想メガホンを作ったバカタレに邪魔される。
無視だ、無視。
ここでヤツに構っては、進歩がない。
完全無視に限る。
孝輔は、岩の心を持とうとした。
なのに。
「とぅ!」
腰めがけて、直樹の手刀が飛んできた。
信じられない男である。
「ってええええ!!!!」
漏れなく激痛がよみがえった孝輔は、情けない声を張り上げてしまう。
「お前は子供か~!!!」
涙目になりそうなのをこらえながら、ついに兄を怒鳴りつけた。
「私を無視するお前が悪い」
きっぱり。
独裁者回路は、相変わらず見事な炸裂っぷりだった。
※
「ほうほう、いたずらっことな」
サヤの説明に、直樹は非常に興味を示す。
その話なら、昨日孝輔も聞いていた。
「で、それは…幽霊かね?」
金の匂いでも感じたのだろう。
ずずずいと、兄はサヤに詰め寄る。
「何なのでしょう、私にもよく分かりません。死者の霊ではないと思います…」
彼女の答えは、的を射ていなかった。
ただ、どんぶり勘定で結論づけるとするならば、あの停電は物理的でも人為的でもない、ということか。
「ただ…笑い声と、楽しそうな気配は感じました。いたずら好きの、若い精霊ではないかと」
終始笑顔のまま、彼女は推理を終了した。
いたずら好きって。
どうも霊に関して、サヤは甘い判断が多い気がする。
前回の九十九神の時といい、霊の存在による『利害』を考えていないのだ。
いたずらで商売の邪魔をされるのでは、デパートもたまったものではないだろうに。
「大手○○デパート、謎の停電事件続発」
うさんくさい週刊誌の見出しみたいな言葉を並べながら、ニヤリ──直樹の口の端が上がる。
「いける……稼げそうだ」
ただ。
直樹のように、『利害』だけを最優先で考える男も、どうかとは思うが。
※
翌日。
「よし、それじゃ…」
直樹は、口を開いた。
再び訪れた、あのデパート。
今度は日曜日と違い、3人だった。
「私の調べによると、1日に数回、停電現象が起きている。それ以外にも、被害が起きているようだ」
原因は不明。
何度も電気設備の会社に来てもらったようだが、異常個所はまったくなし。
デパート側は、『電気工事中につき、時折停電が発生することをお詫び申し上げます』という、苦し紛れのポスターでしのごうとしていた。
「今日行うのは、犯人を見つけ……激写することだ」
真面目な顔で何を言い出すかと思いきや、カメラ小僧みたいな仕事ではないか。
激写といっても、誰もカメラなんか持っていないのだが。
うさんくさい目で、兄を見ているのに気づいたのだろう。
「いいか?」
噛んで含ませるようにゆっくりと、人差し指が孝輔に突きつけられる。
「ここのお偉いさんたちは、まだこの現象は電気系統の異常にあると思っている。霊なんて存在は、信じてないクチだ」
妙にすさまじい迫力。
「そんな連中を納得させられるのは、目で見える証拠、だ。それがない限り、インチキ霊媒師がタカリにきた、くらいにしか思わないだろう」
だから、犯人の証拠を見つけろと、孝輔に言っているのである。
インチキ霊媒師って──当たってるんじゃ?
そう思ったが、口に出すとまた無駄にモメそうだったのでやめた。
要するに。
証拠を持って、ここの偉いさんたちに営業をかけようと、そう兄は考えているのだ。
「依頼もないなら、無理してこんなことしなくていいじゃねぇの?」
元々、そういう経営方針だったはずだ。
頻繁に仕事をこなさない分、来た時にがっつり稼ぐ。
それで、あの事務所は成り立っているはずだった。
「甘いぞ、孝輔。いつ何時、仕事が来なくなるともかぎらん。積極的な営業も必要なのだ」
拳を作って、直樹は熱弁を振るう。
珍しく、まともなことを言っていることに、孝輔は驚いた。
熱でもあるんじゃないか、と。
「……ん?」
しかし。
あることを思い出した。
最近、兄の口からよくボヤかれる──アレ。
「セルシオの次は、何の車を狙ってるんだ?」
孝輔は、半目開きで聞いてみた。
「そうだなー、やっぱベンツかな~!」
にへらっと、ヤニ下がる直樹。
「…………」
グワゴギャン!
孝輔の無言ラリアットは、油断しまくっていた兄の喉元に見事にヒットしたのだった。