31話 嵐の前
第零組の教室を出たあと、学園は妙に静かだった。
夜の廊下。
窓の外には結界塔の光が淡く広がっている。
軍の姿はもうない。
王国軍はすでに撤収した。
だが。
空気の奥が、わずかに軋んでいた。
境界。
異界との境目。
そこが、確実に揺れている。
俺は廊下の窓から空を見上げた。
星は出ている。
だがその奥で、空気が水面のように揺れていた。
「……強くなってるな」
小さく呟く。
後ろから足音がした。
梓だ。
「先生」
俺は空を見たまま言う。
「感じるか」
梓は窓の外を見る。
しばらく黙って境界を読んでいた。
それから小さく息を吐く。
「……さっきより揺れてます」
「ああ」
昼間、屋上で裂けた空間。
共鳴体。
あれは偶然じゃない。
境界そのものが不安定になっている。
梓が言う。
「なんか」
少し言葉を探す。
「嵐の前みたいですね」
俺は小さく頷く。
「似たようなものだ」
俺たちはしばらく空を見ていた。
静かな夜。
だがその奥で、世界が少しずつ軋んでいる。
梓が言う。
「軍はいなくなりましたね」
「ああ」
校門の外にはもう車両も兵士もいない。
完全撤収だ。
だが問題はそこじゃない。
「軍がいなくても」
俺は言う。
「境界は止まらない」
梓は腕を組む。
「つまり」
「凪だけの問題じゃない」
「そうだ」
楔が不安定なら境界そのものが揺れる。
つまり共鳴は続く。
俺は窓から離れる。
「教室に戻るぞ」
梓も頷く。
二人で廊下を歩く。
だが。
胸の奥に、妙な違和感が残っていた。
――何かが近づいている。
そんな感覚だった。
教室の扉を開ける。
第零組はまだ残っていた。
迅が机の上に座っている。
陽菜は窓の外を見ている。
透と結月は黒板の前で何か話している。
悠真は凪の隣にいる。
黒斗は壁にもたれている。
乃愛は椅子でくるくる回っていた。
怜奈がこちらを見る。
「何かありましたか」
俺は首を振る。
「まだだ」
迅が言う。
「まだ?」
「来る」
短く答える。
その瞬間だった。
透が小さく言った。
「……先生」
「なんだ」
透は窓を見ている。
「空」
全員が窓の外を見る。
夜空。
結界塔の光。
その奥。
ほんのわずかに。
空気が歪んでいる。
結月が言う。
「境界振動」
怜奈が窓に近づく。
「さっきより強い」
凪の胸元。
包帯の下。
楔の紋様が、わずかに脈打った。
悠真が気づく。
「凪?」
凪が顔を上げる。
「……今」
小さく言う。
「聞こえた」
迅が言う。
「何が」
凪は空を見ていた。
「呼んでる」
教室の空気が止まる。
乃愛が首を傾げる。
「誰が?」
凪は小さく言った。
「向こう」
次の瞬間。
――ビキッ
空の奥で。
何かが軋む音がした。
全員が窓を見る。
空間の歪みが一瞬だけ広がる。
黒い線。
ほんの数秒。
それだけで消える。
だが俺は理解する。
これは前兆だ。
小さな共鳴体じゃない。
もっと大きい。
俺は静かに言う。
「……始まるな」
迅が言う。
「何が」
俺は窓の外を見たまま答える。
「楔の再共鳴だ」
梓が小さく呟く。
「……第2波」
誰も笑わない。
教室の空気が、少しずつ変わっていく。
戦いの前の空気。
俺は言う。
「全員準備しろ」
「今夜」
窓の外。
空の奥で。
世界が、ほんの少しだけ軋んだ。
☆☆
――その頃。
学園の結界塔。
塔の最上部で、一人の男が夜空を見ていた。
軍服の男。
グレイン。
腕を組み、歪む空間を静かに観測している。
「……やはり来たか」
小さく呟く。
軍は撤収した。
だが彼は残った。
楔。
そして境界共鳴。
それを確かめるために。
空の奥。
歪みが、わずかに広がる。
グレインは目を細めた。
「面白い」
その声は静かだった。
「さて」
夜空を見上げる。
「どこまでやる」
学園の灯りの向こう。
第零組の教室の窓が、小さく光っていた。




