29話 揺れる境界
理事長室を出たとき、廊下の空気は妙に冷えていた。
夜の学園は静かだ。
昼間は生徒の声で満ちている廊下も、今は足音だけが響く。
隣を歩く梓は何も言わない。
俺も言わない。
さっきの会話の余韻が、まだ頭の奥に残っている。
楔。
凪の胸に刻まれた紋様。
そして、理事長の言葉。
――世界はいつも同じ方法で守られてきた。
誰か一人の犠牲で。
廊下の窓の外を見る。
結界塔の光が、夜空に淡く広がっていた。
その光の奥で、ほんのわずかに空気が揺れている。
俺は足を止めた。
梓も止まる。
「……先生?」
俺は空を見る。
「感じないか」
梓は目を細めた。
しばらく黙って空気を読む。
それから小さく呟いた。
「……揺れてます」
微かだ。
普通の魔術師なら気づかない程度。
だが境界が、確実に軋んでいる。
理事長が言っていた。
楔は境界を固定する。
つまりまだ固定されていない。
俺は息を吐く。
「完全じゃない」
梓が俺を見る。
「彼の楔ですか」
「ああ」
刻印はある。
だが世界はまだ安定していない。
つまり共鳴は続いている。
俺は歩き出す。
梓もついてくる。
「どこ行くんです」
「屋上」
短く答える。
学園の一番高い場所。
境界の歪みは、そこが一番分かる。
階段を上がる。
夜の空気は冷たい。
屋上の扉を押し開ける。
風が吹き込んできた。
空を見る。
星は出ている。
だがその奥。
ほんのわずかに空間が揺れていた。
水面に小石を落としたみたいに、空が波打っている。
梓も空を見る。
「……ほんとだ」
声が小さい。
「まだ共鳴してる」
俺は頷く。
「凪の楔が安定してない」
梓が腕を組む。
「じゃあ」
少しだけ言葉を止める。
「まだ止められるってことですか」
俺は空を見たまま答える。
「理論上は」
だが。
時間はない。
境界の揺れは、さっきよりも少し強くなっている。
このまま放置すれば。
楔は固定される。
つまり。
凪は――。
「……」
梓が言う。
「先生」
「なんだ」
「さっきの話」
理事長室の話だ。
「本気ですか」
俺は答えない。
風が強くなる。
屋上の柵が軋む。
空の歪みが、ほんの少しだけ広がった。
その瞬間だった。
――ビリッ
空気が震えた。
次の瞬間。
屋上の空間が、裂けた。
音はない。
だが確実に空が割れている。
黒い裂け目。
拳ほどの大きさ。
そこから、何かが落ちてきた。
影。
俺は瞬時に動く。
雷を足に流す。
踏み込み。
落下物の軌道に剣を差し込む。
金属音。
火花。
衝撃が腕に伝わる。
梓が後ろで叫ぶ。
「先生!」
落ちてきた影は、屋上のコンクリートに着地した。
人型。
だが人ではない。
身体の輪郭が歪んでいる。
影でできたような存在。
目の部分だけが、赤く光っていた。
俺は低く呟く。
「……共鳴体」
境界の歪みから生まれる存在。
完全な魔物でもない。
ただ。
共鳴の余波で形を持ったもの。
影はゆっくり立ち上がる。
腕が伸びる。
異様に長い。
次の瞬間。
俺に向かって突進してきた。
床を蹴る音が遅れて届く。
速い。
俺は横に半歩ずれる。
爪のような腕が空を裂く。
コンクリートが削れる。
梓が叫ぶ。
「魔玉!」
「撃つな」
俺は短く言う。
「弾く」
影はすぐに体勢を変える。
今度は横薙ぎ。
腕の長さを活かした攻撃。
俺は剣で受ける。
衝撃。
軽い。
力は大したことない。
だが形が安定していない。
刃が当たるたび、影が揺れる。
「……なるほど」
完全な存在じゃない。
共鳴の残滓。
俺は踏み込む。
雷を足に流す。
距離を一気に詰める。
影が腕を振り上げる。
だが遅い。
俺は剣を振る。
斬撃。
闇を纏った刃が影を横に断つ。
一瞬。
影が揺れる。
そして。
霧みたいに崩れた。
風に溶ける。
屋上に静寂が戻る。
梓が息を吐く。
「……今の」
俺は空を見る。
裂け目は、もう閉じている。
だが境界の揺れは残っている。
俺は言う。
「共鳴は止まってない」
梓も空を見る。
「つまり」
「凪だけじゃない」
境界が揺れれば、また生まれる。
小さい共鳴体。
そして。
いつかもっと大きいものが。
風が吹く。
俺は屋上の柵に手を置く。
そして小さく呟く。
「……時間がないな」
梓が隣に立つ。
そして言った。
「先生」
「なんだ」
「一人で決めないでください」
俺は答えない。
空を見る。
境界はまだ揺れている。
世界は、少しずつ軋んでいた。




