20話 目覚め
医務棟の廊下は静かだった。
夜の学園は、昼間よりも音が少ない。
生徒の声も、訓練場の衝撃音も、今は何も聞こえない。
聞こえるのは、結界装置が低く鳴る振動だけだ。
俺は医務室の扉の前で一度立ち止まった。
中には凪がいる。
楔の刻印が胸に浮かんだまま、意識を失っていた。
あれから数時間が経っている。
普通なら、まだ目覚めないはずだ。
だが――
医務室の中から、微かな気配が漏れていた。
「……起きてるな」
扉を開ける。
白い部屋。
薬品の匂い。
結界灯の淡い光。
その中央のベッドの上で、凪は天井を見ていた。
俺が入った瞬間、ゆっくりと視線が動く。
「……先生」
声は弱いが、意識ははっきりしている。
俺はベッドの横の椅子を引き、腰を下ろした。
「目覚めたか」
凪は少しだけ苦笑した。
「夢かと思いました」
「残念ながら現実だ」
短く答える。
凪はしばらく黙って天井を見ていた。
それから、ゆっくりと自分の胸に触れる。
服の下に刻まれた楔の紋様。
触れた瞬間、指先がわずかに震えた。
「……これ」
声が少し掠れる。
嘘を言っても仕方がない。
本人が一番わかっているだろう。
「楔。簡単に言えば世界を守る安全装置のようなものだ」
「俺、誰も傷つけてないですよね?」
「まず周りから心配するのは凪らしいな」
「その反応なら大丈夫ですね」
驚きというより感心する。
凪は小さく息を吐いた。
その声に、恐怖はあまり混ざっていない。
代わりにあるのは――理解だ。
凪は目を閉じる。
「さっき、少しだけ見えました」
「何が」
「……空間」
静かな声で言う。
「割れてたんです」
胸の奥がわずかに軋む。
「黒い線みたいなものが広がって」
凪はゆっくりと言葉を探す。
「その真ん中に、自分がいた」
医務室の結界灯が微かに揺れる。
凪は続ける。
「引っ張られる感じでした」
「世界の奥に」
俺は腕を組む。
「共鳴だ」
凪は小さく頷く。
「怖くはないんです」
その言葉に、少し驚いた。
凪は苦笑する。
「むしろ……分かってしまった感じです」
視線が俺に向く。
「自分が危ないって」
沈黙が落ちる。
医務室の時計が一度だけ小さく鳴った。
凪は言う。
「先生」
「なんだ」
少し間があった。
それから、はっきりとした声で言った。
「もし次に開いたら」
「俺を封印してください」
その言葉に、空気が止まる。
俺はしばらく何も言わなかった。
凪は続ける。
「今日の感じだと、多分また起きます」
冷静な分析だ。
「その時」
「誰かが楔になるなら」
視線が逸れる。
「俺でいい」
その言葉。
胸の奥で何かが強く軋んだ。
あの夜と同じ言葉だ。
――俺でいい。
俺はゆっくり息を吐く。
「それは違う」
凪が顔を上げる。
「楔は選ばれる」
「志願制じゃない」
凪は少し困ったように笑った。
「それでも危ないなら止めないと」
俺は椅子から立ち上がる。
窓の外を見る。
夜の学園は静かだ。
だが、その奥で確実に何かが動いている。
軍。
理事会。
楔。
世界。
全部が少しずつ噛み合い始めている。
「先生」
凪の声。
俺は振り向かない。
「……俺は」
言葉を選ぶ。
慎重に。
「教師だ」
「生徒を楔にする仕事じゃない」
凪は黙った。
しばらくして、小さく笑う。
「……先生らしいですね」
俺は扉へ歩く。
医務室を出る直前、足を止めた。
「凪」
振り向かずに言う。
「まだ決めるな」
「何も起きてない」
「……はい」
凪の声が返る。
俺は廊下に出て扉を静かに閉める。
その瞬間。
胸の奥の記憶が、ほんの一瞬だけ揺れた。
黒い紋様。
夜の結界。
あの言葉。
――正しい選択だ。
俺は目を閉じる。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「……二度目はない」
誰に聞かせるでもない呟きだった。




