14話 刻印
部屋の中は、しばらく誰も動かなかった。
さっきまで空間を軋ませていた歪みは、ゆっくりと収まっていく。
だが空気はまだ重い。
床に倒れている凪の胸元で、黒い紋様が微かに脈打っていた。
楔。
完全ではない。
だが確実に刻まれている。
梓が凪の肩を揺する。
「御影君」
返事はない。
だが呼吸はある。
零組の生徒が全員息を切らしてやってくる。
悠真が駆け寄ってきた。
「下がってください」
光の魔力が集まる。
回復術。
柔らかい光が凪の体を包む。
だが胸の紋様だけは、まったく変化しない。
悠真が顔をしかめた。
「……治りません」
「傷じゃない」
俺は言う。
「術式だ」
兵士たちは部屋の端で固まっている。
さっきまで強気だった連中も、今は声を出せない。
グレインだけがゆっくり歩いてきた。
凪の胸を見る。
紋様を確認する。
それから俺を見る。
「……楔か」
声は低い。
驚きより、理解に近い響きだった。
俺は答えない。
グレインは数秒、凪を見ていた。
「拘束を解除しろ」
兵士が戸惑う。
「ですが――」
「解除だ」
命令は短い。
兵士が封鎖具を外す。
金属音。
凪の手首から魔導具が外れた。
だが魔力は戻らない。
楔の紋様が、すべてを押さえ込んでいる。
迅が低い声で言う。
「説明しろ」
グレインは迅を見る。
「軍の任務ではない」
「学園の問題だ」
迅の顔が険しくなる。
「ふざけんな」
「さっきまで兵士だの徴用だの言ってただろ」
グレインは答えない。
代わりに俺を見る。
「教師」
俺は腕を組んだまま言う。
「凪は学園が預かる」
グレインは少し考える。
数秒。
それから頷いた。
「……いいだろう」
兵士たちに目配せする。
「撤収」
兵士たちはすぐに動き出した。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、静かに部屋を出ていく。
最後にグレインだけが残る。
扉の前で止まり、振り返った。
「九条朔夜」
俺は顔を上げる。
グレインの目は、少しだけ鋭い。
「君は知っていたな」
沈黙。
俺は答えない。
グレインはそれ以上追及しなかった。
ただ言う。
「楔は兵器にもなる。だが世界も壊す」
それだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
迅が頭を掻く。
「……なんだよこれ」
陽菜が小さく呟く。
「漫画みたいな話」
透は凪の胸の紋様を見ている。
「……魔力構造が違う」
結月も近づいて観察する。
「術式じゃない」
「でも術式みたい」
乃愛は不思議そうに首を傾げる。
「きれい」
黒斗だけが、黙って部屋の隅を見ていた。
悠真が言う。
「とりあえず運びましょう」
「ここじゃ休めません」
迅が頷く。
「俺やる」
迅が凪を背負う。
体は軽い。
だが胸の紋様だけが、妙に重い気配を放っている。
みんなが部屋を出ていく。
最後に残ったのは、俺と梓だった。
梓はまだ凪のいた床を見ている。
数秒。
それから言った。
「……先生」
「なんだ」
梓は振り向かない。
「後悔してますか」
その質問は、凪のことじゃない。
分かっている。
俺は少し考える。
そして答えた。
「してない」
梓の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「……そうですか」
短い声。
それから歩き出す。
扉の前で止まる。
「でも」
梓は振り返らないまま言った。
「私は後悔してます」
その言葉だけ残して、部屋を出た。
静かになった部屋の中で、俺は一人立っていた。
床に残った術式の跡を見る。
手を見る。
さっき浮かんだ紋様は、もうない。
だが感覚だけは残っている。
楔。
世界を固定するもの。
そして。
誰かを縛るもの。
俺は小さく呟いた。
「……次は」
その言葉の続きを、俺は言えなかった。




