デートの作法
吉四六では、氷が小さくなる頃が一番危険だ。
議論が感情に近づく。
明美がグラスを指で弄びながら言った。
「ねえさ、初回デートと、何回も会ってる関係で、奢り方って変わるべきじゃない?」
ママは即答する。
「変わるわよ。変わらなかったら、それは関係が進んでないってこと」
私は少し考えてから言う。
「奢りが続くと、それはもう“イベント”じゃなくて“制度”になる」
「最初は男が奢る、って暗黙の了解あるじゃん」と明美。
「それ自体がもう儀式よね」とママ。「名刺交換みたいなもの」
「問題はさ」と私は言う。「その儀式をいつ、どうやってやめるかなんだよ」
明美が頷く。
「急に割り勘って言われると、“あ、私に興味なくなった?”って思っちゃう」
「だから移行が難しい」とママ。「奢りから割り勘に変える瞬間は、関係の温度を測られる」
私は言う。
「自然なのは、“今日は私が出すね”が往復し始めるタイミングだと思う」
「割り勘じゃなくて交互?」と明美。
「そう。計算しないってのがポイント」
明美が少し声を落とす。
「正直さ、奢られると気まずいときある」
「でしょ」と私は言う。
「なんか返さなきゃ、って思っちゃう」
ママが静かに言う。
「それは優しさでもあるけど、同時に束縛の種でもあるのよ」
「借りってさ」と私は続ける。「相手が請求しなくても、勝手に自分で背負っちゃうものなんだよ」
明美は苦笑する。
「返さなくていいよ、って言われても、帳簿が頭の中にできるんだよね」
「だから奢りは怖い」とママ。「善意なのに、自由を削る」
「でもさ」と明美が言う。「男が奢るのって、やっぱ刷り込まれてると思う」
「刷り込みよ」とママ。「私の世代からずっと」
私はグラスを置く。
「奢りがジェンダー役割を再生産してるのは、間違いない」
「男は稼ぐ、女は選ばれる、って構図?」と明美。
「そう」と私は言う。「奢る側=能動、奢られる側=受動」
ママが少し笑う。
「でも最近は、そこを壊そうとして、余計にギクシャクしてる感じもあるわね」
「壊し方が下手なんだよ」と私は言う。「急に全部フラットにしようとするから」
明美は考え込む。
「じゃあさ、どうすればいいの?」
私は少しだけ間を置いて答える。
「役割を固定しないこと。今日は奢る、次は奢られる、また次は割り勘。それでいい」
ママが頷く。
「流動的でいることが、いまの平等なのかもね」
奢りは、関係の温度計だ。
温かいときは気にならないが、冷え始めると一気に割れる。
明美が笑って言った。
「結局さ、奢り問題って、相手の気持ちを確かめたいだけなんだよね」
ママがグラスを拭きながら言う。
「そう。お金の話をしてるふりをした、愛情測定」
吉四六の夜は、また少しだけ静かになった。
誰も答えを出さないが、それぞれが、自分の次の一杯の出し方だけは、なんとなく決めている。




