贈与の本質
吉四六の時計は相変わらず止まったままだが、話題だけは勝手に深くなる。
ママがふと真顔で言った。
「ねえ、そもそも“公正”って何なのかしらね」
明美が眉を上げる。
「急に難しい話するじゃん、ママ」
私は笑いながらも、その言葉を拾う。
「でも、ここに来る話題はだいたい最後そこに行き着くよ」
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1. 公正(Fairness)とは何か?
「割り勘が平等なのは分かるのよ」とママは言う。「でもそれが“公正”かどうかは別問題」
「平等と公平は違うってやつ?」と明美。
「そうそう」と私は言う。「同じ額を出すのは平等だけど、同じ痛みかどうかは別」
明美はグラスを見つめながら言う。
「じゃあさ、収入が多いほうが多く出すのが公正?」
「理屈ではね」とママ。「でもデートで源泉徴収票は見せられないでしょう」
私は頷く。
「つまり“結果の公平”を目指そうとした瞬間、関係性が事務になる。公正を突き詰めると、ロマンが死ぬ」
「ロマンばっか大事にしてもさあ」と明美。「現実は厳しいんだけど」
「だから厄介なんだよ」と私は言う。「公正って、感情と数字の間にある」
ママがカウンターを軽く叩いた。
「奢りって、そもそも“贈り物”なのかしら」
「プレゼントでしょ?」と明美。
「いや」と私は首を振る。「モース的には、贈与って一番怖い行為だよ」
二人がこっちを見る。
「贈与には三つの義務がある。“与える義務”“受け取る義務”“返す義務”」
「なにそれ、ホラーじゃん」と明美。
「だから奢られる側がモヤっとするんだよ」と私は続ける。「受け取った瞬間、まだ見ぬ返礼を背負わされる」
ママが小さくため息をつく。
「つまり奢りは、無垢な親切じゃなくて、関係を一段階進める儀式なのね」
「そう」と私は言う。「取引じゃないふりをした取引」
明美は少し黙ってから言った。
「でもさ、返す気がなかったら、最初から奢られたくないって思うのも分かるかも」
「じゃあ結局」とママが言う。「奢るって、義務なの?」
私は即答する。
「義務になった瞬間、価値はなくなる」
明美が首を傾げる。
「なんで?」
「カント的に言えばね」と私は言う。「道徳的価値があるのは、“やらなくてもいいのにやる行為”だけ」
ママが静かに頷く。
「男だから奢る、って決まった瞬間、それはただの役割演技ね」
「そう」と私は言う。「善行じゃなくて作業になる」
「でもさあ」と明美。「義務でもやってくれたほうが嬉しいことってあるじゃん」
「それはね」とママが言った。「優しさじゃなくて、安心なのよ」
三人とも、しばらく黙る。
結局、奢りは自由でなければならない。
しかし自由である以上、期待してはいけない。
期待しないなら、傷つかない。
でも、期待しない関係は、どこか寒い。
私はグラスを飲み干して言った。
「だからさ、奢り問題って解決しないんだよ。これは金の話じゃなくて、人が人に何を期待していいか、って話だから」
明美が笑った。
「めんどくさ。じゃあ今日はママ奢りでいい?」
「それは義務じゃないわよ」とママも笑う。「気分よ、気分」
吉四六の夜は、また一つ、答えの出ない問いを増やしたまま、静かに更けていく。




