悲しみの原因
(gpt)
スナック吉四六は、いつもより急に少し静かになった。静かというより、静かに見せかけて、実は全員が何かを待っている感じだ。私はカウンターに座り、グラスに口をつけたまま、しばらく黙っていた。
「どうしたの、チンさん」
静子が先に聞いた。声は軽いが、雑ではない。こういう時の聞き方を、彼女は知っている。
「最近さ……ちょっと悲しいことがあって」
それだけ言って、私はまた黙った。自分でも驚くくらい、続きが出てこない。明美が私の顔を覗き込む。
「え、なにそれ。気になるじゃない」
私は首を振った。「いや、大したことじゃないんだけどね」と言ってから、また黙る。店の奥で氷が落ちる音がした。カラオケの予約が一曲、無言で流された。
静子は何も言わない。ただ、グラスの水位だけを気にしている。明美は腕を組み、「仕事?人間関係?」と小声で当てにきた。私はどちらも否定した。そうじゃない。もっと説明しづらい種類のやつだ。
「失った、とか?」
その言葉に、私は少しだけ頷いた。二人の表情が変わる。重さの見積もりを、一段階上げた顔だ。私はそれを見て、少し申し訳なくなった。
そのあと、妙に時間が伸びた。誰も急がないし、誰も話題を変えない。スナック吉四六に特有の、会話が止まっても失礼にならない沈黙だった。静子はカウンターを拭き続けているが、同じ場所を何度も往復している。明美はスマホを手に取ったものの、画面は見ていない。私はグラスの中の氷が溶けていくのを、理由もなく観察していた。
悲しいことがある、と言っただけで、場の温度が少し下がった。その変化が、かえって居心地を悪くした。大げさな不幸を期待させてしまった気もするし、引き返すには遅すぎる気もした。言わなければよかった、という後悔と、ここまで来たら言うしかない、という諦めが、同時に胸にある。
思い返せば、たいした前触れもなかった。ただ、最近、家に帰るのが妙に早く感じられて、テレビの音がやけに響いて、部屋の一角が空いているような気がしていた。それを悲しいと呼んでいいのかどうか、ずっと判断がつかなかった。
静子が私を見ずに、「無理に言わなくていいわよ」と言った。その一言で、逆に逃げ場がなくなった。明美は何も言わない。ただ待っている。その待ち方が、いちばん効いた。
長い沈黙のあと、私はようやく言った。
「……亀、飼ってたんだけどさ。死んじゃって」
一瞬、空気が止まった。明美が「え」と言い、静子が瞬きをした。拍子抜けしたのか、処理に時間がかかっているのか、どちらとも取れる間だった。
「……亀?」
明美が確認する。私はうなずいた。
「十年以上いたんだよ。毎日じゃないけど、水替えて、エサやってさ。動かない日も多かったけど、いるのが当たり前だった」
静子が、ふっと息を吐いた。「そりゃ、悲しいわね」と言った。即答だった。その言い方で、私は少し救われた。
「本人には、悲しいのよ」
思わず、そんな言い訳みたいな一言が口をついた。明美が笑いかけて、「そりゃそうよ」と言う。
「派手じゃないだけで、ちゃんとした喪失じゃない」
私はグラスを置いた。悲しみの原因は、誰に説明しても釣り合わない。だから黙っていた。でも、こうして言ってみると、少しだけ形になる。
世界を揺るがす出来事じゃない。ただの亀だ。でも、いなくなった。その事実だけが、今夜は十分だった。吉四六は、そういう悲しみも、区別せずに置いてくれる店だった。




