スナック 吉四六
(gpt)
スナック吉四六は、相変わらず時間の流れが一段遅れている場所だった。カウンターの上の灰皿は満杯で、壁の時計は誰にも信じられていない時刻を指している。私はその真ん中に座り、なぜか今夜の主役になっていた。名札もトロフィーもないのに、人はこうも簡単に祭り上げられるらしい。
「チンさん、今日やけに顔がいいじゃない」
静子が水割りを置きながら言う。声はいつも通り軽いのに、どこか本気で観察している目だった。私は否定も肯定もせず、ただグラスを持ち上げた。それだけで十分だったらしい。
「そりゃそうよ、あのヒデトを倒した男だもの」
明美がすかさず乗っかる。相変わらず情報の回りが早い。YouTubeの話は、もうこの店では常識になっていた。虫歯の件まで、妙に脚色されて伝わっている。
「でもさあ、歯で倒したってのも情けない話よねえ」
静子が笑うと、明美も笑った。その笑いは私を貶めるものではなく、うまくこちら側に引き寄せる種類のものだった。私はその中心で、ただ座っているだけだった。
「チンさんって、不思議よね」
明美が言う。「強そうでもないし、偉そうでもないのに、話だけが勝手に大きくなる」
私は肩をすくめた。「虫歯と同じですよ。放っておくと、勝手に広がる」
二人はまた笑った。チヤホヤされている、という自覚はあった。でも居心地は悪くなかった。英雄扱いされているわけでもない。ただ、今夜は少しだけ、席が温かい。
カラオケで誰かが古い演歌を歌い始めた。私はグラスを口に運びながら思った。世界を救ったわけでも、人生が変わったわけでもない。ただ、スナックの夜が一杯分、長くなった。それで十分じゃないか、と。
グラスの底で氷が鳴る。その音だけが、今夜の出来事を現実につなぎ止めていた。静子は昔話を始め、明美はそれに合いの手を入れる。私は相槌を打ちながら、ふと自分の左胸に手を当てた。傷はもう痛まない。ただ、ここに座っている理由だけが、じんわり残っている。英雄でも敗者でもない、中間の席。吉四六は、そういう人間を黙って受け入れる店だ。外では夜が進み、私はもう一杯だけ、頼んでみようと思った。




