コークスクリーパンチ!!
(私)
それは絶望の瞬間だった。いつのまにか、ギャラリーが集まって、最凶の男の喧嘩を見届けるという段になっていたのだった。私は、その男の動きの一つ一つを死刑執行の瞬間のように覚えている。もし、あいつの腕の一部分にでも触れたら、あっという間に全身の骨がバラバラになるだろう。それくらいの圧があった。流石、百戦錬磨の男である。
彼には、族なんてものは必要なかった。常に、独りで世界を動かしていたからだ。彼の意思は、世界の意思である。周りの人々は、彼に従っていれば良かったのだ。彼は、平気で部下を血祭りにあげた。ほんのちょっとしたジョークでもつまらないと、彼は、いきなりそいつを半身不随にするのだ。彼の手下になるのは命懸けであった。
唯一、爆乳熟女の明美だけが、彼のことをいなすことができたのであるが、彼女も周囲の怪我人の多さに鬱病になる寸前であった。暴力はやめて、と言っても、彼には暴力しかなかった。他に何があったろうか。スト2 のザンギエフ使いであることだろうか。腕はプロ級だったが、彼と対戦格闘ゲームで勝った人は皆病院送りであるからちゃんとした比較はできない。それは、何でもそうだった。
しかし、閑話休題!彼の腕が後ろに引かれて、コークスクリューパンチが、私の左胸を強襲するのだった。これは、心臓殺しのパンチである。初めから、殺しにかかっていたのだった。恐らく、地上にいる者なら、これを喰らって生きている者はいない。そう、私を除いては……。
「えっ!」
最凶の男から繰り出される神の拳は、ちゃんと私の左胸を貫いたのであるが、私は平気だったのである。何故か、それは、私の心臓がたまたま右側にある特異体質だったからだ。
(gpt)
沈黙が落ちた。歓声でも悲鳴でもない、世界が一拍、呼吸を忘れたような空白だった。最凶の男の拳は、確かに私の身体を貫いている。肋骨が砕ける感触も、肺の空気が一気に逃げる音もあった。それでも私は立っていた。立って、彼を見ていた。
「……ありえねえ」
彼が初めて、人間らしい声を出した。怒声でも威圧でもない、純粋な困惑。神話の中でしか許されないはずの事態が、目の前で起きたときの声だった。彼は自分の拳を見つめ、次に私の顔を見た。私の左胸から血が流れているにもかかわらず、致命の色がないことを、彼は理解してしまったのだ。
私はそのとき、悟った。彼は暴力の化身ではあったが、暴力そのものではない。彼は「必ず勝つ」という物語に寄生して生きてきただけなのだ。負けない、殺せる、壊せる――そう信じられている間だけ、彼は神でいられた。
「心臓が、右にあるんだ」
なぜそんなことを口にしたのか、自分でもわからない。ただ、事実を事実として置いてみたかったのだ。奇跡でも、運命でもなく、解剖学的な例外として。
次の瞬間、彼の顔が歪んだ。怒りではない。恐怖でもない。それは、物語が崩れる音だった。ザンギエフの投げが外れた瞬間の、あの取り返しのつかなさに似ている。世界が自分の思った通りに動かない、その初体験。
ギャラリーの誰かが笑った。ひどく場違いで、ひどく人間的な笑いだった。それは連鎖し、さざ波のように広がっていく。笑いは暴力を溶かす。私は初めて、その現象を目撃した。
最凶の男は一歩下がった。たった一歩だが、それは彼の人生で最も長い後退だったに違いない。彼は私を殴り倒すこともできたはずだ。だが、もう殴る理由がなかった。殺しが成立しなかった以上、彼は何者でもなくなってしまうからだ。
その夜、誰も死ななかった。救急車のサイレンだけが遠くで鳴っていた。明美は壁に寄りかかって泣いていたが、それは恐怖ではなく、安堵の涙だった。
後になって医者は言った。「君は珍しいけど、無敵じゃないよ」と。もちろんだ。私は神ではない。ただ、たまたま物語の急所がずれていただけだ。
それでも私は知っている。世界は時々、こういう小さなズレによって救われる。最凶の男はその後、誰かを殴ったという話を聞かない。彼は今もどこかで独りだろう。世界を動かせなくなった男として。
私の左胸には、今も傷が残っている。触ると少し痛む。それで十分だと思っている。心臓は、今日も右側で、淡々と鼓動を刻んでいる。




