最凶の男の面前
(gpt)
転がり込んだ拍子に、世界が一段階ギアを落とした。
床はやけに冷たく、革ジャンの軋む音が、遠雷のように頭上から降ってくる。
男は動かなかった。
鎖だけが、呼吸に合わせて微かに鳴っている。
サングラスの奥で、何かが測定されている気配がした。体温、心拍、後悔の量。人生の残弾数。
「……一般人だな」
声は低く、妙に事務的だった。百人を病院送りにしたという伝説よりも、役所の窓口に近い口調である。
私はその場で、転がったまま、人生最大級に善良な一般人を演じた。
「あの、道、間違えました」
言った瞬間、自分でも分かった。
道というレベルの話ではない。
男は首を傾げた。革と鎖が、倫理観のない音を立てる。
サングラスが、ほんの一瞬だけ赤く光った。赤外線か、怒りか、あるいはその両方。
「ここ、隠れ家だろ」
「ええと……カフェ、だと思ってました」
沈黙。
その間に、私の背後で、さっきの女の声が、なぜかひどく小さく聞こえた。
「ごめんねー、あとよろしくー」
人は生贄を差し出す時、声を軽くする。
それは古代から変わらない作法だ。
男は私を見下ろし、しばらく考えてから、こう言った。
「安心しろ。今日は喧嘩の日じゃない」
私は、人生で初めて「今日は」という副詞を、これほど信じたことはなかった。
「じゃあ……何の日なんですか」
男はサングラスを少しだけずらした。
目は意外なほど澄んでいて、そこには百人分の怪我よりも、もっとどうしようもないものが溜まっていた。
「元カノを探してる日だ」
背後で、ドアが、そっと閉まった。
スライム乳の弾力が、最後に私の背中を祝福する。
私は理解した。
生贄とは、必ずしも殺される者のことではない。
話を聞かされる者のことも、そう呼ぶのだ。
鎖が、また鳴った。
物語は、もう逃げ場を用意していなかった。




