さよなら、スライム乳!
(gtp)
オレンジ色の照明というのは不思議なもので、人の輪郭を曖昧にし、言葉の責任まで溶かしてしまう効能があるらしい。彼女は胸を押し付けるのをやめないまま、どうでもいい近況報告を始めた。犬を飼おうか迷っているとか、最近は甘いものを控えているとか、昔は文学少女だったのに今は活字を読むと眠くなるとか、そういう話である。句読点ごとに胸が当たるのは相変わらずで、私はそれを数えるのを途中でやめた。数えたところで、何かが変わるわけでもない。
「ねえ、チンさんってさ、ほんとは優しい人でしょ」
優しい、という言葉がこんなに曖昧で便利なものだったとは知らなかった。断らないこと、流されること、黙って相槌を打つこと、その全部が優しさとして処理されるなら、私はかなりの人格者ということになる。しかし、彼女が見ているのは私ではなく、私の反応の遅さなのだろう。押しても引いても崩れない、古い家具のような安心感。そういう役割を、私は無意識のうちに引き受けていた。
カウンターの向こうでは、淑女がグラスを磨きながら、こちらを一瞥して、また視線を戻す。その一連の動作が、まるで儀式のように正確で、私はその規則性に救われる思いがした。世界はまだ壊れていない。少なくとも、この店の中では。
彼女はようやく身体を離し、スマートフォンを取り出して、画面をこちらに向けた。連絡先を交換するかどうか、その判断を私に委ねているようでいて、実際には、どちらでもいいという顔をしている。期待も失望も、どちらも本気ではない顔だ。私は少し考えてから、登録した。意味があるかどうかは問題ではない。意味がないことを選ぶ自由が、まだ残っていることを確認したかっただけだ。
「じゃ、またね」
軽い言葉だった。未来を約束しない、過去にも縛られない、ちょうどいい重さ。彼女はそれだけ言って、席を立ち、夜の奥へ消えていった。残された私は、生中を飲み干し、グラスの底に残った泡を眺めた。泡はすぐに消え、何も残らなかった。
戸を開けると、外の空気は思ったより冷たく、頭が少し冴えた。ピンク色の建物はまだそこに立っていたが、さっきほどの吸引力はなかった。私は駅の方向に歩き出し、振り返らなかった。今夜の出来事を物語にするかどうかは、まだ決めていない。ただ、こうして歩いている自分がいる。それだけで、今は十分だった。
「さよなら、スライム乳」
と私はひとりごちた。




