第四十六話 相川 噂
私が子供の頃『口裂け女』っていうのが流行ってたんですよ、子供の間の噂。都市伝説っていうのかね。
大きなマスクをした女が「私、きれい?」と尋ねてくる。きれいだって応えてあげると、マスクを外して「これでも?」て。両耳辺りまで裂けた口でにたりと笑う。逃げるとものすごいスピードで追いかけてきて、ハサミで同じように口を裂かれるって。出会うのが怖くて登校拒否する子供が出たとかで、新聞にも載ったって聞いたなあ『噂です』って。
うちの妻が通っていた小学校では『縄跳びおじさん』ていうのが流行っていたそうです。川沿いのサイクリングロードを縄跳びを持ってウロウロしていて、近づくと縄跳びをしながら追いかけてくる。これがまた、ダンプより速く走ってくるって。
なんで普通に車じゃなくてダンプなのかね。多分、健康のために運動しているただのおじさんだったんだろうに、小学生が想像をたくましゅうしちゃったんだろうね。実際、縄跳びを持っているおじさんは妻も見たそうですよ。
で、うちの妻は緑豊かなところの育ちなんだけれど、高校生の時に学校の裏が田んぼだったとかで。そこを流れる用水路での話をしてくれたことがあったんです。
通学路にイタチが体育館を走り抜けたとかモグラが廊下に迷いこんだとかマムシが昇降口にへばってたとか、そういうことが起こるようなとこにあった学校で。駅から学校までの間で在学中に何回アオダイショウに遭遇したことか! とか言ってたねえ。慣れてる男子が尻尾つかんで振り回しながら登校してたとかね。私は東京育ちなんで、路上で蛇見たことないんだけど、そんなにいるものなのかね、道端に。
それで、ある時、高校の美術部が写生会をしようと、土曜日の放課後にその裏の田んぼに行ったんだそうです。妻は空手部で、同じクラスのヤツが美術部だったんで、 そいつに聞いた話なんですけどね。で、スケッチブック持って、各自ポイントを決めて落ち着いた、と。
その時、一年生の男子二人が、用水路沿いを陣取ったわけだ。用水路を挟んだ反対側に咲き乱れる野花を描こうということだったらしい。
なんせ田んぼだから、水の流れる音もすれば、蛙の鳴き声も盛んだ。この蛙の声ってのがすごくて、小声で会話したんじゃ聞き取れないんだって。だから、一緒にいても二人は話もせずにスケッチに集中してたらしい。
そうしていたら、ふっと、蛙の鳴き声が消えた。静かになる瞬間って、わかるよね。エアコン切ったら、その前に音がし続けていたんだって、静かになってから理解するっていうか。
蛙の鳴き声が消えて、遠くの車やセミの声が聞こえて、用水路の水の流れる音が聞こえる。その用水路のさらさらと流れていたはずの水音が、何やら、急に荒っぽく聞こえた。何か、障害物にぶつかりながら流れているみたいに聞こえる。
二人はそれぞれ、スケッチブックから視線を外して、用水路の水面を見た。
で、見たんだそうだ。
用水路の水の流れに逆流して泳いでいく、一メートルくらいの体長の、何かを。
水深は五十センチくらいしかなかったらしい。田んぼシーズン前に水路掃除をするから底がちゃんと見えるって話で、まさに田んぼシーズンなんで、水もちゃんと流れていた。
色とかもはっきりしないけど、確かに何かが、さーっと。子供が流されたんだとしても逆流するこたないだろう? で、二人は、顔を見合わせて、今のはなんだ? と、なったらしい。騒ぎだしたんで、点在していた美術部全員で用水路をさかのぼって見に行って、結局、その二人以外は何も見なかったそうだけど、蛙が急に鳴きやんだのには、気づいた人はいたらしい。
その話が校内で広まるうちに、俺も見た、私も見た、って話があっちこっちからわいてきた。
歩いてたら、用水路のとこに丸いものがあって、それが自分を見た、とか。真っ暗な中歩いていたら、びちゃびちゃという足音を聞いたとか。
まあ、それだけなら、こんなことがあったりして? って話したのが実話扱いされたとか、注目されたいヤツとかその場のノリとかで話が作られたって可能性が大ですけどね。都市伝説が一つできちゃう。
ただ、妻が言うには、生徒たちの話には実話以外が混じっていたかもしれないけど、その噂が広まってから、その学校に三十年以上いるっている物理の先生が、授業中にその噂について話しだしたっていうんですよ。その先生、授業が全然面白くなくて、余計な話なんかしたことがない。冗談の一つもないしテスト問題も真面目で赤点続出という、作り話をすることは絶対にないだろうって先生だったそうなんですね。
今、水っぽい生き物の話が広まってるようですけど、昔、こんなことがあったんですよ、て。
裏の田んぼ側のフェンスが裂けていて、それを補修せずにしばらく放っておいたある晩のこと。まだ当時、宿直っていうのがあったんだそうです。宿直室がその田んぼ側で、その先生が部屋でテレビを見ていたら、窓を叩く音がする。
一応和室になってるんで、窓には障子がひいてあった。障子を開けてみたら、窓の一番下のところに、手が張り付いていた。
水かきのついた子供サイズの手のひらが、下から腕を伸ばした格好で張り付いていた。その下には、黒っぽい影が見えて、部屋の明かりで、何か、濡れた目が光ったように見えた、って、その先生は言ったそうなんです。
怖くて、すぐに障子を閉めて布団かぶって寝てしまったけれど、翌朝、出勤してきた先生とその裏を見に行ったら、何か動物の糞が落ちていて、窓には泥に汚れた小さな手形がついていたんです。て。
その話を聞いて少しして、用水路に河童が住みついていて、通りかかった小学生を用水路に引き込んだとか、女の子に抱きついたとか、近所の家に侵入してホウキで叩かれたとかって話が広まって。で、翌年、新入生が入ってくる頃には、都市伝説の定番、 襲われた時の対応法ってのができてたそうです。
夜暗くなってから田んぼの道を歩くと、後ろからぺたぺたと何かがついてくる。それを決して振り返って見ちゃいけない。 カバンや服の裾をつかまれても、無視して歩き続けなくちゃいけない。もし、立ち止まったり振り返ったりすると、後ろの何かが跳ねて頭にとびつき、べったり張り付いて息ができなくなってそのまま用水路に引き込まれ、溺死する。何か物を落とすと、そちらに気をとられるのでそのすきに走って逃げればいい。毎年二、三人、被害者が出ている。
そんな話になってたそうです。そんなに死人が出てたら大騒ぎだよね。もちろん死者数はただの噂。でも、数年に一人くらいは落ちる人がいたらしい。昔のことで、ガードレールやネットで囲むとかそんなこともないしね。水がない時期なら溺れることはないしね。
口裂け女にも、何か、噂の元があったんだろうね。
結局、美術部員が見た一メートルくらいの何か、ってのは正体不明のままだったそうです。まさか、河童ってことはないだろうけど、 そんな大きな水生動物はいないはずだそうで。どっかのペットのワニでも逃げ出したのかもね。
語り終えると、語り部は一本の蝋燭の火を消した。




